将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:曹操

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 私はこの曹操がものすごく好きです。最初は高校2年の時にたしか5月頃「吉川英治『三国志』」を読んだときから、好きになりました。それまでいわゆる「純文学」でものすごく感動していたものでしたが、これを読み始めたときに、この曹操の魅力に取り付かれました。
 それ直前には「山岡荘八『徳川家康』」を本屋で立読みしていたのですが、「なんだ、これは各古典をそのまま訳しているだけじゃないか」と思ったものです。そして次にこの三国志で曹操の魅力に取り付かれました。もちろん、これも授業中にひたすら読んでいたものでした。
 そして大学の漢文の授業で最初に教えられたのが「曹操『短歌行』」でした。私は秩父の埼玉大学の山寮に行きましたときに、山の中をこの『短歌行』を口ずさみながら歩いていたものです。

   短歌行   曹操
  對酒當歌 酒に対しては当(まさ)に歌うべし
  人生幾何 人生幾何(いくばく)ぞ
  譬如朝露 譬(たと)えば朝露(ちょうろ)の如し
  去日苦多 去日(きょじつ)苦(はなは)だ多し
   …………………………
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 もちろん私は全文を読みあげたものでした。その後、曹操の詩は、ほかの詩もみな知りまして、すべて好きになっていったものです。
 そして、私は曹操の息子である曹否の詩も読み、また好きになっていきました。そしてもちろん曹植の詩も好きです。みな私のこの将門Webに書いています。
 曹否の詩を読んで行くと、いつも「こんなに見事な詩を作るなんて………」と思うのですね。そして曹植の詩もいつも驚いてしまうのです。おそらく唐の時代に杜甫という詩人が現れなかったら、いまでも曹植の詩は世界最高のものといわれていたでしょう。
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 そしてでも、この曹否と曹植の父親である曹操の詩を思うと、これまたものすごく感動してしまうのです。
 この三曹の詩はいつも私の心に頭にあります。忘れることはけっしてないでしょう。
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13083106 これは曹操の『歩出夏門行(ほしゅかもんこう)』という詩の一節です。実は私は曹操という詩人が昔から好きで、この将門Web(昔のホームページでは、「三曹の詩」という部屋を持っていたくらいです。とくに、私は『短歌行』という詩は好きで、昔から全文暗記暗誦できためもです。
 思えば、大学1年のときに、夏休みに秩父の山の中をこの詩をうたいながら歩いていたことは忘れられません。
 それで私の将門Webの中でも、いくつも彼の詩を紹介してきました。だが私には、この『歩出夏門行』は今もやっていないのです。いや詩自体が長詩であり、かつインターネット上でも、この詩すべては解説がありません。
 いくつものインターネット上でもこの詩の一部「駐雖壽」以下の一節しか紹介されていないところばかりです。
 私もやろうとしても、長大な詩なので、時間が莫大にかかるばかりです。
 でも前々から、やらなくちゃあな、と思ってきた詩なのです。
 しかし、とにかく長大な時間ばかりかかります。
 この詩に夢中になっていると、ただただ時間がかかり、「あれ、もうメシの時間だ」(実はもうはるかに過ぎている)と忘れるばかりです。
 とにかく、またやっていきます。

120901061209010712090109   私は「三曹の詩のこと」で曹操、曹丕、曹植の詩をこのブログ将門Webに書いていたのですが、「なんか少ないな」と思っていました。前のホームページの将門Webには、もっと書いていたはずなのでした。
 それで以下見つけました。以下は「三曹の詩のこと」には書いていませんでした。

曹操(155年〜220年3月15日)
蒿里行
薤露

曹丕
於清河見輓船士新婚與妻別

曹植(192年〜232年11月28日)
薤露行

 なんか情けないなあ。
 また改めてこの三人の詩人については書いてみましょう。
 なおここに掲げた肖像はこの三人のものです。左から、曹操・曹丕・曹植の順です。私はこの三人とも大好きな詩人であり、英雄です。いや曹植は「英雄」とはいえないですね。政治家にはなりませんでした。なれませんでした。

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12112404 私は「純と愛」2012.11.23へのコメントに次のように書いていました。

そうですね、「諸葛亮孔明『出師表』」なんかいつも心の中で懸命に読み上げているものです。そうねえ、「土井晩翠『星落秋風五丈原』」なんかもいつも頭の中にあります。そうですね、曹操や曹丕の詩も同じですね。

 孔明の『出師表』は、前『出師表』と後『出師表』の二つがあります。だが後『出師表』は孔明の作ではありません(と言われています)。だから私も高校生の頃から暗記暗誦してきたのは、前『出師表』ばかりです。
 それで、「曹操や曹丕の詩」(さらに曹植を含めて三曹といいます)は、私は以下のように紹介してきました。

曹操(155年〜220年3月15日)
 短歌行
 苦寒行

曹丕(187年〜226年6月29日)
 短歌行
 燕歌行
 釣竿
 上留田行
 芙蓉池
 寡婦

曹植(192年〜232年11月28日)
 吁嗟篇
 野田黄雀行
 七歩詩

 なんだこれだけなのかといささか不満にもなります。いえ、私の過去のホームページ将門Webには、もっと紹介していたのですが、今のブログでは上だけです。
12112405 今後、私たちが読める限り(もう歴史上失われた詩もあるのです)の詩は、ここで紹介していきます。
 私はこの三曹が好きです。ですからある限りの詩はここで書いて行きます。ただお馬鹿な私ではけっこう大変なのですね。

201704030212082507 私が「吉川英治『三国志』」で一番好きなシーンがありました。
私が読んでいます長春有情の「吉川英治『三国志』を読む 講談社版」で、以下のシーンです。その内容が次の一節です。

関羽は、数歩すすんで、曹操の前に立ち、血まみれな手のまえ、先に預けておいた酒杯を取りあげて、
『では、この御酒を、頂戴いたします』
と、胸を張って、一息に飲みほした。
酒は、まだあたたかだった。

この酒は曹操が注いだものです。
私はこのシーンを高校1年の9月に読んでいました。「中国の酒も温めて飲むんだ」と思ったものです。
関羽は敵将である華雄の首を打ってくるのです。それは味方にも思いもよらないことでした。それをこうして、私の友人の長春有情さんが書いていてくれます。
このシーンは高校1年の9月の私には実に鮮明に覚えているところなのです。

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12040810 私がいつも読んでいるのが、この長春有情です。でもここはかなり毎日のUP量が多くて、私では読みきれません。
 ここれで、吉川英治「三国志」を読んでいます。でも進行しているよりも私ははるかに遅れて読んでいるものです。
 今日は、以下を読みまして、もうただただ曹操に感激感動しています。いやもちろん吉川英治にも感激しています。

  吉川英治『三国志』を読む
 http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=TR&action=m&board=2000482&tid=d9bdumadbep&sid=2000482&mid=20022

の中の一部です。

『先生、池の魚は毎度鑑ておいでらしいが、まだ大海の巨鯨は、この部屋で鑑たことがありませんね』
 すると、許子将は、学究らしい薄べッたくて、黒ずんだ唇から、抜けた歯をあらわして、
『豎子、何を云う!お前なんぞは、治世の能臣、乱世の姦雄だ』
 と、初めて答えた。
 聞くと、曹操は、
『乱世の姦雄だと。 結構だ』
 彼は、満足して去った。

 ここは、曹操の曹操たるところが思うままに私の目の前に浮かびます。乱世の奸雄とは実に曹操に最適な言葉です。そしてそういわれて満足している曹操が私は大好きです。
 私は曹操の漢詩はみな好きです。ほとんど暗記暗誦しているといっていいでしょう。もちろん、曹丕も曹植の詩も私は大好きです。

 でもここのサイトでは、私はまだここを読んでいるのですね。まだまだ急いで追いかけないとならないのです。

 私は三国志といえば、今まで、「三国志」「三国志演義」「吉川英治『三国志』」「横山光輝『三国志』」、北方謙三「三国志」、柴田錬三郎「英雄・生きるべきか死すべきか」、伴野朗「呉三国志」を読んでいます。まだほかにもあるかもしれません。

 それと宮城谷昌光「三国志」は、まだ読んでいる最中です。

11052908 この「宦官」という存在も、中国に独特のものです。「後宮佳麗三千人」という句は「白居易『長恨歌』」にあります。実は、ほぼ三千人以上の女性が後宮と言われるところには居たと言われます。そこに皇帝が一人なわけです。考えてみれば、実際にこの女性たちすべてとsexしていくのは大変なことだったでしょう。
 皇帝は政治もやるわけです。それでさまざまな仕事をやる男性も必要なので、男性だけど、生殖能力のない人間が必要になり、男子の男根を断つことが行われます。これがいつの時代からなのか私には判らないのですが、もう前漢の時代には、大きな存在として、この宦官が出現しています。宦官なら、子どももできませんから、子孫に富を残そうという考えはなくなるはずです。でも実際には、宦官の中にも養子を持って、その子に富を残そうという者も現れます。
 三国志の主役である曹操が、この宦官を祖父に持っていたと言われています。曹操の祖父曹騰が宦官であるということで(だから実際に血のつながりはありません)、戦場でも敵から、このことで何度も非難されたことが書かれています。曹操も、相手に対して、「私を非難するのはわかるが、なんで自分の祖父を出してきて非難するのだ」と言っています。
 とくに後漢という国は、もう最初から、この宦官の勢力が強く、その歴史は、皇帝の妻の家である外戚と宦官の抗争ばかりが続き、嫌な歴史を見るばかりです。
 ところが、その後、この宦官という制度は、20世紀まで続きます。もう歴史上に、この「宦官ではあったが彼はこう活躍する」 という記述があります。実に浅田次郎の『蒼穹の昴(そうきゅうのすばる)』では、主役の李春雲(りしゅんうん)は、この宦官です。この小説で私はそれまでファンであった浅田次郎が嫌いになりました。なぜこの宦官という制度をいけないことだと言わないのだ。
 だが、この宦官の制度は、日本にだけではありません。私が高校2年のときに、日本史の教師に「日本には、どうして宦官が居なかったのか?」という質問をしたら、「あれは中国独特の制度で、中国以外ではないでしょう」というので、私は「『千一夜物語』には存在する」というと、「あれは文学で、とにかく中国だけの制度だ」というので、私はローマの歴史にも宦官はいるし、皇帝ネロが愛した妻というのは去勢された少年だったことを言いたい思いでしたが、「この先生じゃ、しょうがないなあ」という思いで質問を止めたものでした。
 この日本では、誰だったか忘れたのですが、この宦官という制度は日本には入れないと明確に言明している政治家(これが誰だったかなあ?)が飛鳥、奈良か平安時代の初期に存在したと思います。実に懸命な人でした。このことで、日本はどんなに救われたことでしょうか。
『史記』を描いた司馬遷は、宦官ではありませんが、西域に遠征に行った李陵を擁護したことにより、武帝から罰せられます。その罰の刑が死刑ではなく、宮刑という男子のちんちんを取り去る刑なのです。これは、そのときの痛みも大変なことなわけですが、中国独特の宗教・考えによって、人間は自分の子ども(しかも男の子)によって、たとえ死んでもいつかまた甦ると信じています。すなわち宮刑とは、もはや再びこの世には生まれることをできなくするというひどい刑罰なのです。
 あ、それから女性に対する宮刑は、女性の陰部を破壊することです。男女ともにひどい刑罰です。単純に死刑にするのではないのです。死刑にしてもその子孫が出てくるかもしれません。もう二度とこの世の中には復活できないようなひどい刑罰なのです。
 彼司馬遷はこのことで、実に苦しみます。もう死ぬこともできません。死んだら、もはや蘇れないのですから、今命のあるうちに何かをしないとならないのです。それで書いたのが、あの膨大なる『史記』なのです。いや、この司馬遷のことは、また別に書きましょう。とにかく私が一番尊敬する歴史家です。
 とにかく、歴史上では、このひどい制度は、実はどこにでもありました。でもこの日本だけにはありません。そのことは、私がいつも自分がこの日本に生まれたことをいつも嬉しく思っていることの一つです。

