将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:日秀

20170313012017031301201703130211051203 私の住んでいるところは千葉県我孫子市です。私は我孫子の生まれというわけでもないのですが、もう長年この地に住んできました。この我孫子を紹介する本としていい本があります。

書 名 ふるさとあびこ
著 者 中村脩
発行所 湖畔出版社

私の大好きな平将門公の伝説が色濃く残るのが、この我孫子なのです。その将門公には7人の影武者がいたといわれます。

日秀の桔梗仇花
将門は、俵藤太秀郷と幾度か激戦を交えたが、将門は常に同装
の勇士七人と起居行動を共にしていたので、何れが将門か判別し
難かった。そこで秀郷は桔梗の前と密かに連絡をとり、影武者と
本物を問うたところ、将門に随っている影武者はすべてワラ人形
であるため、冬の早朝、斉戒沐浴するとき、白い息を吐くのが将
門であるとの密告を得た。それで知って矢で将門を射たという。
それゆえ、将門の縁故の地である日秀地区には、昔から“桔梗の
前”にちなむ桔梗を植える家がなく、「花は咲けども桔梗は咲か
ず」という伝説があり、模様としてすら桔梗の花形を嫌ったとい
う。
そのことを歌ってか湖北音頭に、

湖北日秀にや、桔梗は咲かぬ
桔梗仇花 うその花
将門様のよ いのち取り

とある。

地名に関しては、この本で我孫子から説明してありますが、古戸と中峠のところ書き出してみましょうか。

中峠(なかびょう)
峠(ひょう)は標の音で、境を意味する古い言葉である。古来
わが国では、樹木を立て境にする風習がさかんであった。即ち丘
を越えていく路(峠)の中程にある処からその名が起こった。
「鹿島日記」に
徳基(小堀に住める寺田徳基、刀根川の舟めぐらす事承れる
人なり)問いけらく「此の里の河向いに文字を中峠と書きて
「なかびょう」と呼ぶ村あり。心難き村の名なり。」という。
余答えけらく「相模ノ国大住ノ都に枇杷村(びわのむら)とい
うあり。そこは嶺(とうげ)ある所なり。嶺は山の上の路ある
を云えば、山を上り下る心もて峠の字は作りたんなるべし。さ
れど詞の心は千岐(ちまた)の神に幣(ぬさ)を手向くるより
起りて「たむけ」なるを、音の便りのままにいいうてして『節
用集』などには到下(とうげ)とも書きたり。さて枇杷は横の
音に通わして「びや」というべきを「びょう」と引いていへる
と見ゆ。中峠村も峠あるより名を得て、さる心の字も書けるに
や」

とある。

古戸(ふると)
奈良朝時代に大伽藍のあった古房の地で、地名は古房の「房」
の冠字「戸」を用いて「古戸」と名付けられたものである。
ちなみに、古戸は標高二○・八四米で、あびこ最高の地点であ
る。

またこれら我孫子のさまざまな地名はアイヌ語ではないかということも書いてあります。
我孫子に関する書物はたくさんあるから、もうすこし読むべきなのでしょうね。だだ私は近年の白樺派ってのはどうしても好きになれないんですね。できたら別な場所に行っててくれればよかった。それに比べて、将門公の伝説や遺跡があるのはいいですね。白樺派の嫌味なんか乗り越えてしまいます。ここに住んで本当によかったと思います。(1998.11.01)

続きを読む

99667d7c.jpg

 ナミちゃんのブログ将門さんは産みの親☆ というUPがありました。

 ブログをやるように薦めてくれた将門さんに感謝〜〜で〜す。

 感謝 なんて嬉しいです。でも、将門 というのは、私のウェブサイトで使っている将門Webでも使っているもので、平将門様の名前です。
 そうですね、あなたの自宅の近くの(近いと思うんだけれど)、日秀の将門神社で祭られている平将門様です。一昨年の2005年9月24日に、我孫子の湖北の日秀(ひびり)に行きまして、この将門神社へいきました。
 このときに、いくつかこの将門神社での写真を撮りまして、このブログに載せました。このブログの名称変更 の2 からいくつも写真を載せました。
 その翌日の9月25日の 将門神社について には次のように書いています。

まだ午後4時台なのですが、そしていい天気だったのですが、この神社の中は何故か大変に暗いのです。樹木が茂っているからです。そしてかなり風の強い日だったのですが、この神社に入ると、さらに風が強くなりました。ちょうど風が「うなりをあげる」というのは、こういう状態のことなんだなと思ったものです。そして何度か本殿の前で手を合わせたのですが、3度目に手を合わせたときに、ものすごく風が唸り声をあげまして、私はまさしく将門様の声を聞いた思いがしました。その声を聞きながら、私は将門様に答えていました。
 一つは、この私のブログの名称を変更して、「ブログ将門」にすることです。そしてもっと答えたことがありますが、それは内緒です。

 このとき、私の耳に聞こえた将門様の声は、私に対して、「我孫子から去れ」ということでした。そして結局、私は自宅のある我孫子から去るようになりました。ただし、まだ時間がかかっているわけですが。でももうそのとき以来、私は我孫子には自分の居るべきところではないと考えるようになりました。

 私には、将門様は、私の尊敬崇拝する神なのです。だから、私のことは、ハンドル名として使ってきた「周」でいいです。もうどこでも「周さん」と呼ばれていますよ。

 でも、

ちょっと前の私だったらブログ???
 とうてい・・無理(*^^)vと思っていました。

初めてみるとな・なんと
 書くのが苦でない自分がいました。

まだまだわからない事ばかりだけど
 色々教えてくださいね。

 これは良かったです。大変に私は嬉しいです。いくらでも私を利用してください。判らないことは、聞いてみてください。私も判らなかったら、誰かに聞いて、判るようにしますよ。

将門さんは大学の先輩です。
私は大学時代将門さんと将門さんの周りにいる梁山泊的ワールド
に新鮮さを感じていたんです。
結構その世界にのめり込んでいましたね、

 ええと私は昭和23年生まれで、埼玉大学へ入ったのが昭和42年(1967)で、ちょうど三派全学連の時代でした。だから、そのまっただ中で、文字通り闘っていました。ただし、私はマルクス主義に与したことは一度もありません。いつも、反帝反共をとなえていました。
 ただ、激しく闘いまして、1969年1月東大安田講堂で、逮捕起訴され、保釈で出たと思いましたら、今度は芝浦工大殺人事件ということで、また逮捕起訴されました。
 だから、普通の就職とかはまったく考えられなかったのよ。別にだから、どうということはありませんでしたが。
 でも今になると、なんでもすべてがもう遠い思い出の中だけになりましたね。
 ただ今でも、その頃の友人とのつき合いは続いていますし(ただし、昔の三派全共闘の人たちは実に保守的な人が多くてね、かなりがっかりしています。パソコンもインターネットもまともにできない、やらない人が多いんだよなあ)、いろいろな昔の思い出は、私はみな詳細まで詳しく覚えていますよ。

 まあ、昔からどこでも詩吟ばかりやっていましたからね。今もそれは変わりありません。

 あ、私はまた鎌倉を歩きたいと思っています。それに横浜も歩きたい。お台場も歩きたいのですね。鎌倉は、学生のときも歩きました。いろいろな思い出があります。
 また今年も歩きます。あ、あと私は今年に、大原幽学記念館(千葉県旭市にあります)にも行きたいな。

続きを読む

↑このページのトップヘ