将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:東大闘争

11082911 昨日、「日経23plus+」9月号を手に取りました。最初の1ページ目の中江有里の写真で私は、「あれ、中江有里だ!」ということで、中に書いてある記事を読み出しました。

 樋口一葉のことを書いています。『たけくらべ』『にごりえ』は、中学2年の時に読みましたが、『たけくらべ』の内容は美登利の印象が強いです。でも『にごりえ』は少しも覚えていないのです。でもその他の作品もいくつも読んだものですが、作品名がでてきません。
 でも一葉はけっこう金貸しをやっていたりして生活しているんですねね。記念切手とか五千円札の彼女の顔はよく思い出すのですが、その顔からだけでは、彼女の一面だけしかわからないものだと思っています。
 一葉の住んだあたりは、ちょうど吉原公園の近くで、7年くらい前に私も歩いたことがあります。ちょうどインターネットで知り合った人たちと一緒に、でもあのあたりは男性が歩くのは大変なので、私たち4人の男性を10人の女性たちが囲んで守るような形で歩いたものでした。
 やはり、どうしても、美登利を思い出しますね。そうですね。私は信如は少しも好きになれないし、そもそも印象もそれほどありません。

 中江有里さんは、次に夏目漱石の『三四郎』を書いています。私は中学のときと、高校生のときと2度読んでいます。ただ、40代のときに、吉本(吉本隆明)さんの講演で「私の見た東京」の中で、漱石の描いた東京の自然の景色の中で、『三四郎』の中の自然を言われて、私は「はっ」としたのを覚えています。『それから』でも『門』でもいくらでも思い出せる東京の自然があるのです。
 いえ、私は『それから』と『門』では、それぞれに思い出す光景は、また違うのですが。違う東京の下町があるのです。『門』では、いつも谷中千駄木の町の古家を思い出しています。そこのご主人と奥様を思い出します。私が25歳の頃訪れたものでした。
 中江有里さんのいう『三四郎』の東大内にある三四郎池は実に懐かしいです。東大闘争の1969年1月の前に、たぶん1968年の12月に訪れたものでした。

 ひさしぶりに中江有里さんの綺麗なお顔の写真が見られて嬉しい思いです。
 彼女のURLは以下です。

  中江有里:Diary From Yuri
  http://www.yuri-nakae.com/diary/

11020509 私は谷崎潤一郎が好きでした。中学2年のときに実にたくさんの作品を読みました。
 その後『新々訳源氏物語』を東大闘争で逮捕拘留された府中刑務所の中で読んでいました。ちょうど1969年の8月に「ファーブル『昆虫記』」と交互に読んでいたものでした。
 しかし、この谷崎の源氏はけっこう難しいです。私には内容がよく判りませんでした。いや、そのときに、私に「これよく判らないよ。面白くないよ」といえる勇気があればよかったのですが、私は「源氏物語は谷崎の訳が一番いいのだろう」という思い込みがありました。だが私はその後、「吉本隆明『源氏物語論』」を読んで、私の感じていたことには、根拠みたいなものもあったのいだ、やっぱり中学生のときに読んだ与謝野晶子の源氏物語の訳のほうが良かったのだと思ったものでした。
 私が好きであり、いわば親近感を抱いていた谷崎潤一郎にはたくさんの作品があります。好きな作品はいくらでもあげることができますが、この『少将滋幹の母』は少し私には面倒なものでした。
 少将滋幹という人物はほぼ姿を現しません。それよりも私には、なんと言いましても、『平中物語』とでもいう、平中の話が実に興味深かったです。そして当然この滋幹の母親に関心を持ちます。でもこの作品の中心人物だろうこの母親、「北の方」は、ただ絶世の美女というだけで、実はその姿顔も読んでいる私たちには思い浮かばないのです。
 左大臣時平が、この美女を大納言国経から奪います。色好みの平中もどうにもできません。そして最後に、滋幹がその母親に会います。そのあたりでこの物語は終わります。
 なんとなく、中学のときに読んだ小説は、「もはや読み返すこともないだろう」と思うのですが、この作品だけは読み返してみようかなあ、なんてと思うものなのです。(2011.02.06)

