将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:新聞記者

「周の掲示板」でも告知しましたが、本日より、「将門Web(英語版)」を開設しました。実に無謀なお話です。TOPページの「English」から入れます。

  Shomon Web

です。英語版掲示板も@niftyで開設しました。

  A bulletin board of Shomon Web

 この掲示板は英文でしか書き込みできません。
11122011 無謀というのは、私周は、英語なんか、からっきし駄目なのです。というよりも、全然できません。書くのも読むのも話すのも無理です。思えば、高校生のときにオーウェルの「動物農場」を読んだのが最後くらいだなあ。
 でもいつものとおりのことです。「なんでもいいからやってしまえ」とばかり開設しました。まあ、必要に迫られました。これから、私のクライアントもホームページを開設するのは当りまえとしても、英語版も作るのが当然になってくるでしょう。だから私自身がやっておかないとなりません。
 それで皆さん、できたら、見ていただいて、

  ここ違っているよ。
  英語じゃ、こういう表現はしないんじゃない。
  欧米ではこういうレイアウトはまずいよ

というようなことを教えてください。日本のレイアウトだと、

  腹切りはいけない
  泣き別れもいけない

とかあるじゃないですか(周は古いね。そしてそれは新聞のレイアウトだ。周は新聞記者だったこともあるから)。
 それから掲示板への英文での書き込みもぜひお願いします。なにしろ管理人が私ですから、気楽に書き込んでくださいよ。それと本物の外人さんが書き込んできたら、ぜひともホローをお願いします。
 でも私周は、いつも無謀だなあ。こんなことばかりでやってきましてね。

 それから、このところとにかく忙しいのですが、その忙しさの質が今年からおおいに違ってきました。相談される内容が、以前ならかなり経営についてのつらい相談が多かったのですが、今年になってからは、

  会社のホームページを作りたい
  社内LANを組みたいが、業者にはこんなことを言われた
  新しい業態を考えているが、その中心はやはりインターネット
  だと思うが

等々の相談と、そしてそれを実際に私が指導してやっていくことです。本当はこうしたことも詳しく書いていくべきですね。
 それから先日5月3日に松戸自主夜間中学校の「憲法記念日の集い」がありました。実に沖縄の方と在日韓国人の方から、いいお話をお聞きしました。それでも、時間が足りなくて、私が発言したことでも、どうしても消火不良のところがありまして、このホームページで書いていかなければいけないなと感じているところです。一部は以下でUPしてあります。
 「あげあしとり」に

  「悪法もまた法」とやらに

という題でUPしておきました。もっと書きたいこと、書くべきことがあります。
 それと、この「集い」とは別に、このあとの飲み会の2軒目で、私に対して、

  ファシスト!

という罵声を浴びせた男がおりまして、もう私には驚くやら怒るやら、大変なことでした。私は、過去さまざまな世界でいろいろなことをやってきましたが、こんなことを言われたのははじめてです。どこから一体私が「ファシスト」と言えるのだろうか。もう私は許す気はありませんので、このオトシマエをどうつけるかだけの話です。しかし、この歳になってまた、突如いろいろな目に会うものですね。(05月11日 8時56分)

52b06421.jpg   以下は王子駅にある看板に書かれているコピーです。ここの画像も載せます。


僕らには祭りが必要だ。バカをやる場が必要だ。仲間が必要だ。できるだけたくさんで集まろう。できるだけたくさんのことで泣くけど笑おう。忘年会はお祭りだ。さあ、日本中で、乾杯だ。


  私も「コピーライター」と言われたときもありました。
  温泉新聞の新聞記者をやったあと(別な仕事をやりまして、そのあと)、広告コピーの仕事をやりました。そのときに、新聞の取材記事を書くことと、コピーを書くことは、大きく違うのだということを知ったものでした。
  でも私は、この王子の駅の袖看板(というのかなあ?もちろん違うよ)にありましたコピーは好きです。