11040706 呂布(りょふ)という人物は歴史上に実在したわけで、198年(建安3)年に曹操に処刑されています。この呂布が愛した女に、貂蝉(ちょうせん)という美人がいます。中国四大美女の一人と言われ、「閉月美人」と言われています。
 彼女が、天下を憂いて物思いに耽る姿のあまりの美しさに、月が恥じて雲に隠れてしまったと言われるので、この名があります。
 彼女は、『三国志演義』には登場しますが、正史『三国志』には登場しません。おそらくは物語の中の架空の人物でしょう。
 この『演義』や「吉川英治『三国志』」の中で、悪臣董卓を誅殺させるために呂布に惚れたふりをして、見事成功し、自らは自害します。だが、私はどうにもこのことが悲しい思いにしかならないものです。

  中国三大美女とか四大美女とか、今度改めて書いてみましょう。ああ中国ではなく、世界でも書いてみましょう。(2011.04.09)

10120901  私が「三国志」の中で誰が好きかといわれたら、躊躇なく「それは曹操だよ」と答えてきました。吉川英治はこの三国志の主役といったら、前半が曹操、後半が諸葛亮孔明と言っています。これはまったくそのとおりだといえるでしょう。前半が曹操以下たくさんの英雄たちが中国の大地を好きかってに動きまわるのにくらべて、孔明が出てくると、何故か生真面目な世界になってきます。孔明という白面の学問青年に、あれほどの英雄豪傑を抱えた曹操がどうにも手がでません。いや魏の勢力だけでなく、周瑜以下の呉の豪傑たちも、孔明にはふりまわされます。それどころか、関羽や張飛まで孔明の前では、なんだか成績の悪いただの暴れものの生徒のような感じになります。「やっぱり四書五経以下きちんと勉強したものが最後は勝つのだ」と、後世の私たちまでいわれているような気になってしまいます。
 私は孔明も好きなのですが、それは実はこうした戦争の達人としてえがかれていることよりも、彼の真っ直ぐさ、劉備への愚鈍なまでの敬愛を感じるからです。孔明はむしろ軍略家としては、司馬懿仲達よりも2段くらい下だと思われます。正史「三国志」で、蜀の生まれである作者があまり孔明を評価しないのは、かの「孔明泣いて馬謖を斬る」の事件のときに、正史の作者陳寿の父親を責任者として罰したことにあるわけなのですが、この事件をみても、何故このような戦略戦術のイロハを守れない馬謖などが一軍の将だったのでしょうか。曹操以下の幕僚たちには、この程度の将はたくさんいたのです。それが実際には曹操と孔明の力量の差であり、孔明が仲達には勝てなかったところだと思います。
 それに比べて曹操の存在の気持ちのいいことったらありません。彼ほど派手に戦争に勝利する英雄もいないように思いますが、同時に彼ほど派手に戦争に敗北した英雄もいないのではないでしょうか。まあこのことは吉川英治もいっているわけですが。
 しかしここではこうした三国志のことを書くことが目的ではありません。私は詩人としての曹操を見てみたいのです。曹操の二人の息子、次男の曹丕、三男の曹植とともに『三曹』と呼ばれて、三人とも詩人として名高いのですが、なにかあると紹介されるのは曹植の詩が多いようです。私はいつも、「なんで曹植ばかりなの、もっと曹操の詩を紹介してほしい」という気持ちでいっぱいです。私はなんといっても曹操の詩、とくに「短歌行」という詩が好きなのです。

  短歌行   曹操
 對酒當歌 酒に対しては当に歌うべし
 人生幾何 人生幾何ぞ
 譬如朝露 譬えば朝露の如し
 去日苦多 去日苦だ多し
 慨當以康 慨しては当に以て康すべし
 幽思難忘 幽思忘れ難し
 何以解憂 何を以て憂いを解かん
 唯有杜康 唯だ杜康(註1)有るのみ
 青青子衿 青青たる子の衿(註2)
 悠悠我心 悠悠たる我が心
 但爲君故 但だ君が故が為に
 沈吟至今 沈吟して今に至る
 幼幼鹿鳴 幼幼として鹿鳴き
 食野之苹 野の苹を食う
 我有嘉賓 我に嘉賓有り
 鼓瑟吹笙 瑟を鼓し笙を吹く
 明明如月 明明たること月の如き
 何時可採 何れの時にか採るべき
 憂從中來 憂いは中より来たり
 不可斷絶  断絶す可からず 
 越陌度阡 陌を越え阡を度り
 枉用相存 枉げて用って相存す
 契闊談讌 契闊談讌して
 心念舊恩 心に旧恩を念う
 月明星稀 月明らかに星稀に
 烏鵲南飛 烏鵲南へ飛ぶ
 紆樹三匝 樹を紆ること三匝
 何枝可依 何れの枝か依る可き(註3)
 山不厭高 山は高きを厭わず
 海不厭深 海は深きを厭わず
 周公吐哺 周公哺を吐きて(註4)
 天下歸心 天下心を帰す

 (註1)杜康 初めて酒を作ったとされる人物。ひいては酒のことをいう。
 (註2)青衿 周代の学生の制服。ひろく知識人に呼びかけることば。
 (註3)月が明るいために星が稀に、我が威力に群雄が影をひそめたようだ。かささぎが南へ飛んでいくが、樹を三たびめぐっても、依るべき枝がない。それは、ちょうど劉備たちが身を寄せるところもなく南へ敗走した姿のようだ。
 (註4)周公吐哺 周の周公旦が天下の人材登用の熱心のあまり、一度食事する間に三度もいったん口に含んだ食物を吐きだして、人と面接したという。

 蘇軾が「赤壁賦」において、

  灑酒臨江横槊。 酒を灑(したしん)で江に臨み、槊を横へて詩を賦す。

と読んだ英雄曹操の詩がこれです。まさしく赤壁で槊を横たえ詩を賦す曹操の姿が目に浮んできます。しかし大事なのは、この詩を賦す姿が魏の武将たちの姿なのです。こうした詩人の姿はこの時代に現れたわけです。
 曹操は自分たちの幕僚との間に「友情」といった感覚をもっています。こうした感情は過去にはなかったものなのです。諸葛孔明の「出師表」

  先帝創業未半、而中道崩徂。今天下三分、益州罷敝。此誠危急存亡之秋也。(先帝業創めてより未だ半ばならずして、中道にして崩徂す。今天下三分して益州罷敝す。此れ誠に危急存亡のときなり。……)

を読んでいると、どうみても、孔明と劉備の間に「友情」というようなものを感じることはできません。だが曹操の詩には、そうした感情が顕れているのではないのかと私には思えてきます。
 こうした曹操の気風が建安の七子(偶然6人まで曹操の幕僚たち)といわれる詩人たちにも流れています。
 詩の意味を見てみましょう。すこしよく読みこまないと、曹操の悲壮慷慨の気が判からないかもしれません。

 酒を飲むときには、大いに歌うべきだ。
 人生なんかどれほどのものか。
 朝露のようにはかなく短く、
 過ぎ去る日のみ多いものだ。
   (ここまで読むと、どうもそれほどの英雄の詩とも思えません。なにつ
    まらなく愚痴ってるの、というところでしょう)
 思いのままに歌うがいい。
 だが憂いは忘れようがない。
 何でこの憂いを消し去ろうか、
 ただ酒が有るのみだ。
   (ここまでもただの酔っぱらいのたわごとです。私たちの飲み方とそう
    変わらない。いや私たちよりくどくどしているようにも思えます)
 青い衿の学友諸君!
 わたしのこうした心は、
 君たちのなかにすぐれた才能を見いだしたく、
 今までひたすら思い続けてきた。
   (ここで一転、恋の歌のようになる。そうなのだ、曹操は士を恋うる英
    雄なのです)
 鹿は幼幼(ゆうゆう)として鳴きながら
 野のよもぎを食べている。
 そんなようにわたしは大事な友人とともに
 琴を鳴らし、笛を吹いてみよう。
 明るく輝く月の光は、
 いつまでも手にとることはできない。
 心の中からくる憂いは、
 絶ち切ることはできない。
 だが君ははるばると遠いところを、
 わざわざこうしてきてくれた。
 久し振りに飲み語らって、
 かっての友情をあたためよう。
   (憂いがなんだろうと、友がはるばるたずねてくれば、こうして飲み語
    りあかすのだ)  
 月明らかに星稀な夜、
 かささぎが南に飛ぼうととして、
 木のまわりを三度めぐり、
 依るべき枝をさがしあぐねている。
   (こうして劉備たちは南へ逃げていく、考えてみれば旧勢力である蜀漢
    と、こうした新しい感性をもった曹操たちの違いなのだ。結局劉備た
    ちは曹操とは飲み語る友情というような感覚はもっていないのだ)
 山は高いほどいい。
 海は深いほどいい。
 昔周公は食事の間も食べたものを吐き出してまで、士に会って応対した。
 だから天下の人が心をよせたのだ。
   (どんなに途中に山や海があろうと、そうした友である士を私は求める
    のだという曹操の心なのです)