10072506 長女家族5人は24日あちらのじいじばあばの家に行きました。でもこの日は帰ってきて、私と会いました。

2010/07/25 07:10もうこのマンションの周囲を少し歩きました。まだ暑くなる少し前という感じでしたね。でもきょうは暑くなりそうです。
 昨日は長女の家に行こうとするとき、一応その前に電話したら、出ないので、「あれっ」と思い、ケータイに電話しても出ないので、留守録したら、すぐにケータイがかかって、ミツ君のじいじばあばの家に行っていました。ああ、もうこれでポコ汰とポニョもものすごくうれしがっていたことでしょう。
 でもきょうは私も会えるかなあ?
2010/07/25 16:46もちろんきょうは長女の家に行くつもりなのですが、今はまだ妻が買い物ですから私は出られません。やっぱりどうしても孫たちのことが思い出されます。妻が帰ってきたらすぐに出かけます。もうただただ3人の孫に会いたいです。
 そうですね。また幾人かの友人に手紙を書きましょう。手紙を書くことはいいですね。私は昔、東大闘争で逮捕された年に、当時好きだった女性に1年間200通の手紙を出しました。私の汚い字の手書きです。
 でもでももうそんなことはたいしたことがないのです。私は今はそれ以上の量を手紙で書いています。いい時代になったものですね。もちろんメールも書きますし、ケータイメールも日々書いています。でもやはり手紙を書くのがいいですね。
 私は私の次女が二週間の休み(絶対安静と言われたということです)に、毎日手紙を書きました(いや実は手紙を書けなかった日もありますが)。もう娘は妊娠しているから、手紙を読んじゃだめだというので、彼のナオキ君が声を出して読んでくれるように書いたものです。
 いや娘以外にも書いていますが、また書いていきましょう。ちゃんと記念切手を貼って、素敵なシールを貼って、もちろん用紙は和紙の素敵な紙で、すべて違うもので書いているのです。いや活字の種類は一緒ですよ。でもただの明朝では書いてはいません。
2010/07/25 19:52長女の家に行きまして、「雨が降る」ということで、必死に帰ってきまして、でも妻はサミットに買い物に行きました。
 早く帰ってこないかなあ。長女からも「何で?」というケータイメールがきました。もちろん私は応えています。さて坂本龍馬のドラマをみます。

 妻は可愛い靴下を買ってきました。これはまた私が届けます。

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 下に書いている「見ないと判らないこと」というのは、画像のことです。画像を何をUPするのかは、デジカメの画像をUPしているフォルダを見ないと判らないのです。

2010/04/22 07:53もうすぐ8時になりますね。
 いや今自分の部屋でパソコンを見にいきました。どうしても見ないと判らないこ10041602とがありました。
 でもこれをちゃんと見ていかないとだめだなあ。
 さて、NHKの朝のドラマです。ちゃんと見ていこう。
2010/04/22 08:01「ゲゲゲの女房」はいいですね。私の大好きなドラマになりました。
2010/04/22 08:08なぜか私はこのドラマを見ていつも涙を流しています。だめですね。私は・・・、いつものことなのですが。いつも泣いてばかりです。でも実は私はこのドラマで大声で泣いてしまったことがあります。妻の前だったから恥ずかしかったかなあ。まあ、私はいつものことです。
 でも私はどうしてこう涙ばかりなのかなあ。
2010/04/22 10:08「ちい散歩」で谷中を歩いています。いいです。私も今もよく歩く街です。また谷中を歩かなくちゃいけないなあ。私はたしか、1969年の秋と70年の5月頃谷中の墓の中を歩いているのです。それを思い出すなあ。もちろん、あの頃の思い出の中の墓も街も今とは違う思いですが。
 思い出せば、あのときは東大闘争で府中刑務所から出てきたときと、また70年で2度目の保釈のあとでした。

 谷中の墓の中は、よく歩いたものだなあ。あのときの墓の中と今の谷中は何故か違います。

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新聞名 図書新聞第2922号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年6月20日
読了日 2009年6月13日

 私がブログに、この新聞のことを書こうと思いまして、でも新聞は第2923号になっていまして、「あれ、この前の号もどこかにあるはずいだな」ということで、いろいろなもの(雑誌や私の書いた手紙)の下からこの号を見つけ出しました。またそれで改めて読んでいます。
 この鈴木正文さんは、1949年に慶應入学ということですから、私より1年下なのですね。でもこうして読み直してみて良かったです。

みゆき族から新左翼へ 今は自動車誌を編集――鈴木正文氏(元慶應文自書記長)に聞く 60年代・70年代を検証する

 でもこの方も、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を読んでいるのですね。私も高校生のときに、みすゞ書房の4冊本で読んだものでした。でも思えば、あのときに読んでいて良かったな。あの本をその後読むのは、無理ですね。『魅せられたる魂』なんて本を歳とってから読めるのかなあ?
 しかし、私は新聞はちゃんと読んでいないのですね。今インターネットのバックナンバーを見てそう思いました。68年の10・21では、この方は防衛庁闘争で、防衛庁にも入っているのですね。私もこのときは防衛庁闘争へ行っています。またこの方も翌年1月18、19日の東大安田講堂にもいるのですね。5Fのバルコニーに居たというので、それじゃ私と同じじゃないですか。
 でもこの方が、「ええ。でも誰かに頼まれたわけでもないですから、そのぐらいのことですんで、死ななかったのが幸いでした。」と言っていることに、私もまったく同じ思いです。その通りですね。生きているから、今もくどくど言ってられるのですから。
 でもよく判らないことがあります。この方は、東大安田講堂にいたのなら、当然逮捕起訴されているから、「僕の場合は、その当時、ある決定的なちがいを感じたのは六九年四・二八沖縄闘争だったです。」なんて言われて、そのときも参加しているようですが、なんか判らないな。ありえないとしか思えないです。私なんかは、もうずっと8月20日まで府中刑務所の中でしたよ。