11032011 11日に「文教大学父母と教職員の会」の役員会がありました。そこで私は会議の議事録をパソコンで打っていきました。昨年の11月のこの会の研修会のときに、ある会議の書記を委されまして、私はパソコンで打っていました。今回はそんな役目ではなかったのですが、自分の訓練のためにやっていました。
 だが実は私はこうしてメモをパソコンで取るというのはとても苦手なのです。私は昔新聞記者だったことがあり、このときには取材することは自分は得意だと思っていたことがあります。私は取材に行ってもすぐに原稿を書き上げて提出したものでした。
 このときの編集長(いまもつき合いが続いています)にはさまざまなことを教わりましたが、この取材ということでもたくさん学んだものです。
 まず取材に行ったときには、なるべく相手から配布される資料等があれば、それを必ずもらい(実はこれは簡単なことではないのです。なんらのの会合があっても、たかがどうでもいい業界紙なんかに資料をくれようとしない連中がほとんどなのです)、その資料そのものに取材メモを書くようにします。すぐさま取材原稿をまとめるのに、それのほうがすぐに資料が参照できて無駄がないからです。
 それから大事なのは、上のように意地悪をするような相手は、絶対に闘わないとなりません。「うるさい新聞記者だから、これからはちゃんと相手しないといけないな」というふうに思わせなければなりません。かつ初対面の相手とは名刺交換をして、さらにはこちらの新聞のことを強くアッピールしていかないとなりません。こうして取材して記事を新聞に載せるにしても、それができるのは、ちゃんと広告費を払ってくれるところがあるからなのです。そして、たかが業界紙に広告を載せようなんてところはほとんどないわけなのですから、とにかくこうした取材の場でも必死なのです。
 それから1対1の取材だったりすると、私は私の書いているメモを相手にも見られるように書いていきます。私は非常に字が汚いし、かつ字を知りませんからどんどん間違えて書いていきます。相手は半分呆れるのでしょうが、そうした内容を指摘し出します。こうなると、相手はかなり心を緩めてしまいますから、「これは喋るべきじゃないな」ということまで、喋ってしまうことがあるのです。「こんな簡単な漢字も知らない新聞記者なんて、たいしたことないな」と思ったときに、彼はもうガードすることを忘れてしまうのです。私はかなりな情報を、こうした方法で手に入れたものでした。
 そして、ペンと紙というのは、いかようにでも自在にできるのです。どういうふうに書いてもいいわけなのです。そして私はその取材を終わると、すぐに原稿用紙に書いて行ったものでした。
 そのように私は取材したりメモをとるのは得意だと思っていたわけですが、そのペンと紙によることをパソコンに置き換えることはなかなかできませんでした。たとえ、パソコンでメモを取ったとしても、すぐそばに紙をおいて、ペンでもメモも取っていたものです。
 でも、もうそれをすべてパソコンでやれるようにしないといけないよな、と言う思いを抱きました。それのほうが早いし、簡単なはずなのです。ですから、このところ何か会合があったりすると、私は自分のためにパソコンで必ずメモを取るようにしています。
 昔、アシストのビルトッテンさんの講演を聞いたことがあります。彼はそこに来ている記者たちがみなパソコンやOA機器関連の新聞記者・雑誌記者ばかりなのに、誰一人としてノートパソコンでメモを取ることをせず、相変わらずペンと紙を使っていることを、するどく非難指摘していました。私はそのときは記者ではなかったし、ノートパソコンも持っていませんでしたが、なにかものすごく羞しい気持を抱いたものでした。
 でも、どうやらこの年になって、必死にやっていこうと決意しました。できるはずです。やれそうです。私は11日の会合で、少しは自信がつきました。パソコンを使っていると、取材中に別な文書も参照できるし、少し時間があいたときにはすぐインターネットも参照できます。発言した方の氏名等々も、すぐ前の会合等の私のメモで参照できます。
 どうやら、ペンと紙からノートパソコンに移行できるかなと、思ってきたところです。もっともっと私自身が訓練していきたいと考えています。(2003.01.13)

