将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:李陵

10101213 だんだん、自分のUPしたことを読んでも、この中宮崇という人物の言うことに腹が立ってきました。

明確な障壁や葛藤が時代ごとに存在した欧米と違って、日本の純文学ってのは、主に個人的な心の葛藤ばかりを扱っており

 これは例えば、欧米の文学ではどれを指しているのかなあ。日本の純文学って、誰等の文学をいうのでしょうか。

漱石なんてクズニートだの甘やかされたどら息子とかの話ばかりだし、太宰なんていうまでも無いでしょ。例外は、悔しいことに、支那文学を下敷きにした芥川や中島敦などのごく一部だけでしょう

 ここでいうこの漱石の作品を具体的にあげてくれないだろうか。「話ばかりだし」なんて、私は漱石の作品に「クズニートだの甘やかされたどら息子」の話って、なんの作品なのだろうか。全然思い当たりません。ちょっと中宮崇という人物はひどすぎます、馬鹿すぎるのじゃないのかな。
 芥川龍之介の支那文学を下敷きにした話って、何をいうのかなあ。「杜子春」って、中国のモデルになった話は、女にさせられてしまう話で、芥川のとはまったく違います。
 それに中島敦の支那文学を下敷きにした話って、何ですか?例えば、『李陵』なんか、下敷きの話は中国にはないですよ。司馬遷、李陵、蘇武の物語を描いていますが、あの物語は中国にはありません。中島敦が『悟浄歎異』・『悟浄出世』を描いてくれたおかげで、沙悟浄は、どうやら、どういう怪物かが判ってきて、でもこの日本では河童と言われるだけです。中国には河童なんかいません。
 もうただ呆れはてたばかりです。

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中島敦の『李陵』で知られている李陵の詩です。この作品の『李陵』には、主人公李陵のほか、先に匈奴に使いして、北辺に閉じ込められる蘇武と、この李陵が匈奴に下ったことを非難する多くの中で、普通に弁護したために、宮刑にあってしまった司馬遷のことが書いてあります。
李陵は、漢の将軍として5千の歩兵を率いて匈奴に遠征しますが、匈奴の8万の騎兵とよく戦い、しかしついには匈奴に降ります。やがて匈奴の王の単于に丁重に扱われ、だがために漢では彼の家族はみな武帝の為に殺されてしまいます。
でも実は彼がこの匈奴に下る1年前に漢の使者として来て、捕まり北辺(シベリア)に囚われている蘇武がいました。
そして実は漢には、李陵を当たり前に弁護して、宮刑に会ってしまった司馬遷がいたのです。
このことは、以下の小説に書いてあります。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1737_14534.html
中島敦『李陵』

その李陵の詩です。

別歌 李陵
徑萬里兮度沙漠 万里(註1)を径(わた)りて 沙漠を度(わた)り、
爲君將兮奮匈奴 君が将と為(な)りて 匈奴に奮(ふる)ふ。
路窮絶兮矢刃摧 路(みち)窮(きはま)り 絶えて 矢刃(しじん)摧(くだ)け、
士衆滅兮名已貴 士衆 滅びて  名已(すで)に貴(註2)つ。
老母已死 老母已(すで)に死せり、
雖欲報恩將安歸 恩に報(むく)いんと欲(ほっ)すと雖(いへど) も                             将  (は)  た 安(いづ)くにか帰(き)せん。

    (註1)萬里(ばんり) 遥かな道程。
(註2)貴(本当はこざとへんに貴、おつ) くずれる、おちる。

遥か彼方へ出かけて、砂漠を渡り、
漢の武将となって、匈奴と奮戦する。
路は行き詰り、矢玉も尽き果て、刀も砕けた、
母はすでに死んだ(実際には武帝に殺された)。
親の恩には報いたと思っているが、はたしてどこにもどればいいのだろう。