その後の五月か六月に明治大学和泉校舎での監禁事件があり、そこで結果的に、さらぎ徳二さんが権力に逮捕される事態になりました。僕はそのころ動員されて明大の学館じゃなくて占拠中の別の校舎に籠もって、赤軍派の人たちが襲撃してきたのに、応戦したことがあります。

 どうして、このときに娑婆にいられるのかなあ。どうしてもわけが判らないです。このことが私は大変に気になりまして、そのあとの文章も、もうここに引用してUPする気持になれないです。図書新聞に質問してみようかなあ。

 あと、

谷岡雅樹 二つの御伽噺と現代日本――サトウトシキ監督『ジャイブ 海風に吹かれて』、西川美和監督『ディア・ドクター』

この映画は見てみたいなと思いました。私は清水美沙さんという女優さんは好きなのです。
 あ、それと『評者◆秋竜山 「スミマセンでした(涙)」、の巻』重松清・茂木健一郎対談『涙の理由――人はなぜ涙を流すのか』(宝島社、本体一一四三円)は読んでみましょう。

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 私の 周の掲示板お留守居役様 から以下のコメントがありました。

鹿島茂『吉本隆明1968』読み終えました。  投稿者:お留守居役様  投稿日:2009年 6月 2日(火)11時58分31秒
 転向論、出自の下町中産下層階級からの離脱、
大衆の原像から自立の思想に至るまでが、自身の体験と併せて詳説されています。
最後に述べられている「ユース・バジル(過剰なまでに多い若者世代)」説は、知らなかったので意表を突かれました。

 ええと、私はこの翌日6月3日に読み終わりました。ほぼ前日電車の中で読んでいまして、3日に最後をこのパソコンの前で読んでいました。
 この著者は、私より1歳年下で、東大闘争で同じ時期に同じところにいたのですね。
 本を読んだことのメモを書かなくてはいけないのですが、もう何冊もありまして、困っているところです。

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 私の「周の掲示板にれんだいこさんからの書込み」に、そのれんだいこさんから、次のコメントをいただきました。

1. Posted by れんだいこ    2009年04月13日 19:44
 周さん、早速のレス有難う。そういえば、周さんがあの時中に居たというブログを読んだことがあるような。軽い気持ちで言ってはいけないのだろうけど、いい体験ですね。れんだいこが当時の渦にいたら、同じように志願したのではないでせうか。その後レッテルが付いて周り大変であったとしても。

 それはともかく、皆様方の批評を肥やしに続編のエネルギーにしたいと思います。文章をスッキリさせる為に推敲中です。ぜひ忌憚のないご意見聞かせてください。

 ありがとうございます。そうですね。私があのとき東大闘争の安田講堂にいたということは、もう私の生涯において、いわば仕方のない必然だったようなことですが、もうあれから40年が過ぎているのですね。(と書いているうちに、このれんだいこさんの本がアマゾンから届きました)。
 でも今ではこうして、本に限らずいろいろなものをインターネットで注文し、届けてもらうようになりましたね。もう私は随分前から、パソコン関連もそうですが、今では、日常の食品等々もそうなりましたね。もうこれのほうが確実で面倒がないのです。

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09022506 SHIROのポメラ日記このUPがありました。

 いつも私は斎藤さんのブログのUPについて、何か書いてきました。いや、私も「教育」ということには拘わりたいと思ってきたものなのですね。
 大学は埼玉大学の教育学部で、専攻は中学課程の社会科でした。専門は東洋史でした。でも私が入学したのは1967(昭和47)年で、激しい学生運動の時でした。だから当然私は活動に身を投じました。ただし、私はマルクス主義はまったく認める気持はありませんでしたから、その私の主張をしつこく述べていました。
 でもとにかく、東大闘争の69年1月の安田講堂で逮捕起訴され、8月21日に保釈なりましたが、すぐに9月19日の芝浦工大殺人事件ということで、12月10日再び逮捕起訴されました(ただし、この事件の真相は殺人でもなんでもありません)。
 だから、そのせいで、私は卒業後(6年かかって卒業しました)、どこかへ就職するのにも、この経歴が影響しました。
 でも、ちゃんと警察等の情報を調べない企業は、私をやとって、また強烈な労働組合を作られ大変だったようです。
 でも、もうずっとどこにも就職もできない形をずっと続けてきました。でも別に、だから面白くない、とか不満だということはありません。いろいろな職に就きましたからね。
 ただ、教育には関わってみたいという思いは、ずっとありました。
 思えば、その私の思いが二人の娘が教師になることにつながったのかな、と思っています。私はいつも二人の娘の勤めた学校へは行っています(いや、他の姪の子どもたちのところも行っていますが)。
 この斎藤さんが書かれている内容は実によく読んで、そしてたくさんのことを感じています。