 こうした曹操の心は、吉川英治「三国志」では「恋の曹操」という章で、関羽に心をよせながら、関羽に去られてしまう曹操の悲しさを描いています。吉川英治「三国志」のなかでは、私が一番好きなところです。曹操は自らの幕僚たちに、「友情」という感性で接することができた最初の英雄なのです。だから、曹操は負けても負けてもたくさんの幕僚たちは彼のもとで戦い続けるのです。ちなみに曹操の幕僚たちはみんな好きですが、私は張遼が一番好きですね。
 この「短歌行」は詩吟で吟うことはありません。まあ詠って詠えないことはないでしょうが、少なくとも、詩吟の譜がついているような詩ではないですから、自分でやらなければなりませんね。できるでしょうけれども。詩吟でやるよりも、私と飲むとときどきぶつぶついっていることがあったら、「酒に対しては当に歌うべし、人生いくばくぞ、たとえば朝露(ちょうろ)の如し……」と、この詩をつぶやいていますから、できたらきいてみてください。(1992.10.10)

 この詩が今では私の一番好きな漢詩です。いやいくつも好きな漢詩はあるのですが、いつも私の心の中でつぶやいている詩は、この詩が一番多いのです。曹操の存在思いをこの詩が一番顕していると私には思えるのですね。(2010.12.09)

101208032010/12/08 11:59ニチイの介護サービスの時です。実は6日にもおいでいただいたのですが、私がよくわかっていなかったのです。
 でもこれで30分経ちましたらこのサービスは終わりです。なかなか私もこのサービスがよくわかっていなのです。
 さてでも、私は私が義母の年齢になった頃はどうなるのかなあ。今はこうしてポメラで打ちまして、そしてこれをパソコンでUPします。でも私があと20年経ったら(生きていないかもしれませんが)、どうなっているのかなあ。
 このあとこれをブログにUPします。
 さきほど曹操の『苦寒行』をUPしました。明日は同じく曹操の『短歌行』をUPします。昨日までは、曹植、曹丕の詩をUPしたのですが、でも漢字熟語が出てこないものがあるのです。それが少し大変です。でも曹丕は現在実際に残っている詩は私のブログでほとんどUPしました。曹植はすべてはやっていないです。岩波書店に詩集がありますから、それで見ればいいでしょう。
 曹操もいくつかUPしましたが、今度は『歩出夏門行』をUPしないとならないです。ただ長大な詩で大変なのです。
 でも私は三曹の詩をインターネット上に多く紹介しているほうです。あと曹叡という人の詩も紹介しないとなりません。
 ただポメラだと漢字熟語が出てこないから、あとでパソコンで打つときにすべて(すべてじゃないけれど)打ち直します。それがなんとなく不便だと感じるところです。

 きょうも、12時からの30分でした。でもそれ以上長くやってくれました。ありがたいです。

10120802  曹操が官渡の戦いで袁紹をやぶり、そののち袁紹の甥高幹を討伐する途中、厳冬の太行山を越えるときの行軍の苦難を歌った詩があります。これは建安一一(西暦二〇六)年のことです。

   苦寒行    曹操
 北上太行山  北のかた太行山(註1)に上れば
 艱哉何巍巍 艱き哉何ぞ巍巍たる
 羊腸坂詰屈 羊腸の坂(註2)詰屈し
 車輪爲之摧 車輪之れが為に摧く
 樹木何蕭瑟 樹木何ぞ蕭瑟たる
 北風聲正悲 北風声正に悲し
 熊羆對我蹲 熊羆我に対して蹲まり
 虎豹夾路啼 虎豹は路を夾んで啼く
 谿谷少人民 渓谷人民少なく
 雪落何霏霏 雪落つること何ぞ霏霏たる
 延頚長嘆息 頚を延ばして長嘆息し
 遠行多所懷 遠行して懐う所多し
 我心何怫欝 我が心何ぞ怫欝たる
 思欲一東歸 一たび東帰(註3)せん思欲す
 水深橋梁絶 水深くして橋梁絶え
 中路正徘徊 中路正に徘徊す
 迷惑失故路 迷惑(註4)して故路を失い
 薄暮宿棲無 薄暮宿棲無し
 行行日已遠 行き行きて日已に遠く
 人馬同時飢 人馬時を同じくして飢う
 擔嚢行取薪 嚢を担い行きて薪を取り
 斧冰持作粥 氷を斧りて持て粥を作る
 悲彼東山詩 彼の東山の詩(註5)を悲しみ
 悠悠令我哀 悠悠として我れを哀しましむ

 (註1)太行山 山西省を中心に河北から河南にかけてそびえ立つ山脈。
 (註2)羊腸坂 高幹の占拠する壷関口(山西省長治県)の東南にある坂。
 (註3)東帰  曹操の本拠は太行山の東にある。
 (註4)迷惑 道に迷うこと。
 (註5)東山詩 「詩経」の中の詩篇。周公の3年にわたる東征の後、帰還した兵士の労苦と喜びをうたった歌。ここでは曹操が周公にならって、遠征の成功を祈念したもの。

 北のかた太行山を越えようとすれば、
 道はかなり険しく、山は高く聳えている。
 羊腸の坂は曲がりくねって、
 ために車輪は砕けてしまう。
 樹木は寂しげに立っており、
 北風は悲しく吹きつける。
 熊や羆が我らをみて蹲(うずく)まり、
 虎や豹が道の両側から吠えかかる。
 谷間には住む人も少なく、
 雪はしんしんと降り頻る。
 首をのばしては遠くを眺めれば、思わずため息がでる。
 遠征する身となれば、なおさら思いはます。
 心に言い知れぬ不安があふれ、
 いっそ一旦東にひきかえそうかと思う。
 川の水が深いのに、橋もなく、
 途中あちこち道をさがしまわった。
 迷ったあげく、もと来た道も見失い、
 夕暮れになっても、泊まるべき宿もない。
 行軍してすでに何日もたち、
 人も馬も共に飢えてしまった
 袋をかついで行って、薪を拾い、
 氷をたちわって粥を炊いている。
 あの周公の「東山」の労苦の詩を思い出せば、
 心にいっそうの深い悲しみがひろがってくる。

 吉川英治「三国志」でもこの袁紹残党の遠征のところは印象が深いのです。よくまあここまできたなという感慨が伝わってきます。この詩の次の年には完全にこの遠征は勝利で終ります。これにより、この地域の民を永年に渡る異民族の支配から解放しました。これは曹操の軍事上の功績の一つです。

 この詩を最初読んだときは、なにも元気にもなりません。いったい何を辛いことばかり詩っているのだろうと思いました。兵士たちをさっそうと指揮している曹操ではなく、兵士と一緒になって寒さと慣れない土地のため苦労している曹操の姿が浮んできます。これがいいのですね。いったいこのような詩を英雄といわれるような人が詩えるものではありません。
 同じ「三国志」における諸葛孔明の南方遠征では、ただただ神のような天才軍師の華々しい活躍をみるだけです。「擔嚢行取薪 斧冰持作粥」というような孔明の姿を想像することはできません。ここが曹操の曹操たるところです。淡々と遠征のつらさを書いているようですが、私には曹操がちょっと得意になっているようにも思えてきます。
「おい、いったいこんなことを詩にできた英雄なんて俺だけじゃないか」なんて言っているようにも思えてきます。
 私も何度も何度も読み返してきました。そして曹操のその気持が伝わってくる気がします。実に見事だな、さすが曹操だなと思うところしきりです。(1995.11.01)

10120207 かなり曹植の詩を読んでみて、やはり曹植は中国第一級の詩人だと思いました。もし、杜甫という詩人が現れなかったら、いまでも曹植こそ中国第一の詩人といわれていたのではないでしょうか。その曹植の詩といったら、あまりにも「七歩の詩」の詩が有名なわけですが、この詩はまた別の機会に紹介したいと思います。そもそも、この有名な詩が実際には曹植の詩であるかどうかは判らないといわれているのです。
 ときどきいろいろなところで引用されることの多い、「吁嗟篇」をここでは見てみたいと思います。やはり実にいい詩ですね。曹植の生きた境遇と生涯がそのまま目の前に浮んでくる気がします。

    吁嗟篇(註1)曹植
  吁嗟此轉蓬  吁嗟(註2)此の転蓬(註3)
  居世何獨然  世に居る何んぞ独り然るや
  長去本根逝  長く本根を去りて逝き
  夙夜無休間  夙夜(註4)休間無し
  東西經七陌  東西七陌を経
  南北越九阡 南北九阡(註5)を越ゆ
  卒遇回風起  卒かに回風(註6)の起るに遇い
  吹我入雲間  我を吹きて雲間に入る
  自謂終天路  自ら天路を終えんと謂いしに
  忽然下沈淵  忽然として沈渕に下る
  驚飆接我出  驚飆(註7)我を接えて出だし
  故歸彼中田  故に彼の中田に帰す
  當南而更北  当に南すべくして更に北し
  謂東而反西  東せんと謂うに反って西す
  宕宕當何依  宕宕(註8)として当に何れにか依るべき
  忽亡而復存  忽に亡びて復た存す
  飄搖周八澤  飄揺として八沢(註9)を周り
  連翩歴五山  連翩として五山(註10)を歴たり
  流轉無恆處  流転して恒の処無し
  誰知吾苦艱  誰か吾が苦艱を知らん
  願爲中林草  願わくは中林の草と為り
  秋隨野火燔  秋野火に随いて燔かれなん
  糜滅豈不痛  糜滅(註11)するは豈に痛ましからざらんや
  願與株亥連  願わくは株亥(註12)と連ならん

