将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:春部

14110805
一二六 ながめこし花も空しく散(ちり)はててはかなく春のくれにけるかな

一二七 いづかたに行(いき)かへるらむ春霞立(たち)出(いで)て山の端(は)にも見えなくに

一二八 行(ゆく)春のかたみと思ふにあまつ空有明の月は影もたけにき

     三月尽
一二九 朝ぎよめ格子な明けそゆく春を我(わが)闇(ねや)のうちにしばしとどめむ

一三〇 をしむともこよひあけなば明日よりは花の袂(たもと)をぬぎやかへさむ

14110806
 これらの数々の歌をどうして「万葉調の雄大な歌」という人がいたのだろうか。そもそもどうして実朝のさびしい気持に思い至らないのだろうか。少なくとも私だけは実朝の気持を知りたい、その気持に迫りたいです。そしてまた鎌倉のあの銀杏の樹の元に行きたいものです。14110807

14120706
     雨のふれる日款冬をよめる
一二一 春雨の露のやどりを吹(ふく)風にこぼれてにほふやなぶきの花

     款冬に風の吹くをみて
一二二 我心(わがこころ)いかにせよとかやまぶきのうつろふ花のあらしたつみむ

     山ぶきの花ををらせて人のもとにつかわすとて
一二三 おのづからあはれとも見よ春ふかみ散残(ちりのこ)る岸の山吹の花

一二四 散残(ちりのこ)るきしの山ぶき春ふかみこのひと枝をあわれといわなむ

     春の暮をよめる
一二五 春ふかみあらしもいたく吹(ふく)宿は散り残るべき華もなきかな
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 こうして鎌倉もいくつもの春の花が見られるのですね。まったく花に興味のなかった私には思いもよらないことです。今度鎌倉を歩くときには、そういう関心もおおいに抱いて歩いてみましょう。そうしたときにいくつも違う鎌倉が見えてくるのかもしれません。
いや私にはそうした鎌倉が見えていませんでした。

14102802
一一六 玉もかる井での河風吹きにけり水泡(みなわ)にうかぶ款冬(やまぶき)の花

     水底款冬という事を人々あまた仕(つかまつ)らせし次(ついで)に
一一七 声高み蛙(かはづ)なくなり井(ゐ)手の川岸の款冬(やまぶき)いまは散るらむ

一一八 立かえり見れどもあかず山吹の花散(ちる)岸の春の川なみ

     款冬ををりてよめる
一一九 いまいく日(か)春しなければ春雨のぬるともをらむやまぶきの花

     款冬をよめる
一二〇 我宿の八重の山ぶき露を重(おも)みうち払う袖のそぼちりぬるかな

14102803
 私はちゃんと花を見たことがないです。おおいに反省します。そして私のその時の思いを孫たちに伝えていきます。大切なことだなあ、とおおいに思います。山吹の花もちゃんと見たことがないのです。

14112726
     池辺藤花
一一一 いとはやも暮ぬる春か我宿の池の藤なみうつろはぬまに

一一二 故郷の池の藤なみたれ植てむかし忘れぬかたみなるらむ

     河辺款冬
一一三 山ぶきの雫に袖ぬれて昔おぼゆる玉川のさと

一一四 款冬(やまふき)の花の盛になりぬれば井でわたりに行かぬ日ぞなき

     款冬をよめる
一一五 玉もかる井でのしがらみ春かけて咲(さく)や川せのやまぶきの花


 私の好きな吉本(吉本隆明)さんが書いた源実朝を思います。鎌倉武士団は兄頼家を殺害しました。父頼朝のことも殺したように私は思っています。その鎌倉武士団の北条と三浦氏のせめぎ合いの中で実朝も殺されました。その朝「出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな」と詠って実朝は文字通り「主なき宿となり」となったわけです。14112727
 でも悲しいです。実朝は悲しいです。もはや源家という貴族は必要なかったのだろうな。ただこうして和歌集が残ったのです。

