将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:日本語のゆくえ

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 今度読んだ若い人の詩はわからない。なぜこういう詩が生まれたのか、そういうこと自体がわからないといえばわからないわけです。そういうことが、ほとんどすべての若い詩人たちに共通する傾向としてあります。これは重要な問題だと思います。
 世間的な意味で重要だというよりも、ぼくにとって重要な問題だぞという気がしました。言い換えれば、個々の詩がうまいとかうまくないとか、いいとか悪いとか、そういうことはニの次、三の次の問題で、こういう詩が一般的に若い詩人の傾向性あるいはモチーフとしてあるんだという、それは重要なことだという感じがしたわけです。そこは考えてみるだけの価値がある、いや考えなきゃいけないぞ、そんな感じをもちました。
(「日本語のゆくえ」『第五章若い詩人たちの詩』)

 このことは、現代の若い詩人たちに現れている傾向というよりも、現代にいわば共通することなんだと思うのです。吉本さんは、このことを指摘しているわけです。私たちが日々接している現代というのは、このわからない、ということだけでもちゃんと把握すべきだなあ、と私は思っています。

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 人はいまこの社会で生活していて、日常生活を毎日のように繰り返している。そこのなかでさまざまな事柄を考えたり流していたりしているわけですから、そこのところを思考力でつくりあげられた直喩でもって通していけばいいのではないかと、ぼくは思うわけです。ところがそれと切り離されたように、あるいは別物みたいなかたちで直喩が出てくる。その切り離され方の意味がよくわからないわけです。
 これだけ考える人が「無」であるという基本線を忠実に守っている。そのあたりもぼくにはよくわからないところです。
 繰り返しになりますが、今度、若い人の詩集をまとめて読んでみて相当重要だと思えたのは、未来とか過去、もしかすると現在も何もない「無」ではないかなと思えたことです。それをどう解すればいいのか。このあたりのことは適切にうまく言葉で要約できないわけですが、これは自分が考えていたよりも重要なことだという感じをもちました。なにかひとつ大きなテーマを与えられたように感じます。
(「日本語のゆくえ」『第五章若い詩人たちの詩』)

 この「無」であるということが、大きなテーマを与えられたように感じるということが私には大きな驚きであるわけです。つまり若い人たちとの感性は、現代の詩人たちの詩を見る限りもはやかなり違ってきてしまっているということなのだろうか。いやこれは、詩人たちに限らないように思えています。

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 水無田さんは、日常生活のなかでの直感とか瞬間的な想像性に根ざした詩ではなくて、思考する詩といったらいいのでしょうか、思考力で描く詩をめざしているように見えますけれど、そうであれば、どうしてそういう詩を最初からつくろうとしないのか。「無」であることはそれとしておいて、そのあとで考え抜いて、たいへんむずかしい直喩をつくり上げようとする。ぼくにはその両方が分離して見えてしよがないわけですけれど、どうして初めから思考性のある詩を書かないのか。 (「日本語のゆくえ」『第五章若い詩人たちの詩』)

 私は実際に現代の若い詩人の詩を知っているわけではありません。ただこのことは、私も自分よりもかなり下の世代に感じることでもあります。「どうしてなのかな。もっとうまく違うふうに表現すれば、自分の言いたいことが言えるんじゃないかな?」なんて思うことがあるわけです。でもこれが私たちが接している現代なのかもしれないですね。

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 詩だけでなく、また文学だけでもなく、それ以外の芸術についても全般的に脱出口を考えていかなくてはいけないという情況があるのではないでしょうか。日本はこれまでヨーロッパとアメリカのあとを追いかけてきたわけですから、次はきっちりと自分たちなりの、日本語的な「脱出口」のようなものをつくり上げていくことが大きな問題であると思います。もしかすると、それは日本の現代社会全体の問題なのかもしれない。そういうところにかかわってくるように思います。
 そのあたりのところはよくよく考えないといけない点です。これからどうなっていくんだとか、どうするんだということについて、日本語の表現なりのやり方で考えていかないといけない。全般的な問題としては、そういう問題に当面しているんではないかという気がしました。
(「日本語のゆくえ」『第五章若い詩人たちの詩』)

