2018050101 孫文が満州を日本に売るということに関する記事をUPしておこうと思いました。私が読んだ毎日新聞の記事は、

孫文に「もう一つ」の対日政策 巨額援助条件に満州租借容認?――密約示す書簡発見
95.05.22  東京本紙朝刊 3頁 3面 写図有 (全0字)
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ということでした。読売新聞も同様です。朝日新聞は大事なこと(日中盟約のこと)書いてありません。産経新聞はほぼ毎日と同じように書いてありますが、資料などが付けられていません。それでもともとの共同通信の記事をダウンロードしてみました。

 ◎「戦後50年」孫文が満州租借に同意?「1千万円」で対日密約 95.05.21
「愛国者」に別の顔  三井古書簡が記録
中国の近代革命家、孫文が一九一二年(明治四十五年)、現在の一兆円前後に当たる当時の一千万円と引き換えに旧満州(中国東北部)を日本に租借する密約に同意していた―と記す古書簡を、富山国際大学の藤井昇三教授が東京の財団法人・三井文庫で発掘し、六月出版予定の共著「新しい東アジア像の研究」(三省堂)で紹介する。
孫文といえば日本の対中侵略意図を警告した「愛国者」としてのイメージが鮮烈。密約は実現しなかったが、日本への租借を一時的にせよ容認したとの記録が真実だとすれば、孫文の”もう一つの顔”を示すものと言え、中国、台湾でも反響を呼ぶのは確実だ。
この古書簡は三井物産社員として上海に駐在していた森恪(もり・つとむ)が東京の三井物産顧問、益田孝にあてた書簡(一九一二年二月八日付)で、「上海三井物産株式会社支店」名の便せん三十六枚に墨書されている。森はこの中で、元老の桂太郎から益田を経て内命を受けた、として南京に孫文を訪ねた経過を記録している。
11091201 森書簡によると、二月三日に森は孫文と対談。軍閥、袁世凱(えん・せいがい)との対決で苦境にあった孫文に森が、日本の孫支援と引き換えに「満州」を日本の勢力下にゆだねるよう迫った。これに対し、孫文が「満州を日本に一任して、その代わりに我革命の為(ため)に援助を日本に乞(こ)う」と希望していたと記述している。
さらに、日本が四日以内に一千万円の借款の用意を電報で伝えれば、孫文は満州租借を認める―との内容の益田あて電文を作成した、と明記している。
藤井教授によると、日本側は協議のため孫文らの訪日を求めたが、日本側は一千万円の資金調達ができず、密約は実現しなかった。孫文は政争に敗れ、「森書簡」から一週間後の、二月十五日、袁世凱は臨時大総統に推され、翌三月十日正式就任することになる。
この書簡と別に、藤井教授は都内の研究者宅で、日本亡命中の孫文らが一九一五年二月五日に調印したと考えられている「日中盟約」の正本も発掘、その中で中国の鉱山、鉄道、海運での日本の利権などを容認している。
この「盟約」は、孫文および同志の陳其美が、満鉄元理事の犬塚信太郎、満鉄社員の山田純三郎と調印したとされる。民間レベルの”念書”だが、日本政府は当時、袁世凱政権に、権益を強要する「対華二十一カ条要求」を突き付けており、受諾を迫る圧力として「盟約」が、用いられた可能性もある。 藤井教授は「傍証となる文書も見つかっている。功績ある政治指導者でも誤りはある、という立場から客観的な考証を進めたい」と述べている。(松尾共同記者)

 ◎森恪書簡の要旨  孫文が満州租借に同意?          95.05.21
森恪が上海から東京の益田孝にあてた一九一二年二月八日付書簡(三井文庫所蔵)の要旨は次の通り。(原文は旧漢字・カタカナ交じり表記)
小生南京着の翌日すなわち三日朝孫文を訪(と)い(中略)彼我対談の要旨左の通りにござ候。

森 露国(ロシア)が南下を企つる間、独(ドイツ)人が青島を保留する間(中略)もし貴下が、既に運命の定まれる満州(現・中国東北部)を捨て、これを日本の勢力に一任し、その代償として日本の特種なる援助を得て革命の大事を完成せんとの決心あらば(中略)実は桂公(元老、桂太郎)より益田氏に対して這般(しゃはん=これら)の内意を漏らされし次第にして(中略)日本より貴下の便利とする地に軍艦を回航し三池港に直航し特別列車にて京都に至り東京より桂公の来会を促して会見する事を取りはからうべし。
孫 満州は日本に一任して、その代わりにわが革命の為(ため)に援助を日本に乞(こ)う希望なりしが、日本は余らを遠ざけて近寄せず。最近革命政府の財政窮乏の極に達し、もはや軍隊に供給すべき財源なく、全く破産の域に達せり。革命政府の倒れざる間に機先を制して南北の和議をまとめ、一時政権を袁世凱に渡すの外なきなり。
森 万一日本側が、満州問題を密約するの意を決し、ただちに軍資を貸し援助を与えんとの意を五日までに(五日間以内の誤記)内報あれば貴下は和議を延ばして(中略)日本に行くや。
孫 もちろんなり。
森 しからば(益田あてに)電文を起草せん。

