将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:東大安田講堂

12090605 また書きます。
 周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ以下のコメントがありました。

2. Posted by 当時の芝浦生より   2012年09月05日 14:08
将門さんはじめまして。
朝に、大宮校舎内の寮生活者が起きるのはいつも遅かったのですが、ヘリコプターが上空を舞う音で起き、「事件」を知りました。
15日夜遅くに、バリケードから去るに当り、滝沢さんにお腹がすいたらインスタントラーメンをどうぞと言い伝え、大学講堂の椅子や机の細いトンネルをくぐり抜けドアを閉め最後に帰ったのが私です。
69年4月入学の私が運動には新入であり、生意気にも大学には境界はなく、どの大学も学生のために解放されてるなどと滝沢さんにも話をしました。
ラーメンの話をした時は座っていた滝沢さんは口頭では返事もせず、背筋を伸ばし、なにか考えごとをしてるようでした。

滝沢さんは、「これは美味しいパンだなあ」と丁寧な言葉で言ったことには、私は鮮明に記憶があります。

この文は心からわかるのです。温厚で心優しいお方との印象は今も忘れておりません。
窓下にたくさんの大宮の学生が花を供え黙祷しました。

12090608  ありがとうございます。私たちが「芝浦工大事件」と呼んできたものですね。あれは1969年9月19日早朝に起きた事件でした。
 前日9月18日に埼玉大学文理校舎のバリケードに、不審な黒ヘルメット姿の10名くらいが襲ってきました。そしてTという理工学部の男を拉致していきました。この不審な集団は言うことは早稲田の革マル派のようでした。でも真実は中核派が革マル派を装った姿でした。そしてこの日は早稲田の革マル派も、早稲田他の反戦連合が襲ってくるということで、構えていたといいます。
 要するに、みんな何かを構えていたのですが、それはみな誰かが流したガセ情報でした。でも事実は文理のバリケードにいた埼大生はこの不審な黒ヘル集団に襲われ中には怪我をしていたものもいます。
 私は当日北浦和のロビンという喫茶店で、東大闘争での埼大生の被告団会議をしていました。それで急遽この喫茶店への「早稲田の山本派(革マル派のこと)が襲ってきた。来てくれ」というので、急いで駆けつけたのです。このときの被告団の中の中核派のMさんは、埼大文理の正門で消えました(そのとき気がついたのでしょう。あとでMさんは、あくまでこの中核派の行動に反対していたということでした)。
12090609 私は埼大のバリケードに入って、現場の惨状を見るときに、「これは革マルなんかじゃない。学生運動というのはなんという恐ろしい世界だ」と思ったものです。私は8月20日に東大闘争で保釈になったばかりで、まだ1ケ月も過ぎていなかったのでした。
 当日はこのバリケード内にも中核派の諸君もいました。その中の一人が、滝沢さんが芝浦工大にいるということで、タクシーで訪れたのですが、滝沢さんは「Tのことは知らない」としか言わず、そしてとても眠たがっていたということが伝えられました。これは私たちは埼大文理学部ではなく、そこから徒歩15分くらいの経済学部で聞いたもものです。そのときには、私たちは、いわゆる反戦連合(とかいうのがあったそうだ)の部分だけでなく、中核派の人もその他の人も30人くらいになっていました。
 とにかく、拉致されたTを救出するのには、芝浦工大へいかなければならないということで、私たちはタクシーで東大宮の芝浦工大へ向かいました。行ったのは全部で23人でした。この中には中核派の人もいました。
 そしてそこで起きたのが滝沢さんが2階から飛び降りるという事態でした。そして彼は頭を打って亡くなるということになってしまいました。
 これで私たちは、内内ゲバ殺人事件の犯人とされ、12月9日に私は浦和地裁前で逮捕され、朝霞警察署に拘留されました。
 中核派で前日襲った部隊は外部大学の部隊ばかりで、滝沢紀昭さんのみがいたようです。このときの滝沢紀昭さんの気持は今は分かる気がします。

滝沢さんは、「これは美味しいパンだなあ」と丁寧な言葉で言ったこと

というのは、これは東大安田講堂の中でのことですが、私が東大に行く前に、王子から都電に乗る前に、王子の明治堂というパン屋で、パンをいくつも買って行ったのですが、ここは今の和弘さんのお父さんが現役で作られていたのです(もうお父さんは亡くなられました)。このときの私たち若者は、このお父さんにも大変に印象が強かったようです。
12090610 いえ、なんでそんなことを私が知っているかというと、のちにここの長女が私の彼女になったからです。あの頃はたくさんのことがいっぱい起きていたのでした。
 思えば、王子は王子野戦病院闘争からずっと訪れている街です。たくさんのことがあったものでしたね。王子柳田公園は今私が毎日通る路になっています。