 私がいる情報センターでは、子ども向けのイベントでパソコンを使った工作物を良くやります。
 例えば、電車の型紙にパソコン上で色を塗って、プリンターで紙に印刷し、はさみで切ってのりで貼ると、自分のオリジナルの電車ができ上がり。無料でやることもあって、家族連れに人気があります。
 ところが、子どもがパソコンの前に座って喜んで色を塗り始めると、隣に座っているお母さんが突っ込みます。

 「なんで窓に赤塗るの? おかしいじゃないの」
 「なんで髪の毛が青いの? 違う色にしなさいよ」

 しぶしぶ子どもは、お母さんの言うとおりに色を塗ります。私がそれを印刷して「はい」と手渡しても、その子はもうやる気を失っています。結局「やだ、お母さんやって」と工作の途中で放り投げてしまい、「自分でやりなさいよ」とお母さんが文句を言ってケンカになったりします。
 私はそんな様子を見ていて、「何で親の価値観を子どもに押しつけるのかな」と思います。

 私も、「窓を赤く塗る」のも好きだし、「髪の髪を青く」描いてしまう子も好きになれます。そういうことを、「君はそういう風に見えるんだね」てか、「そういう色をつけたいのね」と言えないのでしょうか。私も長女が小学校の図工の先生ですから、私は最初に授業参観に行ったときに、とっても面白い授業が展開されていました。私はそのときは、妹のブルータスと一緒に行ったのでしたが、私は決して自分の身分を子どもたちには明かしません。でもブルータスが妹だと判って、子どもたちはみな大騒動になったものでした。
 思えば、そういうことが懐かしいです。妹も最初は文京区の小学校で、臨時採用で、ある子のことをみていたのですが、私はいつも運動会や音楽会に出かけるのが大変でした。いや下手をすると、私は見ているときに、私の目に涙が溢れてしまうのです。それはまずいでしょう。
 私はいつも自宅でも会社でも、電車の仲でもパソコンを使ってきました。もう50台くらい使ってきたのかなあ。これがいいことだったと思いますよ。

 そもそも、芸術は自由なものです。絵を描く時も、そこに無い色を塗ったっていいし、そこに無いものを描いたっていいのです。例えば名画と言われる風景画でも、実際の景色と見比べると全く違っていたりします。現実そのままでいいのなら絵など描かずに記録写真を撮ればいいのであって、自分の描きたいもの、表現したいものを織り込むからこそ「その人の絵」なのです。
 子どもが「この色を塗りたい」と思うなら、怒ったりしないでその通り塗らせてあげればいいじゃないですか。

 たった今、私の長女おはぎのmixiを読みました。ポコ汰が描いた線画がそこにあげてあります。「え」という題名のUPです。おはぎは、次のように言っています。

「魚」らしい。まだ目を描いたり口を描いたりはしないけど、やっぱり子どもの描く線はいいな。どんどん「何か」を描けるようになってほしいけど、「何か」を描けるようになったら「何か」しか描けなくなるんだな・・・、と思うと淋しい。今の彼の内から出る形や色を大切に見ていきたいな。

 そこに大学時代の友人のくぼっちが次のようなコメントを書いてくれています。

本当に大人には勝てない。
あの自由な線。
思いがけない形。
いいよね。ほんとに。。

 このくぼっちも、とってもいい娘です。なんだか、思えば、もう何年も会っていませんね。

 私のポコ汰は、もういっぱいお喋りします。でも実は、私は彼が何を喋っているかよく判りません。言語がポコ汰語なんですね。
 私の長女は、小学校の図工の教員です。だからいっぱり子どもたちの作品をみています。私なんか、長女の小学校へ行って、作品展を見ると、ただただ感激していますよ。

 そこで親が自分の価値観を押しつけて変えさせてしまったら、結果として「いい作品」ができたとしても、それはもう子どもの作品ではありません。親の作品です。
 情報センターでなぜ工作イベントをやるかと言えば、「子ども達に、パソコンを使えばこんなことができるのだと知って欲しい」「自分の手で作品を作ることを楽しんで欲しい」といった願いがあるからです。できた作品の善し悪しは結果に過ぎません。
 どうも、その「結果」ばかりを追い求める親が多いように思います。学校の夏休みの工作などで採点・評価されることに慣れてしまって、「無条件の肯定」の目を持てなくなっているのでしょうか。
 工作した「物」ではなく、工作をする「体験」が子どもにとっては大事なのです。親の方が結果ばかりを追い求めて、大切なものを失っている気がしてなりません。