とて小生支那(中国)文にて前述の大意を認め、孫および胡漢民(孫文の同志)これを添削し、小生これを暗号に訳し午後五時四十分孫の方より貴下あて御架電申し上げ候。電文左の通りに候。
孫は満州租借を承知せり。すぐ一千万円を借せば、袁世凱との和議を中止し孫文または黄興(孫の同志)日本に行きて満州の秘密契約をなさん。満州の件断行する気なれば四日以内に、一千万円貸すと電信せよ。(共同)

◎「日中盟約」要旨  孫文が満州租借に同意?        95.05.21
藤井昇三教授によると、都内での現存を確認した一九一五年(大正四年)の「日中盟約」(中国語版は「中日盟約」、全十一条)の要旨は次の通り。(原文は旧漢字、カタカナ交じり表記)

日本および中華は東亜永遠の福利を維持するため両国提携の必要を認むるをもってここに左のごとく約定す
第一条 (略)
第二条 中華海陸軍に使用する兵器弾薬兵具等はすべて日本と同式のものを採用する
第三条 中華海陸軍に外国軍人を聘用(へいよう)するときは主として日本軍人を採用する
第四条 中華政府および地方官庁に外国人を聘用するときは主として日本人を採用する
第五条 (略)
第六条 中華における鉱山、鉄道および沿岸航路を経営するため外国資本を要し又は合弁の場合はまず日本に協商すべし     
第七条〜十一条 (略)
大正四年二月五日すなわち中華民国四年二月五日東京において作る
孫文  印
陳其美 印
犬塚信太郎 印
山田純三郎 印
【注】藤井教授によると、犬塚は満鉄元理事、山田は満鉄社員で、孫文の後援者。(共同)

◎1兆円か230億円か  83年前の1千万円         95.05.21
孫文が満州租借に同意?
一九一二年(明治四十五年、大正元年)の一千万円は、現在の一兆二千億円に相当するとの計算もできる。同年度日本の一般会計予算は約五億八千二百万円で、本年度は約七十兆九千八百億円。日本の財政規模に占める割合で、はじき出した金額だ。ただ、第二次大戦後の日本経済の飛躍的発展を考えれば、単純比較は無理。
一方、総理府統計による東京でのコメ小売価格の対比に基づいて計算すると、八十三年前の一千万円は、現在の二百三十億円にすぎない。
いずれにせよ、森恪書簡が事実だとすれば、道義的な問題はおくとしても、広大な中国東北部(旧満州)の「代価」としては非常に安く、当時の孫文の窮状を物語っていると言えよう。(共同)

◎孫文が満州租借に同意?                  95.05.21
「談話」陳在俊、久保田文次、兪辛☆の各氏                 
台湾の国民党中央党史委員会前専任委員、陳在俊氏の話
孫文は一九一二年元旦、中華民国総統に就任した際、全国民衆に対し「国家の本は人民にあり、漢、満州、モンゴル、回、チベット(各民族)の地を合わせ一国となす」と宣言している。満州とは「東三省(現・中国東北部)」を指し、領土統一の範囲内である。孫文がこの直後に、東三省を日本に租借させようとすることはあり得ず、孫文の権力もまだこの地域に及んでいない。「森恪」書簡は絶対に真実ではない。
「日中盟約」について言えば、もし孫文に日本側と「盟約」を結ぶつもりがあるならば、頭山満(民族派の巨頭、一八五五―一九四四)や犬養毅(後の首相、一八五五―一九三二)らを通して表明するはずで、外務省の小池政務局長や民間人の犬塚信太郎、山田純三郎と締結することはあり得ない。三人は、日本政府を代表できるのだろうか。
また小池局長あて「書簡」や(中国語版の)「中日盟約」は日本式の漢字や中国文であり、孫文の署名、押印は偽造されたものである。
もし「森書簡」や「盟約」が本物ならば、一九三一年の満州事変の時に、これを公にしていたら、国民政府は倒されていただろう。
久保田文次・日本女子大学教授(中国近代史)の話
当時の孫文や中国の革命派が援助を得るために日本の資本家や軍人に接近していたことは事実である。資本家や軍人が無条件・無報酬で援助をするとは考えられないから、革命派は相当に譲歩する姿勢を示さざるを得なかったと思う。従って、「森恪書簡」や「日中盟約」を頭から偽書として否定することはできないと思う。日本の研究者の多くは同様に考えている。
もちろん、中国や台湾の研究者の言うように筆跡や印鑑の鑑定などによって詰めをする必要はある。また、当時の中華革命党(後の国民党)の内部文書や謝持(当時の孫文の側近、一八七六―一九三九)の日記などは孫文が日本の政策を批判していたことをはっきり示している。両文書の内容は、こうした日本批判の史料と対照しつつ総合的に判断すべきである。
中国・天津の南開大学の兪辛☆教授(日本近現代史、日中関係史)の話「『満州』借款」に関し、森恪が孫文にこの問題を提起し、交渉したのは事実だ。しかし、当時の孫文の対応と態度を明確に立証するには、これに関する孫文の電文などが必要だが、まだ見当たらない。
「日中盟約」の真偽を考証するのは容易なことではない。犬塚信太郎の署名と(孫文が盟約の内容を日本外務省高官に伝えたとされる)「小池あて書簡」の孫文の署名は本人のものではない。
両文書にはかなりの疑問点があり、これらの問題を究明し、確実な結論を出すためには、さらに新しい史料の発掘が必要であり、新史料を利用して綿密な考証をするべきである。(共同)