11100701  昨日の「男の隠れ家」の取材はうまく愉しくいきました。5月27日発売になります。そのあとライターのHさんと赤羽「まるます家」で飲みました。ここはヒサンないい飲み屋(私の「ヒサン」とは褒め言葉)でしばらく飲みました。それから用のある彼と別れて、谷中の「双葉」でまた飲みました。いろいろな知り合いとたくさんお話して、そしてたくさん唄(詠)いました。詩吟は2曲「絶命詩」「川中島」。あと私の唄ったのは、鶴田浩二「街のサンドイッチマン」、渡辺はま子「蘇州夜曲」、高峰秀子「銀座カンカン娘」、その他忘れた。いつもいい歌声を聞かせてくれるSさんにせがんで唄ってもらったのが、林伊佐雄「ダンスパーティの夜だった」、フランク永井「公園の手品師」。

 それから突如、この店のすぐ近くの「檸檬屋」で宮崎学さんのなんかの会合をやっていたなと思いだし、その店にいきました。入るなり、宮崎さんが「あ、萩原君、ひさしぶり」と声をかけてくれます。そこでまた飲み出しましたが、途中からあんまり記憶が定かではありません。皆さんは、タイの田中裁判のことを真面目にお話していました。私はそこでまた詩吟をやり、軍歌も唄っていたかもしれません。 ただ、強烈に覚えていることがあります。

 私は宮崎さんは大好きな方であります。彼の出版されている限りの本はすべて読みましたし、その人がらに強くひかれるものです。ただし、30年前の彼は、私の敵であった日本共産党の軍事組織の長であったわけです。それで、私としては、彼の周りには、今でも、あの当時の日共あかつき部隊に属した人がいることだろうと思ってきました。もはやそうした方も日共ではないでしょうから、愉しく飲み合う関係になれるのでしょうが、どうしても会いたい人物が私にはいるわけです。このことを私はこの飲んでいる席で宮崎さんに聞いていきました。
 今から30年前の1969年1月11日の夜に私は東大安田講堂にいました。当日は全共闘の部隊は東大駒場で日共との戦闘に入っており、安田講堂は中大全中闘を中心として100名を足らない人数しかいませんでした。私も埼大の友人とともに、この全中闘にまぎれて安田講堂に入ったものでした。
 その夜午後9時ころ、予想どおり、日共の軍事部隊が安田講堂に攻撃をかけてきました。こちらは、とにかく人数が少ないですから、それぞれ担当部署をきめて、守備になります。私は安田講堂西側の階段を一人で守っていました。もう私は石を投げるだけではなく、ありとあらゆる日共の悪口を敵に投げかけます。日共も相当頭に来たのか、とにかく大勢で私めがけて石を投げてきます。ときどき、全中闘の指揮者が見回りにきますが、「なんだ、ここはとくにひどいな」といいます。そして「あんまり挑発に乗らないように」なんていいながら、急に日共に、「お前ら一度でも権力と闘ってみろ!」などと怒りだし、彼こそが挑発にのり、かつ相手を挑発しだして石を投げ出します。
 とにかくこの戦いは長時間続きました。トイレに行くときには、「おい、今しょんべんしてくるから、待ってろ!」と日共諸君に声をかけて、また戻って同じ戦いをしていました。だんだん、彼らが迫ってきまして、次第にすぐ近くで顔は判りませんが、声や背丈で相手を区別できるまでになります。そんなときに敵の一人が私めがけていいます。

  おい、そこのトロツキスト!、そこを出てこい、出てきて1対
  1の差しの勝負をしようじゃないか!

 私はこのセリフを聞いたときに不思儀な思いにとらわれました。

  え、「差しの勝負」なんて、それは俺らが使う用語じゃないか。
  なんで日共民青があんな言葉使うんだ!

 だって私らこそが、そのころからヤクザ映画が好きだったのですから。たしか私は、

  バカヤロウ! 「差しの勝負」なんてセリフは俺らが使う言葉
  だ、おう、いつでもやってやるよ!

