将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:日本浪漫派

11050108  1907年(明治40)2月6日〜1966年(昭和41)11月14日の生涯でした。転向して、日本浪漫派に属していたのですね。私が高校2年のときに読んだ本です。
 この人の仏教、中でも親鸞に関する文章はいくつか読みました。だがなんと言いましても、私はこの本の印象が強いです。ただし、単に大和の古寺を歩いている話ではないのですね。
 私なんかは、いくつもの仏像はいわゆる美術品として見てしまいます。だから、これらの作品は大事にしていかなくてはとは思います。でも彼には、これらを大事な美術品としてではなく、深い信仰の対象として見ているし、そして日本がそうすべきだと言っているようです。
 私もあの飛鳥地方はある秋の日に歩いた思いがあります。いい天気でいい路でした。実に大切な路だと思いました。
 でも私には信仰として仏像を見ることはできません。
 ただ、この本はもう一度読んでみようと思ったものです。(2011.05.01)

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 私の『薄桜記』に、目森さんが薄桜記のこと というトラックバックをくれました。

 軽薄な、その場しのぎの進歩派文化人どもに「戦犯」あつかいをされた日本浪漫派の中でも、「主犯」と目された保田輿重郎の弟子だった五味康祐にとって、腕を切られた後の丹下典膳は、戦後の保田輿重郎の姿だったように思います。
 中川与一の『天の夕顔』の主人公と同質の優しさを持った典膳は、忠臣蔵をひっくり返した南北の戯曲「東海道四谷怪談」を、もうひとつひっくり返した物語を紡ぎます。
 五味康祐は、典膳の死を「忠臣蔵」に対置したことになります。
 それは、もちろん、戦争で死んでいった人々を、「戦後」に対置することの喩です。
 若者たちが何故死んで行ったか、あの死は何だったのか・・・それを問わなければ、戦後を「体制」や「主流派」や「進歩派」として生きる事は可能だ。しかし、そこをまたぎ越さず、その前で沈黙するところからしか「敗戦後」を始められない者もいるということだったかと想像します。
 あの時、無視して押しやった「死」は、潜在的な主題であり続けました。冷戦後、日本は、様々な形で「死」を意識せざるをえなくなったのは、戦後が破綻して終わったという事だと思います。
 途中、三島由紀夫が「死」を突きつけましたが、一番その意をくみ取るべきであった自衛隊幹部には誠意のかけらもなく、逃げ、ただ、その「死」が時代に漂流したのみでした。

 藤原の「死ね!」「生きる!」は、いい笑いだと感じます。

 どうもありがとう。私は五味康祐は、中学生の頃から知っていた作家でしたが、まともに読んだのは、この『薄桜記』だけです。いえ、あと「「スポーツマン一刀斎」というのを読んだことがあったなあ。
 それで、私は、実に駄目で、五味康祐が日本浪漫派で保田與重郎とのことは、少しも考えていませんでした。とても羞しいです。
 それと、中川与一の『天の夕顔』の主人公と同質の優しさを持った典膳 という言い方にも驚きました。私は、中井三好「『天の夕顔』のかげで───不二樹浩三郎愛の一生───」 を書いているように、この作品については少しこだわりがあるために、いうことが難しいのですが、あの作品の主人公をこの典膳と、同質の優しさを持ったと言われるのには驚きます。いや、もっともっと読み込んでいかないとならないのですね。
 思えば、三島さんは五味さんのことをどう思っていたのかなあ。馬鹿にしていたのかなあ。おそらくは好きだったのじゃないかなあ。丹下典膳を思うと、そんな風に思えてきます。思えば、思うほど、思い出せば思い出すほど、丹下典膳は不可思議な人物です。
 でもでも、その背景には、こうしたさまざまなことがあったのですね。また読み直してみよう。でも今読み直せるのかなあ。なんだか辛くて悲しくてページを開けて読めない思いがしてしまいます。

 あ、それから、最後の藤原の「死ね!」「生きる!」は、いい笑いだというのは、私には皆目判りません。

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