11011105 私が大学を出たのは1973(昭和48)年でした。大学には6年いたことになります。
 最初に就職したのが、印刷屋です。「㈱昭和印刷出版」という会社でした。ここでは、ただただ酒を飲んでいたという印象が強いのです。とにかく最初の面接のときからビールが出てきました。私は毎日下駄ばきで会社へ行って、ただただ、忙しいだけの印刷工でした。印刷製本等々の仕事全般をやりました。とにかく昼間からビールを飲み、オフセット印刷機のそばで酒を飲んでいるというところでした。
 次に、沖縄で沖縄電力の下請の「武藤工業」というところで、海洋博へいく送電線を作る仕事をしていました。なんで沖縄へ行ったかというと、たしか浦和で飲んでいたら、そのまま名古屋京都大阪と飲み続けるままに、鹿児島を経て沖縄まで行っていました。ここではまず米軍基地の内外に送電線の塔を作るということで、大きな穴を掘り、そこへ大きな鉄骨を入れ、鉄筋を組んで、仮枠を作り、生コンを流し込んで、やがて鉄骨を組んでいくという仕事です。仕事としては、土方、鉄筋工、仮枠大工、鉄骨工という作業だったでしょうか。飯場が沖縄本島の太平洋に面した久志村というところにあり、愉しい毎日でした。
 そのころの彼女が沖縄まで迎えにきてくれて、それじゃ「やっぱり俺は鉄骨や鉄筋を扱うより鉛筆をもつべきじゃないか」と考えて、「今度は新聞記者になろう」という決意のもと、次は「温泉新聞社」というところの記者になりました。
 温泉新聞社というところは、旅行業界の業界紙だったのですが、旬刊でブランケットの新聞を出しており、この新聞作りのための取材と印刷工場での新聞組みをやりました。また毎月末の各観光温泉地への集金業務も大事な仕事であり、これはまた面白いので、今後また別に書いてみたいと思っています。
 次に就いたのは、同じ旅行業界の「観光ホテルセンター」というところでした。ここは、東北甲信越伊豆の観光ホテルの総合安定所(これを説明するのは少々面倒なのです、またそのうち説明しましょう)でした。毎日、各旅行会社に対して、各ホテルのパンフレットを持って営業に歩きました。このときにはもうそれこそ東京中、どこでも歩きました(もちろん、横浜、埼玉、千葉も歩きましたが)。私は東京の各国鉄私鉄の駅(都電の駅含めて)降りて歩いていないところはないでしょう。歩き過ぎで、最初の頃は、足のアキレス健のところから血が出てしまい、私はいつもバンドエイドを貼っていたものでした。