と答えたかと思います。
 その後の展開は、この「周の発言」の1998年11月22日に書いた内容になりました。
 だから、私はこのときの相手を探しているのです。まず出会うことはありえないと思っていましたが、今はこうして、あのときの敵であった日共の軍事組織の長である宮崎学さんと知り合いになることができたのです。宮崎さんがお一人のときは仕方ないけれども、こうして大勢集まったときには、あのときの日共の相手もいるのではないかと思って私は、この会合で

  あの、ここに昔日共の軍事組織に属していた人で、1969年
  1月11日の夜安田講堂を攻めてきた方がいませんか。あのとき
  …………………(と説明しまして)、その約束を果たせたらと思
  うんです。

と言い出しました。宮崎さんにも、誰か思い出せないものかと聞いていったのです。宮崎さんは、「そんなもん、覚えとるかい!」と怒られてしまいましたが、やっぱり残念だなあ。
 でももう30年がたってしまったのですね。(99/04/18 14:00:56)

11040910 周の掲示板に、この書き込みがありました。

  私周こと萩原周ニは、いわゆる三派全学連、全共闘の世代で、文字通りその中で激しく生きてきました。三里塚闘争、王子野戦病院闘争にも参加し、東大安田講堂で1969年1月19日に逮捕起訴され、この年の8月20日に保釈出所しました。
 ただ翌月9月18日の芝浦工大殺人事件(殺人でもなんでもない、事故ですが)で、12月10日にまた逮捕され、翌1月何日かに起訴されました。
 私は昭和23年5月30日の生まれですから、文字通り団塊の世代(堺屋太一が団塊は名づけ親ということです)となりますが、ただ、思想的には、常に反帝反共を主張し、思想的には、北一輝の思想を受け継いでいるつもりでした。
 ただ、このことで、何度かテレビにも出たものですが、この世代は、長髪で昔はビートルズに憧れているのが大事なようで、私のように、坊主頭で詩吟を常にやっているというようなのはテレビ局のほうでも駄目なようです。仕方ないんですよね、私は毛唐の音楽なんか知らないのですよ。
 イターニンさんが、私を貶したいのか褒めたいのか、どうでもいいのか分かりませんが、人はいろいろです。私は逮捕されたときも、最初の弁護士の接見で、私の「天皇制を支持する」というようなことは、黙っているようにと言われたものです。もうどうでもいいことですがね。私は何といいましても、平将門を尊敬するのですから、そんなこと、わけが分からないよね。

 私は当然に共産主義・マルクス主義は嫌いでした。でも当然資本主義も嫌いでした。でももうすべてが遠くへ行きました。
 王子野戦病院闘争で、最初の集会場だった、王子柳田公園が綺麗になりました。私はいつもそこを通って昔を思い出しています。もう私の孫がそこで砂場遊びをしているのです。

11011707書  名 東大落城
著  者 佐々淳行
発行所 文芸春秋

  この「東大落城」という連載が文芸春秋に最初掲載されたときにすぐ早速買ってきましたが、1回の読みきりでないと知ってすこしがっかりしてしまいました。そしてこうして単行本になったのを知り、また早速買ってすぐに読んでしまいました。1969年1月18、19日の東大安田講堂を中心とした72時間の攻防を警察機動隊の側から書いた記録です。

  二日間に東大構内で逮捕された、合計六百三十三名の各セクト過
  激派学生のうち、東大生はわずか六パーセント・三十八名。残りの
  九四パーセント・五百九十五名は、北は北海道から南は九州まで全
  国四十五の官公立、私立大学から応援にかけつけた“外人部隊”だっ
  たのである。

 私はこの「外人部隊」でした。ただ私はこのことで特別東大生がどうだこうだという気は全くありません。むしろそれだけ当時の私たちにとって、東大闘争はかなり大事な闘いであったということだと思っています。

 私は1月12日から中大全中闘と一緒に安田講堂に入りました。ひとりだと入れてくれないのです。当日夜まず安田講堂は日本共産党=民青の襲撃を受けました。当日全共闘の部隊は駒場に出かけており、安田講堂には100名にたりないくらいの部隊しかいませんでした。この日安田講堂を攻撃してきた日共の姿は、18日に大挙して襲いかかってきた機動隊と同じ姿です。国家の露払いとしてやってきたものと思いました。
 それから安田講堂にいたわけで、講堂に中にあるグランドピアノを弾いていた学生がいたこととか、とおくからわざわざ来た高校生のこととか思い出します。
 ただこの本は、私たちを攻撃してきた側の人間が書いているわけですが、それほど読んでいて不愉快にもなりません。でも事実は書いておいたほうがいいでしょう。いくつも書く気にはなりませんが。ガス銃の水平撃ちに関してです。