14112724
     雉
一〇六 高円のをのへの雉(きゝす)朝(あさ)な朝なつまにこひつゝ鳴(なく)音(ね)悲しいも

一〇七 おのが妻こひわびにけり春の野にあさる雉(きゝす)の朝な朝な鳴く

     菫菜
一〇八 あさぢ原行(いく)へも知らぬ野べに出(いで)て故郷人(びと)菫つみけり

     まと弓風流(ふりゅう)に大井川をつくりて松に藤のかゝれる所を
一〇九 立(たち)かへり見てもわたらむ大井川かはべの松にかゝる藤なみ

     屏風の絵にたこ浦に旅人藤の花ををりたる所
一一〇 田子の浦の岸の藤なみ立かへりをらでは行かじ袖は濡るとも
14112725
 判らない漢字等が出てくると、大変です。大修館の「漢字林」で必死に探しています。鎌倉にいただけだろう実朝には、「大井川」や「田子の浦」が実際の景色として目の前に浮かんできたのだろうか?それは私には分からないところなのです。

14112721
一〇一 誰すみて誰ながむらむ故郷の吉野の宮の春の夜の空

     海辺春月
一〇二 難波がた漕ぎ出(いづ)る舟の目もはるに霞に消えてかへる雁がね

     如月の弐日あまりのほどにや有(あり)けむ北むきの縁にたち出(いで)て夕ぐれの空をながめひとりをるに雁の鳴くを聞きて読る
一〇三 ながめつゝ思ふもかなし帰る雁行(ゆく)らむかたの夕暮のそら

     屏風の絵に花散る所に雁のとぶを
一〇四 雁がねの帰るつばさにかをるなり花をうらやむ春の山風

     喚子鳥
一〇五 あをによし奈良の山なる呼子(よぶこ)鳥いたくな鳴きそ君も来なくに

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「あをによし」という奈良にかかる枕言葉を見ています。実朝はちゃんと先生のいうことを聞いている生徒のようです。先生は数々のことを教えてくれる京都の貴族たちだったのでしょう。その最大の人が藤原定家でした。
 この明確なる京都貴族たちの趣味(鎌倉武士団には趣味としてしか思えない)を鎌倉の武士団は嫌ったのだろうな。

14112718
     桜をよめる
九六 桜花さける山路(やまぢ)や遠からむ(ん)過ぎがてにのみ春の暮れぬる

     春山月
九七 風さわぐをちの外(と)山に雲晴(はれ)て桜にくもる春の夜の月

     春月
九八 ながむれば衣手(ころもで)かすむ久かたの月の都(宮古)の春の夜のそら

     故郷春月
九九 故郷は見しごともあらず荒れにける影ぞ昔の春の夜の月

一〇〇 誰すみて誰ながむらむ故郷の吉野の宮の春の夜の月
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 これを読んで、実朝が「故郷」という言葉と「吉野」という言葉を使うことが多いのに気がつきます。やはり実朝にとっての故郷と思えるのは「吉野」だったのでしょう。やはり鎌倉武士団にとってそのような貴族はいらないと思えるものなのでしょうね。実朝の悲しみと鎌倉武士団の違和感が合わないものだったのだろうな。
 尼将軍政子の悲しみと京都朝廷と貴族に対する怒りがわかる思いです。でも母として、頼家への思いと右大臣実朝への思いはどうだったのでしょうか。哀しみばかりだったのだろうな。もっと実朝の歌を読んでいかないとなりません。
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      落花をよめる
九一 春ふかみ嵐の山のさくら花咲(さく)と見しまに散(ちり)にけるかな