朝日新聞はどうしてか、「満州租借」のことは書いていますが、「日中盟約」のことは書いていません。
さてこれは重大な資料ですね。前々からこのことは言われていました。だが私がこうしてその資料の内容まで目にしたのは初めてです。孫文とはいったい何たる革命家なのでしょうか。中国の一部を帝国主義に売り渡して、何が革命なのでしょうか。何が三民主義なのでしょうか。こんな男だったのか、こんな政治家だったのかと、全く反吐を吐きたくなる気分です。
私にはどうして北一輝があれほど孫文を嫌っていたのか、憎んでいたのかがようやく判ってきた気がします。やっぱり北一輝は正確に中国を見ていたのでしょう。(1995.05.27)

実を言うと私は昔孫文が好きでした。高校生の頃より彼の言う「大亜細亜主義」などという主張に魅力を感じていました。「孫文先生選集」「孫文先生對日言論選集」というような本を手に入れて読んでいたものでした。1924年(民国13年)11月28日神戸高等女学校においておこなった「大亜細亜主義」という講演がとくに好きで、大変に長い文章なのですが、すべてガリで切って謄写板で印刷して、あるゼミ合宿でレポートとして使ったことがあるくらいです。
そんな孫文への私の思いを、5月27日のUPでさらに書き続けたかったのですが、なんだか孫文のひどさの前に今更ながら裏切られた気がしてがっかりして、書いている気力がおきませんでした。
しかし、やっぱりきょうは何かを言っておこうと思います。

さて最後に、それならば我々は結局どんな問題を解決しようと
  して居るのかと言いますと、圧迫を受けて居る我が亜細亜の民族
  が、どうすれば欧洲の強盛民族に対抗し得るかと言うことであり
  まして、簡単に言えば、被圧迫民族の為に其の不平等を撤廃しよ
  うとして居ることであります。覇道を行なう国は単に他洲と外国
  との民族を圧迫するのみならず、自洲及び自国内の民族をも同様
  に圧迫しているのであります。我々が大亜細亜主義を提唱するの
  は、王道を基礎としてこれ等の不平等を撤廃しようとするが為で
  あります。米国の学者は、民衆解放に関する一切の運動を、文化
  に反逆するのもであると言って居りますが、我々の主張する不平
  等排除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解
  放を求める文化であると言い得るのであります。貴方がた、日本
  民族は既に一面欧米の覇道の文化を取り入れると共に、他面亜細
  亜の王道文化の本質をも、持って居るのであります。今後日本が
  世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道
  の干城となるのか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択に
  かかるも のであります。

これが「大亜細亜主義」の講演の最後の部分です。私は感動して読んでいたものです。私は孫文が亜細亜の革命思想家として一番もっともまともな人だと思っていました。彼こそは中国のみならず亜細亜全体の解放を考えていたし、とくにこの日本にこそ大きな役割を期待していたと思いました。だがその期待を我が日本は裏切ってしまった。それが「對華21カ条の要求」に端的に現われきたと思っていました。
私はこうして孫文の思うところを打ち砕いたのは日本帝国主義であり、また彼の後継者である蒋介石だと思っていました。孫文の夢であった北伐を孫文の死後、蒋介石はやりきるわけですが、同時に彼は中国共産党をも徹底して攻撃していきます。なんだか中国を侵略しつつある日本帝国主義よりも、共産党攻撃を優先していくようです。私は当時(18、9歳のころ)はいわば孫文派でしたから、むしろ孫文の意志を無視する日本帝国主義は敵であり、蒋介石はどうしてこんなことしかできなかったのだろうと思っていました。だから西安事件は当然だと思いました。張学良(註1)が父張作霖の敵である日本を憎むあまり、その日本よりも、同じ中国人ばかり攻撃する蒋介石を捕らえ、結局は国共合作にまで到ったのは当然だと思ったものなのです。