  照準器も施錠もない滑腔・先込め催涙ガス銃では、当てようと思っ
  ても当たるものではない。何千発と発射されたうちの一発がたまた
  ま顔に当たったもので、

 よくまあ、こんな大嘘が書けるものだ。私は屋上で何発か身体にくらっている。最後に逮捕されるときには、目の前1メートルくらいのところから発射した機動隊がいた。ちょうど私の隣にいた学生の右手にあたった。彼とは同じ留置場だったが、中指の骨がつながってなかったといっていた。

 しかしなんにせよ、この著者にはあまり敵意も感じないものですが、やはりなにか私たちのことをあまりに誤解しているところがあるように思います。最後のエピローグ「平成世代との断絶」というところで、湾岸戦争のときあるテレビの深夜番組で全共闘世代と平成世代との討論があり、そこでの私たちの世代の出席者は、口々に現代学生、青年のノンポリぶりや、「ひとり幸福主義」を批判したとあります。これじゃまるで私たちが「今の若いものはなっていない」と愚痴るおっさんみたいですね。

  平成世代の若者はさめた目で先輩たちを眺め、熱弁を聞き流し、
  鼻で笑って反論する。
 「貴方たちをみていると、全共闘時代はよかったなんていいながら、
  居酒屋で酒をのみお互いに傷をなめあっているオジンとしてしか見
  えませんよ」……「いまのボクらにとって大切なことは、アルバイ
  トをして、お金稼いで、いい車買って、楽しくデートすることで、
  デモなんか無意味ですよ」
 と言い放つ。
  心の傷にふれられた全共闘世代は声を荒げて反論する……この互
  いに接点のない不毛の議論は私を悲しくさせた。

 なんでこんなことで悲しくなるのだ。はっきりしていることじゃないか。こういう議論の内容だとしたら、この平成世代の若者のほうがずっとましだ。そしてこの内容だと、この若者たちの方が正しい。だけど私たちの世代って、こんなに質が悪いの。こんなに格好悪いの。私は「酒のんで傷なめあっているオジン」なんていわれたら、それはそれで嬉しくなっちゃうけどな。
 私たちの世代の時も、この若者たちの時も別にそれはそれで等価値ですよ。
  だけど私はなんせ私たちの時代は面白かったのです。だからいまも酒飲んでたのしく「傷なめあっているんです」よ。
 どうもこの著者は私たちを尊敬しすぎているように思います。私たちが私たち自身の誤りについてちゃんと総括していないから、このような「政治的無関心」「自分の命と幸福が最大の価値と考える」世代が生まれたのだという。もしそうだとしたら、それはきわめて私たちはいいことをしたものだと思います。私はたしかに私たちの世代があの時代も今もまだちゃんと総括できてはいないと思っています。しかし、今の「自分の命と幸福が最大の価値と考える」世代がでてきたのが、私たちのせいだとしたら、そしてそれは私も間違いないことだと思っていますが、やはりあの時代を闘ったことは良かったと心から思っています。

 でもいろいろ知らなかったことがありました。とくに私に関係したところでは、安田講堂の上にきたヘリコプターにパチンコを撃ってそれが効果あったというのを、これで初めて知りました。あんなの全然効果ないとばかり思っていましたが。私は嬉しくなって、ニューヨークにいる親友に早速「おいあのときのパチンコも無駄じゃなかったんだ」と電話してしまいました。

  透明なプラスティックのヘリコプターの風防にパチンコ玉がカチ
 ン、カチンとあたり、ひびが入る。
 「宇田川代理、危険です。退避します」
 

 実に24年目にして知る楽しいことでした。

 それから、昨日詳細に見ていて、「やっぱりそうだ」ということがあります。この本の最初のグラビアで「火炎ビンを投下する学生。典型的な“ゲバ・スタイル”」という写真の学生は、24年前の周です。(1993.04.08)