  (註1)吁嗟篇(くさへん) 流転の歌。
  (註2)吁嗟(ああ) 嘆辞。
  (註3)轉蓬(てんぼう) 枯れて根元から切れ、まるまって風の吹くままにころがるヨモギ。
  (註4)夙夜(しゅくや) 夙は早朝、夜は深夜。
  (註5)七陌九阡 陌・阡はともに田の畦道で、東西を陌といい、南北を阡という。
  (註6)回風(かいふう) つむじ風。
  (註7)驚飆(きょうふう) 突風。
  (註8)宕宕(とうとう) 蕩蕩と同じ。広漠なるさま。
  (註9)八澤(はったく) 昔の中国にあった八つの大きな沢。
  (註10)五山 中国にある五つの代表的な山。
  (註11)糜滅(びめつ) 焼けただれて滅ぶ。
  (註12)株亥(しゅがい) 亥は上にくさかんむりがついている。草の根のこと。

 ああ、風のままにゆくよもぎよ、
 世のなかにあってなぜお前だけがこうなのか。
 はるかにもとの根から離れて、
 朝早くから夜おそくまでただよいつづける。
 東西に七つの道を渡り、
 南北に九つの道をとび越える。
 そのうちつむじ風に巻きこまれ、
 雲間に吹き上げられる。
 これなら天の果てまでいけるぞと思っているうち、
 たちまち深淵の底に突き落とされる。
 ところが突風に救われて、
 なんとまた元の田圃にもどされる。
 南に行くのだと思えば北へ、
 東へ行くのだと思えば西へ吹きとばされ、
 果てしなくひろがり寄るところもない。
 消え去ると思えば、また生きていて、
 ふわふわとただよいて八沢をめぐり、
 ひらひらとひるがえって五山をまわった。
 流れ流れて所を定めない、
 この私の苦しみを誰が知ろうか。
 できるなら林の下草となり、
 秋に野火に焼かれてしまいたい。
 焼けただれるのは苦痛であろうが、
 自分を生んだ株や根と運命を共にするのが私の願いなのだ。

 三国志の世界で劉備や関羽、諸葛孔明の側に思いを入れるたくさんの人たちは、この曹植が兄である曹丕にいじめられるところではまた涙を流すのではないでしょうか。そしてだれもまた、兄であり、後漢から帝位を奪ったとされる(当然魏の歴史では漢の献帝からの禅譲となりますが)曹丕(文帝)を憎み、さらにはその父曹操(曹丕を後継者に決めたのは父である)をも憎むことになるのかもしれません。

 曹植は初平三年(一九二年)、曹操三八歳のときの子どもです。三男でした。この年には長安で董卓が呂布に殺され、父曹操はまだ袁紹の勢力下にありました。やがて曹操は次第に勢力を広げていきます。曹操はこの曹植を寵愛します。ただし、曹植には兄である曹丕がいるわけです。曹操のまわりには、たくさんの人材がきら星の如く存在していました。それらの多くの武将や詩人たちと、曹操も曹丕も曹植もほとんど平等の「友情」というような気持で付き合っていきます。
 やがてこの大帝国になった魏の後継者が曹丕なのか曹植なのかという争いになっていきます。曹丕はなんとしても、曹植を亡きものにしようと圧迫したと「演義」などではいっています。父が亡くなってからはさらに厳しくなっていきます。さらにその曹丕も亡くなりますが、曹植はますます中国全土を「転ぶ蓬」のように移動させられます。そうした自分の転々とした生活を描いたのが、この詩であるわけです。彼はなんとしても政治に参画しようとしたいのですが、最後まで許されません。
 この曹植をいじめぬいた曹丕を陰険な極悪人のように思い描き勝ちですが、私にはまた曹丕もまたこの時代の第一級の政治家であり、偉大な詩人であると思います。彼も弟のことをかばえるだけかばいたかったでしょう。でも曹植が優秀なだけに、彼ら二人の兄弟の側近は争わなければならなかったのでしょう。そして曹丕側が勝利したのです。曹植はまた曹丕を敬愛していたと思います。それが曹操以下の幕僚たちや、詩人たちの持っている雰囲気であると思うのです。それは、この詩の最後の句に表れているように思えます。曹植も、きっと父や兄と同じような政治の世界での苦労にまみれたかったのだと思います。
 だが彼の生涯は、結局はこの詩の「転ぶ蓬」のようにふわふわとたよりなく、流転させられるだけになってしまいました。でもその結果は彼には父や兄のような政治家としての名声は何も残りませんでしたが、実にその詩人でもある曹操や曹丕よりも詩人としての名声こそ今にも伝えられています。私にはそれこそが、父である曹操の考えたことでもあるように思えてきます。ただし、こう考えるのは私だけなのかもしれません。
 それにしても、曹植の流転の生涯を描いた、いい詩だと思います。(これは1995年に書いていた文章です)。

 私はこの詩を私のブログで書こうと思いまして、でもそのときにUPする前にどうしてもいくつもの思いがあり、台所で食器の洗い物をしていたときも、そのあと、ゴミを捨てにマンションの1Fに行ったときも、常に曹植とこの詩を思い浮かべていました。なんだか、どうにも悲しくてたまらなかったものでした。ちょうどHNKの連ドラの「てっぱん」で、お好み焼きを作るシーンが何故か私には、曹植を思う私にはものすごく慰めになったものでした(2010.12.04)。

 曹植で一番有名な詩といったらこの「七歩の詩」だと思います。この詩に見られる事件がおきたのは、建安二五年(延康元年)のことです。「三国志演義」に描かれています。

  七歩詩    曹植
 煮豆持作羹  豆を煮て羹と作(な)し
 漉叔以爲汁  叔(註1)を漉(こ)し以て汁と為す
 其在釜下燃  其(註2)は釜の下に在りて燃え
 豆在釜中泣  豆は釜の中に在りて泣く
 本是同根生  本是同根より生じたるに
 相煎何太急  相煎ること何ぞ太(はなはし)く急なる

 (註1)叔(し)は上にくさかんむりがついている。醗酵させた豆のこと。
 (註2)其(まめがら)は上にくさかんむりがついている。

 豆を煮て、それで豆乳を作り、
 豆を漉して汁を作る、
 豆がらは釜の下で燃え、
 豆は釜の中で泣く。
 もとはといえば同じ根から生まれたのに、
 どうしてそんなにはげしくいりつけるのですか。

10112806 この兄弟はかなり不幸でした。二人は共にかなりな優れた人たちでした。だが、どちらかが曹操のあとを継がねばなりません。そこで二人の近臣たちは暗闘することになります。曹操は曹丕を後継者ときめたにもかかわらず、曹丕には曹植の動向が絶えず気になったことでしょう。
 ほぼその闘いには曹丕側が勝利して、この事件がおこります。羅貫中「三国志演義」では次のようにこの事件を記しています。
 曹丕はある日、曹植に七歩ゆく間に詩を作れ、できなければ死を賜うといいます。題材はそこにあった二匹の牛が争っている水墨画でした。ただし牛とか二匹とかいう文字の利用は許しません。曹植は歩きだし、七歩で見事な詩を作ります。曹丕もその臣下も感心しますが、曹丕はさらに即座に兄弟を題にした詩を、しかも兄弟の二字を使わないでつくれと命じます。できなければ、そのとき曹植の首はありません。この曹丕の言葉の次に、曹植がすぐに詩いだしたのが、この詩でした。
 もとは同じ曹操の子として生まれた兄弟なのに、どうしてそんなに私を激しく責めるのですか───という詩に、兄曹丕も思わず涙ぐみます。
「演義」ではこの詩は最後の二句はありません。最初の4行だけになっています。古来からこの詩は名高かったのですが、一体曹植の詩であるかどうかは確証がありませんでした。ただ私には、やはりこれは曹植が作った詩だと思ってしまいます。本来は仲のいい兄弟であったはずなのに、魏という大帝国を父から受け継いだ二人はどうにも不幸な関係になってしまったのです。曹丕は弟を愛しながら、そして詩人としての才能に嫉妬することもあったでしょうが、どうしても迫害してしまいます。弟は兄を敬愛し、なんとか魏の為に政治の世界に携わりたいのですが、どうしても許されません。「兄よ、私にもあなたの政治を助けさせてください」という植の思いに、曹丕はきっと心の中でこう答えていたに違いありません。

  弟よ、私には少し悔しいことでもあるのだが、お前は多分大変に詩人としての才能に恵まれているのだ。お前が政治の世界に出てきたら、私はお 前を殺さねばならないのだよ。政治は私がやる。おそらく後世にはお前は世界でも第一級の詩人として名高いことだろう。私にはそれが嬉しいのだ。

 二人の兄弟の思いを私はこう考えるのです。兄曹丕にそうした思いを抱かせてくれたのはこの詩ではないのかと私は思っているのです。(私はこれは、2003年の6月頃書いていました)

10090303 昨日は義母のことで、ご面倒をおかけしまして、そしてちゃんと対処いただきありがとうございます。
 パソコン関連の雑誌を読んでいて、もうノートパソコンの時代ではないのかなあ、ということを感じます。私はこうしてポメラで書いています(ただし、あとでパソコンで読み込んでUPします)し、他の機器でもパソコンなしでインターネットにUPできます。
 私の好きな三曹(曹操、曹丕、曹植)の詩で、私は曹植の詩は一番苦手でした(でもいくつも読んできましたし、本も読んできました)が、今朝読んだ本「漢詩で詠む中国歴史物語『漢末−南北朝時代』」で、また私は曹植の詩もまたいいなあ、と改めて思いました。
 写真は9月3日の午後6時20分に長女の家で撮りました。ポコ汰の作ったものです。こういうのを作るのが大好きなのです。(09/06)

09090302 私は次女ブルータスへの手紙で、ずっと漢詩を紹介しているわけですが、このところ曹丕の詩を紹介し、曹操の詩の紹介も終わり、次は曹植の詩を紹介する番なのです。
 でもこれではたと困っているのが現状なのです。
 私は今まで、ブルータスには以下のように紹介して来ました。