 まったくその通りです。大切なものは、子どもたちが自分の中からわき上がってくるもので、それを表現することなんです。

 もう一つ、時々ある家族の風景ですが、泣いてしまった子どもに対して、

 「そんなに泣いていて恥ずかしいでしょ。みんな見てるよ」

と怒るお母さんがいます。
 そんな姿を見て、私はつい突っ込みたくなってしまいます。
 「いやいや、『恥ずかしい』と思っているのはお母さんですから。子どもじゃないですから」
 どうも見ていると、「自分が感じることは、子どもも同じように感じるはずだ」と思いこんでいるお母さんがいるようですね。
 親と子どもは全く別の人間です。自分の気持ちは自分のものであって、子どものものでは無いのです。そこはちゃんと区別しないといけません。
 そして、「みんなが見ているから」と子どもを叱っていると、子どもは「じゃあ、見られていなければ/自分だとバレなければ何をしてもいいんだ」と学習してしまいます。学校裏サイトなどの掲示板で、匿名の書き込みでネットいじめをしてしまう原因の一つがここにあります。
 見られていても、いなくても、正しい事は正しいし、いけないことはいけないのです。それを子どもにちゃんと伝えないといけません。

 私もよく泣きます。テレビをみていてもよく泣いていますね。これは私はもう大学生のころから同じです。私は子どものときには泣かなかったものでしたね。

 子どもに怒る前に、一歩立ち止まって、「本当に怒るべき事か?」と考えてみてください。
 「本当に怒らなければいけないこと」と「自分の価値観に過ぎないこと」とを区別しましょう。
 例えば、人を傷つけたり、人の物を盗んだりするのは、本当にいけない事ですからちゃんと怒らないといけません。
 しかし、「どんな色を塗るか」や「服装」「物の使い方」などは、人の好みや価値観、文化などによっていくらでも変わるものです。絶対的な善悪ではないのです。
 親が自分の中でちゃんと区別していけば、不必要に怒る回数は減っていくでしょう。

 このことを、私も誰にも大きく言っていきたいです。

 今度ポコ汰と会ったら、また私にもいっぱいに何かを描いてもらいます。じいじに会うと、やはりポコ汰は嬉しいようです。それを知って、まずます嬉しくなっている私です。

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 マガジン将門第383号発刊 へ寅吉さんから以下のコメントをいただきました。

1. Posted by 寅吉    2007年12月17日 15:30
周さん<本が読めるようになりました>
う〜ん「人間力」ですか・・・全文を読んでいないので捉えきれませんが含蓄がありそうですね。西郷南洲なんか人間力の塊のようですが、意味が違いますか。ユリウス・カエサルなども対極的な意味で人間力があったと想像します。西郷を評して海舟が、<大きくたたけば大きく響き、小さくたたけば小さく響く>といった意味のことを氷川清話で言っていたと思います。カエサル<人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しかみていない>塩野七生著「ローマ人の物語」でも二人とも殺されちゃったんですよね。たとえが究極的すぎました。
リストラされて約2年間、精神的にも肉体的にもまともに本が読めませんでした。
周さんのブログに出会ってからなんだか気力が出てきたような・・・もしかしてこれ周さんの「人間力」?

 ありがとうございます。私は鹿児島というところは、私の中ではけっこう長く住んでいたところ(小学校6年から高校1年まで丸4年間いました)で、西郷南洲の生まれ育つたところにすぐそばに居たのです。南洲は、若き日に江戸にいたときに、我が故郷の水戸の藤田東湖を尊敬していました。だから、そんなことから小学生の私もかなり親しみのあった人なのです。
 今開きました『南洲翁遺訓』に次のような言葉があります(今パッと開いたら、この文が目に入りました)。

 道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以て人を愛するなり。

 やっぱり西郷を愛する人の気持がよく判ります。そうですね、例えば、西南戦争に参加した庄内藩士の若い人がいますね。20歳と18歳の方です。西郷は彼らに、庄内に帰国するようにいいましたが、彼らは西郷さんに殉じました。西郷さんが、もうとてつもなく魅力ある人だったと思うのです。

 それから、私はユリウス・カエサルも好きです。ただ、彼があのように歴史上で華やかに活躍するのは、実に短い間なのですね。
 私は若きときに、「プルタルコス」を読んで、大変にカエサルのことが好きになっていましたが、「ガリア戦記」を読んだのは、たしか高校3年のときです。横浜の高校の修学旅行で熊本に行ったときに、熊本城が燃えてしまった原因に、この「ガリア戦記」の記述を参考にしたのではないかな、と思ったものでした。いえ、官軍の中に英文か仏文で、「ガリア戦記」を読んだ人がいるのではと思うのです。
 でもなんといっても、塩野七美さんが書かれるローマは最高に面白いです。そして塩野七美さんが大好きなのが、私はユリウス・カエサルであると思っています。彼女はカエサルに惚れ抜いているのですよ。

