10121803 1996年8月15日に丸山真男が亡くなりました。私たちの年代はこの人にさまざまな思い出があると考え、何か書いておこうと前々から思っていました。いまさらなのですが、それを少し書いてみます。

 私が大学へ入学したのが1967年(昭和42)でした。私は「歴史研究会」というサークルに入りました。このサークルは当時、日本共産党民青同盟員と、反日共系との激しいヘゲモニー争奪戦の最中でした。争奪戦というよりは、日共の拠点であったサークルが次第に反日共に奪われつつあるというところでしょう。そしてこの反日共系というのは、いわゆる当時の三派系ということではなく、とにかく日共の独善的なやり方は嫌だという一般学生の姿だったと思います。これがやがては、全共闘の姿になっていったのがどこの大学でも同じだったように思います。
 この反日共系というのが、この歴史研究会では、いわば市民主義者系、のちのべ平連系、構改系などになるのかなと思っています。そして歴史の研究においては、日共の教条的な講座派歴史観に対して、それを真っ向からあるいは労農派的見地から批判していく形でありました。
 そして、この反日共の立場にたつ人たちの当時の私たちの先輩で、いわゆる労農派的見地からでない人が、一番依って立っていた存在が丸山真男でした。日共系を嫌い切り、徹底して批判していた人たちが、いざデモだストだというときに、今度はまた三派系(学内では反戦会議と称していた)を批判する、その根拠には丸山真男があったように思います。丸山真男は戦後民主主義を代表する象徴だったのでしょう。そして当時、この丸山真男を徹底して批判している存在が吉本隆明だったのです。
 サークルでのゼミでは、日本史でいえば、明治維新の規定をめぐって、西洋史でいえばドイツ(ちょうどドイツ革命のあたりをやっていた)のユンカーの性格をめぐって、第2次世界大戦では、ファッシズム対民主主義の戦いという規定をめぐって、常に日共対反日共での論争がありました。そして、現在の情況論では、不思議と日共諸君は割りと沈黙する中、丸山真男と吉本隆明の対立が私たちの中にも現れてきていた気がします。

 私にとっては、丸山真男というのは高校生のときに岩波新書「日本の思想」のみを読んでいた存在でした。そして非常に感激していた政治思想家でした(私は大学生になるまで吉本隆明のことはまったく知らなかった)。私はこの本を細かくノートをとって読んでいたのです。
 私は丸山真男をいわば尊敬していたので、「現代政治の思想と行動」も読んでみました。また丸山の弟子の藤田省三も読みました。だがこの本の内容あたりから、私は丸山真男に疑問がわいてきました。それは同時に私が次第に学生運動に目覚めていく過程でした。私のサークルの尊敬する先輩たちにも疑問がわいてきたところでした。あれほど日共を毛嫌いし、論争すると完膚なきまでに日共をやっつけようとするのに、いざ街頭闘争のことなどになると、どうしてこそこそと三派の諸君を批判するのだろうという疑問なのです。
 丸山の「現代政治の思想と行動」の内容は、私にとって日共民青諸君との論争のときなどには役に立ちました。現代の歴史、たとえばドイツの歴史などの丸山の解説には、日共諸君を攻撃できる内容がいくらでも塗り込められているのです。でも私には次第に丸山のメッキがはげてきたように感じました。丸山の中に鼻持ちならない戦後民主主義文化人意識を感じるのです。もっと言えば、東大の教授としての特権意識しか感じられないのです。そして、彼の中にある大衆蔑視の意識をどうしても感じてしまいます。彼が吉本隆明を馬鹿にするのは、「結局、お前なんか、東大の教授にはなれないじゃないか」というところであり、彼が日共を批判するのも、彼の大衆蔑視の特権意識(もちろん私は日共にも大衆蔑視の意識を感じるよ)ではないのかと思うのですね。
 そして、この大衆蔑視というのは、逆にいうと、ありもしない大衆像を逆に尊敬してしまうことと同じです。言いきってしまえば、丸山は日共を批判する民主主義勢力として振舞っていたとしても、同時に心の奥底では日共を尊敬したのだろうと、私は思ってしまうのです。宮本顕治は阿呆だとしても、本来の日共は正しいはずなのだ、正しくなければいけないのだと心の底では思っていたのではないでしょうか。
 だが、大衆を蔑視し、逆に大衆を尊敬していたとしても、東大の教授に絶対なれない吉本隆明のことは、まったくの敵でしかなかったと思います。「大学の先生にはなれず、しがない評論家にしかなれない」ひがみとか言って、貶していた吉本隆明の存在に、最終的には丸山はその根柢を打ち壊されました。それがあの東大闘争です(誤解しないでほしいのだが、吉本さんは決して東大闘争を支持も不支持もしていません。第一彼は悲しいことに「東大紛争」としか呼んでくれません。私はこれだけは吉本さんに不満です。闘争と呼んでください)。
 東大全共闘は、丸山の研究室になだれ込みました。丸山が言うには、「ドイツ本国にもないナチス研究のための貴重なマイクロフィルム」が破壊されました。丸山は、

  君たちは日本軍国主義もナチスもしなかったことをやった

と全共闘に言いました。全共闘は

  俺たちはお前のような奴を追い出すために闘っているのだ

と答えました(思い出だけで書いているから正確ではありません)。
 このことこそが、丸山の戦後の存在を象徴しています。丸山なんて、東大という象牙の塔にこもっていて、ただ日共を批判する存在だけでした。いざとなったら、すぐに権力の側に身を変えるのです。いざとなったら、日共とも手を組める破廉恥な人間なのです。

 丸山は現代の荻生徂徠になりたかったのでしょう。若き荻生徂徠は、元禄の時代綱吉の諮問に答えます。赤穂浪士の裁定のことです。徂徠の答えは理にかなったものでした。でもでも、どれくらいこの時代の庶民の声が分かっていたでしょうか。いや、庶民の声なんかどうでもよかったのでしょう。私にとって、徂徠は実に優秀な学者です。すごいな、たいしたものだなとの思いがあります。でもでも、私は大嫌いなのです。
 私は丸山真男もやがて、荻生徂徠と、同じような形に歴史の中にはめ込まれるだろうと思います。すごい人だったな、頭のいい人だったな、でも俺は大嫌いだったよ、と私は言うでしょう。

 もう丸山はどんどん去っていっている気がします。もう本を開くこともないでしょう。読む必要も価値もない方にしか、私には思えないからです。
 でもこうして、ただただ、一気に書いてしまいました。もう少し本を引用して正確に書けばいいのですが、なんだかその気になれません。そして、丸山真男の本は、もう随分昔に古書屋に売ってしまいました。
 もう、これで丸山真男にさようならを言いたいと思います。(1997.04.05)