中島敦の『李陵』を読まれれば判りますが、李陵のこの匈奴での20年間は実に大変な年月でした。でも思えば、彼はここで確実に生きていけたのかなあ、と私は思うばかりです。

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 漢の武帝(BC156〜87)は、前漢王朝の第7代の天子で、姓は劉、名は徹。16歳で即位し、在位期間は54年の長きにおよんだ。この作品は、武帝44歳のときの作品です。

   秋風辭      漢武帝
  秋風起兮白雲飛  秋風起こりて 白雲飛び
  草木黄落兮雁南歸 草木黄落(こうらく)して 雁南に帰る
  蘭有秀兮菊有芳  蘭(らん)に秀(はな)有り 菊に芳(かおり)有り
  懷佳人兮不能忘  佳人を憶うて 忘るる能(あた)はず
  泛樓船兮濟汾河  楼船(註1)を泛(うか)べて 汾河(註2)を濟り
  埣耄兮揚素波  中流に圓燭呂蠅董〜杷函蔽陦魁砲鰺箸
  簫鼓鳴兮發棹歌  簫鼓鳴りて 棹歌を発す
  歡樂極兮哀情多  歓楽極りて 哀情多し
  少壯幾時兮奈老何 少壮幾時ぞ 老いを奈何せん

  (註1)楼船(ろうせん) 二階造りの船。屋形船。
  (註2)汾河(ふんが) 黄河の支流。汾水。
  (註3)素波(そは) 白い波。

  秋風が立って白雲が飛び、
  草木は黄ばんだ葉を落として雁が南に歸る。
  蘭や菊が香るこの季節、
  美人を思い起こして忘れることができない。
  楼船を泛べて汾河を渡り、
  中流に横たわって白い波をあげる、
  簫と太鼓を鳴らせば、舟歌が起こる。
  歓楽が極まるうちにもなぜか憂いの思いが多くなる
  若いときはいつまでも続かぬ、老いていく身をどうしていこうか。

 この皇帝のときに、前漢が最隆盛の時代を迎えます。漢の高祖でも成し遂げられなかった匈奴を打ち破り、西域をも漢の支配権下に置きます。

 だが、この武帝の周りは、すべて帝を礼賛する臣下だけが集まり、匈奴と雄々しく戦った李陵を彼が匈奴に下ったからということで、妻子まで殺害し、さらにこの李陵をかばった知人の司馬遷を宮刑にしました。李陵は無実であり、司馬遷はどんな悔しい思いで生き延びたことでしょうか。そして、この皇帝のときに匈奴に使いした蘇武は、19年間バイカル湖のほとり送られていましたが(雄の羊が乳を出したら、漢に帰してやると匈奴が言ったといいます)、この武帝の死後次の昭帝のときに、帰国できました。
 この蘇武と李陵が一緒に詠った詩が今も残されています。
 そして李陵の無実を普通に言っただけでしたが、重い刑罰を受けてしまった司馬遷は、間違いなく悔しさの中で、『史記』を作りあげます。この時代は、まだ紙のない時代です。竹を切って、その竹の裏に書いたものが、この『史記』なのです。今読んでも、あれほどの膨大な歴史書は他には考えられません。
 したがって、どうにも私には好きになれない、この武帝ですが、この詩は、なかなかいいものだなあ、ということだけは感じています。

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司馬遷―史記の世界
書 名 司馬遷史記の世界
著 者 武田泰淳
発行所 講談社
定 価 380円(この値段は、古書の1968年版のものです)
発行日 1968年6月5日第1刷発行
読了日 2006年8月17日

 ちょうど湯西川温泉に家族で行った帰りに、ケータイブログを書いていたのだが、ケータイが電池切れで使えなくなった帰りの東武電車の中で、これを読み終わりました。読み終わったのが春日部駅でした。
 この本は義父の本棚を整理していて見つけて、「あ、義父も読んでいたんだ」と思っていたのですが、この電車の中で読み終わったときに、最後のページで赤羽の古書店「紅谷書店」のシールを見て、「あ、これは俺の本だったんだ」と気がつきました。いや、義父の本棚には、いくつも「あ、義父も読んでいたんだ」と思って、それを開けて見ていくと、それが私の本だということが、もう何冊もあります。