 この吉本さんの指摘は、大切なことに思われてきます。私たちが深く考えなくてはならないことなのですね。ただこれは実に現代の日本全体の問題として考えていくことでしょう。私たちは、大変な課題を背負っているわけなのですね。

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 日本の詩というのは、たとえ現代詩であろうとも、やっぱり自然というものに対するある種の感覚のようなものがなかったら、何をどう書いたら詩になるのかということを見つけるのはなかなかむずかしいわけです。だからそこは大問題として、これからの日本の詩が相当よく脱出口を見つけていく以外にないのではないかという感じがします。
 心理状態とか心理の動きみたいなことでいうならば、これは朔太郎以降の詩人たちがよくやってきたことですが、そういう段階ではどうしても収まりがつかない。自然がなくなっちゃっんだよ、ということをもっと大きな問題として考える以外にないのではないかと思います。
(「日本語のゆくえ」『第五章若い詩人たちの詩』)

 今都会に住んでいて、路を歩いていて草花に触れることは多いわけです。でももう昔の詩人たち、いや多くの芸術家たちが触れ合った自然とは違ってきてしまったという思いがします。もはや、自然とは私たち人間が管理して初めて、「あ、綺麗だな、いいものだな」と言えるようになってきた気がしています。

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 現在の二十代、三十代の詩人の詩を、詩あるいは歌謡として神話に使おうとした場合、どんな神話をつくったらいいのだろうか。そういう想定をしてみるのがいちばんやりやすいように思いましたので、そんなふうに考えてみました。 まず、神話が必要な人物ないし統治者としてだれを想定すればいいのかといいますと、少なくとも今の二十代、三十代の詩人の詩を読んでいるかぎり、それはまったく類推できない。つまり、彼らの詩を読んでいるかぎり、神話が必要だという魅力ある人物ないし勢力(集団)を想定することは不可能だ。そういう問題がまず第一に浮かび上がってきました。
 これは二十代、三十代の詩人だけにかぎらず、全体的にいって現代はそうした神話的人物を思い描くことが不可能なのかもしれませんが、また事実としても、二十代、三十代の人は過去あるいは未来にかけて何らかの意味で神話的な想像力を必要とする人あるいは集団を選ぼうなどと考えていないように見えました。そうしたことについても関心は「無」に等しいというか、少なくとも詩を見るかぎいは、何も考えていないように思えました。
 それはなぜかといえば、過去を振り返ったり未来を展望したりするのが嫌いだというか、そんなことはしたくないというのは本音なのではないかと思えます。
 そうすると、少なくとも詩の上では、「いま、現在」だけが存在価値だということになります。「いま、現在」がどうなっているかということにしか関心をもっていない、それしか考えていない、全体として、そういうことは非常にわかりました。
(「日本語のゆくえ」『第五章若い詩人たちの詩』)

 これは、いいことなのかもしれません。過去の私たちのように、何か別なものにとらわれて、自分の表現もそれに合わせてきたことよりはいいのかもしれません。ただ、何か力強さみたいなものは少しも感じられないところにもつながっているように思えます。

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08091201 神話にはひとつのかたちがあります。第一に、神話を必要としている人物がいるということ。第二は、そうした人物の近くにいて、神話的人物のことをよく知っている人がいるということ。この第二の人が神話の作者になります。
 第二の人物は、神話の主がどういう人物であり、どういう意向をもっているかということをわりによく知っている。彼は神話の主と同時代の知識的人間であり───宗教性の強い日本の 場合であれば───宗教的人物である。昔でいえば、朝廷つきのエリート知識人です。そういう人が神話の主のそばにいた。そして神話の主の意向を汲み、さらには自分の考え方で神話にふさわしい歌謡を選んで、そうして神話をつくってきた。そういうふうにして神話をつくってきたと思います。
(「日本語のゆくえ」『第五章若い詩人たちの詩』)

 こういう作者がいて、神話が作られてきた。だが問題は、現在のこの日本には、こうした神話を作る人物もいないし、そもそもその神話を必要としている人も、もう誰もいないのではないかということなのだと思うのです。だから現在には、神話は無用のものと考える人ばかりなように思うのです。