九二 春くれば糸鹿(いとか)の山の糸ざくら風にみだれて花ぞ散りける

九三 咲けばかつうつろふ山の桜花はなのあたりに風な吹きそも

九四 春ふかみ花散(ちり)かゝる山の井(ゐ)はふるき清水に蛙(かはづ)鳴くなり

九五 道すがら散りかふ花を雪と見てやすらふ程にこの日暮(くら)しつ

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昨日書きました『「源実朝『金槐和歌集』」18』で、平忠度が藤原俊成に託した歌を紹介しました(「千載集」に載っています)が、「千載集」では「詠み人知らず」になっていますが、これは「志賀の都」の桜を書いているわけですが、この歌で「志賀の都」を思い出しました。ここを都に定めた天智天皇のことや弟の天武天皇のこと、そして天智の娘であり天武の后である持統天皇も思い出しました。当然弘文天皇(大友皇子)のことも思い出します。それに「志賀の都」のあった琵琶湖も思い出しました。あそこで私はボードセーリングの大会をやったことがあるのです。そのときもこの古代の皇たちのことや、壬申の大乱を思い出したものです。
 あれは大きな内乱でしたね。
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14112714
      雨中夕花
八六 山ざくらあだに散(ちり)にし花の枝(え)にゆふべの雨の露ぞ残れる

八七 山ざくら今は此(これ)の枝にゆふべの雨の露ぞこぼるゝ

     故郷惜花
八八 今年さへ訪(と)はれて暮(くれ)ぬ桜花春もむなしき名にこそ有(あり)けれ

八九 散りぬればとふ人もなし故郷は花をむかしの主(あるじ)なりけり

九〇 さゝ波や志賀の都の花盛(はなざかり)風より咲きに訪(と)はましものを

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 実朝は実際には「志賀の都」は見たことはないわけです。この九〇の歌では、平忠度の歌を思います。「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」という「千載集」で藤原俊成が選んだわけなのですが、平家の都落ちのときに平忠度が実際に俊成のところを訪れて渡した歌なのです。
この下の画像は小林清親が書いた平忠度の絵です。

14112709
      春風
八一 さくら花咲(さき)てむなしく散にけり吉野の山はよし春の風

     名所落花
八二 桜花うつろふ時はみよし野の山下風に雪ぞ降りける

     花似雪
八三 風吹(ふけ)ば花は雪とぞちりまがふ吉野の山は春やなからむ

八四 春は来て雪は消えにし木(こ)の下(もと)に白くも花の散りつもるかな

八五 山ふかみ尋(たずね)て来つる木の下に雪とみるまで花ぞ散りける


「花似雪」を見る実朝の気持、心を思います。もし公暁に殺されていなかったら、もっと歌を書いてくれていたかな。私は源実朝がますます好きになってきています。やっぱり北条政権も三浦氏(私は公暁をそそのかしたのは三浦義村であると思っています)も好きにはなれないのですね。14112710
 実朝の最後の朝の歌は「出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな」です。しかし、この歌は厳密には実朝の作った歌ではないでしょう。ただ私は実朝の歌だと思い込んでいます。

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七六 山桜のさくら吹きまく音すなり吉野の瀧の岩もとどろに

     湖辺落花
七七 山風のさくらふきまき散る花のみだれて見ゆる志賀の浦波

     水辺落花
七八 山ざくら木々の梢にみしものを岩間の水に泡かとぞ見る

七九 行水(ゆくみづ)に風のふきいるる桜花ながれて消えぬ泡かとぞ見る

八〇 桜花ちりかひ霞(かすむ)春の夜のおぼろ月夜(つくよ)の賀茂の川風

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 私は高校生のときから、万葉集ではなくて古今集、新古今集が好きでした。いやもちろん万葉集も好きなのでしたが、やたらに古今・新古今をけなし、万葉のみをほめることが好きになれませんでした。正岡子規がその典型に思えたものです。
 でも私もその実判っているのかと問いたい思いなのです。明日私が注文した岩波文庫の古今集、新古今集がここへ届きます。これで私も始めて明確に判るはずなのです。
 そして改めて実朝の歌がわかるはずです。

