将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:日の丸土建

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 私はここで「日の丸土建」という会社で海洋博への送電線を作る作業をしていました。作る場には米軍がいる現場でした。米軍はベトナムでベトコンとそして北ベトナムと戦っていたのです。当時は北ベトナムは参加していないなんて言っていましたが、もう今では本当のことをいうべきでしょう。
 もう大きな米兵もみんな戦死しました。その相手になったベトナム人兵(これは米兵の敵になったベトコンも米軍が応援した南ベトナム兵もみな)も戦死しました。
 私たちは、この米兵たちと多く接しました。米兵たちがよく「何をやっているのか?」と聴いてきたものでした。彼らのそばで忙しく働いているのが不思儀だったのでしょうね。
 そして働いている現場では、このマングースをよく見かけました。沖縄本島にはハブ対策にこのマングースを導入したのです。ハブとマングースは激しく闘いますが、100回に1回くらいマングースが負けることはあってもほぼマングースが勝利していました。
 沖縄では毎日、読む新聞にはハブによる事故が書かれていました。ハブによって、一家全滅なんていう事故も書いてあったものです。16050817
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 沖縄の思い出を書いてきました。私にはどうしても私の故郷(ふるさと)に思えてしまうところなのですが、忘れてはいけないことが、ここには最大の米軍基地があるということです。16050805
 私がここにいたときは、日の丸土建という会社で土建屋にいたわけですが(ようするに土方)、働くのは、みな米軍基地内外のところでした。そのときの米軍はみな実弾いりの銃を担いで行進していました。夜は米軍用の飲み屋へ行きました(辺野古社交街という飲み屋街でした)。ただ私たちは自分の好きで飲み食いできるわけですが、米軍は徴兵で来ていて、まだ20歳前の兵隊が飲み屋でハンバーガーを食べている(まだ未成年だから20歳未満は酒は飲めない)姿は少し可哀想でした(だって明日にはベトナムで殺し殺されるかもしれないのだから)。16050804
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 以下に書きましたが

   http://shomon.livedoor.biz/archives/52188036.html
     昨日の「日の丸」の会合
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 私は過去この日の丸土建が行きました沖縄へ行ったのです。行った先は、沖縄北部の名護市久志でした。その村は東シナ海ではなく、太平洋に面したところでした。
 そこで毎日土方作業をするなか(米軍基地の内外で、海洋博へ送電線を作る仕事でした)、当時の私の彼女が迎えに来てくれて、その娘と那覇空港からさらに南島の石垣島、その島のそばの竹富島に行きました。15083103
 島の港(何もない、この4番目の画像)へ着いて、トラックに乗ると、「あなた方、今日泊まるところがあるの?」と話しかけてきたのが、新田さんでした。私たちは、彼の家へ行くことになりました。それがあと(何年もあと)で、新田荘と言われるようになっていました。15083105
私がここで泡盛を頼むと、驚かれました。沖縄の人は何故かまずい日本酒が好きだったのです。あ、「まずい」というのは日本酒の大銘柄のものばかりがあったものでした。
 ただし、オリオンビールだけはよかったものでした。
 次の日は石垣島の北部の村へ行ったものでしたが、そこも素敵なところでした。

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 昨日受け取ったのですが、この絵が描かれた葉書がありました。私は前に以下をUPしています。

   2008年05月27日「今村圭展」へ行ってきました

 今井圭さんは、彼女の夫が私が埼玉大学で6年のときにアルバイトしていた日の丸土建で働いていた竹石健さんでした。竹石さんは大学は法政大学だったのかなあ(?)。
 彼女が亡くなりまして今年の8月12日は丸2年になるのですね。
 この回顧展は以下で開催されます。

