将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:東大落城

『東大落城』の著者であり、近ごろ「危機管理」の専門家というので、テレビ雑誌等々でよく目にする著者の最初の著作を読んで見ました。

書 名 目黒警察署物語
著 者 佐々淳行
発行所 文春文庫
1994年2月10日初版発行

11060206 著者が東大を卒業して国家地方警察本部に採用され、警察大学校で訓練ののちに、最初に赴任した目黒署での勤務の記録です。
 この著者が地方警察(地警と省略した)といういわば国家公務員から、地方公務員である目黒署に赴任したというのは、今では理解しにくい出来事があるわけです。
 戦後は日本の警察制度は占領軍によって、アメリカ式に市や町が警察権を持つことになりました。これが自治体警察です。財政上この自治体警察を持てない小さな町や村のみを管轄する「国家地方警察本部」も作られました。結局は自治体警察は、地警に併合されていってしまうわけですが、自治体警察の抵抗は相当なものがあったようです。この著者が警察官になったころは、その自治体警察の側の抵抗が直接著者に向けられたと思われます。
 また著者はもう警部補の資格を有しており、しかも東大出でした。東大出身に関しては、レッドパージ(赤狩りではなく、東大の赤門出身者をパージするというような意味)ということで、現場では嫌っていたようです。戦前にも東大出は資格制度によって、警察の幹部を独占しました。戦後、占領軍によって、それがのぞかれたのに、戦後もこの頃になると、また資格制度が復活してきたのです。その最初の頃、まさしくその資格をとった東大出が著者だったわけです。これは当然、現場ではあつれきがあって当然だったでしょう。
 私が大昔学生運動で逮捕されていたときにも、この警察の資格制度には驚いたものです。現場のたたき上げの刑事よりも、ずっと年下の大学出が職制上、上司になっていることがあるのです。また夜留置場に来る各交番(これは埼玉県警の場合。警視庁では、交番の警官が留置場に来ることはなかった)の若い警官達は、よく勉強をしていました(もちろんしない人もいるわけですが)。聞くと、試験を受けて資格を取って、上級に進んでいかないと、警察というところはどうしようもないのだというようなことでした。いや若い人ばかりではなく、けっこう年取った方々も、懸命に勉強していましたね。でもどうみても年期の入った刑事さんの上司がその息子見たいな年だと、なんだか見ていられない感じでした。
 でも、この著者は、そうした嫌な雰囲気の中でも懸命に努力していきます。現場の警官たちともうまく連携して仕事を成し遂げて行きます。それがなんだか読んでいる私には思わず「良かったな」と著者の側に身を入れてしまうくらいなのです。
 また、この著書にはこの目黒署での勤務の記録だけではなく、著者の戦前戦中、そして戦後の生活が回想としてまいります。これがかなり読んでいる者に、どうしても著者の側に身を入れてしまうことになるのかなと思うところです。著者の数々の体験は私たちと同じ一般庶民のものなのです。そしてその回想に出てくるのが、東京という街なのです。東京の街をこの著者は本当に好きなのだなと思いました。東京への街への愛着が、著者が警察という組織に身を置いた一つの理由かななんて、想像します。
 私はどうしても過去の自分の体験から、警察官というと、身構えてしまうところがあります。どうしても、私たちの敵であると思い込んでいるところがあるわけです。また、この著者こそは私たちが学生運動をやっていたときの、弾圧の側の最前線の指揮者だったわけです。でもそうではあっても、どうしてか、この著書を読んでいくと、私たちと同じ感性を持った親しみの持てる人間の存在を感じてしまいました。(1997.05.17)

11011707書  名 東大落城
著  者 佐々淳行
発行所 文芸春秋

  この「東大落城」という連載が文芸春秋に最初掲載されたときにすぐ早速買ってきましたが、1回の読みきりでないと知ってすこしがっかりしてしまいました。そしてこうして単行本になったのを知り、また早速買ってすぐに読んでしまいました。1969年1月18、19日の東大安田講堂を中心とした72時間の攻防を警察機動隊の側から書いた記録です。

  二日間に東大構内で逮捕された、合計六百三十三名の各セクト過
  激派学生のうち、東大生はわずか六パーセント・三十八名。残りの
  九四パーセント・五百九十五名は、北は北海道から南は九州まで全
  国四十五の官公立、私立大学から応援にかけつけた“外人部隊”だっ
  たのである。

 私はこの「外人部隊」でした。ただ私はこのことで特別東大生がどうだこうだという気は全くありません。むしろそれだけ当時の私たちにとって、東大闘争はかなり大事な闘いであったということだと思っています。