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      三月すゑつかた勝長壽院にまうでたりしにある僧山かげに隠れるを見て花はと問ひしかば散りぬとなむ答え侍りしを聞きて
七一 行きて見むと思(おもひ)しほどに散りにけりあやなの花や風たたぬまに

七二 さくら花さくと見しまに散(ちり)にけり夢かうつつか春の山嵐

     人のもとに詠みてつかわしける
七三 春くれど人もすさめぬ山桜風のたよりに我のみぞとふ

     屏風に山中に桜のさきたる所
七四 山桜散らばちらなむをしげなみよしや人見ず花の名だてに

七五 瀧のうへの三船の山の山桜風に浮きてぞ花も散りける
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 今「どうして実朝はこの『金槐和歌集』を書いたのだろう」と思いました。やっぱり実朝には自分が武家である、武士である、なんてことはどうでも良かったのだろうな。ただただ藤原定家に自分の歌を見てほしかった。そして定家も、「この実朝の作った歌はなぜかいいな」と思えたものでしょう。それで取り上げた歌が「世の中はつねにもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも」なのです。でも私にはこの歌はとても哀しい歌に思えています。
 何故公暁に殺されたのだろう。どうしても私は悔しいです。そしてなにかを、その私の思いを晴らすためになにかをしたい思いです。

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 これをUPするのを忘れていました。「源実朝『金槐和歌集』」14を先にUPしていました。蝉丸はここ東京王子神社の中にも祭られているのです。

 
六一 木のもとにやどりをすれば片しきの我(わが)衣手(ころもで)に花は散りつつ

六二 木のもとの花の下(した)ぶし夜(よ)ごろ経て我衣手に月ぞ馴れぬる

     故郷花
六三 尋ても誰にかとはむ故郷の花もむかしのあるじならねば

六四 里は荒れぬ滋賀の花園そのかみのむかしの春や恋しかるらむ

     関路花
六五 たづね見るかひはまことに相坂(あうさか)の席路(せきぢ)に匂ふ花にぞ有(あり)ける


『「相坂の席路」なんて、こういう字を使うのだ』なんて思いました。蝉丸の百人一首の姿と歌「これやこの行くも帰るも分かれては知るも知らぬも逢坂の関」を思い出し、また王子神社の関神社を思い出しました。ここ関神社は蝉丸が祭られているところなのです。
 ここのイラストは今年2月21日に私が掲げていたものでした。百人一首の蝉丸と王子神社の関神社、そして実際の逢坂の関です。下の二つは今の王子神社とその中にある関神社です。14113002
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六六 名にしおばいざ尋(たずね)みむあふ坂の関路に匂ふ花はありやと

六七 あふ坂の嵐の風に散(ちる)花をしばしとどむる関守ぞなき

六八 逢坂の関屋(せきや)の板びさしまばらなればや花のもるらむ

     花厭風
六九 咲にけりながらの山の桜花風に知られて散りもわきなむ

     花恨風
七〇 心うき風にも有(ある)かな桜花さくほどもなく成(なり)ぬべらなる
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 こうして実朝の歌を読んで見てくると、正岡子規なんかまったく分かっていなかったのだなあということがこの私にも充分に分かってきます。そして実朝と藤原定家(これを今の私は「ていか」と読みました。正確には「さだいえ」なのでしょうか?)の偉大さが分かってきます。私は高校三年のとき(18歳だなあ)に万葉集のみを称え新古今集をけなすばかりの古典の先生にむちゃくちゃに怒ったことがありますが、それこそ私が本当の定家は分かってなかったと今になって気が付きます。高校の先生は本当に分かっていなかったのでしたが、私も本当に分かったといえるのかと、鋭く自分を責めています。
「花厭」、「花恨」という言葉、文字に「俺はどこまで分かっているんだ」と自分を責めるだけの私です。