 寅吉さんは、リストラされていたのですか。私はね、大学生のときに実に過激派なわけで、そして一つ目の逮捕起訴された東大裁判で、ずっと統一公判を主張していたほうなので(ええと、同じ埼玉大学の被告でも、みな分離公判になりました。とくに私たちのように、そのあと芝浦工大事件でも逮捕起訴された人は仕方ないのです。でも私はそれでも変わりませんでした)、このことは、ずっとあとあとまで、影響しました。もう就職のときに、露骨にいわれたこともありますよ。
 だからね、私はもういつもいつもまともには就職はできませんでした。私はいつも、「俺って馬鹿だかならあ」と考えるようにしてはいましたが、露骨にいわれると、驚いたものですよ。でも私はまたすぐにそれを忘れます。
 そしてまたある会社で、派手に労働組合をたちあげて、すぐにストライキを貫徹しましたので、それでも、その経歴でも睨まれたものでしたね。

 でも私は全然反省なんかしていません。そもそも私は過激派といっても、マルクス主義は大嫌いでしたから、そしていつもたった一人でしたから、私から逃げ出すわけにはいかなかったのです。いつもいつも、ときどき詩吟をやっている(どこでもすぐに詠いだす)ので、みんなからわけが判らない存在と見られていました。

 でもとにかく、寅吉さん、ブログを始めてくださいよ。それが面白い世界を切り拓けるかもしれないことだと思いますよ。

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c1d32c0b.jpg 昨日私の古い友人の会社へ仕事で行きまして、彼と彼のお母さんのことや奥さん、妹のことや、私の義母の話をしました。それで彼との話で、義母には手紙を送るのがいいのじゃないかと気がつきました。ただ私のようにパソコンで打つのでは、義母は親しみを覚えないでしょう。それで、私の長女と次女に「おばあちゃんに葉書を書いてみてよ」と頼もうと思いました。
 早速帰宅してから、長女には頼みに行きました。次女には、きょうその頼みをメールします。何にしても、義母に楽しい瞬間を味わってほしいのです。
 あ、彼のお母さんや妹さん、奥さんにも今度ぜひ会いにいきます。彼とは、69年1月に東大闘争安田講堂で戦い逮捕起訴されたときからの長いつき合いです。母親兄妹もみな親しくつき合ってきたものです。(10/16)
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 今週の27日に、「小阪修平君を偲ぶ会」が開催されます。私は私の出席の返事に、以下のように付け加えました。

 小阪修平さんとは、ときどき私の事務所のあった御茶ノ水の路でよく逢ったものでした。そこから私の事務所にも来て話したものでした。その他たくさんのことを思い出しています。東大闘争で、保釈になったすぐあと、1969年9月19日の芝浦工大事件では、私も当事者になりまして、そのとき彼には大変に世話になりました。その時からいつも感謝していました。
 彼のことをいつまでも忘れないでしょう。「ありがとう」と言いたいと思います。

 彼は60歳だったのです。だから私の59歳とは、わずかな差です。私の事務所に来て、いつもパソコンの画面を見つめていた彼のことを思い出します。

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

                2007年6月1日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 ちょっとしばらく手紙を書いていませんでした。どこに郵送したらいいのか判らなかったんです。きょうは、おはぎと孫のポコちゃんが、あちらの実家へ行っています。あちらのお母さんにおはぎは可愛がられているんですよ。それはね、このあいだ結婚したブルータスも同じなんです。
 ああいうふうに、相手のお家の家族に可愛がられているというのは、みなおばあちゃんと王子のおばあちゃんが育ててくれたおかげだと思っています。
 思い出せば、横浜で私は大学に入って大学1年の終わりの頃、我孫子に引っ越したものでした。でも私はいいのですが、マサシは横浜の鶴見まで通ったのだから大変だったね。あのときは高校2年の最後の頃だ。だから高校3年は大変だったろうなあ。
 私も我孫子というところは、中学高校の友だちもいるわけではないから、それほど親しい感じがする街とは言えませんでした。私はまた北浦和にアパートを借りて住みだしたしね。でもあの北浦和のアパートは1カ月も住まないうちに、東大闘争で逮捕されることになってしまったね。私が逮捕されて取調を受けていた東調布署というところは、一体東京のどこなのかさっぱり判りませんでした。「東調布」というから、調布市のそばなのかなあ、なんて思っていましたが、のちに、こののちというのは今から10数年前に、私が役員をしている会社が大田区にあって、そのときに税務調査があったときに、その税務署の職員に聞いたものでした。東調布署というのは、大田区の田園調布にあるんだね。驚いて、その日は、夕方わざわざこの東調布署を見に行ったものでした。
 外から、あのときの留置場の位置を確認しましたよ。でもよくあそこまで、みんな差入れに来たりしてくれたものでした。ばあもよく来てくれていました。まだ面会はできなかったけれどね。起訴されて接見禁止が解けたときに、友人が来てくれて、そして府中刑務所に移管になったときに、ばあは来てくれていましたね。あのときに、ばあは「こんな秋田犬を飼いだしたよ」と言ってくれました。私はシロのことがとても心配になって、そのことを聞いたら、「シロはこなくなっちゃったよ」と聞きまして、「ああ、またうちは秋田犬を飼うのか」という思いで、でもシロのことばかりが気になりました。でもそのまたあとの面会で、シロがまたやってくるようになって、子犬の秋田犬に喧嘩のやり方を教えているなんて話を聞いたものです。
 あのシロという野良犬は、実に面白い頭のいい犬だったねえ。もうたくさんの思い出を残してくれた野良犬でした。              早々