 次に魯迅の「狂人日記」の「子どもを救え」という最後の言葉に真剣に感じることがあって、「保育総合学園」というところで広告コピーを作る仕事に就きました。保母を育てる通信教育(通学部もあったが)をしている会社で、私は毎日毎日広告コピーを書いていました。会社としては「ニチイ学館」という会社だったのですが、身分上は「㈱東京丸の内出版」という会社の社員になっていました。この会社はエレベータのある会社で、女子社員パートアルバイトも多く、私は初めて普通の会社に入ったなという感じでした(初めて社会保険に加入できた)。なにしろ、この会社に入るときには、実に120社くらいの面接を受けたかと思います。
 毎日毎日広告コピーを書き、かつさまざまなもの(パンフレットとかさまざまな案内書とか)を制作していましたが、あるときの人事異動でその会社グループの「広報部」に配属になりました。今度は広告そのものの仕事です。ちょうど、そのときに私を中心として、この会社で労働運動が起きたわけです。またたくうちに、社員パートのほとんどを集めて、労働組合(ニチイ学館労働組合)を結成して、48時間時限スト、無期限ストを連続実施して、組合の要求を全面的(全面というよりに、それ以上認めていたな)認めさせました。この闘いの中で、私はさらに人事異動で、「進学部」に移りました。通信教育の会社であったニチイ学館にとって、なんとか別な大きな事業と考えたのが進学教室だったのです。ですから、若い社員がこの部門に集められました。そして事業としては半ば成功しそうでした。
 私たちは、組合を作って、それがまたかなりな力を持ち、かつ組合員からの私などへの信頼は抜群のものがありました。だが、私は少数派でいるのには得意なのですが、こうして多数派になってしまうと、どうも居心地が悪いのです。かつ私は組合運動なんて長くやる気はまったくありません。私たちは、会社に対して進学部門を私たちによこせと言い出しました。そしてそれは達成されました。私たちは、トラックで、ニチイ学館の2フロアをカラにして、そのまま千葉県船橋に走りました。千葉県が一番進学教室の生徒集めが成功したところで、船橋教室がちょうど中心だったのです。
 私たちは、船橋、千葉、市川、松戸に教室を構え、生徒数1,500人の進学教室になりました。会社を設立しました。「㈱修学館」という社名です。しかし、年月が立つうちに、あれほどの結束を誇った組合で闘った仲間たちでしたが、次第に会社から去っていきました。私たちには会社を経営できる能力も根性もなかったのです。それでも私は会社設立後1年半後に、代表取締役に就任しました。ちょうど私が30歳になるころです。
 でも私が社長になっても(この頃私は結婚しました)、後退戦の継続という感じで、その後2年頑張りましたが、そこで進学教室をたたむこととしました。もう一緒に闘った組合の仲間は私一人しかいません。会社を整理するというのは、非常に骨の折れることですが、ユーザー(この場合には生徒たち)、下請業者さん等々には決して迷惑をかけないように奮闘しました。物理的にいろいろなものをかたずけることに関しては、私の埼大の後輩たちが何人もトラックできてくれて、やってくれました。これは非常に嬉しかったものです。
 この会社の整理に数カ月かかりましたが、また職探しです。

 しばらく船橋などというところで働きましたから、今度は、銀座か青山、赤坂あたりにある会社に就職しようと考えました。もう履歴書書く面倒さは、前にニチイ学館へ就職するときに嫌というほど経験していましたから、私は履歴書を印刷しました。軽オフセットで履歴書を印刷し、さらに手書きで書いた履歴等々をその上にまた印刷しました(これを印刷したものだとは判る人は少ないと思いますよ)。そして顔写真は、最初就職した㈱昭和印刷で印刷してもらいました(だからその私の写真はルーペで見ると網点が入っている)。これで102社受けまして、101社目に「㈱ジャパン・クリエイティブ・アソシエーション(JCAと略す)」という赤坂の会社に就職できました。
 この会社は、㈱ライダース・パブリシティという広告代理店の子会社ハウスエージェンシーであり、広告の制作をやっていました。入社して分かったのですが、社長は4つの会社の社長であり、私の入った会社では、私こそが会社の全部を仕切らせられる存在でした。私はここで莫大な量の広告制作をしました。私が入社したときは、社内にはデザイナーが2人とコピーライターが1人いるだけで、そのほかに外部のプロダクションや数々のクリエーター及び印刷屋等々を使って、かなりな数の制作物を完成しなければなりません。チラシ、リーフレット、カタログ、新聞・雑誌広告、車内吊り、屋外看板広告、ポスター等々、それこそ大量に作成しました。ジングルまで作成したことあります。ここでも今までと同じで、私は毎日二日酔いの頭で、数々のものを制作していました。
 しかし、この会社グループもN学館同様、社長ワンマン体制の会社で、低賃金であり、待遇面でもさまざま問題がありました(ホントに私は面接のときに「これはニチイ学館とそっくりじゃないか」と気がついたことがたくさんあるのです。話すと面白い内容ですよ)。私はいざとなったら、「また組合でも作って暴れてやろうかな」という気持があったのですが、何年かたつとどうも社長の私に対する警戒感がすごいのです。なんでも私の前歴を調査したと、誰かが教えてくれましたが、実に陰湿な感じです。