   ギャラリー絵夢

 ここで来月の4月17日(木)〜23日(水)に開催されます。このサイトに、以下があります。

  今井圭回顧展

 このサイトに、上の彼女の絵がありまして(今回の葉書にもこの絵はありました)、そこには彼女の写真も載せられています。14032503

今村 圭 略歴
東京都出身 多摩美術大学絵画科卒・同大学院美術研究科修了 
【個展】 1982  ギャラリーくぼた(京橋)
    1983  ギャラリー日比谷(日比谷)
    1984  あづみ画廊(中野坂上)
    1988  ギャラリーモテキ(銀座)
    1989  ギャラリーモテキ(銀座)
    1991  ギャラリーモテキ(銀座)
    1992  あづみ画廊(中野坂上)
    1993  ギャラリーモテキ(銀座)
    1994  ギャラリー8(高田馬場)
    1995  ギャラリーモテキ(銀座)
    1996  ギャラリーGK(銀座)
    1997  ギャラリーモテキ(銀座)
    1998  ギャラリーヴェルジェ(古淵)
     〃   ギャラリーGK(銀座)
    2000  ギャラリーGK(銀座)
    2001  ギャラリーGK(銀座)
    2002  ギャラリーモテキ(銀座)
    2003  ポルトデザール(京橋)
    2004  ギャラリーGK(銀座)
    2005  ギャラリー五峯(下井草)
    2006  ギャラリーSOL(銀座)
    2007  ギャラリーれがろ(荻窪)
    2008  日仏会館エントランスホール(恵比寿)
     〃   ギャラリーモテキ(銀座)
 【企画展・団体展・グループ展】
    1978   イタリア美術賞展(ヴェニス)
    1990   TAMON賞展(柏 高島屋)
    1990、1999  日本画廊協会展(銀座セントラル美術館、銀座タカゲン画廊)
    1991〜2012 東京展(東京都美術館・上野、 2001・東京展賞)
    1993   CROSS4展(ギャラリーJINE・中野)
    1994、2002  CAF展(埼玉県立近代美術館・北浦和)
    2000   ユニグラバス大賞展(銀座書院・アサイン美術賞)、
           日韓交流展(太田市・韓国)
    2002、2003   新世紀現代美術展(ギャラクシティーホール・西新井)
    2002、2003   作家・今展(ギャラリー絵夢・新宿)
    2004   現代作家選抜展(K`sギャラリー・銀座)
    2004   日韓交流美術展<方法と展開>(元麻布ギャラリー・麻布十番)
    2004、2006、2008  CAF.N協会展(埼玉県立近代美術館・北浦和)
    2004〜2007  日韓現代美術展(ギャラリーAs・銀座)
    2005〜2012  絵夢コネクション展(ギャラリー絵夢・新宿)
    2006、2008   未来抽象芸術展(スペース・ゼロ 新宿)
    2007   新春5人展(鶴見画廊・鶴見)
    2008〜2009  ART WAVE(08仙台&五島 09滋賀)
    2011、2013   おしゃれイズム(日本テレビ)スタジオアート
    その他グループ展多数
    2012 8.12  逝去
             逝去時まで東京展運営委員をつとめる。

この回顧展は以下の通りです。

  日時 2014年4月17日(木)〜2月23日(水)
     11:00〜19:00(初日15:00から、最終日17:00まで)
  会場 ギャラリー絵夢
     160-0022 新宿区新宿3-33-10新宿モリエールビル3F
          電話FAX03−3352−0413

 私も最初の日に行くつもりでおります。当日は17時よりパーティがあります。

13011417 以下は昨日2013年1月14日に梅津正喜さんのお通夜で私萩原周二の持っていきました文書です。私の知っている友人に配りました。A42枚の用紙に両面印刷しました。本日の本葬でも配ります。
 なお葬儀会場は、北区セレモニーホールです。

 萩原周二よりの個人的情報発信     2013.01.14

1.昨年の7月20日の「日の丸土建」の同窓会では、楽しい時間を過ごせたわけですが、またこうして現実にみなさんとお会いできるのが、梅津正喜さんのお葬式では、なんだか私は気持がしおれてしまうわけですが、とにかく私はこうして、私の思うことを発信させていただきます。
 なお、これは明日15日か16日に私のインターネット上のブログ

   http://shomon.livedoor.biz/  将門Web

にも、この文章をUPします。なおその際に、梅津正喜さんと私以外の固有名詞は、別な名称(何かまったく関係ない文字)にいたします。
 ただインターネット上のブログですと、ちゃんとリンクも有効ですから、それでも見てください。紙の上で読むよりははるかにいいです。これは、私がいつも書いておりますいくつもの手紙でも実に感じていることです。
 ですから、あとでインターネット上でこの私の書いたものをご覧ください。はるかにちゃんとリンク先へ一瞬でいけることがいいことが実感できると思います。

2.梅津さんとは、私は日の丸土建と神田会でのお付き合いでした。彼が法政大学で運動をしていた頃は、私はほとんど知りません。
 ただ、私はその後は自宅は千葉県我孫子市で、事務所は御茶ノ水でしたから神田会(1年に7回ほど飲み会をやっていました)でお会いするだけでした。それで私が今のように東京北区に自宅も事務所も構えるようになったときには、彼はもう身体の具合が悪いということしか聞いていませんでした。

3.私はこの将門Webのブログには今日は今まで、6つUPしております。私はケータイでUPすることも多々あります。私のブログで一番多いのはスマートフォンIS01でUPしたジャンル周のIS01ブログというものです。
 ケータイでのUPと言いましても、スマートフォンですから量は少しは多いですよ。ただ私は普通にパソコンで書くほうがいいです、楽ですし、今のところはパソコンのほうが自在に内容も量も書けます。13011418
 もちろん私は漢詩(もちろん中国だけではなく日本の漢詩も。いや日本の漢詩のほうが多いかな。いえ、ベトナム、韓国朝鮮の作品も書いています)の解説を書いているジャンルもありますし、短歌や俳句、詩についても書いています。どうしても私は日本の韻文よりは、漢詩についての方が書きやすいです。事実量はそちらが多いです。
 この頃は、「唯円『歎異抄』」と「新約聖書『マタイ傳』」を原文で書いております。まあ第一には、自分が理解するためにやっているのですね。