(註1)この張学良は今も台湾で生きており、何年か前にテレビに
  出てきたが、この西安事件の真相は喋らないようだ。蒋介石、そ
  して周恩来との約束なのだろうか。できたら事実をすべて喋って
  ほしいものだ。

このころまで私が読んでいたのは、歴史の本と孫文の論集、そして宮崎滔天「三十三年之夢」などで、いわば孫文をほめる側ばかりでした。とくに宮崎滔天は好きでしたから、中国革命をこそ真に考え闘ったのは孫文だとばかり私は思っていました。
私は、孫文が「革命未だ成らず」といって亡くなったあとを、継いだのは国民党蒋介石ではなく、周恩来や毛沢東の中国共産党であると思っていました。私は毛沢東をマルクス主義共産主義者だとは思っていなかったのです。現実に中国共産党も孫文のことをかなり評価していると思います。
ところが私も大学で学生運動をやるなか、北一輝に触れていくようになりました。北一輝の全集を手に入れ、第2巻の「支那革命外史」を読んでいくと、まったく違う中国革命の姿が見えてきます。北一輝は徹底して孫文を信用していません。信用しないどころか、まったく病的とも思えるほど毛嫌いしています。
北一輝はいわば日本での社会主義運動が大逆事件で大弾圧を受けたあと(彼自身も大逆事件で逮捕されている)、中国へ渡り、中国革命の為に奔走します。彼は終始宋教仁とともに、革命を目指します。北一輝には大輝という息子がいますが、この大輝は、実は中国の革命家譚人鳳(たんじんほう)の子どもの子ども、孫です。北一輝でよく見る肖像画は中国服を着ています。彼は中国の革命にこそすべてをかけました。しかし、辛亥革命で主導権を握ったのは、革命勃発のときは洋行していた孫文でした。この孫文とは、宋教仁・北一輝とも革命の原点思想が違うために少しも賛同でできません。
やがて宋教仁が暗殺されます。歴史上では、たとえば教科書などでは、この宋教仁を暗殺したのは北京にいた袁世凱になっています。だが独り北一輝だけは、この暗殺を孫文によるものと信じて疑いません。北一輝には、宋教仁の霊が夢に現われて、そのことを告げたといいます。私はこのことだけは、どうしても北一輝の言うことが信じられませんでした。ちょうど坂本龍馬を暗殺したのが、見廻組の佐々木某ではなく、薩摩藩だというようなものに思われました。北一輝は宋教仁とは大親友でしたから、北のもとへその霊が何度現われてきても当然なように思いますが、どうしてそこまで思い込んでしまうのかと私は思っていたものでした。
やがてヴェルサイユ条約以降、日本の「對華21カ条要求」の撤廃の五四運動が激しく展開されます。その中国民衆の激烈な排日運動の中で、毎晩現われる宋教仁の霊と会話しながら、北一輝はあるものを書き上げます。それが「日本改造法案大綱」です。彼は、この中国を苦しめる日本の「魂からの革命」を考えたのです。
私にはこの北一輝の頑ななまでの孫文憎悪が判りませんでした。ここだけは北一輝は勘違いしているよなと思っていました。ひどい日本帝国主義と、それに屈伏した袁世凱こそが敵であるべきではないのかという気持でした。
だがいまこそ北一輝のいうところがはっきり判った気がします。日本帝国主義と一緒になって中国を分割しようとしたのは孫文自身だったのではありませんか。中国革命をこそ裏切っていたのは孫文自身ではないのですか。いくら何でも、袁世凱は中国の一部を租借させようなどということはしていません。孫文自身には満州は中国ではないという認識だったのでしょうか。いや私にはそう思えません。満州でなければ、また何でも出してきたのではないでしょうか。今回の「日中盟約」という資料がそれを示しています。日本がこうした孫文の出した申し出から、その後中国へ侵略していったのは、孫文にも多大な責任があると思います。
坂本龍馬を暗殺したのは、事実としてはやはり薩摩藩ではなく幕府の見廻組だったのでしょう。でも宋教仁を暗殺したのは、北一輝の言うとおり孫文なのではないでしょうか。私にも今また、この孫文の「満州租借」と「日中盟約」という資料を眼の前にして北一輝の霊が降りてくるようです。

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