曹丕 燕歌行』『釣竿』『上留田行』『於清河見輓船士新婚與妻別』『善哉行』『寡婦』『於玄武陂作』『芙蓉池』『短歌行』

曹操 『短歌行』『蒿里行』『薤露』『苦寒行』

 ただし曹操に関しては、『歩出夏門行』を紹介したいのですが、この詩があまりに長大なもので、実は私には自分でまだ読み込めていないのです。でもそのうちやっていきます。

 さて、最後の曹植に関しては、過去の手紙では、以下を紹介してあります。

曹植 『吁嗟篇』『七歩詩』

 まずは、私のこのブログで、曹植の詩の紹介からと思っているのですが、曹丕や曹操とは違って私には、この真面目な詩人は苦手になるのでしょうか。
 いやもちろん、私のホームページでもこのブログでももういくつかは紹介していますが、どうしても、もっと親しんでいかないといけないよなあと思っています。
 なんだかいつも曹植の詩には、私自身が、「少し苦手だなあ」という気持を持ってしまうのですね。

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 私の次女ブルータスに手紙を書いていますが、これに私はずっと漢詩を紹介しています。今までは以下のように、手紙を出して来ました。

   http://shomon.livedoor.biz/archives/51567071.html 私の二人の娘への手紙
   http://shomon.livedoor.biz/archives/51593673.html 次女への手紙
   http://shomon.livedoor.biz/archives/51674675.html 次女への手紙 その2

 このあとが次の通りです。

09年06/11 曹丕『於清河見輓船士新婚與妻別』
09年06/18 曹丕『善哉行』
09年07/01 曹丕『寡婦』
09年07/03 曹丕『於玄武陂作』
09年07/18 曹丕『芙蓉池』
09年07/21 曹丕『短歌行』
09年07/25 黒澤忠三郎『絶命詩』、佐野竹之助『出郷作』
09年07/27 曹操『蒿里行』

 このあとは曹操の詩を紹介し、そのあとは曹植の詩を紹介していきます。でもそのあとはどうしようかなあ。今から悩んでいます。

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 少し妻のところへはゆっくり出かけました。前日帰ってすぐに洗濯した寝巻が乾かなかったからでもありました。でも遅くなってもどうしても乾かない。だから、義母の寝巻きを借りていきましたものです。

009/05/03 10:01今王子駅で乗りました。
 妻への手紙で、きょうは曹丕の詩を3つ紹介しました。そうなると、明日は曹植の詩ですね。そうすると何を紹介しようかな。一つはもう決まっていますが、あとはどうしょうかな。
 うーん、私は三曹のことを考えると、いつも同じことを思います。私はこの三曹の詩がどれも好きで、そしていつもその詩を読んで、自分に言っています。私は、曹丕の詩を読んではいつも、「やっぱり、曹丕のほうが弟よりいい詩を書いているんじゃにかなあ」と思います。でもでも曹植の詩を読むとまた「やっぱり曹植は天才だなあ。兄貴の少し悔しい気持も判るなあ」となるのです。
 そして私はまた曹操の詩を読んで声をあげているのです。それを何回私は繰り返していることでしょうか。何度も、同じことを私は繰り返して思い浮かべているのです。
2009/05/03 10:26今つくばエクスプレスに乗りました。
 さきほど、柳田公園を歩きながら、私は曹植の詩を思い浮かべていました。私の脳裏だけでは、「曹植の詩はいいけれど、曹丕のほうがさまざまな工夫があるんだよなあ」と考えていました。でも実際に詩を目の前にすると違う思いになるのですね。
 いえ、ようするに私は曹植の詩は歩きながらでも詩句が浮かんでくるのです。曹植は詩句を思い出すのは少々辛すぎるのです。思えば彼の生涯がそんなに辛い生涯だったのでしょうね。曹植の詩は辛い彼の生涯ばかりが思い浮かんできます。でも曹丕は違うのですね。偉大な政治家でもありましたが、また詩人としても実にさまざまなことを書いています。彼はこう考えていたに違いありません。「俺は詩人としては、弟の足下にも及ばないが、でもでもこうしてさまざまに詩を作ってもみるのだ」と。
 昨日妻への手紙で書きました「燕歌行」も、実にあの時代に曹丕は七言詩を作っているのです。これは唐の時代より、実に500年以上前のことですよ。
 今頭の中だけで反芻する曹植の詩はただただ辛すぎます。
2009/05/03 10:55今は柏キャンバス駅でバスを待っています。まだ時間がかなりあります。
2009/05/03 11:00でももうバスには乗りました。でも出発は5分になります。もうこれでここに来るのは6日目です。だから思えば私の妻への手紙もきょうで5通目になるのです。もうきょうは長女おはぎが来てくれます。長女と会えるのも嬉しいことです。
2009/05/03 13:43今ママとおはぎと9Fのレストランに来ています。昨日は義弟の家族と一緒でしたが、きょうはママと長女です。だから、きょうは義弟と甥にも手紙を書こう。
 ポコ汰とポニョに会いたいなあ、と思ってばかりいます。さて、もう二人の孫の話を聞いていますが、でも保育園のいいお話を聞いています。
 うちの二人の孫は、食べることと眠ることが大好きなのです。そんな二人の話を聞いているじいじの私はもう実に嬉しいことばかりです。
2009/05/03 14:17おはぎから。ちょっといいことを、いいお話を今聞いています。
2009/05/03 19:35馬鹿毛唐もいるんだなあ、とあきれています。毛唐はこんなもんなんですね。
2009/05/03 19:37あ、でも上中里でした。

 帰りは午後5時を過ぎるので、千駄木「浅野」に飲みに行きました。「アラスアラサン」で次女ブルータスへのプレゼントを買いまして、そのあと千駄木根津谷中を歩きました。連休だし、テレビがどの局でも、ここの地域を特集しているせいか、もうたくさんの方が歩かれていました。「浅野」も昼の定食が60人のお客で大変だったようです。

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0d467386.jpg 妻は4月28日に入院して、私はその翌日から和紙で手紙を書いて持って行きます。
 でも29日30日は遠慮してA42枚でした。ただ30日は1枚の行数を増やしました。でも思えば、私が手で持っていくのだから、切手代も関係ないのです。それで昨日はA4で4枚書きまして、きょうは5枚になりました。
 いえなに、書いているといいましても、私は漢詩の紹介をしているだけです。どうせ私の娘たちは、「そんな手紙もらってもママが可哀想でしょう」というばかりです。
 あのねえ、そんなことないのよ。
 昨日は、「陸游『釵頭鳳』」を紹介しました。きょうは、「曹操『短歌行』」を紹介しました。
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ecbad676.jpg 私の、このブログでの 周の漢詩塾(ブログ篇)でも、周の三曹の詩 でも、私は曹操、曹丕、曹植の詩を扱ってきました。それで、私が手に入れられる詩では、曹操も曹丕もほぼ紹介できたかと思っています。あとは曹植がまだまだいくつもあるのですが、詩が長詩ばかりなので、実に大変なのです。
 いえ、実は曹操の詩でも、『歩出夏門行』をここで紹介できていないのですが、これまたものすごく長詩なのですね。だから大変なのです。
 しかし、その大変というのは、まずどの詩でも漢字がこのインターネット上では表わせないものがいくつもあります。それを他のごく似た字に置き換える(そしてそのことは解説します)ようにしているのですが、それが実に至難のことなのです。
 長詩と言えば、私は文天祥『正氣歌』をインターネット上で紹介解説しようと思い、もう四年以上前に、その詩は書いてあるのですが、これまたインターネット上では表わせない漢字がいくつもありまして、それを置き換える作業が終わりません。
 このことは私の大変な悩みです。
 さきほどから、曹操『歩出夏門行』も書いてはいるのですが、書き下し文を書いて、訳してという段階でまだ時間がかかります。そもそも出てこない漢字はどうしようかと大変なのです。
 なんとか時間がかかっても、やっていかなとなりませんね。
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 私はここでずっと、陶淵明の「飲酒」の解説をしてきていました。でも私には、どうしても陶淵明は難しいのですね。陶淵明『飲酒 其十二』 に私は次のように書いていました。

 いや、読んでいても陶淵明の言われることはただただ難しいです。

 それで、順番としては、「陶淵明『飲酒 其十三』」が、実はかなり知られている詩で、割と判りやすい詩のはずなのですが、私は書き下し文まで書いて、そのあとができないのです。私はこのブログに書いてからさらに私のメルマガ「マガジン将門」にて清書するようにしているのです。
 でもどうしても、私には簡単にいきません。それで曹操の詩を見ていくなかで、曹操『蒿里行』を書いて行ったものなのです。
 私にはやっぱり陶淵明の心は簡単に判りません。私が役人になったこともないし、それを辞めることも、そもそもなかったからかなあ。酒は私も毎日飲んでいるわけですが、こんな陶淵明の気持を推し量ることができないのですね。
 また「飲酒 其十三」を何度も読んで、少しは陶淵明の気持にせまれればいいのかなあ。

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「三国志」の世界では、私は昔からいつも曹操が好きでした。とくに私は彼の作った詩が好きでした。
 その三国志の世界の中で、董卓が後漢王朝を簒奪し、袁紹を盟主とする蹶起軍が起き、董卓が洛陽を捨て、函谷関の西の咸陽に去り、蹶起軍がそれを追う様があります。これが一番この三国志の世界で悲惨な惨状を見せてくれています。
 このときのことは曹操は他でも表現していたと思いますが、この詩もそのことを顕しています。董卓軍もひどいものですが、袁紹を盟主とする蹶起軍もひどいものです。
 咸陽まで無理やり追い立てられる民衆の泣き声が今も聞こえる気がします。その中にあって曹操だけは、その民衆の声を聞いて、この中華をまとめようとします。そうした英雄でした。
 そのときの状態を書いた曹操の詩です。

   蒿里行(註1)  曹操
  關東有義士 関東(註2)に 義士(註3)有り、
  興兵討群凶 兵を興して 群凶を討つ。
  初期會盟津 初め 盟津に会するを期すも、
  乃心在咸陽 乃(すなわ)ち心は 咸陽に在り。
  軍合力不齊 軍合わさるも 力斉(そろ)はず、
  躊躇而雁行 躊躇して 雁行す。
  勢利使人爭 勢利 人をして争はしめ、
  嗣還自相ソコ 嗣還(註4) 自ら相そこなう。
  淮南弟稱號 淮南 弟称号し、
  刻璽於北方 璽(じ)を 北方に置いて刻む。
  鎧甲生キ虱 鎧甲(がいこう)に キ虱(きしつ)を生じ、
  萬姓以死亡 万姓 以て死亡す。。
  白骨露於野 白骨 野に露(さら)し、
  千里無鷄鳴 千里 鶏鳴無し。
  生民百遺一 生民 百に一を遺す、
  念之斷人腸 之を念(おも)へば 人の腸を断たしむ。