4.それにブログだけでなくケータイメールでもおおいに交換しています。もう娘二人だけでなく、妻や弟や女性たちはケータイメールのほうが、普通のメールよりもいいみたいですね。
 やがては孫たちや姪の子どもたちとも交換するようになるでしょう。いえ、今のところは、孫にはその母親父親に私が一方的に出しているだけです。そのうちにいつか、じいじのこともこの「ケータイメールで、何でこんなに書いてくるのだ」と少しは興味を持ってくれるかなあなんて期待しています。

5.私はこのインターネット上の将門WebにUPしている量は、ただただ量だけは、世界の米国にも中国にも誰にも負けていません。ただUPする数はタレントの中川翔子さん(私のブログのサイドバーでリンクしています)などのほうが上です。ただし、私は量だけですよ。質はダメに決まっています。
 ただとにかくこうして日々書いていけることは嬉しいことです。私は月に、200くらいのUPをしています。
 それとここに私は読んだ本の感想文を「周の雑読」と称してUPしています。もう数は2,000に迫っています。とにかく、これを3,000書いていくはずです。やがては5,000を越えるつもりでいます。
 本を読むことはいいのですが、その読んだ思いを書くことが大事だと考えているのです。私はそれを書かない限り、本を読んだことにはならないと思っているのです。ただし、これは私の思いです。
 私は「司馬遷『史記』」の黄帝から始まる五帝から、夏を終えて、今は殷のことを書いている途中(ちょっと殷のことを書く途中で止まっています)です。まだ書いて行きますが、周の西周の時代を少し書いたら終わりです。
 いやそれ以降は、またいろいろと他の本でも書くことがあって『史記』だけと限らないのです。『史記』以外の本でも書いて行きます。とにかく、これは、今月中には書き終えます。

6.私が毎日書いておりました『吉本隆明鈔集』は私が過去書いたものは終わりました。もちろん、これからも書いていくつもりですが、まずはひとくぎりといたします。
 私には吉本(吉本隆明)さんが亡くなられて、なんだかものすごく寂しいと同時に、もう俺も終わりにすべきかななんて思いましたが、それでは吉本隆明さんの言われていることと違うし、間違っている、もっと寂しくとも生きて行こうと思っています。
  吉本隆明さんが私のことを「律儀な人」と言われていまして、そんなこともないのだがなあ、と思いながらでも嬉しいです。その吉本隆明さんに言われたことを私も忘れないで、今後も生きて行きます。

7.この日本では、多分1万年(いや2万年かもしれません)くらい前から、私たちの祖先はこの日本語だろうと言われるもので話してきました。でも私たちと同じであろう書き言葉を使ってきたのは、たかだかまだ1,100年くらいしか経っていないのです。ちょうど紫式部や清少納言や更級日記の少女(この実際にこれらの書籍を書いた女性たちは名前が分かっていないのです)の書いたものは実に面白いです(いや私は『源氏物語』はその面白さがまだわかっていませんと言えるのですが)。
 誠に残念なことに、それらの女性陣より、はるかに時代のあとの悪左府藤原頼長の日記は、漢文で書かれており、私にははるかに遅れていた(内容はまた別なのだが、いや内容もものすごく面白くない)ものに見えます。
 だから私はこの時代の何人もの女性たち(わずかにかな書きで書いた男性もいますが)の思いを今も受け継いで書いていくつもりです。13011419

8.上の本のことだけでなく周の映画演劇館と称して見た映画のことも多く書いています。前には、いつも見た任侠映画のことを書くことが多かったのですが、今は直前に封切になった映画も書いています。今日本映画はいいですね。最高だと思いますね。
 今私は64歳で老人ということで、映画は実に安価に見られるのです。そして必ず私はプログラムを買うのですが、今回「降旗康男『あなたへ』」はこのプログラムがすべて売れきれで困りました。
 もちろん、私のブログには、私の文章だけでなく、映画のいくつかのシーンの画像も入れていますよ。つい近頃は以下を書きました。画像もいくつも入れています。

  阪本順治『北のカナリアたち』
  降旗康男『あなたへ』
  犬童一心『のぼうの城』

9.その他私のブログ将門Webでは周のニュースということで、いくつものことを書いています。つい近頃は次を書きました。

  米長邦雄さんが亡くなりました
  私のIS01はスマートフォンなのかなあ
  livedoorだと歌詞が掲載可能なのだ
  サンゴが無くなっているといいます

 いや私はこの毎日のニュースでは、健康についても、飲み屋についても、そのほかについても書いていますよ。

10.日経新聞の連載小説である浅田次郎『黒書院の六兵衛』も新聞読んですぐに書いています。明治維新という大きな転換点を、今までの歴史や文学では書きえていなかったと私は思え、この小説は私は夏目漱石の小説を凌駕する作品だと思っています。
 私のサイトではこれがけっこう読まれています(いえ、アクセス解析で分かるのですよ)。

11.またNHKの連続ドラマ『純と愛』についても毎日書いております。これは実にいいドラマです。毎朝見ていて、いくつものシーンで私はいつも涙しています。毎日といいましても、放送のない日曜日も書いていますよ。
 この番組は嫌いな方も多いようで、それを私は私へのコメント・トラックバックでも感じています。