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 五・七・五という短い形になってしまったけれど、五と七は、ふたりの人間の問答だというくらい、あるいは客観と主観というくらい違うように表現する必要があるというのが芭蕉の考えだったと思います。俳句にするのはやっぱり客観的なものを主観的なものに転調しなければダメなのではないか。そうすることによってポエジーが生まれてくる、というのが芭蕉のひとつの工夫だったように思います。
 客観−客観のように見える句でも、芭蕉の句には、どこか主観的な傾向が込められています。「荒海や」といったあと「佐渡によこたふ」とつづきますが、この「よこたふ」は自然描写のようでいて、じつはどこか擬人的に主観化されえているわけです。
(「日本語のゆくえ」『第四章神話と歌謡』)

 こうして吉本さんが言われることによって、私は始めて芭蕉の俳句が少しは判った気持になれました。このことが判らないから、第二芸術だ、なんて言ってしまうことにもなるのですね。

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 天皇の周辺というのは、あまりに強固に天皇を囲い込むものだから、そこにぼくらの不服が残ります。
 ひとつは天皇陵といわれているお墓ですが、あれは専門の考古学者にちゃんと調べてもらいたいと思っています。ところがそんなことをいうと、ご当人たちよりも周りから、「天皇陵は天皇家の家族の問題であるから、墓を調べることはできない」という断りの文句が返ってくるといわれています。そんなことはいわないで、専門家にちゃんと調べさせたらずいぶんいろんなことがすっきりしてくると思います。
 不服があるとすれば、そこがちょっと不服ですね。天皇家の問題だといっても、少しはふつうの人にも関係あることだと思います。あとの問題はぼくらには全然手の届かないところにあるし、それは何ともいいようがないわけですが、天皇陵の問題は歴史にも芸術にも大きくかかわってくるというべきです。
(「日本語のゆくえ」『第四章神話と歌謡』)

 このことは、もう随分前から吉本さんは言っています。私もまったくこの通りだと思いますが、でもずっと実現できないことですね。思えば、私の生きているうちにも、実現できないことなのでしょうか。なんだか、ものすごく残念なことです。

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08082101 芸術的価値が有効であるかどうかということは、読む人によって区々(まちまち)である。そうなると、マルクスのいう経済的価値の問題も芸術的価値の問題に転嫁することはできませんから、究極のところでは、芸術的価値はもっぱら自己表出に依存するんだと、きっぱり言い切ってしまわないとダメだと思います。
 では自己表出とは何なんだといえば、厳密にいえばこうなります。自分と、それから理想を願望するもうひとりの自分とのあいだがどれだけ豊富であるかということ、これが自己表出の元であり芸術的価値の元である。厳密にはそういうふうに言い直さなければいけないというのがぼくの考え方です。
(「日本語のゆくえ」『第二章芸術的価値の問題』)

 吉本さんはよくこうして言い切っています。そして私はそれが今はよく理解できるようになった思いです。「どれだけ豊富であるか」と言われて、私ももっと学んでいかなければいけないなあ、と真剣に考えています。

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 明治以降の日本の小説として、『三四郎』は第一級の小説だといえますが、では世界的な意味でそういえるかというと、そこはちょっとためらわざるをえない。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』と比べて「いい小説」といえるかというと、どうもそこまでは言い切れない。それはなぜかといえば、言語表現が作品のモチーフと分離しているからです。だから、文学的に非常にいい小説作品を生んでいる西欧の先進国の人たちが『三四郎』を読んだ場合、「いい小説だ」という程度の読み方をされて、それで終わってしまうだろうなと思います。
 作家としての力量からいえば漱石は言語表現とモチーフを一致させて世界的な作品を書ける可能性を持った人だと思いますから、そこはちょっと残念なところです。
(「日本語のゆくえ」『第二章芸術的価値の問題』)

 漱石はよく読んできたつもりでいますし、『三四郎』もよく判っている思いでした。でも私が少しも届いていないのだということがここを読んで気が付かされたものでした。もう一度すべてを読み直す必要があるのだ、ということを痛切に感じています。

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 言語を縦糸と横糸で織られた一種の織物だと考えて、そのうえで自己表出、指示表出ということを考えると、芸術的価値は自己表出の面から考察することができます。それを指示表出の面から考えれば、指示表出は芸術性に直接は関与しないけれども、意味の起伏というか物語性の起伏によって間接的に関与する。
 人間の言語の芸術空間というのはこういうふうにできていると考えれば、言語の芸術性を考察する場合、比較的考察しやすいのではないかというのが、ぼくの考えです。
(「日本語のゆくえ」『第二章芸術的価値の問題』)