  (註1)蒿里行(こうりこう) 士大夫や平民の葬送の際の歌。
  (註2)関東 函谷関の東。
  (註3)義士 義軍の軍勢。後漢王朝を簒奪した董卓征伐の義軍。盟主は袁紹。
  (註4)嗣還(しせん) その後まもなく。

  関東で、蹶起軍がおこり、
  兵を起こして、凶暴な勢力を討った。
  最初は、盟津で合流することを期したが、
  その心は、咸陽を討つことにある。
  軍勢は連合したが、足並みが揃わない、
  少しずつずれて、斜めになって遅れてしまっている。
  勢力と利益は、人を争わせてしまっていて、
  その後まもなく、自分たちで互いに争い始めた。
  淮南にいる従弟・袁術が皇帝を称し、
  北の方(冀州)では、袁紹が皇帝の玉璽を彫っている。
  兵士の鎧には虱がわき、
  多くの人民は、災禍に遭遇し、死亡している。
  白骨を野にさらし、
  遥か遠くまで、人の生活の痕跡がない。
  生き残った民は、百に一つであり、
  このことを思えば、断腸の思いにさせられる。

 この思いから、曹操は決起し戦い続けるのです。曹操は実に真面目な英雄です。当時中国は未曽有の大変に危機的な時代でした。中国の歴史始まっていらい、初めて人口が減少してしまうという悲しい時代でもありました。でも曹操は、その中でも雄々しく闘い続けるのです。

 以下のページにいくつも、曹操、曹丕、曹植の詩をあげています。

  http://shomon.net/kansi/sansou.htm 周の三曹の詩

 ぜひ、この三人の詩人たちの詩を読んでみてください。私の大好きな3人の詩人です。

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 陶淵明の「飲酒」の三番目の詩です。

   飮酒 其三  陶淵明
  道喪向千載 道喪(うし)はれて 千載に向ふ
  人人惜其情 人人(じんじん) 其の情を惜む
  有酒不肯飮 酒有るも 肯(あ)へて飲まず
  但顧世間名 但(た)だ顧(かへり)みる 世間の名
  所以貴我身 我が身を 貴ぶ所以(ゆゑん)は
  豈不在一生 豈(あ)に 一生(いっせい)に在(あ)らずや
  一生復能幾 一生 復(ま)た能(よ)く幾(いくば)ぞ
  倏如流電驚 倏(はや)きこと 流電の驚くが如し
  鼎鼎百年内 鼎鼎(註1) 百年の内
  持此欲何成 此(こ)れを持して 何をか成さんと欲する

  (註1)鼎鼎(ていてい) 年月が速やかに過ぎ去る形容

  古代の聖賢の教えが失われてしまってから千年になろうとして、
  だれもが、本当の気持ちを出し惜しみするようになった。
  うまい酒があっても飲もうとせず、
  ただ世間体ばかり気にしている。
  我が身を大事にするわけは、
  人間の一生の内にこそ在るのではないか。
  その一生は、またどれほどの時間があるというのだ、
  その素速さは電光の流れ去るに驚かされるようなものだ。
  速やかに過ぎ去る人生は百年以内のことだ
  世間体ばかり気にしていて一体何をしようというのだ。

 曹操の『短歌行』を思い浮かべます。

   http://shomon.net/kansi/sansou1.htm#tanka 曹操『短歌行』

 私にはこの詩は、実に大好きな詩です。曹操の詩として真っ先に知り、真っ先に覚えたものでした。

  對酒當歌 酒に対しては当に歌うべし
  人生幾何 人生幾何ぞ
  譬如朝露 譬えば朝露の如し
  去日苦多 去日苦だ多し
  慨當以康 慨しては当に以て康すべし
  幽思難忘 幽思忘れ難し
  何以解憂 何を以て憂いを解かん
  唯有杜康 唯だ杜康有るのみ

 曹操は、唯だ杜康(酒)が有るのみだと言っています(ただし、この詩は「酒があるのみだ」と言っているわけではないのです)。おそらくは、陶淵明も、この曹操の『短歌行』のことはよく知っていたことでしょう。「有酒不肯飮」とは、過去・現在・未来の私ともおいに違う存在です。
 思えば、少し前の時代の曹操のこの詩のことを、陶淵明も何度も詠んでいたことでしょうね。ただし、もう陶淵明は、このときには田舎田園で過ごしている人生になっているのです。
 いやどうしても、同じ時代、近い時代に生きた、陶淵明と曹操の思いをどうしても比べてしまいました。

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 さきほど、朝の「連続テレビ小説『ちりとてちん』」を見ていました。
 喜代美を福井まで追いかけて草々(そうそう)が来たシーンで、私は涙を流していました。いつも単純な私なのです。でもそのあと、草々が喜代美に、「お前が好きだから、追ってきたんだ」というシーンはありません。福井の焼きさばに喰らいついている草々のシーンです。
 でも私はこのドラマが最初から好きです。それに大阪落語というのは、まったく知りませんでしたが、これで始めて好きになれそうな思いがします。
 それにしても、草々(そうそう)という音(おん)は、私には曹操をいつも必ず思いだしてしまいます。曹操は草々のような大男ではなかったでしょうが、いつも私は必ず曹操を思いだし、彼の 短歌行 を思い浮かべていて、心の中で口ずさんでいます。

 でも、この「ちりとてちん」は愉しいですね。これからも熱心に見ていきます。

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 私の 周の漢詩入門「曹丕『善哉行』」ナミちゃんから次のコメントをもらいました。

1. Posted by なみんと    2007年10月15日 20:36
この詩・・いいですね。
落ち着いてきます。
人生如寄
多憂何為
今我不楽
・・他」に
湯湯川流
中有行舟
・・・大きな川の流れに任せて・・と解釈してよろしいんでしょうか。

 まずありがとう。そして、まずこの曹丕の詩とは関係ないことを書きます。私はきょう、Aと会ってきました。彼の会社のことで、もう前から早く会うべきだったのですが、いろいろと機会が見つけられないで、きょうになってしまいました。でもね、会っても、きょう行ったことの目的の資料を彼が用意できなくて(その場でも用意できなくて)、大変に困りました。でも、そのあと、ずっとしばらく一緒にいて、彼のお母さんの介護に関すること、私の義母の介護のこととか、いろいろとお話しました。彼からは、私が「これは大事なことだなあ」と思うことも聴いて(介護に関することですね)、そこで言われたことを、私は、私の長女とその彼と(ポコちゃんの前で)、お話したのです。妻にも話しました。彼のお母さんも、私のことも、私の父母のこともよく知っているので、今度会いに行って、お話したいなあ、と思いました。
 また彼の奥さまにも会いたいのですが、今回は無理でした。でもきょう私が持って行ったお土産のお菓子を、奥さんも、彼の長女も食べてくれたでしょうから、そのお菓子の楽しさに、私の気持を少しは感じてくれたかなあ、と思っています。
 私が書いている、青木昌彦の「私の履歴書」のことも、彼も日経新聞で読んでいて、私もたくさんのことを思いました。思えば、彼も京都にも長く居たのですね。

 それで曹丕の詩です。いい詩でしょう。「・・・大きな川の流れに任せて・・と解釈してよろしいんでしょうか」と聞かれても、明確に応えられないけれど、「大きな川の流れに任せて」の「大きな川」というのが、黄河なのかどうかということでは、華北の当時のいくつもの河なんじゃないかなあ。ただし、「いくつもの小さい河も」と言っても、私たちの身近である利根川よりも大きな河川なんでしょうね。

 曹操は四言詩が多いのです。短歌行 がそうですね。まだ詩の形は「まだまだこれから〜」という時代です。でも 苦寒行 は五言詩ですね。そして三曹の中で、いつもどこでも詩を紹介公開される曹植は五言詩ばかりです。(ああ、私はこの曹植『吁嗟篇』なんか、どう言ったらいいのか判らないくらい好きな詩です)。
 でも私は、曹丕「燕歌行」のところで、

 曹植の詩がほとんど五言詩なのにくらべて、この詩は七言詩です。たぶんもっとも早い七言詩でしょう。

と書いたのですが、こうして見ますと、曹丕って、やっぱりすごいものを持っているでしょう。自分の思いをそのまま述べるとしても、歌う詩をこうして、形式を新しく作ろうとしているのです。だから私は、この曹丕を、多くの歴史書・物語の「三国志」で描かれている姿ではないのだと思っているのです。曹丕の詩は、この私のホームページ内だけではなく、このブログ内でも以下の

   http://shomon.livedoor.biz/archives/50066808.html  曹丕「於玄武陂作」

を書いています。
 いつも曹丕を詩を読み、「やはりいいなあ」と思いながら、曹植の詩で、「でもこれは天才だなあ…………もし、唐の時代に杜甫が現れなかったならな………」なんて思っていて、でもまた曹丕の詩を読み、またぐずぐずになっています私なのです。
 そして結局はまた曹操の詩を見つけ出して、読み、また納得している私なのです。

 曹丕もまた、そしてその父親の曹操もまた、こうした詩を作りながらも、時代の中で必死に闘って行ったのです。私には、その父と兄に、息子と弟の曹植だけには、自分たちのような政治の世界でだけ活きるのではなく、詩の世界でのみ活きてほしい、という意思をいつも感じてしまうのです。それが父と兄の心だったと私は思うのです。

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2017041109

中村愿『三国志曹操伝』を読んで、この詩を知りました。ただし、この本の中では詩の原文ではなく、この著者の訳しかないものですから、自分で探しました。
いい詩ですね。やはdd628922.jpgり曹丕もいいです。私は彼の詩を読んで、演義で言われている彼の姿とあまりに違う姿が思い浮かぶものですから、いつもその違いに驚いています。
でも私はいつも、私がこうして、詩そのものを読んで、思い浮かべる曹丕こそが本当の姿であろうと思っています。