12.私の孫、ポコ汰、ポニョ、ポポ、じゅには私の将門Webのサイドバーに今日現在次のようにあります。

ポコ汰はいくつになったの?
ポコ汰は1月3日生まれ
6歳と11日♪
★7歳の誕生日まで354日★

ポニョはいくつになったの?
ポニョは8月2日生まれ
4歳5ヶ月12日♪
★5歳の誕生日まで200日★

ポポはいくつになったの? ポポは2歳8ヶ月3日♪
★3歳の誕生日まで117日★

じゅにはいくつになったの? じゅには2歳1ヶ月26日♪
★3歳の誕生日まで309日★

 私は上の三人へは、できるだけあまり行かないようにして、一週間に2回〜3回くらい行っています。いつもじいじはお菓子をもって行きます。でもいつも、「じいじは食べないの。そんなに甘くないよ」なんていわれています。
 じゅにの家は、千葉県君津市なので、遠いのですが、できるだけ行くようにしています。昨年12月にも保13011420育園のクリスマス会へは参加しました。嬉しい楽しいクリスマス会でした。

13.娘おはぎにもブルータスにも、手紙も書き、ケータイメールも出しています。その二人の彼ともケータイメールを出していますよ。

14.できるだけ、手紙でやりとりをしたいと思います。それにぜひインターネットで、私の将門Webを訪れてコメントください。私がやれるのですから、誰でもインターネット上でサイトを持てるはずです。以上

12072201萩原周二よりの個人的情報発信 2012.07.21

1.私はいつも「書き言葉」と「話し言葉」ということを言っています。そしてこの場で、私の書き言葉で、こうして書いておきたいと思いました。もちろん、私のインターネット上のブログ

   http://shomon.livedoor.biz/  将門Web

にも、今夜21日か明日22日に、この文章をUPします。
2.なお私の言う『「書き言葉」と「話し言葉」』ということは、吉本(吉本隆明)さんが言われていたことです。それを私がこうして今言っています。
 この日本では、多分1万年くらい前から、この日本語だろうと言われるもので話してきました。でも私たちと同じであろう書き言葉を使ってきたのは、たかだかまだ1,100年くらいしか経っていないのです。ちょうど紫式部や清少納言や和泉式部が私たちと同じ文字で書いているのです。
 残念なことに、それらの女性陣より、はるかに時代のあとの悪左府頼長の日記は、漢文で書かれており、私にははるかに遅れていた(内容はまた別なのだが、いや内容も面白くない)ものに見えます。12072108
120721093.私は上のブログは今日はもう6つUPいたしました。私はケータイでUPすることも多々あります。私のブログで一番多いのはIS01(スマートフォン)でUPしたジャンルです。
 もちろん私は漢詩(もちろん日本の漢詩も)の解説を書いているジャンルもありますし、短歌や俳句、詩についても書いています。
4.それにブログだけでなくケータイメールでもおおいに交換しています。もう娘二人だけでなく、妻や弟や女性たち(どうもケータイメールがいい人が多いですね)はケータイメールがいいみたいです。やがては孫たちや姪の子どもたちとも交換するようになるでしょう。いえ、今のところは、私が一方的に出しているだけです。
 もちろん手紙もおおいに書いていますよ。ただ今は2008年には600通を超える量を出したのですが、今は年に100通くらいです。
 インターネットメールもよく交換していますが、やはりケータイメールだと瞬時にできて今は量もかなり書けるからいいのでしょうね。私もその通りです。いや手紙もいいですよ。私は和紙の用紙に綺麗な切手シールを貼って出しています。
5.できたら、みなさんに、インターネット上にブログ等(ブログでなくてもいい)で書いてほしいのです。私はツイッターもフェイスブックもMIXIもやっていますよ。
 でもやっぱりブログで書き言葉でやっていただきたいと思います。インターネットの世界では、はるかに英語人口のほうが多い(日本語人口の10倍以上)のですが、ちょうど4年前にブログでは日本語が英語を上回ったのです。これは私が思うのには、この日本人が書き言葉を自在に使う、世界でも珍しい存在だからです。
 私は間違いなく世界でも一番量を多くUPできているブログだと思っています(量ですよ。内容ではありません)。中国人で世界で一番多くUPしている(と「日経パソコン」に書いてありました)人よりも私は多くUPしています。
 また元気に書いてまいります。 萩原周二

12071906 明日2012年7月21日に日の丸土建の同窓会が開催されます。

日時 2012年7月21日(土)
   18時より
会場 大連飯店
   東京都千代田区神田美土代町11番10号
   電話03(5259)1808

 もうナベさんが亡くなって丸三年になります。そして梅津さんも現在すい臓がんだといいます(でも煙草は厳禁ですが、お酒は飲めるそうです)。
 このときに、またみんなで集まって飲みましょう。

