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 私は 5月5日に谷中千駄木根津を歩きました の3 に次のように書いていました。

 やがて、言問通りをあるくと、私には実に懐かしく思い出す橋が見えてきます。この橋は、東大の農学部と東大の本郷の本部を結んでいる東大構内の橋です。この橋が懐かしいのは、私はこの橋を1969年1月9日に渡ったことがあったのです。

 私はこのときに、遥かな昔を思い出していました。39年の昔のことです。

 当日は東大闘争の真っ最中で、東大構内の教育学部と理学部の校舎を、日本共産党=民青が占拠しているところを、東大全共闘が奪いに攻撃をかけていたところでした。東大全共闘は、東大全部をバリケード封鎖したかったわけです。
 その闘いに、私も参加するはずなのですが、実は私は前日(だったと思うな)、自分の属するサークルの新年会で、飲んで頭から倒れ、頭を怪我しまして、この日は病院へ行っていたのです。それで、私はこの日の闘いには、遅れてしまいました。
 本郷三丁目から、東大正門を目指しても、もう赤門から正門前も、すべて機動隊がいっぱいで、構内に入ることができません。困ったなという思いで、私はこの農学部から入ろうと思いましたが、ここも機動隊が並んでいます。でも農学部前の門のところで、その機動隊の列が終わっていました。
 そこで、私は農学部へ入って、急いでこの橋を渡って、東大の本郷に入ります。急いでやっと安田講堂の前に着いたところで、約3分後、本郷の東大正門を破って、警視庁機動隊が催涙弾を打ちながら入ってきます。おそらく、日本共産党の部隊が追い詰められて、もう「これは、共産党を助けなくちゃ」と判断したものだと思います。
 たちどころに安田講堂前は機動隊の列が並びます。全共闘の部隊も一般学生も、雲の子を散らすように逃げました。ただ当日、教育学部を攻撃していた私の仲間は、「機動隊が来た」という声に、民青への攻撃をやめ、窓の外から下を見たら、機動隊の濃紺の制服姿でいっぱいだったと言っていました。
 その後彼も、催涙弾の攻撃を受け、顔を涙でぐしゃぐしゃにしていたら、東大生の学生が水道のところで顔を洗ってくれたといいます。そのあと、彼はノンヘルで、この安田講堂前の機動隊の前に、座り込みをしていました。
 私は、とにかく一人なので、どうにもなりません。そのうちに数時間が経過しましたら、まら機動隊が催涙弾を上めがけて打ち上げながら、安田講堂前の銀杏並木を列を並んで引き上げにかかります。
 私は、この日はすっかり出遅れてしまったわけで、北浦和へ帰りました。翌日また再び東大構内に入ると、今度は東大の本郷校舎はすべて日本共産党=民青部隊が制圧しています。全共闘の部隊が当日は駒場の教養部へ出かけており、この安田講堂には、数十名の部隊しかいません。でも安田講堂の見張りの全共闘の人が、私を入れてくれません。個人ですと、その人間がどういう人か判らないからです。
 それで困ったなと思いましたら、ある部隊が30人くらいでスクラムを組んで正門から入ってきました。中大全中闘の部隊でした。手薄な安田講堂を防衛のために来たわけですが、東大3丁目の駅からは、個人としてばらばらに歩いてきて、正門を通ってからスクラムを組んで、安田講堂まで急いできたわけです。私は「はっ」と気が付いて、この部隊にスクラムを組ました。偶然私と一緒に来た仲間が、そのときの中大全中闘の部隊の指揮者を知っており、それで私たちは、そのまま安田講堂に入りました。さきほどの、安田講堂の見張りの人も、私たちを見て、「よかったね」と笑顔でいました。
 それから、翌日の昼ごろまで、日共=民青の軍事部隊との長い闘いが始まりました。

 このあとの出来事は、私のホームページ内のどこかに書いてあるはずです。
 そして、そのあと私は1月14日から、さらに安田講堂で寝泊まりして、やがて19日に逮捕され起訴されて、しばらく府中刑務所に勾留されることになりました。
 そんなことを、昨日のこの橋の下を歩くときに、脳裏にしみじみと甦らせていたものでした。その橋がここに載せた画像です。