 これもまたこうして明快に書かれていることに嬉しくなります。言語を織物だと考えれば、芸術的価値というものは、自己表出が実に大事である訳ですが、指示表出は物語性の起伏によって間接的に関与する、というところで、なおはっきりしてきたものでした。

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 たとえば感動詞は自己表出の極限のところに考えられます。指示表出は「机」とか「電灯」とか、そういうものとして考えていくとわかりやすい。つまり、言語を自己表出の面からだけ考えていけば言語の価値という概念になる。逆に、指示表出の面からだけ考えていけば、使用性といいましょうか具象性といいましょうか、そういう問題になってくる。
 しかし、じつは便宜的にそう分けているだけで、言語というものはそのふたつ糸を縒り合わせた織物みたいなものであると考えています。この「織物」という言い方は自分でもちょっといい表現ではないかと思っています。
『言語にとって美とはなにか』のときは、この「織物」という考えはできていませんでしたから、要するに言葉は自己表出と指示表出に分離することができるというふうにいっていました。したがって「言語は織物である」というところが、ぼくが少しだけ進歩したところです。
(「日本語のゆくえ」『第二章芸術的価値の問題』)

 思えば、この自己表出と指示表出という概念に私なんかはどれくらい助けられただけことだったろうか。このことを知る以前には、言語をこういう分に分析することなんか少しも判らない、知らないことであったわけです。このことによって、実に明快になったわけだった。そして今また、この、織物だということで、ますます明快になってきたのです。

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 絵画を例にとれば、色をどう使うか景色をどう描くかという問題より、描く以前に画家がもっているはずの自分が自分に問う自己表出性が問題で、それがいかに豊富であるか否かが絵画の芸術的価値を決定します。
 音楽でいえば、技術的にうまく弾けたとか弾けなかったということではなく、その人が自分に問う音楽性、それがどれだけ豊富であるか豊富でないかという問題が音楽の芸術的価値の根幹をなします。その人ががどういう演奏家で、どんな曲をどのように弾いたかということは芸術に間接的な影響は与えるでしょうが、直接的にはどういう曲目をどう弾いたかということは問題にならない。あるピアニストが弾いた曲に芸術的価値があるかいなかということは、その人が絶えず日常的に問うている音楽性が決定すると思います。
 音楽であれ文学であれ絵画であれ、自分が自分に発する問いが声になるかならないかは重要でない。重要なのはそうした自己表出がどれだけ豊たかかということです。
(「日本語のゆ」くえ『第一章芸術言語論の入口 『言語にとって美とはなにか』のモチーフ)

 自分が自分に発する声が、どういうふうに言うのか聞こえるのかということではなく、どれだけ豊かに発せられるのは、それがどう自分で豊かに自己表出できるのかという問題であるかと思います。これが芸術性ということだと思います。芸術の価値はあくまで自己表出にこそあるのです。

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 小説の文体には「文学体」と「話体」があるわけです。おしゃべりの言葉というか言文一致に近い言葉、もっと正確にいえば話すような心的状態で書くのを「話体」と呼べば、そうじゃなくて書き言葉に固有の表現を用いるのを「文学体」と呼ぶことができる。これはどっちがいい悪いとか、あるいは「文学体」は純文学で「話体」は大衆文学だという意味ではなくて、「話体」を得意にする作家と「文学体」という凝縮された文体で書いている作家がいるという事実の問題です。
 例を挙れば、太宰治はもっとも優れた「話体」の作家だし、夏目漱石は近代文学のなかではもっとも優れた「文学体」の作家だと思います。したがって、この区分は芸術の価値とは何の関係もありません。
(「日本語のゆ」くえ『第一章芸術言語論の入口 『言語にとって美とはなにか』のモチーフ)

 こうして夏目漱石と太宰治とを挙られて、実によく判る思いがします。思えば、この頃太宰治の文章がますます好きになってきましたし、また漱石の作品も今また読み直そうと思っているところです。そしてこの二人の作家の時代背景もまたよく思い浮かべています。