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 将門Webの表紙にもあるとおり、私周は下着は赤の越中ふんどしです。私は中学2年のときから、下着を白の越中ふんどしにかえ、その後はそのままやってきました。そのあとは一度も別なものをしたことがないです。学生運動で府中刑務所に入ったときも、どこかの銭湯に入っても、社員旅行で温泉に行っても、誰もに珍しがれましたが、ずっとこれだけでした。私の彼女になった女性たちも最初の最初は驚いたでしょうが、そのうち当りまえになったものでした。
 ただ、問題はこれをどう調達するのかということです。ずっと私の母が作ってくれており、結婚してからは私の妻が作ってくれていました。そういえば、私が東大闘争で逮捕され勾留された東調布署へ、当時の運動の仲間の女の子がわざわざふんどしを作って差し入れしようとしたのですが、警察から断られたと聞いています(東京の留置場では、ベルトとかふんどしとかいう長いものは首をくくれるというので取り上げられるのです)。
 それがデパートでも売っていることを知りまして、しかも色もたくさんあることを知りました。それで赤ふんもするようになりました。娘二人も、子どもの頃は嫌で堪らなかったようですが、大学生になる頃には、認めてくれるようになりました。このことについては、次女が次に書いてくれています。

 http://members.jcom.home.ne.jp/sbrutus/profile.htm#titi 父について

 それで、この将門Webを開設するときに、長女に「パパのイラストを描いてくれ」と頼んだら、すべて私が赤ふん姿のものを描いてきました。3点あるうちの1点を選んだのが表紙の私の姿になっているのですが、こうなると私はもうふんどしでも、白色はやめて赤ふんばかりするようになりました。
 そして今になりますと、この私のふんどしへのこだわりについても、私のホームページで披露していくべきだなと考えました。今後さまざまなことを書いて行きたく思っております。(2002.08.26)

   http://shomon.net/garakuta/akahun.htm  周の赤ふんの話

 私は、「今ふんどしの人が増えているんだ」なんて言っていますが、次女には、「そんなのは嘘だ」とばれまくっています。

  http://shomon.net/garakuta/akahun1.htm#050212 次女とふんどしの話

 私は今、初孫が男の子ですから、「あ、この子にも赤ふんにしよう」と勝手に思っていますが、もう長女には大反対されるでしょう。
 思えば、もう私は今後ずっと少数派でいくしかないのかなあ。悔しいことですが、もう何も変わりそうもありません。

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それで、私が彼Aと会ったときに、私は67年入学でしたから、大学2年のときに、東大闘争で試験の時期が勾留されていますし、大学3年の試験の時期もまた勾留されていましたから、大学4年で大学に戻っても、それでも成績は40数単位持っていました。
だが彼は、大学1年も2年も私と同じ時期で、試験を受けていませんから、たしか3年になったときに7単位しか持っていませんでした。試験も受けないのに、なぜ7単位あるかというと、とにかくなんであろうと、単位を認めてしまう教授がいたからです。
それで私はその後3年間で、卒業に必要な単位は取得しました。彼も3年間で所得しました。だから、相変わらず入学年の差が1年ありますから、私は卒業して働いていたときも彼は学生でした。
それで私が就職した1年目の秋に、会社の仕事で京都へ出張することになりました。それで私は突如、当時の彼女も京都へ呼ぶことにしました。お父さんに掛け合って京都から電話したのを覚えています。
そして当時Aは、京都の同志社大学の正門の前にあったレストラン六甲でアルバイトしていました。そこへ、私と彼女で訪れたものでした。思えば、あのあと彼が、三条丸太町の「赤垣屋」を最初に飲みに連れていってくれて、そのあと先斗町で串カツを食べ、最後四条の「リラ亭」に連れて行ってくれたなあ。
あ、そういえば、いや最初のしらふの時は本能寺近くの三月書房に連れて行ってくれたのでした。私はこのとき以来、京都へ行くと、必ずこの三月書房は訪れてなんかしら本を買っています。
でも思い出すと、あのときは彼は大学6年なのに、なぜ京都にいたのかなあ。彼はよく京都で働いていました。本当は映画の仕事をしたかったのでしょうが、でも、なんだか工事現場の高いところに登るような仕事をしていましたね。

でもその後彼も就職して、でもでも私と同じで、どこでもちゃんと雇ってくれるところもないので、自分で会社を作って、自分でやりだしました。こんなところは私と同じでした。