善哉行 曹丕
上山採薇 山に上り 薇(わらび)を採り
薄暮苦饑 薄暮(はくぼ) 餓えに苦しむ
谿谷多風 谿谷 風多く
霜露沾衣 霜露(せいろ) 衣を霑す
野雉羣ナ 野雉(のち) 羣(むらが)りナき
猿猴相追 猿猴(えんこう) 相追う
還望故郷 還りて 故郷を望むに
鬱何壘壘 鬱(うつ)として何ぞ 壘壘(るいるい)たる
高山有崖 高山に 崖有り
林木有枝 林木に 枝有り
憂來無方 憂い来たり 方無く
人莫之知 人の之(これ)を 知る莫し
人生如寄 人生は 寄るが如し
多憂何為 多く憂えるも 何をか為さん
今我不樂 今我 楽しまずんば
歳月如馳 歳月 馳(は)するが如し
湯湯川流 湯湯(ゆゆ)たる 川流(せんりゅう)
中有行舟 中(うち)に 行く舟有り
隨波轉薄 波に随って 轉薄(てんぱく)して
有似客遊 客遊に 似たる有り
策我良馬 我が良馬に 策(むちう)ち
被我輕裘 我が軽裘(けいきゅう)を被り
載馳載驅 戴(すなわ)ち馳せ 戴ち驅(か)り
聊以忘憂 聊(いささ)か以って 憂いを忘れん

山に上って蕨を採り
日暮れになって腹が減る
谷間に風が多く
霜や露が衣を濡らす
野の雉は群れに鳴き
猿たちは二匹で追いかけ戯れているのに
我が故郷の空を顧みると
ただ樹木の鬱蒼たる山が重なり合っているのみである
高い山には崖があり
林の木には枝があるものを
憂いの訪れ方は定めがなく
誰もそれを予知し得ないだろう
誰の人生も寄る辺がない
いくら憂えたとてどうにもならぬ
されば今のうちに楽しまねば
年月は馳せるが如く過ぎ去ってしまう
流れてやまぬ川の流れの
中に漂う小舟一つ
波の間にただよう姿
自由きままな旅人のようだ
さあ、我が良馬に鞭をあて
軽い外套ひっかけて
この山野を駆け巡り
憂いなどを吹き飛ばそう

いつも曹丕の詩を読みますと、実にいい詩だな、見事だなあ、と思うのですが、詩の作品としては弟の曹植のほうが上だと思ってしまいます。
でもそれはそういうことを前提にして思ってしまっている私がいるだけなのです。個々の作品を読むと、やはりいつも曹丕のほうの作品のほうがいいんじゃないかなあ、といつも思い、そしてまた、曹植の作品を読むと、その詩の前で、感歎の声をあげてしまっています。
やはり曹丕・曹植ともに、大詩人である父曹操の息子たちなのですね。

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もう一つの『三國志』 ―「演義が語らない異民族との戦い―

   この本を読み終わりましたが、今までにもこのブログに、私が読んだそのときの思いを書いてきました。それを含んで、すべて書き改めましたので、重複する部分もあるわけですが、以下にまとめて書いておきます。(2007.10.10)

 この本を時間がかかりましたが、すべて読み終わりました。ほぼ我孫子の自宅との往復の電車の中でのみ、読んでいました。

書 名 もう一つの「三國志」
    ───「演義」が語らない異民族との戦い───
著 者 坂口和澄
発行所 本の泉社
定 価 1,714円+税
発行日 2007年8月12日初版第1刷
読了日 2007年10月10日

 私は最初次のような思いを感じて書いていました。

 もうこれは面白いです。どんなに面白いかというと、私はその面白さを読むのが怖くて、本を開けられないのです。本を読むと、いつか読み終わってしまいます。それがものすごく怖いのです。
 最初に以下が大変に気になりました。

 曹操には十三人の女性に産ませた男の子が二十五人いた。そのうち六人は生後まもなくか。あるいは十歳未満で亡くなっている。めぼしい子といえばベン皇后が生んだ曹丕・曹彰・曹植、劉夫人が生んだ曹昴、杜夫人は生んだ曹コン、環夫人が生んだ曹沖・曹宇、王昭儀が生んだ曹幹、孫姫が生んだ曹彪あたりであろうか。
 父曹操の文学者としての一流の才能を受けたのは曹丕と曹植、これにやや劣るのが曹コンだった。文学者ではないが、これに十三歳で夭逝した天才児曹沖も加えていい。

 私はこんなに多くの曹操の息子たちを知りませんでした。
 私は前に、この曹操の息子の夢を見たことを書きました。

   http://shomon.net/bun/yume3.htm#050910  曹丕・曹植の兄弟

 でも思えば、この私の夢で見た「曹林」という人物に関しては、この著者は書いていませんね。まあ、仕方ないかなあ、と思ったものでした。(2007.10.07)

 日本人が読める「三國志」としては、以下の本を私は読んできました。私が読みました順です。

 吉川英治「三国志」
 柴田連三郎「英雄ここにあり」
 陳寿「三國志」(裴松之の註を含む)
 羅貫中「三國志演義」
 横山光輝マンガ「三国志」
 北方謙三「三国志」
 伴野朗「呉・三国志 長江燃ゆ」

 もちろん、あと短いものはいくつも読んでいます。

 それに小説ではないのですが、

   http://shomon.net/kansi/siika2.htm#tutii
                      土井晩翠「星落秋風五丈原」

は一時は全文暗記暗誦できたものでした。あと「世説新語」、「三国志平話」はまだ読んでいません。手に入れるのが大変だから、図書館でと思っています。
 それと宮城谷昌光さんの「三国志」が「文藝春秋」で連載中です。私はこれが世界で最大の「三国志」になるだろうと思っています。

ebeda195.jpg ところで、この坂口和澄さんのこの本ですが、大変に読み応えがあります。「西南夷の章」の「南征の目的はどこにあったか───諸葛亮」というところは、実に頷きました。孔明の南征は、「一体あんな遠征することが何になった
のかなあ?」という思いもあったのですが、実に納得できました。

 でも、思えば「三国志」の世界というのは、こうしたことをすべて含んでいるんですね。たとえ、「演義」には書かれていなくても、「正史三国志」では簡単に書いてあっても、それはまた別なところには、詳しく書かれています。

 そういえば、陳寿の「正史三国志」よりも、裴松之の註のほうがずっと文量が多いと思っていましたが、この21世紀近くなって実際に数えた人がいるそうで、わずかに陳寿の著述のほうが、文の量は多いそうです。これを知って私は実に驚いたものでした。私が考えることなんて、実に誰とも同じようなことしか頭に浮かばないものなのですね。
 奥付やインターネットで見つけた、この著者の著作が以下です。

 「戦」日中出版 1985年12月
 「眞説三國志」小学館 1997年06月
 「三国志英雄妖異伝」青春出版社 2001年08月
 「三國志群雄録」徳間書店 2002年12月
 「正史三國志群雄銘銘傳」光人社 2005年06月
 「三国志検定」青春出版社 2006年04月
 「三国志人物外伝」平凡社 2006年05月

 できたら、このすべてを読んでみようと思っています。

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 私がこのところ読んでいるのが、以下の本です。

書 名 もう一つの「三國志」
    ───「演義」が語らない異民族との戦い───
著 者 坂口和澄
発行所 本の泉社
定 価 1,714円+税
発行日 2007年8月12日初版第1刷

 もうこれは面白いです。どんなに面白いかというと、私はその面白さを読むのが怖くて、本を開けられないのです。本を読むと、いつか読み終わってしまいます。それがものすごく怖いのです。
 いやいや、私は以下を引用したいだけで、この文を書き始めました。

 曹操には十三人の女性に産ませた男の子が二十五人いた。そのうち六人は生後まもなくか。あるいは十歳未満で亡くなっている。めぼしい子といえばベン皇后が生んだ曹丕・曹彰・曹植、劉夫人が生んだ曹昴、杜夫人は生んだ曹コン、環夫人が生んだ曹沖・曹宇、王昭儀が生んだ曹幹、孫姫が生んだ曹彪あたりであろうか。
 父曹操の文学者としての一流の才能を受けたのは曹丕と曹植、これにやや劣るのが曹コンだった。文学者ではないが、これに十三歳で夭逝した天才児曹沖も加えていい。

 私は前に、この曹操の息子の夢を見たことを書きました。

   http://shomon.net/bun/yume3.htm#050910  曹丕・曹植の兄弟

 でも思えば、この私の夢で見た「曹林」という人物に関しては、この著者は書いていませんね。まあ、仕方ないかなあ。

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 後漢という国は最初から、あまりに不安な王朝でした。「不安な」とは今私が書いてしまったのですが、そう思わざるを得ないのです。
 外戚の勢力は強く、それに対して闘うのが宦官勢力であり、これもまた不幸な争いの繰り返しでした。そして北の遊牧民の動きも活発であり、中国の歴史が開始されて、はじめて人口が減少してしまうという不幸な時代でした。
 だが、そのときに現れた英雄が、私は曹操であると思っております。曹操が「薤(にら)の上の露」と詩ったように、漢帝国はもう終末だとも言えるほど、暗いつらい時代でした。
 その混乱を詩ったのが、この詩です。

   薤露(註1) 曹操

  惟漢廿二世 惟(こ)れ漢の廿二(二十二)世
  所任誠不良 任ずる所は誠に良からず
  沐猴而冠帶 沐猴(もくこう)にして冠帯し
  知小而謀疆 知小にして謀(はかりごと)は彊(つよ)し
  猶豫不敢斷 猶予(ゆうよ)して敢えて断ぜず
  因狩執君王 狩(しゅ)に因りて君王を執(と)う
  白虹爲貫日 白虹(はっこう)は為に日を貫き
  己亦先受殃 己(おのれ)も亦(また)先ず殃(わざわい)を受く
  賊臣持國柄 賊臣国柄(こくへい)を執り
  殺主滅宇京 主を殺して宇京(うけい)を滅す
  蕩覆帝基業 帝の基業を蕩覆(とうふく)し
  宗廟以燔喪 宗廟以って燔喪(はんそう)す
  播越西遷移 播越(はえつ)西に遷移(せんい)し
  號泣而且行 号泣して且つ行く
  瞻彼洛城郭 彼の洛城の郭(かく)を贍(み)て
  微子爲哀傷 微子(註2)為に哀傷す

  (註1)薤露(かいろ) 薤(にら)の上の露
  (註2)微子(びし) 微子啓は、殷の王族。帝乙の長子。帝辛(紂王)の長兄であったが庶長子であったために王位を継承せず、微に封じられて微子啓と呼ばれた。殷は末弟の紂王が継いだ。彼は穏やかな性格で人望がある人物だった。乱暴な政治を繰り返して行なう紂王を何度も諫め、周との戦いでは和睦を主張したが、全く聞き容れられなかった。そこで一命を国に捧げようか、それとも殷の祖廟を絶やさないために国を去ろうか迷い、殷の楽官の太師・少師に問うたところ両人とも、彼に立ち去ることを勧めたので、微子啓は同母弟の微子衍と共に国を去って封地の微に帰った。後に紂王が牧野で周に敗れた後、武王の軍門に行って弟の微子衍と共に降伏を申し出た。その時に微子啓は諸肌を脱ぎ、両手を背後で縛り、左手で羊を引き、右手で茅を取って膝づいたという。

  漢の二十二世の皇帝の世
  官に任ぜられていた者は、まこと宜しくなかった!
  何進は、まるで猿が冠をつけているようなものであった
  知性はろくにないくせに、だいそれた悪事を企み
  それでいてぐずぐずしていて断行もできないくせに
  狩りにかこけつて、天子をとらえたが
  そうしているうち、白虹が日を貫くという不吉な現象が起き
  結局まずは自分が宦官に殺されてしまった
  次に賊臣董卓が国権をとり
  少帝太后を殺し、都を滅ぼした
  帝業の基礎を覆し
  宗廟をも焼失させてしまった
  都は洛陽から西の長安へと移され、
  人々は号泣して西へと向かった。
  今洛陽の街を眺めていると、
  微子と同じ思いで、私は哀傷してしまうのだ…!