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 たとえば、百人の人がある小説を読んだら百通りの意見・見解・批判が出てくるだろうと思います。百人の人はそれぞれ読んだ印象も違うし考えも違いますから、「おまえとオレとはずいぶん違うな」ということになります。それはそれでいい。読者としてはそれでいいわけです。
 では、このように違う見解を持つ百人の人が「同じ小説を百回読んでくれ」といわれて百回読んだとすると、どうなるか。「百回」というのは比喩的にいっているわけですけれども、百人の人が同じ小説を百回ずつ読んだとする。そうすると百人の感想はだいたい同じところに行き着くのではないか。ぼくはそう考えています。
「同じところ」とはどこかといえば、作者です。作者の表現技術もふくめた相対的な芸術観とか芸術に対する理念、そういうところに収斂していくだろうなと思います。
(「日本語のゆくえ」『第一章芸術言語論の入口 『言語にとって美とはなにか』のモチーフ)

 このことが、『言語にとって美とはなにか』ののモチーフだといいます。私がこの本を読んだのは、25歳のときに、歯医者の治療に長く通っていたときに、その待ち合わせの場所で集中的に読んでいました。だが今になって、やっとこの言われるところに頷いている自分がいます。なんだか、情けない自分を感じると同時に、それでもこの本をあの時期から熱心に読んできていて良かったなあ、という感慨があります。

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08062606 明治時代の町家の娘さんというのは日ごろから『源氏物語』を読んで親しんでいたんじゃないでしょうか。声に出して読みながら、『源氏物語』を体で読み込んでいた。与謝野さんの訳は、いかにもそう思わせるような現代語訳になっています。つまりあの人は、言語学敵に正確に読むというより、音声と文章の意味を綯い交ぜにしたような感覚で読んでいって、そうして『源氏物語』を身につけた人だと思います。ぼくはそう解釈します。
 いまは国文学者が書いた研究書や註釈書もいろいろそろっているし、作家の手になる現代語訳も現在に近いほど正確になっているように思います。それでもぼくは、谷崎(潤一郎)さんや円地文子さんのものより与謝野晶子のもののほうがほんとうらしいのではないかと思っています。点(読点)や丸(句点)でもって、自由に原文をきっちゃっていますから、誤訳も多いように思いますけれど、与謝野訳で読むのがいちばん『源氏物語』の雰囲気に近づけるのではないでしょうか。
(「日本語のゆくえ」『第一章芸術言語論の入口 『源氏物語』を読む』)

 まず『源氏物語』の雰囲気を知るということが大切なことだと思います。その点は、この与謝野晶子訳が一番いいのではないかというのは、充分に判るところです。いえ、私には谷崎さんでは、難しすぎるわけなのですね。なんと言っても、『源氏物語』を知るのには、与謝野晶子訳がいいのだということは、こうして吉本さんが言ってくれることで、始めて安心して源氏を知ってこられたという思いがするのです。

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 ひとつのセンテンスのなかで、主語(主体)が入れ替わってそまう例もたくさんあります。ところがそこをチョンと、読点で区切っただけで、ひとつの文章になっていると、主語(主体)が入り混じってしまって、いったい誰がこの動作の主体なのかわからなくなってしまう。その意味でも、ぼくらみたいな素人は、まともに原文で読むのは時間のロスだから『源氏物語』は現代語訳で読んだほうがいいと思います。それで十分理解できるはずです。
 では、だれの現代語訳がいいかといえば、ぼくは与謝野晶子の訳がいちばんいいと思っています。
(「日本語のゆくえ」『第一章芸術言語論の入口 『源氏物語』を読む』)

 私も学生時代に、谷崎潤一郎『新々訳源氏物語』を読んだものでした。だが私には、難しすぎた思いばかりでした。こんなに大変なんだから、原文なんて、もっと大変なんだろうなあ、と思っていたものです。与謝野晶子の『源氏物語』は中学生のときに、最初の巻だけ読んだものでした。でもそのときから、源氏はやっぱり谷崎だろうなんていう思いがあったものでした。だが、吉本さんのこの言を、『源氏物語論』で読み、私はすぐ与謝野晶子で読んでみたものでした。ものすごく『源氏物語』を読むことが、身近なものになった気がおおいにしてきたものでした。