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      屏風絵に山家に花見るところ
五六 時の間と思ひてこしを山里に花見る見ると長居しぬべし

     同じ心を人々に詠ませし次(ついで)に
五七 桜花咲散(さきちる)見れば山里にわれぞおほくの春は経(へ)にける

     尋花
五八 花をみむとしも思はでこしわれぞふかき山路に日数へにける

     屏風の絵に旅人あまた花の下にふせる所
五九 今しはと思ひし程に桜花ちる木(こ)のもとに日かず経(へ)ぬべし

六〇 木のもとにやどりはすべし桜花ちらまくをしみ旅ならなくに


 こうして桜を歌っています。こうして読んでいますと過去で会ってきたいくつもの桜を思い出します。今何度も見ています鎌倉若宮王子の桜、昔の北浦和駅前の埼大文理学部校舎でのいつくもの桜(思い出すと、ここは八重桜が綺麗でした)も思い出します。その桜のそばを歩く少女も思い出します。
 思えば、すべてが昔のことになってしまいましたね。14112803
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2017071404
名所桜 五一 音に聞く吉野の桜咲きにけり山のふもとにかかる白雲
遠山桜 五二 かづらきや高間(たかま)の桜ながむれば夕(ゆふ)ゐる雲に春雨ぞふる
雨中桜 五三 雨ふるとたち隠るれば山桜花の雫にそぼちぬるかな
五四 今日も又花にくらしつ春雨の露のやどりを我にかさなむ
山路夕花 五五 みち遠み今日こえくれぬ山桜花のやどりをわれにかさなむ
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   雨の中での桜、山桜花などを思います。吉野の桜は南北朝のときから名高いのだと思い込んでいましたが、この実朝も歌っているのを知りますと、「そうなんだ」という思いがしきりです。鎌倉の若宮王子を歩いていて、いつも「ああ、ここも桜が咲くのだなあ。綺麗だろうな」と思っています。
  そういえば、いつも若宮王子のあるお店を見ながら「ここは前に鶴ヶ峰がいたよなあ」なんて毎回思っています。続きを読む

14112509
 
四六 桜花ちらばをしむけむ玉はこの道ゆきぶりに折(をり)てかざ〃む

四七 み吉野の山したかげの桜花咲きたてると風に知らすな

     弓あそびせしに吉野山のかたちをつくり山人の花見たるところをよめる
四八 みよしのの山の山守花を見てながながし日をあかずも有(ある)かな

四九 みよしのの山に入りけむ山人となり見てしがな花にあくやと14112504
     屏風に吉野山かきたる所 
五〇 みよしのの山にこもりし山人や花をばやどの物に見るらむ
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「『金槐和歌集』9」までに梅花が終わり、今日の『金槐和歌集』は桜花です。この歌を読んでいて、本居宣長の「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」という歌はこの『金槐和歌集』を読んで書いたところもあるのかなあ、と思ったものです。
 画像はいくつもの本居宣長関係のものを入れました。
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最後は賀茂真淵と話す本居宣長です。

14112003
      雨中柳
四一 青柳の糸よりつたふ白露を玉と見るまで春雨ぞ降る

四二 水たまる池のつつみのさし柳この春雨に萌出(もえいで)にけり

四三 あさみどり染めてかけたる青柳の糸に玉ぬく春雨ぞ降る

     早蕨
四四 早蕨(さわらび)のもえ出(いづ)る春に成(なり)ぬれば野辺の露のたなびきにけり

     花をよめる
四五 桜花散らまくをしとうちひさす宮路(みやぢ)の人ぞとのいせりける
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14112502
 これらの歌を詠んで、「春なのだなあ」ということを感じます。こうして「金槐和歌集」を読んで良かったと思っています。
 先人(賀茂真淵)の言うことばかりだと私が勘違いしてしまうことを恐れます。私の感じていることのみを激しく思いましょう。真淵は私にとっては「先生」と言っていい人です。でもやはり私は自分で感じることを思いましょう。ここには真淵先生の顔姿の絵と墓のある神社なのです。
 写真の3番目は真淵先生の墓のある神社です。思えばこうして墓も仏教を避けたのだなあ。私も自分の墓についても妥協なんかしてはいけないのかもしれない。いやいや………。