12041308 1972年の埼玉大学のむつめ祭で、東京都板橋区にある城北毎日販売の新聞配達の人たちと我が埼玉大との野球大会をやりました。それが楽しく終って、飲み会になったとき、彼らは早稲田大学の人が多かったので、急に「都の西北〜」と唱いはじめました。双方とも学生運動の当事者による縁の野球大会だったのですが、早稲田と埼大はいろいろ張り合うところが多く(今でもゴールデン街では張り合っています)、また早稲田の人は不思議なことに、党派乗り越えて(革マルと日共除くと、みんな右翼まで含めて)一致して早稲田に誇りをもっており、そんな校歌をよく聞きます。ただし、このときも肩くんで、「ワセダ、ワセダ」と唱うところを「バカダ、バカダ…」と唱っていましたが、それで次に私たち埼大の番となりました。私たちの大学に校歌などあろうはずがなく、急に金沢という傑作な男が、次の歌を唄いだしました。

歌名 埼大の歌
 唄  埼大歴研

  埼大の歌です君も僕も
  あなたもわたしも朗らかに
  忘れた歌なら思い出しましょ
  みんな見事にうたいましょ

 この時以来何かがあるとこの歌が唄われます。
 でもあのころはよくこうした野球大会なんてよくやりました。埼大対日の丸土建とか、城北毎日対日の丸土建とか、そのほか学内の対抗戦もよくやりました。たいがい埼大の連中は二日酔いなので散々でした。それに学生活動家というのは、私含めて、運動オンチがたくさんいるからそれがまた面白かったですね。そして終ったあとの宴会がまた凄まじい。いつも歌合戦、踊り合戦などして大変でした。
 そういえば、「寒風吹き荒ぶ中、誰も見てない運動会」なんていう立看板出して、運動会やったこともありますね。見物する奴はいないけれど、かなりなサークルが集まり、大変に楽しんだのを覚えています。
 なつかしい思い出です。(1998.12.01)

11092210 私が自分の文書の中にときどき「日の丸」とか「日の丸土建」とか書いていることの解説です。
 私もこの「日の丸」の一員なのです。もともとは北浦和東口大東というところにあった土建屋さんの集団でした。
 もともとは早稲田の鈴木さんという活動家がやりはじめた土建のアルバイト集団だったようです。1971年後半頃から北浦和の大東に飯場を構え、法政早稲田の左翼活動家を中心として活発に仕事をしだしました。次第に他の大学の活動家も増え、さらに浪人、本物の土方も出てきました。またもともとは左翼活動家ばかりだったのですが、そうでない人も加わってきました。そのころ私たち埼大の活動家連と知りあったわけです。
 私の3年下の後輩から、このごろ夜にある飲み屋で、どうも「ベ平連」チックな土方連中と出会うから、そのうちどうせベ平連だと喧嘩になるにきまっているから、そのときにはきてくれといわれました。私は「ほんとにベ平連なのかよ?」というと、あんなに髪の長いのがいるからベ平連だなどといいます。私もベ平連じゃ、どうせ喧嘩だなとばかり思っていました(私は当時からベ平連のような市民主義運動は大嫌いでした)。
 ところが、その後輩が「いや、あの土方の連中は同じ仲間だったよ」というし、しかも名前が「日の丸土建」だというので、もうそれはみんなすっかり気に入ってしまいました。その過程にはこんなことがあったようです。
 北浦和の「赤と黒」という夜中やっている飲み屋で、私の後輩たちと日の丸のある連中が一緒になりました。そのとき店のテレビで愛媛大学のバリケードが大学職員と機動隊から封鎖解除されるところがニュースで放映されたらしいのです。見ていて、私の後輩たちからは、「頭(アッタマ)来るな!」という怒りの声が発せられます。みんな左翼全共闘の活動家なのですから。ところが同時に日の丸の土方の人たちからも、同じ声が発せられたのです。それでお互いに、「何だ仲間なのか!」と早速一緒に飲み出すことになったわけです。
「日の丸」の諸君も同じ左翼活動家だったわけです。
 それから私たち埼大と日の丸は急速に仲良くなっていきました。私たち埼大のグループもみんな土方の仕事をするようになりました。だが日の丸の人たちには、私たち埼大グループは仕事の上では素人ばかりで、最初は困ったのではないでしょうか。とくに私などは、力はないし、仕事を覚えられないで、こまった奴だったと思います。でもそんなことは一言もいうことなく、一緒に懸命に仕事しました。だいたいに3つの現場をもっていて、よく働きました。
 朝飯場に行くと、ちゃんと朝飯が食べられます。昼は飯場に帰ってくるか、御弁当かで食べられます。夕食も同じです。それが実に美味しい食事なのです。私たち埼大は貧しい連中ばかりでしたから、こんなに美味しい食事ができるのには、心から感動してしまいました。このとき食事の担当だったのが、Aーちゃんという(当時法政の学生で佐々木雅治さん、石川県生まれ)、今では私のクライアントの社長です。
 当時の社長(土建屋のおやじ)はチィーちゃん(法政で、千葉均さんという私より2歳下の秋田湯沢出身、現在は秋田県である流通グループをやっている、また現在熱心な異常な経営コンサルタントでもある)といい、とんでもないはりきりやでした。これほど土方に頑張っている人はいないだろうというくらいの人です。
 またなべさん(法政、渡辺正夫さん、私と同じ年、なんとプロレタリア軍団だったという、東京出身)が副社長格で、これまた土方の仕事に執念を燃やしているいい男です。先日私のところにロータスを習いにきました。
 会計をやっていたのが又さん(法政、中原優、法政大の文連の委員長だった、鳥取生まれ)で、この人は、毎月飲み屋にたまったつけを払いにいったりする係でした。現在は沖縄で働いています。ときどき東京に出てきますが、けっこう一緒に飲んでいます。
 その他たくさんいました。現在石川良一さんという東京都稲城市の市長になった人も同じ日の丸の仲間でした。みんな今のハンドル名のように、「一徳(いっとく)」「一朗」「しんご」「こうぞう」「きよしあんちゃん」「ハナちゃん」等々と呼んでいたので、当時はその当人が学生なのかかつ左翼なのかどうなのか判らなかったものです。
 ただこの「日の丸土建」の大きな特長は、おやじも食事担当も誰もかもが、同一賃金だったことです。これは驚くべき立派なことでした。私のような仕事の出来ない人も、チィーちゃんもみんな同じなのです。
 私たち埼大の連中も次第に大勢が加わるようになりました。埼大の連中の特色は、仕事はまだうまく出来ないが、とにかくみんな大酒飲みのことと、若い連中はまだ学生運動の現役の活動をやっていたことでしょうか。
 この日の丸土建との大きな思い出は、一緒に仲よく腹いっぱい飲んで元気に歌を唄い踊っていたことです。日の丸も当初飯場を建てた頃は、仕事の後には活動家らしく学習会などといって「ドイツイデオロギー」の読書会などをやっていたらしいのですが、そのうちに土方で疲れた身体には酒が合うようになってきたようです。その酒を飲むことに関して、私たち埼大と違う点といえば、私たちがヒサンな飲み屋ばかり好むのに対して、彼等は少しはいい飲み屋で飲んでいることでした。これはやはり、彼等が普通に働く労働者だったからでしょうか。
 でもよく日の丸対埼大などと歌合戦をやったものです。これほど愉しく歌を唄える集団も他にはないといえるかと思います。花見なんていうと、黒山の人だかりができたものです。よく飲んで唄って踊りました。また私たち埼大の「むつめ祭」で野球大会をやったりしたものです。