「三国志」を読まれた方は多いと思いますが(一番多いのは、吉川英治の『三国志』でしょうね)、この漢の終末の時代に外戚と宦官の殺し合いの中に何進が出てきて、それをまた何進の部下である呂布が殺して、それを命じたのが董卓で、洛陽は一時董卓の天下になります。
 そこへ、袁紹を盟主とする義軍が集められ、そこに三国志で出てくる英雄たちがみな顔を揃えます。曹操も、劉備も、孫堅もこの軍に集まるのです。
 この詩はこの義軍により、急遽都を洛陽から長安に移動してしまう董卓とその軍にむりやり追い立てられる民衆の姿を描いています。
 でもこのときの混乱は実に大変なことでした。だが、この混乱の中国を収拾していこうとできる英雄が曹操であったかと思っています。

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06070602 私の好きな曹操、曹丕、曹植の詩を紹介しています。
 私は三国志の世界では、なんといいましても、曹操が一番好きなのです。いや、三国志の世界の中だけではなく、中国史の中でも一番好きな英雄と言ってもいいかと思っています。
 その英雄としての曹操も好きなのですが、やはり詩人としての曹操にも強く惹かれます。「槊を横たえて、詩を賦す」曹操の姿をいつも思い浮かべます。
 また曹操の息子である曹丕、曹植の詩にも大変な魅力を感じてきました。おそらく曹植といいましたら、もし唐の時代に杜甫という詩人が現れなかったらいまでも中国一の詩人と言えるのではないでしょうか。また誰もが、ただ陰険な政治家と考えてしまうだろう曹丕の漢詩も、実に優れており、魅力を感じます。それから私はこの兄弟を、三国志演義で描いているように、仲の悪い兄弟とはどうしても思えません。そんな思いを抱いてしまう詩がいくつもあるのです。
 曹操、曹丕、曹植の順に紹介しています。    (2002.11.04)

   http://shomon.net/kansi/sansou.htm  周の三曹の詩

 この3人のうち、曹植に関しては、岩波書店の「中国詩人選集」にその詩集があり、その他でもいくつか紹介されていますから、その詩を読むのは簡単にできるのですが、曹操、曹丕については、その詩を探すのは実に大変です。なにしろ私は現存する詩に関しては、すべて知りたいのです。
 なんとか、あちこちで見つけ出して、ここにUPしていきたいと考えております。

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 夕刊フジBLOGこの記事 がありました。

【ビジネス特報】
■完全にこだわらず、拙速でゆけ
 中国の孫子は「兵は拙速(せっそく)を尊ぶ」と言った。「完全にこだわらず素早く行動せよ」ということである。アメリカ陸軍の指揮官マニュアルも、戦場での指揮官の5つの心がまえのうち3つまでが拙速関係で占められている。「不完全な情報しかなくても素早く決定せよ」「完全な解決にこだわって決定を遅らせるな」「できるだけ早く、受容可能なリスクを覚悟し納得のゆく行動をとれ」と。
(2006.06.19)

 私は「孫子」を初めて読みましたのは、中学生のときでした。その後高校生になっても何度も読みまして(何度も読むので、岩波文庫は2冊用意しました)、全文を暗記しました。学生運動で府中刑務所に勾留されていたときも、岩波文庫本を入れてもらい、全文書き抜いたものでした。
 ただし、私は「孫子」よりは「呉子」のほうが好きでした。人間としても、呉起のほうが孫武・孫濱よりは、ずっと親しみを持ってきたものでした。
 とはいえ、私の好きな曹操もナポレオンも常に座右にしていた「孫子」ですから、私もぜひとも全文を暗記していなくてはと思っていたものでした。

 この「兵は拙速を聞く。未だ巧久を睹(み)ず」という言葉は、常に私も口にしてきたものです。それは、学生運動のときもそうですし、労働運動のときも、会社の経営指導のときにも、そして私自身の恋愛に関してのときもそうでした。とにかく、未だ少ししかできていないかもしれないが、「とにかくやってしまえ」とばかりに行動してきたつもりです。
 おそらく、ナポレオンも米軍も同じにやってきたのでしょうね。

■10時間以内の加速型意思決定を追求するアメリカ軍
 適切な意思決定のための情報の収集にこだわっていては何も決定できず、動きが止まる。戦闘の場合は、動かないところを敵に襲われる。そこで分析的意思決定よりも直感的意思決定が重要となる。ただし、これは200人前後の中隊レベルまでである。
 大規模な作戦行動の決定は、各部隊の活動状況について、ある程度の情報収集と分析をしなければ大混乱を招く。そこで、アメリカ陸軍は、決定までのタイムリミットを定め、その範囲内でできる限りの情報を収集、分析し、作戦を決定し、各部隊に命令を発する「軍事的意思決定過程(MDMP=ミリタリー・ディシジョン・メーキング・プロセス)」を標準化している。数千人規模の旅団レベルでは、「熟慮型で16〜20時間、短縮型で10〜15時間」と定められ、目下、10時間を切る加速型が研究されている。

 情報収集、そして事前の完全なまでの準備周到な方を何人も見てきましたが、いつまでも何もやりだしえない姿を何度も見てきました。このインターネット上のホームページを作るのに、私よりもはるかにパソコンに堪能な彼がとうとうできなかったことを、よくよく私は見ています。私は自分の持っているものを5%でいいから、インターネット上に露出してしますのに、彼は「今は95%はでき上がっているんですけれど」といいまして、それが1%づつ上がっていきましたが、98まで聞きましたが、とうとう最後までそして今もインターネット上にはできあがりませんでした。1999年のころの話です。
 まさしく、こうした状態のとき敵に襲われたのと同じで、もはやその企業は致命的に壊滅状態にまで陥りました。まあ、まだ生きているわけで、今度はそういう結果に学べばいいのですが。どうなるんでしょうね。私とは顧問関係にあるわけじゃないから、私はどうすることもできないのです。ただ、遠くから眺めるだけです。

■決定のタイムリミットを5日以内に定めよ
 会社の場合、戦場の軍隊のような超短時間対応は、大災害や大事故などのめったにない緊急事態以外では不要であろう。しかし、決定のタイムリミットを定め、さらにその時間を短縮する努力が大事である。それが変化への対応速度を早め、重大危機の突発にも迅速果敢な対応ができる。さもなければ対策が後手に回って状況をさらに悪化させる。
 数万人規模の会社でも、大規模な投資や事業の組み替えなどのような社運を左右するような決定は別として、決定のタイムリミットは、全社レベルで5日以内、部門レベルで3日以内に定めるべきだ。サラリーマンも同様の心がけを実行することで、多くの危機を回避でき、危機を切り抜ける可能性を高めることができる。

「決定のタイムリミットを定め、さらにその時間を短縮する努力が大事」。このことは実に大事なことだと切実に思います。とくに、今はさらにこれは切実な課題になってきているかと私は思っています。
 思えば、大東亜戦争の日本軍が陥ったいくつものミスがあるのですが、この「兵は拙速を聞く」がまったくできなかったことかと思います。いや、これは当時の日本軍ばかりでなく、中国軍でも、米軍でも、敗北したときには、この「決定のタイムリミット」をずるずると引き伸ばしてしまった指揮官の無能さを見ることができます。

■遅疑と逡巡はタブー
 軍事では拙速が奨励される一方で、情報不足により、「あーでもない、こーでもない」と考えて決定を遅らせる遅疑(ちぎ)や、これで大丈夫だろうかと決定の実行をためらう逡巡(しゅんじゅん)はタブーとされている。遅疑や逡巡をする指揮官は、悲惨な敗北を招く無能な指揮官である。
なお、攻撃だけでなく、撤退も大事な決定。孫子も逃げる大事さを力説しているが、戦史には撤退のタイミングを失したゆえの悲劇が数多く存在している。これは会社でもサラリーマンでも同じであろう。

「逃げる大事さ」って、これもまた大切なことですね。信長も秀吉も家康も、「逃げる」ときは、徹底して逃げています。思えば、これもまた大事なことですね。「逃げる」ことへ、少しでも躊躇するときに、それ以上に、人生での大失敗への路しかない場合がいくらでもあります。
 思い出せば、曹操も、驚くほど逃げてしますね。壊滅的ではないかな、と思えるほどの敗北をしながら、彼はたぶん大泣きしながら逃げていたことが何度もあったはずです。でもきちんと逃げきったからこそ、そののち勝利を導くことができたのです。

 今思い出しました。ローマ初代の皇帝アウグツス=オクタヴィアヌスも、決して戦上手な人ではありませんでした。逃げるときがいくつもありました。そして彼は、戦闘は下手だったといえるのではないでしょうか。
 でも彼があのカエサル暗殺後の内乱を見事終了し、ローマ初代の皇帝に就任します。

 こんなことを思いますと、さらに現実に世界でいくつものこと、たくさんのことを思い出してきます。またあちこちで現実の経営者の方々と話していきましょう。

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