 そうしたときに、私の学生運動での先輩が、新しい仕事をやるから来てくれないかということで、それならと辞表を提出しました。これがお茶の水の今のビルに来ることになったわけです(今現在はそこも辞去しました)。
 この仕事とは、コンピュータオフコンを使った会計処理の仕事でした。だが、私が入ってからは、さらにさまざまな仕事をやりだしました。私が温泉新聞社のときの編集長だった清水さんが、㈱マリン企画という会社におり、その関係やその他の関係でも、マリンの業界に関係することになったのです。それで、またたくうちに、まず「学生サーフィン連盟」の事務局を引き受けることになり、かつ「日本ボードセーリング協会」の事務局をやることになり、私はその事務局長に就任しました。かつさまざまなところの経営コンサルをやることにより、さまざまな広告制作の仕事も出てきたために、広告会社「ジェイ・エー・シー」という会社も設立しました。
 私はある時間はオフコンに会計入力をし、顧問先に試算表の説明をし、ある時間は学生サーファーの問いに答え、ある時間はボードセーリング大会へのマスコミの問いに答え、ある時間は広告媒体の新聞社の連中を仕切るということをやっていました。よくまあ、あんなことを一ぺんにやれたものだなと今でも思います。スポーツイベントをやるときには、それこそ砂だらけで顔を真っ黒に焼いていろいろなことをやっていました。
 ところが、私を最初の会計事務所の仕事に誘った先輩が、どうにもひどい食わせものでした。私はなんとかやり抜こうと努力しましたが、せっかく知り合ったさまざまな業界の方を彼が詐欺行為をしていこうとするのに、もう我慢ができなくなりました。もうこれでは、これらの数々の私の顧問友人たちを私自身が守らなくてはと考えはじめ、私自身でやりぬこうと思いまして、私の事務所を始めたわけです。当初は「駿河台事務所」として、そしてすぐに「㈱駿河台経営研究所」として活動しはじめました。
 もうそれからもう随分長い年月が過ぎてしまいました。

 思えば、少々簡単に書きすぎなところがあります。今後この部屋にて、個々の仕事でのさまざまな思い出や、就職しようと活動しているときの思い出も書いてみたいと考えています。(1994.11.01)

ac18fe9b.jpg 今朝随分昔の友だちの夢を見ました。私が労働運動を激しくやっていたときの仲間が何故か私と同じ新聞記者をやっているという夢でした。思えば、あの頃の仲間も私に孫がいるなんて驚くことでしょうね。新聞記者ももう驚くほどのいろんなこと(毎日の取材や印刷工場での実際の新聞作り。それに集金旅行)がありました。それがすべて甦ってきたものでした。もう懐かしいばかりです。(6/02)
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 私の親友でありました堀雅裕さんが亡くなりましてもうすぐ丸6年になります。
 彼は新聞記者であり、かつミュージシャンでありました。そして実に文を書くのが大好きで、よく文を書いていました。
 それで、私のサイトには、迷ったら行け 新宿ゴールデン街 があります。ただ、彼の作った小雑誌があったのになあ、それに彼の小説が載せられていたのになあ、という思いでいましたが、でもそれは見つかりませんでした。
 でも、どうやら私の御茶ノ水の事務所の引越で見つけました。

 それをここに載せていきます。
 ただし、短い文章だと思っていましたが、それを打っていきますと、けっこう長いのです。
 今後、ここにいくつか分けてUPしていきます。彼の小説を書くときのペンネームは藤森隆一です。

     心はいつもミュージシャン(一) へ

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