10091704 私も昔のことをずっと思い出しました。

2010/09/22 07:07大阪の検察のやったことはひどすぎます。でもこれはもともとやっていたのじゃないの。私が昔東大安田講堂で逮捕されたときには、検察官なんかまったく相手にしなかったので、ほぼなにも思いませんでした。はっきり言って検察官というのは、「能力ないな」という思いしかありませんでした。警察官、検察官、裁判官を比べると、検察官が一番無能に思えたものでしたが、でも今は違うのかなあ。
 でも少し真面目に考えると、裁判官っていうのが一番悪い感じでしたね。でももう今はどうでもいいです。
 でもなあ、あのときは弁護士さんもよく私はわからなかったなあ。
 最初に留置場の警察の東調布署の接見室で弁護士さんと面談したときに、私は自分が「天皇制社会主義者」であることを述べましたが、そのときには弁護士さんは何も言わず無言になってしまっただけでした。
2010/09/22 07:44この「周のポメラ」を一昨日のもUPをしていませんね。それをUPしないとなりませんね。2日分連続してやります。
 昨日次女ブルータスとケータイメールで会話しました。きょうは私も完全にできるようにしないとなりません。小さい動画をケータイメールでも送受信しないとなりません。いやもちろん受信はできるのですが、送信がよく分からないのです。そもそもそのファイルをどこに置くのかフォルダをどこに作るのかですね。どこかインターネット上に作ればいいのだろうな。少し必死にやりましょう。
 もうすぐ「ゲゲゲの女房」です。これが今週で終了するのが寂しいです。
 さてその番組が始まります。
2010/09/22 07:59さて「ゲゲゲの女房」です。

 今週で「ゲゲゲの女房」が終わりますね。なんだか、とっても悲しいですね。

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 本日の10:36に届いていたHA茶さんの『独楽吟のススメ』です。

「2010/01/11 【No.1908】わたしの独楽吟(どくらくぎん)」を読んでの周の感想。

きょうは成人の日で祝日。私の住む町は昨日成人式で大勢の新成人が着飾って 家の前で写真を撮りあったり 和やかな雰囲気が伝わり幸せでした。

たのしみは 華やか和服の 新成人 ピースでこちらに 笑みくれる時

たのしみは 夫と二人 今話題の 3D映画を 鑑賞する時

たのしみは 久しぶりなる 風邪引きで 卵酒など 飲んでみる時

3連休でよかったです。熱を出してしまいました。でも、もう大丈夫また明日から強気で仕事に出て行きます。

 成人式の日なんだ。私の長女が成人式で何か挨拶をする役割だったことを覚えています。でも私は会場にはいけなかったなあ。いつも私はそういうときに参加出来ていません。あ、孫のときに出よう。
 私の成人式は1968年1月15日で、私は東大安田講堂の一番てっペんの屋上にいました。うつ伏せで下の集会を眺めていたものです。思い出せば、私はあの講堂にはずっといたのでしたね。9日の夜からずっといたんだなあ。
 3D映画って何かなあ? 私にも判るのかな。昔そんな雑誌がありましたね。
 先日卵酒って、初めて飲みました。でもあれは酒じゃないね。あれはあれで美味しかったけれど、お酒はお酒で飲みたいものです。

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 れんだいこさんから、私の掲示板に、次の書込みがありました。

れんだいこ新著のお知らせ  投稿者:れんだいこ  投稿日:2009年 4月12日(日)12時46分48秒
 久しぶりの闖入をお許しください。遅くなりましたが、れんだいこの処女作のお披露目をさせてください。

 この本がここに画像をあげたものです。私は昨日アマゾンで注文しました。明日あたり着くんじゃないかな?
 それで、以下読みますと、以下のように書いてあります。

 あの日不思議なことに次のような思い出があります。れんだいこは高校三年生でしたがたまたま遅刻し、教員室へ遅刻届を提出しに行ったところ、授業開始ブザーが鳴っていたにも拘らず数名の教師が釘付けでテレビを食い入るように見ておりました。物分かりが良いというか、れんだいこを見て、「おおっ**君、君もどうぞ」と誘ってくれ、暫くの間一緒に見続けた記憶があります。それほど先生方にも関心の強かった事件であったと云うことと、今日では信じられない情味のある教師たちが居たと云うエピソードと共に蘇って参ります。

 れんだいこさんは、私より2歳年下なのですね。私はちょうど大学2年で、このときのテレビの画面の安田講堂のほうにいたわけです。
 私がいましたのが、ここにれんだいこさんの本の画像を載せましたが、ちょうど赤の矢印の先のあたりにいつもいました。この画像は69年1月18日ですね。19日は、もう放水ばかりで、こんな景色にはならなかったのではないかな。あとヘリコプターは、18日にはけっこうやってきて、催涙液をふんだんに撒きました。あの液は怖かったですね。
 ただ18日には、そのヘリコプター目がけて盛んにパチンコを打ちましたから、もう19日には来なくなりましたね。たぶん、ヘリコプターには、けっこう当たったのではなかな。