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 ぼくの考えでは、作品がこのレベルまでくれば原文で読もうが口語訳で読もうがまったく変わらない。どっちで読もうが受ける感銘は同じだと思います。だから『源氏物語』のような作品は、研究者でもないかぎり、翻訳で読めばいいんだよということになります。原文で読むのはたいへんだし、原文で読もうとすると一生の仕事になってしまうからです。『源氏物語』にはそれくらい現代性があります。
 もっとも、ひとつだけ欠陥があります。それは退屈だということです。
(「日本語のゆくえ」『第一章芸術言語論の入口 『源氏物語』を読む』)

『源氏物語』を退屈だ、と言いきってしまう吉本さんを限りなく敬愛してしまいます。こんなことを言いきれた人は始めてじゃないかなあ。私なんか、「谷崎潤一郎『新々訳源氏物語』」をただただ必死に読んでいただけです。そしてでもよく判らなかった。面白さがよく判らないし、「退屈だ」なんてことを絶対に言ってはいけないものだとばかり思っていたものです。

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08020109 この本は1月31日にクライアントへ行くときと、帰りの中の地下鉄ですべて読み終わりました。読み終わりましたときには、まだ帰りの南北線に乗るところでしたから、なんだか読み終わってしまうのが、寂しいようなかつその後の地下鉄の中でどうしようかなという思いばかりでした。

 最初の「まえがき」で吉本さんは次のように言われています。

 この稿本は数回にわたり現在わたしがもっとも関心を集中している課題とその周辺の問題について、東京工業大学の学生を対象として語ったことを内容としている。

とあるのですが、これを知っていましたら、ぜひともこの講義そのものに参加したかったなあ、という思いがわき上がってきます。もう読んでいまして、どこの章のどこのところでも、あまりにたくさんのことに吉本さんのすぐれた見解が提示されていて、もう大変に興奮する思いでした。
 いやこの本は、私がいくらでも抜き書きしたい箇所ばかりで、今後は私の

 http://shomon.livedoor.biz/archives/cat_794516.html 吉本隆明鈔集(ブログ版)

で大量に扱っていくことになるかと思っています。ただ、「隆明鈔」は現在はまだ他の本からも書いているまっさい中ですから、かなり吉本さんについても私は忙しいことになります。でも思えば嬉しいことになるわけですね。

 周の雑読備忘録「吉本隆明『日本語のゆくえ』」 へ

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『源氏物語』のような作品になると、これは作者(紫式部)の学識と芸術的能力によるわけでしょうが、近代小説の条件を全部具えています。
 つまり、作者の人間像と作品の主人公の像がどんなに似ているように思われるときでも、それが違うように描けている。作品のなかで主人公が言うことや行うことと作者の考えとは別であるということが明瞭に意識されている。それから、作者みずからの考え方・感覚もちゃんと区別してある。そういう意味で、『源氏物語』は近代小説の条件をすべて兼ね備えているといえます。
(「日本語のゆくえ」『第一章芸術言語論の入口 『源氏物語』を読む』)

 私には、『源氏物語』というのは、「あんまり面白くないんだよなあ』という思いしかありませんでした。與謝野晶子の源氏を読み、谷崎潤一郎の源氏を読んでも夢中になれたという思いはありません。いやむしろ谷崎の源氏は、ただただ難しくて、「原文だともっと難しいんだろうなあ」という思いしかありませんでした。でも思えば、それは近代の小説を読んでみたときに感じる退屈さみたいなものを、もうすでに源氏は持っていたことだろうと思いました。

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日本語のゆくえ 

 一つ前の 八重洲ブックセンターへ行きました で次のように書きました。

 だからその意味では、できるだけインターネットで本を紹介することでも、本が出版されたら、できるだけ早くすることと、その本の内容、目次をそのまま紹介すること、本のとびらや横帯に書いてあることもそのまま紹介することが大事なのでしょうね。

 だから、この本について書きます。
32ccdc1f.jpg 王子から東京駅まで行くときは、「東野圭吾『容疑者Xへの献身』」を読んでいまして、ちょうど31ページ目で俄然面白くなったのですが、あわてて電車から降りました。また帰りに読もうと思いましたが、結局この吉本(吉本隆明)さんのほうで夢中になり、また王子駅であわてて電車から降りました。