 この日の丸土建が突如として沖縄に行くことになりました。海洋博の行われる本部半島への送電線を作る仕事です。私たちは、あとから行った埼大グループを晴見埠頭で馬鹿馬鹿しく盛大に大宴会して(晴海で)おくりました。いま思えばなんで埼大のグループは船でいったのだろうか。貧しかったのね。私の村本という解放派の後輩は、晴海で飲んで、私と「昭和維新の歌」を船と岸壁で歌いあってから、沖縄に着くまで3日間何の記憶も無かったといいます。つまり、埼大かつ日の丸らしくずっと飲んでいたのね。
 私も沖縄に行きました。たしか浦和で飲んでいたはずなのですが、もうあまりの飲みすぎの世界に嫌になって逃げ出したら、名古屋京都大阪と飲んで、ついでに鹿児島で執拗に飲んでいたはずなのですが、気がついたら沖縄でした。なんでか気がついたら、非常に焼酎くさい息で、現場の鉄塔にとりついてハッカ(鉄筋を結束する道具)使っていました。なんで俺はこんなところでまたヘルメットかぶって、なんでまた働いているのかなというところで記憶がもどりました。また日の丸の世界でした。
 この沖縄での日の丸の世界はまた怖ろしいくらい愉しい世界でした。飯場での私のベットの上にいた加藤くんは、沖縄にも大学入試の参考書をもってきていた高校生だったのですが、当然挫折します。私が悪いのじゃないよ(本日どうせ会います)。
 日の丸はよく飲みました。よく働きました。社長のチィーちゃんはいまでも、飲むとすぐ裸になります。鍛えた身体を誇っているのです。川や海があれば、すぐ脱いで飛び込みます。いつでもどんなところでも(つまり寒い海でも、きたない川でも日和らず)、飛び込みます。私たちも仕方ないから続いて飛び込んだりします(もうやめてほしいな、もう死人が出るよ)。あるとき、彼がやにはに裸になるのに感動して、また裸になった飲み屋のママがいて、私たちは「いったい何というでたらめな世界だ」と感動したものです。
 この日の丸がその後、東京で香具師をやっていました。私はなべさんが作った綺麗なろうそくをチィーちゃんのやっている露店で大量に買って、クリスマスのプレゼントにたくさんの女性たちに配りました。みんな非常に喜んでくれました。その後またいろんなことがあって、いまの時代になりました。
 でもいまでも日の丸は不滅です。沖縄でハーリー祭りがあって、そのボート漕ぎ競争に出場したのを思い出します。飯場のある村あげての大祭りでした。私たちは必死に船を漕ぎました(ただし、私周は漕がないで船首で大声をあげていただけ)。そのときのみんなの一致した息を懐かしく思い出します。埼大も何もかもみんな日の丸でした。嬉しい愉しい、笑いと涙の瞬間でした。私はいまもこの瞬間を大事に思っているのです。
 本日この日の丸の久し振りの宴会があります。25、6人が全国から集まるといいます。一体いつまで飲んでいることでしょうか。またみんなで、どこかで泳いだりするのかな。少なくとも歌合戦、踊り合戦はしますよ。私だって元気です。私だって日の丸なのです。あまりの感動の思いに、私は昨夜、前夜祭をやってしまいました。きょうは昼はみんなわくわくしながら仕事して、そうして会ってどんなに飲むのかな。いつまで飲むのかな。きょうは午後7時から中野北口の「すてら」という飲み屋(この店は「こうぞう」くんという人の店、何故「こうぞう」というかと言うと、彼は姓を岡本といって、昔テルアビブでの赤軍派岡本公三からとったもの)で開始します。
 いついつまでも、私は日の丸です。