 しかし、思えば、この東大安田講堂のことは、いつまでも記憶されますね。私は、この安田講堂での逮捕起訴勾留のあと、保釈になって、また69年末にも別な件で逮捕起訴勾留されたのですが、そこでもこの安田講堂のことはいつも話題になりました。いえ、その後就職しても、何にしても話になりましてたね。私が自分の思想を語ると、また不思儀なものを目にするような話になったものでした。

 またれんだいこさんの、この本を読みましたら、私の思いを書いてみます。

08060102 きょうが、こうして晴れまして、実にいい天気で、ベランダの排水路工事ので最後の仕上げで壁塗りをしてくれています(いや壁を塗っているわけじゃないけれど、どう言ったらいいのか判らないので)。
 それでその工事をやっている方が、フェンスを越えてやっています。もう私はそれを見ているだけで怖いのです。自分がやっているわけではありませんが、そのやっている人を見るだけで怖いのです。
 それで、そのやっている方にも話したことなのですが、私も大昔東大闘争のときに、1969年1月18日のことですが、あのときは、東大安田講堂の屋上をとび回っていました。18日はよく晴れていて、空気が乾燥していて、機動隊の打つ催涙弾が屋上裏の屋根で燃え上がることがあります。そうすると、私たちが消化器をもって、後の斜めになった屋上を飛び跳ねて、それを消しにいきます。
08060103 思えば、もう今では考えられないことですね。今のじいじの私ではとうていできないことです。

 そういえば、もう一つ喋ったことですが、昔は私は、ディズニーランドなんて、少しも行きたくありませんでした。酒の飲めないところなんて、存在がくだらないです。でもでも、今の私は孫のポコ汰を連れてディズニーランドに行きたいです。ミッキーマウスやドナルドダックのそばにいるポコ汰を見たいものです。
 これはたった今のことです。今終わって10時40分工事の方が帰りました。ありがとうございました。

 ここに掲げた二つの写真が、その排水路です。

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 一つ前のUPの ヤフーがスイカと“強力提携”を書いているときに、引き続き書いていたのが、このUPです。ただ、書いているうちに、少しかけ離れていることでもあるなと思い、こうして別にUPします。
 以下にように書いたことです。

 ただし、いったん、何か事故が起きますと、大変なことになるなあ、と思っています。その事故とは、SUICA等の事故ではなく、私たち個人の側の事故でも、いったん、不良な個人ということになりますと、もう一般の社会では生活していくのが、実に困難にならざるをえないことになってしまうかと思います。
 そのことが大変に怖いことだな、と思っています。

 このことで、私は引き続き、次のように書いていました。

 私は学生時代は、いわゆる反体制の側で必死に闘っていた活動家でした。東大安田講堂で逮捕起訴され、そのことでは、ずっとあらゆるところで体制側に見張られてきた思いがしていたものでした。でも私の場合は、さらに芝浦工大事件というので、さらに、いわば同じ反体制派である側からも敵として見放されてきた思いがあります。
 そしてそれが、そのときからもう30年がすぎ、もうすぐ40年になろうとするときに、まだまだ変わらないことを感じています。
 でもでも、そんなことは別に構わない、そもそもその覚悟は決めて生きてきたつもりです。ただ、それでも、そうしたことに関するデータベースが変わらないことを思いますと、少々たまらないなあという思いになります。

 ずいぶん、昔飲み屋でのトラブルのとき(それは結果として警官が出てくるようなとき)などに、最終的に大きな交番や警察署に行ったりすると、私の名前と生年月日をいいますと、端末で調べると、必ず私のことが判ります。ときどき判らないことがあると、そのときには私は素面になって、「ちゃんと入力していないんじゃないの?」ということで、入力データをちゃんと言いますと、「あ、出てきた」というので、私のことを確認して驚きの声をあげます。私の学生運動での逮捕起訴歴が画面に出てくるからです。
 でもこれは別に構わないのですが、それが何年にも渡って、私の同じ履歴を繰り返していることには呆れ果てます。我孫子では、もう来る警官には、実に私は呆れ果て、怒っていました。いえ、私が弾圧されているからとかそういうことに怒っているのではなく、ただただ、新たなデータに更新できていないから、私は嫌になっているのです。

 いろいろなデータは、間違いなく最新のデータに更新していかないとどうしようもありません。そうしたことをちゃんとやってほしいよなあ、と私はいつも思っています。

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