書 名 日本語のゆくえ
著 者 吉本隆明
発行所 光文社
定 価 1,500円+税
発行日 2008年1月30日初版1刷発行

 この本の「目次」「帯の文」「カバー袖の文」は以下の通りです。

目次
まえがき
第一章 芸術言語論の入口
  芸術言語論までの道のり
  表現転移論のポイント
  『源氏物語』を読む
  『言語にとって美とはなにか』のモチーフ
  場面転換と「喩」
  西欧詩との等価性について
  等価性をめざす詩人たちの苦闘
  古典につながる立原道造の詩
  立原道造と「歌枕」
  芸術の世界性
  日本人の尻尾について
  小説における「話体」と「文学体」
  芸術の価値は「自己表出」にある
  「第二芸術論」をめぐって
第二章 芸術的価値の問題
  価値論とはなにか
  芸術言語の価値について
  思想家・三浦つとむ
  マルクスの自然科学
  三浦つとむの言語論の特徴について
  言語空間の構造化
  『三四郎』を読む
  『彼岸過迄』をめぐって
  『銀河鉄道の夜』と「世界視線」
  視線の交換について
  島尾敏雄作品における体験と変容
  幻想空間の意味
  経済的価値と芸術的価値の分岐点
  茂吉短歌の到達点
第三章 共同幻想論のゆくえ
  国家とはなにか
  「人間」を捨象した「政治と文学」論
  『共同幻想論』の契機
  『共同幻想論』の骨格
  遠野の特異性
  「天つ罪」と「国つ罪」
  語り部の役割
  日本の特性
  『共同幻想論』のゆくえ
  昭和天皇の短歌をめぐって
  いざというとき何をするか
  「個」を抜いた芸術はありえない
第四章 神話と歌謡
  神話と朝廷
  天皇制はどこへゆくか
  神話時代の天皇
  天皇の起原
  神武東征はあったか
  統治の原型について
  神話と歌謡
  国学が騒ぎ立てた日本人の自意識
  天皇制と芸術性
  神話に転用された詩歌
  古典を読む二重性
  天皇制と女性の役割
  天皇陵の調査を望む
  片歌から短歌へ
  俳句における主観と客観
第五章 若い詩人たちの詩
  若手詩人の詩は「神話」に使えない
  「無」に塗りつぶされた詩
  水無田気流『音速平和』をめぐって
  渡辺玄英『火曜日になったら戦争に行く』について
  この「無」をどう読むのか
  「自然」を失った現代詩の脱出口はどこにあるのか
  なぜ詩のなかで思考しないのか
  現代のわからなさ

帯の文
 神話の時代から現代へ……、日本語表現を考える。
 いまの若い人たちの詩は、「無」だ。
 母校・東工大の集中講義「言語芸術論」を集成

カバー袖の文
 日本語における芸術的価値とは何か。
 現在著者が最も関心を集中している課題を、
 母校・東工大で「芸術言語論」講義として発表。
 神話時代の歌謡から近代の小説までを題材に論じ、
 最後に「今の若い人たちの詩」を読む。
 そこで現代に感じたものは
 “塗りつぶされたような「無」”と“わからなさ”であった。
 『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』を経て展開する、
 著者の最新文芸批評。 

 以上です。

 きょうは、電車の中で31ページまで読んだだけです。ここへ帰るといろんなことがあって、読んでいる時間を作ることができません。
 でも私の読んだところまでで、思うのですが、「『源氏物語』は退屈だ」なんていいきっちゃった人は吉本さんが始めてじゃないかな。いやもちろんそれを普通に感じた人は無数にいたでしょうが、誰も言い出すことができなかったわけです。そんなことは言い出せないよね。「自分が馬鹿だ」って言っているようなものだと思ってしまうわけでしょう。
 私の兄の詩吟の仲間が、大学の卒論が「源氏物語」だったのですが、兄がいつも、「あいつは『源氏』が専門だというのに、『谷崎源氏』ばっかり読んで原文を読んでいない」と批判していて(大学生の頃のことです)、中学生だった私も、それに納得していたものでしたが、まったくそうじゃないですね。
 もっとも谷崎の源氏も実際に読むのが大変ですが、吉本さんが「與謝野晶子のでいいんだ」というのは、実に納得できます。

 この本も読み終わりましたら、また書きます。

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