 こうして実朝の歌を詠んでいると、いろいろと思うことが出てきます。


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      梅花厭雨
三六 我宿の梅花さけり春雨はいたく降りそ散らまくもをし

     屏風の絵に梅花に雪の降りかかるを
三七 梅花色はそれともわかぬまで風にみだれて雪はふりつゝ

     梅花さけるところ
三八 我宿の梅のはつ花咲にけり待つ鶯はなどか来(き)なかぬ

     柳
三九 春くればなほ色まさる山城のときはの森の青柳のいと

四〇 青柳の糸もてぬける白露の玉こき散らす春のやま風
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 こうして梅を歌い続けます。私も鎌倉の梅を思います。冷たい雪も見ているのでしょう。若宮大路を歩いているときいくつものものを見ています。それが私がもっと若いときのことからのことです。長谷も実に歩いたものでした。
 すべてが私には懐かしいです。こうして実朝の歌を詠んでいけることも嬉しいのです。

14111223
 三一 故郷にたれしのべてとか梅花むかしわすれぬ香ににほふらむ

三二 誰にかもむかしをとはむ故郷の軒端の梅は春をこそ知れ

     梅香薫衣
三三 梅が香は我衣手(わがころもで)ににほひ来ぬ花よりすぐる春の初風

     梅花風に匂ふという事を人々に詠ませ侍り次(ついで)に
三四 梅が香を夢の枕にさそひきてさむる待ける春のはつ風

三五 このねぬる朝けの風にかをるなり軒ばの梅の春のはつ春
14111224
 やはり梅というと、春だということを思います。ただそれは雪がすぐそばにある景色なのですね。そこで実朝はどんな夢をみていたものなのでしょうか。
 ………母政子のことを一番夢見ていたように思います。そしてこの和歌を作ることこそが彼には一番良かったものなのでしょう。
 なんだかいつもさびしい実朝を感じています。

14112201
 二六 咲しよりかねてぞをしき梅花(うめのはな)散りの別れは我身と思へば

二七 我袖に香をだに残せ梅花(うめのはな)あかで散りぬるわすれがたみに

二八 さりとも思ひしほどに梅花(うめのはな)散すぐるまで君が来まさぬ14112202
二九 鶯はいたくなわびそ梅花(うめのはな)ことしのみ散るならひならねば

      故郷梅花
三〇 年ふれば宿は荒れにけり梅花花はむかしの香に匂へども
14112203
 るるぶ.comで見ると、鎌倉にはいっぱいの梅の名所があるようです。   神奈川県の観梅スポット
 ここの画像は、上から東慶寺、光則寺、荏柄天神社、十二所果樹園です。14112204
なんだ私が過去歩いているところばかりです(「十二所果樹園」は知りませんでした)。今度梅が咲く季節には気をつけてあるきましょう。実朝もこれらの梅を見ていたのだと思うと、ただそのことだけで嬉しくなります。
 私が2週間に一度の「吉田医院と黎名薬局」へ行く際にもご近所で梅の樹を見ていますから、今度は実朝を思い歩いて見ましょう。

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  雨そぼふれる朝に勝長壽院の梅ところどころ咲きけるを見て花にむすびつけ侍(はべり)し
二一 古寺のくち木の梅も春雨にそぼちて花もほころびけり