 私は1月12日から中大全中闘と一緒に安田講堂に入りました。ひとりだと入れてくれないのです。当日夜まず安田講堂は日本共産党=民青の襲撃を受けました。当日全共闘の部隊は駒場に出かけており、安田講堂には100名にたりないくらいの部隊しかいませんでした。この日安田講堂を攻撃してきた日共の姿は、18日に大挙して襲いかかってきた機動隊と同じ姿です。国家の露払いとしてやってきたものと思いました。
 それから安田講堂にいたわけで、講堂に中にあるグランドピアノを弾いていた学生がいたこととか、とおくからわざわざ来た高校生のこととか思い出します。
 ただこの本は、私たちを攻撃してきた側の人間が書いているわけですが、それほど読んでいて不愉快にもなりません。でも事実は書いておいたほうがいいでしょう。いくつも書く気にはなりませんが。ガス銃の水平撃ちに関してです。

  照準器も施錠もない滑腔・先込め催涙ガス銃では、当てようと思っ
  ても当たるものではない。何千発と発射されたうちの一発がたまた
  ま顔に当たったもので、

 よくまあ、こんな大嘘が書けるものだ。私は屋上で何発か身体にくらっている。最後に逮捕されるときには、目の前1メートルくらいのところから発射した機動隊がいた。ちょうど私の隣にいた学生の右手にあたった。彼とは同じ留置場だったが、中指の骨がつながってなかったといっていた。

 しかしなんにせよ、この著者にはあまり敵意も感じないものですが、やはりなにか私たちのことをあまりに誤解しているところがあるように思います。最後のエピローグ「平成世代との断絶」というところで、湾岸戦争のときあるテレビの深夜番組で全共闘世代と平成世代との討論があり、そこでの私たちの世代の出席者は、口々に現代学生、青年のノンポリぶりや、「ひとり幸福主義」を批判したとあります。これじゃまるで私たちが「今の若いものはなっていない」と愚痴るおっさんみたいですね。

  平成世代の若者はさめた目で先輩たちを眺め、熱弁を聞き流し、
  鼻で笑って反論する。
 「貴方たちをみていると、全共闘時代はよかったなんていいながら、
  居酒屋で酒をのみお互いに傷をなめあっているオジンとしてしか見
  えませんよ」……「いまのボクらにとって大切なことは、アルバイ
  トをして、お金稼いで、いい車買って、楽しくデートすることで、
  デモなんか無意味ですよ」
 と言い放つ。
  心の傷にふれられた全共闘世代は声を荒げて反論する……この互
  いに接点のない不毛の議論は私を悲しくさせた。

 なんでこんなことで悲しくなるのだ。はっきりしていることじゃないか。こういう議論の内容だとしたら、この平成世代の若者のほうがずっとましだ。そしてこの内容だと、この若者たちの方が正しい。だけど私たちの世代って、こんなに質が悪いの。こんなに格好悪いの。私は「酒のんで傷なめあっているオジン」なんていわれたら、それはそれで嬉しくなっちゃうけどな。
 私たちの世代の時も、この若者たちの時も別にそれはそれで等価値ですよ。
  だけど私はなんせ私たちの時代は面白かったのです。だからいまも酒飲んでたのしく「傷なめあっているんです」よ。
 どうもこの著者は私たちを尊敬しすぎているように思います。私たちが私たち自身の誤りについてちゃんと総括していないから、このような「政治的無関心」「自分の命と幸福が最大の価値と考える」世代が生まれたのだという。もしそうだとしたら、それはきわめて私たちはいいことをしたものだと思います。私はたしかに私たちの世代があの時代も今もまだちゃんと総括できてはいないと思っています。しかし、今の「自分の命と幸福が最大の価値と考える」世代がでてきたのが、私たちのせいだとしたら、そしてそれは私も間違いないことだと思っていますが、やはりあの時代を闘ったことは良かったと心から思っています。

 でもいろいろ知らなかったことがありました。とくに私に関係したところでは、安田講堂の上にきたヘリコプターにパチンコを撃ってそれが効果あったというのを、これで初めて知りました。あんなの全然効果ないとばかり思っていましたが。私は嬉しくなって、ニューヨークにいる親友に早速「おいあのときのパチンコも無駄じゃなかったんだ」と電話してしまいました。

  透明なプラスティックのヘリコプターの風防にパチンコ玉がカチ
 ン、カチンとあたり、ひびが入る。
 「宇田川代理、危険です。退避します」
 

 実に24年目にして知る楽しいことでした。

 それから、昨日詳細に見ていて、「やっぱりそうだ」ということがあります。この本の最初のグラビアで「火炎ビンを投下する学生。典型的な“ゲバ・スタイル”」という写真の学生は、24年前の周です。(1993.04.08)

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