 私は1968年の秋、ちょうど学生運動で忙しいときに、紅谷で購入して読んでいたことを思い出しました。思い出せば、この本を読んだ数ヶ月後、私は東大闘争で逮捕起訴され、刑務所の独房に勾留されることになり、その中で、同じく前漢の武帝の時代に、獄に繋がれ、宮刑というおぞましい刑を受けた、司馬遷の思いをいつも、考えていたものでした。

 そして今回「任安に報ずるの書」は、前にも読んでいるはず(といっても37年前なのだが)なのですが、今回また新しく読んでいるような気になりました。司馬遷は、自分が庇うことにより、武帝の怒りを買うことになった李陵のことを書いています。司馬遷には、この李陵のことは決してそれほど親しい関係ではありませんでした。それでも司馬遷は彼のために当たり前のことを弁じます。

 私は李陵と共に、同一門下には居ましたが、もとからの親友ではありませぬ。行動も各々異なっていましたし、盃をあげ、酒を飲んで、友情をあたためたこととてありません。しかしながら、私が彼の人となりを観察するに、生まれつきの奇士でありました。親につかえて孝、士と交わって信、財物に対すること廉、取ること与えることに義、何かにつけて人に譲り、恭倹にして、へりくだっていました。常々奮発してわが身をかえりみず、以て国家の急に殉ぜんとの心は、彼の胸中に蓄積されてありました。李陵には国士の風がある、そう私は考えていました。(中略)
 しかるに今、この彼は、事を挙げて、一度失敗したからとて、一身の安全をはかり、妻子を安泰ならしめている官吏共が、その非を責めて罪におとしいれんとするのは、小生の私情、真に忍びえぬ悲しみであります。
 そればかりではありません。李陵は五千に足らぬ歩兵をひきつれ、匈奴戎馬の地深くすすみ、
(後略)
(いやもっと引用したいのですが、漢字が出てきません。それでここまでとしました)

 そして、司馬遷は、それほど親しい関係でもなかった李陵のことを普通に弁じたのですが、それがために、獄につながれます。そして武帝の怒りのために獄に繋がれ、そして死刑よりもつらい刑を受けてしまいます。

 司馬遷は生き恥さらした男である。士人として普通なら生きながられる筈のない場合に、この男は生き残った。口惜しい、残念至極、情けなや、進退谷まった、と知りながら、おめおめと生きていた。(第一篇司馬遷伝)

 これは最初に書かれている文です。
 でもこの悔しさの中で、司馬遷が生きることにより、あの「史記」を書きあげました。もし、彼がこの悔しさの中で生きることをしなかったら、私たちは、あの「史記」を目にすることはできなかったのです。
 ヘロドトスの「歴史」、トゥーキューディテスの「歴史」を読んでいますと、やはりギリシア人の、歴史に対するものすごい情熱を感じます。だが、この司馬遷の「史記」こそ、素晴らしいものです。私は思うのには、ヘロドトスもトゥーキューディテスも素晴らしいのですが、「史記」の「列伝」にあたるものはないと言いきれるかと思います。
 いや、もっと私が今回も感じたことがあります。「列伝」の最初に「伯夷列伝」を置いたわけ、「史記」の「表」の意味(私は「表」なんて少しもわけが判りませんでした)、司馬遷は、孔子よりも、老子のほうに親しみがあったのではないかということ、………………、その他いくつものことを、あらためて読んでいました。

 いや、ここでいくつも書きまして、この本は他の本と同じで、捨てようと思っていました(いや、今回はいい本だけれど、何冊も捨てました)。でも、これでは捨てられないなあ。
 そして司馬遷をまた思います。そして武田泰淳をまた思います。

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