      梅の花をよめる
二二 梅が枝(え)にこほれる霜やとけぬらむほしあへむ露の花にこぼるる

二三 春風はふけどふかねど梅花(うめのはな)さけるあたりはしるくぞあろける

二四 梅花(うめのはな)さけるさかりを目のまへにすぐせるやどは春どすくなき

二五 我宿(わがやど)の紅梅咲(さき)けり知るも知らぬもなべてとはなむ


 こうして実朝も梅の花を愛でているのだということをいっぱい感じています。春、そして梅花というのは昔からもう日本人にはきってもきれないものなのですね。鎌倉に梅を見に行こうと切実に思いました。14111217

14111211
 一六 春雨の露もまだひず梅が枝(え)にうは毛しを(ほ)れて鶯ぞ鳴(なく)

      雪中若菜
一七 若菜つむ衣手(ころもで)ぬれてかた岡のあしたの原に淡雪ぞふる

      屏風の絵に若菜つむ所
一八 春日野のとぶ火の野守(のもり)今日(けふ)とてや昔かたみに若菜つむらむ

      屏風の絵に春日山に雪ふれる所
一九 松の葉のしろきを見れば春日山木(こ)の芽も春の雪ぞ降りける

      残雪
二〇 春来ては花とか見えむおのづからくき木のそまに降れる白雪
14111212
 こんなに実朝が見る景色を私は見ていないです。いやそばにあるはずなのに、私はそれが見えていないのですね。今の私のようにマンション暮らしでは見えてこないのですね。もっと外を歩くべきだと反省しました。

14111801
 一一 み冬つぎ春し来れば青柳の葛城山(かずらぎやま)に霞たなびく

一二 おしなべて春はきにけり筑波嶺の木(こ)のもごもとに霞たなびく

     鶯
一三 ふか草の谷の鶯春ごとにあわれむかしと音(ね)をのみぞ鳴く

一四 草ふかき霞の谷にははぐ丶まる鶯のみや昔恋ふらし

     花後鶯
一五 春くればまづ咲(さく)宿の梅の花香をなつかしみうぐいすぞ鳴く

14111210
 いつもこうして実朝の「金槐和歌集」を開きます。思えば「鎌倉幕府頼朝政権というのはこの実朝がいたからこそ良かったのだ」なあ。ただし、政権を運営していた北条氏はすべてを隠した、無視したように思います。『最初は「源氏」という貴族「実朝」がいたのだよ』という鎌倉武士団の声が聞こえてくる気がします。

14111503
 六 春は先ず若菜つまむと標(し)めおきし野辺とも見えず雪の降れれば

    故郷立春
七 朝霞(かすみ)立てるを見ればみづえの吉野の宮に春は来にけり

    海辺立春
八 しお釜の浦の松風霞(かすむ)なり八十島(やそしま)かけて春や立(たつ)らむ

    子いう
九 いかにして野中の松の古(ふ)りぬらむ昔の人の引(ひ)かずやありけむ

     霞
一〇 大かたに春の来(き)ぬれば春霞四方(よも)の山辺に立(たち)みち

14111502
こうして実朝の歌を書いていけるということは、私には幸運なことです。藤原定家と吉本隆明に感謝ばかりです。
 いつも鎌倉であの鶴岡八幡宮の銀杏のそばで私はどのくらいこの二人に感謝していることでしょうか。

14111210
巻之上
春部
  正月一日よめる
一 今朝みれば山も霞で久方(ひさかた)の天の原より春は来にけり

二 九重の雲井に春ぞ立ちぬらし大内山に霞たなびく

三 山里に家居るはすべし鶯の鳴く初声の聞かまほしさに

四 うちなびき春さりくればひさきおふる片山かげに鶯ぞ鳴く

  春のはじめ
五 かきくらし猶(なほ)降る雪の寒ければ春とも知らぬ谷の鶯


 こうして私が年に1、2度行っています、鎌倉の鶴岡八幡宮の銀杏の元で亡くなったという源実朝の『金槐和歌集』をこうして書き始めました。
 やっていくことで私にはどんな実朝が見えてくるのでしょうか。なおこれは岩波文庫から書いております。

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