将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:文天祥『正気歌』

2985a227.jpg  今じゅにに少し会いましたが、お義母さんが食事から帰ってきたので、私が出てきました。

 それで今13時7分ですが、今私は食事を終えました。じゅには可愛い寝顔ですし、ブルータスも疲れていますが、いい顔しています。
 私だけがノーテンキで、私の妻が真剣に精神的肉体的に疲れています。

  でも私の困っているのは、携帯を一切使えないので、じゅにの前ではなにも書けず、いつも「諸葛亮『出師表』」や「文天祥『正気歌』」を心の中で暗誦するだけなのです。
  今15時48分です。まだ早かったのでしたが、じゅにのそばにあるアイポッドで「埴生の宿」が流れたときに、私は急に「ビルマの竪琴」での英印軍と日本軍が最後合唱してしまうシーンが思い浮かびまして、涙が流れそうになり、ブルータスの前で恥ずかしいから、急に帰りだしました。
  今それでバスに乗りました。

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 私は昨日夕方長女の家に向かっていました。午後5時40分頃歩き始めました。長女は6時前には家に孫二人を連れて帰っていると思ったのです。もう雨ですから傘をさして歩きます。
 王子駅前で信号を渡るのに、少し待っているときに、私は私がそれまで歩きながら脳裏で諳んじていた詩が、杜甫のものだったことに驚きました。「えっ、この俺が杜甫の詩を詠うのか」という思いでした。
 私は路を歩いているときに、いつも漢詩を思い浮かべて心の中で諳んじています。それはもう長年続いていますので、ごく普通のことで、当たり前のことなのですが、私は信号のところで、「艱難苦だ恨む 繁霜の鬢、潦倒新たに停む 濁酒の杯」というところで、「あれ、俺が今諳んじているのは、杜甫の『登高』だ。こんなことがあるんだ」と思ったものなのです。
 思い出せば、私が高校生大学生の4年くらいまでは、私がいつも諳んじていたのは、「文天祥『正気歌』」だったり、「曹操『短歌行』」でした。その後は、日本の幕末の志士たち、とくに私は水戸の尊攘派や雲井龍雄を詩をつねに諳んじていました。
 それが今も同じことだと思っていたのですが、私は信号のところで、自分の脳裏に浮かぶのが、杜甫の詩で実に驚いたものなのです。
 ちなみに、こうして歩くときには、絶句ではなく、律詩以上の長い詩が多いです。絶句だと少し短いので、歩く距離では間がもたない感じなのです(いえ、もちろん絶句でもいくつもの詩を諳んじればいいわけですが)。
 でも今でも絶えず、「おれは水戸の尊攘派だ、天狗党だ」と思い込んでいるのに、口をついて脳裏に浮かぶのが杜甫だったことは驚きました。
 李白の『行路難』なんかだと判るのですが、「この俺が杜甫の『登高』か、驚いちゃうな」という思いでした。
 そのときに(さらに都電の線路の横をずっと歩くときに)、事前に夏目漱石の詩について書いたことを思い出していました。

   周の漢詩入門「夏目漱石『馬上青年老』」
   周の漢詩入門「夏目漱石『桃花馬上』」

 このときに漱石には、間違いなく杜甫のいくつもの詩が思い浮かんでいたことでしょう。修善寺にいる漱石には、杜甫のことばかりが思い浮かんでいたに違いありません。

 また長女の家から帰る路で、私は絶えず、漱石と杜甫の詩のことを思い浮かべていたものです。
 思えば、私ももう年齢を経たのですね。若き日とは違って、漱石の詩を思い、そして杜甫の詩の中にある杜甫の苦労を思います。

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08082202 一つ前の「どれだけ豊富であるか」の続きです。

 私の「周の漢詩入門」も大変です。
 昔は、私が詩吟で学んでいた漢詩を思いだし、それを改めて読んで書いてみていましたが、今は、そうした詩ではなく(いや、昔詩吟で習っていた詩はほぼ終わりました)、日本人には、昔から慣れ親しんだろう詩を選んでいます。
 そして詩の本文はいわば原文である旧漢字で書き、書き下し文は新漢字で書いています。でもこれが実に大変なのです。漢字の中には、インターネット上では表示されないものがいくつも出てくるのです。だから、私はそうした漢字の場合は、できるだけそれに近い字を当てるようにしています。でもこれが簡単なことではないのです。この「できるだけそれに近い字を当てる」というのが、もう実に大変なことなのです。
 私は、文天祥の『正気の歌』を紹介したくて、実に長大な詩ですが、全文を書き出していまして、もう5年をすぎているでしょうか。あまりに、パソコン上、インターネット上では表示されない漢字が多すぎて、それを「できるだけそれに近い字を当てる」ということが、実に時間がかかってしまうのです。

 私はあらゆる辞書、例えば国語辞典も英和辞書も、それに百科辞典も電話帳でも、もはやすべてインターネットで置き換えできます。だから、言ってしまえば、なくても少しも困りません。
 でも漢和辞典だけは、どうしても必要です。漢詩で絶対に必要である平仄や韻は、インターネットでは調べようがないのです。漢和辞典で一字一字見ていくしかないのです。
 そして「詩韻含英異動辯」がどうしても必要です。だが、今年の3月に、それを間違えて(いえ、他にもいくつも間違えて売ってしまいました。また苦労して探して購入するのでしょう)古書店に売ってしまったので、私の手元には、江戸時代の和本しかありません。だから、それをいつも繰っています。
 思えば、古書店を歩きながら、欲しい本を見つけたときは嬉しいものです。でも、判っている本を必死に探しているのは、もうとってもくたびれます。

 もう今ではすべて仕方のないことになってしまいました。

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