「周の発言」に毎日写真をUPしているのですが、先日の月曜日(休日でした)に、長女おはぎと母の家に行くときに言われました。

   なんで毎日、あんなどうでもいい写真ばかりUPしているの?

 私の答えは以下です。

  あのなあ、「どうでもいい写真」だからいいんだよ。そうでな
  いと、デジカメを構えるときに、真剣になっちゃうから、それだ
  けで時間かかっちゃうじゃないか

 とにかく、私は歩いているときに、いきなりポケットからデジカメだして、そこらへんをむやみに撮るのです。できたら、他の方もこうして自分の日記を作ってほしいな。デジカメというのは、こういうふうに使うのがいいですよ。だから、私はUPしている以外にも大量のデジカメ画像があります。
 それで、長女のいう「どうでもいい写真」「意味のない写真」「くだらない写真」をまたあげます。
 日の丸土建の写真を少しづつスキャナしているのですが、

      日の丸土建掲示板

で、写真を探しているとき、そこに出てきた私の写真です。私が28歳の時です。11080703
 なんで、ネクタイしているかというと、何でかな、でも私もスーツ着てネクタイしていた時代も長いのですよ。
 隣は須甲君です。彼は私と同学年なんですね(年は一つ上)。なんで、これで同学年なんだ。彼の親父さんと、彼の息子がまだ赤ちゃんのときに一緒に会ったことがあるのですが、私には、この三人の順番が何故か違うなとしか思えませんでした。

11061901 なんだか、ここ1カ月ばかり気力が失われてしまったというような感じです。ちょうど「日の丸土建」の同窓会が9月11日にあって、そのあと、「なんだかみんなとまたしばらく会えないと寂しいな」なんて思いのときに、14日の夕方、ある友人から、高校時代の友人の死の連絡がまさに突然ありました。突然というのも、連絡をくれた友人も、しばらくまったく行方不明の人だったのです。彼もまた、この年になって実に大変なことになっていました。
 なんだか、その時から、さらに時間が経てば経つほどに、気力が萎えてしまいます。それらの友人のこと、この2年くらいの間に突然亡くなった何人かの友人たちのことが、ずっと思いだされます。そして自分のことも考え込んでしまいます。なんだか、このままでいいのかなとばかり思ってしまうのです。たしかに生活のためには必死に働かなくてはなりません。でももうすべてを投げ出したいような思いにもなります。
 でもやはり生き続けなくてはいけないのですから、対処法みたいなものを懸命にやってきました。9月中にやり終えなくてはならない仕事は必死にやってきました。でもなかなか私の気持は晴れません。
 この9日、ちょうど台風で、予定が中止になり、自宅にいることになったため、もうずっとパソコンに向かっています。私のホームページは、ただただ画面内容の模様替えをしなければならないページがたくさんあります。その作業をやり続けました。そしていろいろな人にメールを書きました。実は9日から、まともに寝ないでずっとやり続けです。朝8時頃まで続けて、それでパソコンのそばで眠って、またすぐ起きて続けて、という感じで今この時まできました。 ホームページの各ページの画面の更新は、ほぼ何も考えることなくやり続けられます。ただし、かなりな量をこなさなければなりません。そして途中でだんだん疲れてきます。
 そんな疲れたときに、誰か友人にメールを出すというのは実にいいですね。メールというのは手紙とはかなり違います。手紙は、パソコンで書いて、印字したとしても、封筒に入れ切手を貼って、郵便ポストに出しにいかなければなりません。この過程で、手紙を出すのを躊躇することがあります。メールは、ただすぐに出せます。何か躊躇することがあっても、また書き直して、すぐ出すことができます。またメールしたあと、「さっきのメールはここが違っていたのです」なんて、またメールすることもできます。
 また私の場合は、ホームページを持っていることもあって、まったく始めての方からのメールをいただくことが多々あります。いろいろな相談のメールが多いのですが、こうした方は、私の現在の心の状態なんか判らないわけです。だから、私はそんな自分ではない、相手が「周さんって、こういう元気な人なんだろう」と思っているだろう私で、メールの返事を書いていくわけです。
 このことは、私には実に面倒なことで辛い気持にもなりますが、逆に現状の私にはいいことではないかな、なんて思いになります。元気な自分をメールの上で演じることも、自分をもそんな自分にだまされていくことなんだろうななんて思ってしまうのです。
 とにかく今そんなことで、またなんとかやっています。

