2017071001 ときどき吉本さんを私のように追いかけていることに関して、いかにも馬鹿にした言い方にお目にかかることがあります。何を言われたってかまわないのですが、あまりに頓馬で下らない言い方を目にするとつくづくその人間の品性を疑ってしまいます。
よくテレビに出てくる佐高信とかいうのがひどいものです。長谷川慶太郎さんをけなしている文のなかで、その根拠に吉本さんを取り上げているのだが、もうあきれて話にならないのです。

この佐高の本とは、彼の最新評論集「筆刀直評」のことです。立ち読みしますと、それには次のようなことが書いてありました。

現在の吉本隆明はなにか元気がなくなった。それは彼がもっとも敵としてきた、日本共産党が近頃とみに元気がなくなってきたからである。敵が元気ないので、彼も前のように威勢がよくない。そして吉本隆明は、谷沢永一「先見力の達人−長谷川慶太郎」の本の帯に、

長谷川慶太郎は、経済を中心とした日本及び国際関係の現状を
臨場感あふれる正確な分析をやっている。その臨床的な見立てと
適切な看護法では信用できるひとり、ふたりしかいない経済専門
家である              (「週間読書人」より)

との文を寄せている。しかし、その共産党嫌いの吉本隆明が、長谷川慶太郎がもと共産党員(多分昭和20年代の一時期のことでしょう)だったことを知ったら、どうするのだろうか。

立ち読みした限りは、このような内容でした。このような論法で、この佐高信は、長谷川慶太郎と吉本さんを同時にけなすことができると力んでいるのです。ここを読んでこの佐高のいうことになどにうなずく人がいるでしょうか。どうしてこれがさも佐高が得意になる事実と論理なのでしょうか。誰かが過去に何に属していようと、そんなことがどういまの立場や言っている理論をけなせることになるのでしょうか。ましてその人間の過去を知ったのなら、吉本さんがその人間を評価するのがおかしいなどと何故言えるのでしょうか。別に昭和20年代に日共だった人はいくらでもいます。その人たちが、日共の本当の姿に失望して作ったのがブント(共産主義者同盟)ではないのですか。いや20年代だけではなく、私たちの友人には昭和30年代に日共だった、或るいは40年代にも残念ながら日共に属していた人もいます。いや日共だけではなく、右翼だった人だっています。だからといって、私はそのことでその人をけなしたことなんかありません。過去がどうあれ、今が問題なのではないでしょうか。しかも佐高が質が悪いのは、このことをもって今も吉本隆明を評価する私たちのような存在こそ馬鹿だと言いたいところにあるのです。こんなまやかしの3段論法には、ただただあきれはてるばかりなのです。

そこで私はそのうちに、佐高の本が図書館にでもおいてあったら(本屋で購入する気にはまったくなれない)、圧倒的に馬鹿にしてやろうかななどと思っていましたら、先日本屋の店頭で次の見出しを見て、手にとってしまいました。いやはや、もう私にはなんらやることがなくなってしまったような完璧さです。私がこの雑誌を買ったのは初めてのことですが、とにかくこの著者はまことにお見事です。実に読みながら、著者の書きぶりに大変に愉しくなってきました。

題 名 最後の進歩的知識人佐高信の正体
著 者 副島隆彦
掲載誌 文藝春秋社「諸君!」1993年10月号

この著者がかなり有名になったのは、かの研究社の「英和中辞典」の数々の欠陥を指摘して研究社から訴えられたことにあります。たしかまだ裁判が継続していると思いましたが、どうみても研究社には分がないように思えます。 実は彼とは、最初ゴールデン街の飲み屋の宴会で知り合いになり、その後も吉本さんの講演会などでは何度か顔を会わせる仲です。私より5歳年下ですが、その生真面目で頑固な形の評論には、かなり好感がもてます。ときどき、あんなに戦闘的に言ってしまっていいのかななんて心配になることもあります(いやこれは私も誰かから言われてしまうことかもしれませんね)。あんまりお酒を飲むのは好きではないようですが、たまに会うのではなく、徹底して飲んで話してみたいなと思っています。

佐高信というと「激辛」経済評論家ということになっています。その激辛というのが、単に政財界並びにテレビタレント等の徹底した「けなし」にあるように私は思います。著者はこの佐高がケナす人、ホメる人物の政財界人一覧リストをあげてその分析をしています。ここがかなり面白いところです。こんなにまで分析されたのでは、佐高はまいるだろうなというところです。 そしてこうした分析から出てくるのが、佐高がかなりな政治党派的な色彩の濃い人間であることです。その立場とは結局は左翼進歩知識人と同じものと著者は見抜いています。

善意で解釈すれば、佐高は、六○年代の戦後民主主義思想まっ
盛りの時期に一世を風靡した進歩的文化人たちの親・社会主義風
の「正義の言論」を真に受けて、以後、三十年間、少しも変わる
ことなく生きた典型的な人間像の一つである。「憲法改正阻止、
徴兵制復活反対、自衛隊違憲、原発反対」が何より大切で、現実
の世界に、ではどのように具体的な対案を示してゆくのかを考え
ることなく、ただ社会党左派的な政策パッケージをお題目のよう
に唱えている、よく見かける型の人である。

この立場から佐高は、「長谷川慶太郎は元共産党員だ」と触れ回ります。彼にとって全くの敵であるスターリン主義日本共産党から、また敵である日本資本主義の擁護者になっている慶太郎さんというところなのでしょうか。しかしこの佐高は学生時代は、左翼学生活動家だったということです。しかも構造改革派。

佐高自身にここらのことをはっきりと書いてもらわなければな
らない。「デミトロフの反ファシズム統一戦線」とかイタリア共
産党の「トリアッチ主義」という言葉を彼は、なつかしく思い出
さないだろうか。

思わずにやりとしてしまいます(そうねえ、トリアッチ−グラムシなんて信奉していた人たちがいたな、思えば噴飯ものだった)。吉本さんが花田清輝の戦争中の東方会への所属を指摘しているのを思い出してしまいます。私たちと同じ時代に構改派ならば、昭和20年代に日共だったほうが「まだまだまし」に私には思えるのですが、さてさて佐高はどう答えられるのでしょうか。

しかしその意味では佐高は一貫しているといえるのかもしれません。構改派という左翼進歩勢力から、今も左翼進歩知識人というわけですから、誤謬から誤謬を続けているだけなのです。

彼の、日本企業批判や、日本の政治体制批判は、現状に対する
不平不満の羅列ではあっても、現実の日本社会を具体的に変えて
ゆく思想的対案になっていない。この現実の社会に対して、では
どのようにすればよいのか、どのような経済体制であればよいの
かという実現性のある議論を少しもしないで、個別テーマに逃れ
て、そこに堡塁を築いて立てこもっているだけだということであ
る。この意味では、従来の左翼系評論家の型を一歩も出るもので
はない。

まったく、ここらですべていいつくされている気がします。もう私が佐高のけなしをおおいにやろうなんて考えることもないな(もういいつくされた感じですね)とつくずく思ったものです。(1993.09.04)

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