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 思えば、毎日夢を見ているのですね。それを少しでも記録すべきだなあ。

2010/06/15 07:33今朝は夢の中で「日の丸土建」の仲間たちと会っていました。夢は毎日見ているのですが、朝まで明確に覚えていられません。
 でも沖縄にいる友人に手紙を書こうかな。沖縄の飯10061102場でずっと飯炊きをやってくれていた女性です。胸のでっかい綺麗な女性でした。家は沖縄にあって、でも彼女は山口県で保育園の先生をやっていました。最後は園長になっていました。もう孫がいます。
 手紙を書くというのはいいですね。でも彼女に手紙を出したのは2年前かな。いや年賀状は別ですが。
 けっこう手紙を書いてきました。ただ返事はメールが多いです。600通を越える手紙に、返信の手紙は10通ばかりです。メールでの返信は30通くらいです。別に返信を求めているわけではありませんのでいいのです。でもたまにはメールででもくれないものかな。
 上の彼女はクリスチャンだから、いつも葉書には聖書のことばがあるので、私もまた聖書の話も書こうかな。
 聖書の中のことを書きましょう。きょうやります。
 あと「読書さとう」が今まで書いている途中です。
2010/06/15 08:02「ゲゲゲの女房」で赤ちゃんが泣きました。またきょうも私の長女の家に行きましょう。私はポニョを少し怖がっていることがあって(だって下手をすると私をぶつのです。あ、でもまだ小さな手ですからね)、でもやっぱり私の大好きな孫です。きょうも行ってポニョを抱きましょう。
「ゲゲゲの女房」の最後に調布市の風景が少しだけ写されます。調布は私の弟夫妻が結婚して初めて住んだ街です。それでなんだかとっても懐かしいのです。
2010/06/15 09:47もう義母のわが家から電話があるはずです。その前にやっぱりリビングで私がいて電話を待たないとなりません。そうしてすみやかに出かけられるようにするのです。
 今上に書いた沖縄のM子さんに手紙を書いています。彼女は孫は何人いるんだっけ。私は今年で4人になることを手紙に書きましょう。4人目の孫が男の子か女の子かはまだ判らないです。でももうブルータスが大変に喜んでいるのが判ります。昨日の夜、お腹の中にいる赤ちゃんのレントゲン写真をケータイメールで送ってきました。それではまだ男の子か、女の子かは判らないのです。このことも手紙に書きましょう。
 私はいつも長女には怒られています。いや、いいじいじなのになあ。私が悪いというより、長女が寛容じゃないんだよなあ。でもとにかく私も努力していきます。この努力が大切なことです。

 ブルータスの子どもが生まれたら、もう私はまたものすごく喜びます。このお腹の中にいる子にずっとケータイメールを出していこうかな。

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 義母は、もうずっと介護のデイサービスを受けており、水曜日と日曜日を除いて、北区志茂にある「わが家」に行っています。ここは、私のサイドバーでバナーを置いてあります。
 それででも1カ月に1度4日から6日間くらい、お泊まりもしてもらっています。前には、ずっと我孫子の家がありましたから、そのときに行きましてかたずけをしていました。
 その義母がお泊まりします介護施設はいくつかあったのですが、来月6月に行ってもらうのが、以下のところです。

 http://www.kohoen.jp/web-ukm/kohoen/de.html うきま幸朋苑

 それで初めて行く場合には、前もって面接があります。それで18日に来ていただきました。それでいつも、この面接でいくつものことを聞かれ、そして私たちは聞かれるうちに相手の施設を感じとりまして、いつもそこで安心しているのです。
 それでお話している中で、ここは、もともとが鳥取県にある社会福祉法人が、東京都に進出して開設したものだということを聞きました、鳥取県といえば、私が、昔、沖縄や北浦和で働いた「日の丸土建」の多くの友人の故郷で、今でも「日の丸社」の名称の会社で、この県で土建業をやっている友人もいます。だから鳥取県は私にはものすごく思いがこもるところなのです。
 その鳥取にある社会福祉法人は以下です。

 http://www.kohoen.jp/ 社会福祉法人こうほうえん

 そして、この「うきま幸朋苑」も介護老人福祉施設だけではなく、以下のような大きな福祉施設でした。

 http://www.kohoen.jp/web-ukm/ ヘルスケアタウンうきま

 なつかしく日の丸時代を思い出すと同時に、義母が介護を受けることで、またここへも訪れてみたいなと思ったものです。
 こののサイドバーの「東京都北区王子のウェブサイト」にも、この「うきま幸朋苑」のサイトへリンクしました。

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