でもそんなことの中、私は彼の妹を知りました。私が72年の春、妹さんのBさんの紹介で、上中里の農業技術研究所でたしか5、6、7月とアルバイトをしたのです。このとき、Bさんととても仲良くなり、さらにその妹のCさんも知りました。
Bさんは、高校生のときに英語が不得意で困っていましたが、その替わりフランス語が得意で、のちにフランスに留学してたときに絵葉書をくれましたね。私は「フランス人も立ちションをするのか?」という疑問を投げていて、その葉書には「まだフランス人の立ちションは見ていない」と書いてあったものです。
やがて、Bさんは、このフランス語を活かして、スイス航空のエアホステスになったものでした。妹のCさんは、お姉ちゃんよりも、体格がよくて、将来は体育の教員になるんだと聞いていました。
そんなCさんの思いは、二人が一緒に来てくれた、埼玉大学のむつめ祭の暴力酒場ひだりで教えてくれていたものでした。
二人は一番お兄ちゃんが好きだったのです。でもお兄ちゃんは、なんだかまともではありません。その友だちの私も、一見普通の人に見えますが、でもでもやっぱりどこかおかしいと思ってきたはずです。

Aは、その後不動産の仕事をやり出しまして、それでその後も私とのつき合いが続きました。二人の妹も無事結婚して、いい家庭を築いていると聞いていました。
もうそれから、またまた年月がたったわけです。

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 私とAとは、同じ埼玉大学の学生活動家でした。でも歳は同じ昭和23年生まれですが、入学は彼は私より1年後の1968年です。あの時代は年齢よりも入学した年が違うと、まるで経験するあらゆることが違います。だから私は、顔は知っていましたが、ほぼ彼とは話をしたこともないままでした。というか、私は彼のことが少しも好きではありませんでした。
 それはそれ以前の埼玉大学での学生運動でのさまざまなことがあったからですが、でもそれはここで述べても意味のないことでしょう。

 でも私は1969年の1月10日の夜から、東大闘争の安田講堂に入っていたのですが、彼は10日には駒場の闘いに加わり、また私が埼大に戻って、再び安田講堂に戻るときに、同じ安田講堂の5階屋上を守備する同じ部隊になることになりました。
 それで、ずっと同じところにいるわけで、いろいろなことを語ります。彼は映画が好きなことを話してくれて、さらに私は男ばかりの三人兄弟なことを言うと、彼も3人だが、あとは妹が二人いて、その妹のことを、小さいときにいじめて、そのときのことを悔やんでいました。
 それで当然好きな女の子の話になりますが、もちろん私の好きな女の子のことも彼は知っていましたが、彼の好きな彼女が、実は私よりも1年先輩なのだということが判り、それは実は我が大学でも私が憧れる圧倒的な美人の活動家でした。「あの娘は今は俺の彼女だよ」というので、私が憧れていることをいうと、彼は、「じゃ、明日連れてくるよ」といいます。そしてその晩は彼は埼大に帰りました。たしか1月16日でした。
 そして次の17日、屋上でぼんやり起き出して、「あ、腹が減ったな」なんて思っていたら、「おい、ハギワラ、Rを連れてきたよ」といいます。
 私が驚くと、実にたしかに彼のあとからRさんが、ついて来ました。そして彼女は圧倒的に美人の方なのですが、あの安田講堂の屋上は実に高いので、怖いらしく震えていました。
 私は彼女も美人なこともありましたが、実に気の強い女性であると思っていましたから(これは私は活動の場で、強い彼女を何度も見ています)、こんな屋上くらいで、震えるような女らしい彼女に出会えるとは思っていませんでした。
 その後、彼女はしばらくこの5階にいましたが、彼が送って帰りました。もう私は彼が一緒に行って帰ってこなくてもいいと思っていました。なにしろ、安田講堂では、ここでパクられると、「最低6カ月勾留される」と聞いていましたから、そのまま籠もるべきことでもないのです。
 それでも、その晩彼はまたこの5階の守備する場に戻ってきました。彼としては、私を棄てて帰るわけにも行かなかったのでしょう。
 そして翌日は、朝から激しい闘いです。もう身体がくたくたになるまで闘いました。
 そしてさらに翌日1月19日、夕方に私たちは全員逮捕されました。

 彼と私は前後して逮捕されるつもりでしたが、大混乱の中、そういうわけにもいかず、私は東調布署に勾留され、やがて起訴されて、私は府中刑務所に移管されました。彼は東京拘置所でした。
 私たちは、東大裁判でも、同じグループでしたが、統一公判を主張しているので、裁判への出廷を拒否していましたから、裁判所で会うこともできずに、月日が過ぎました。
 だが、彼はその年の7月20日ごろ保釈になり、私は8月21日に保釈になりました。

 ああ、そういえば、彼の彼女だったRさんは、私の府中にも面会に来てくれたのが、7月のことでした。7月の暑い日、接見室に入った私は、あまりに綺麗な彼女に驚きました。だが接見室からの帰り、私は同行する看守に、「こういうムショに入っている男の前に、あんな肌を露出した姿で来てはいけないですよね」なんて言っていたものでした。彼女は、看守も大きくうなずくくらい圧倒的に綺麗な方でした。

 でもとにかく、保釈にはなったのですが、よく月69年9月19日は、芝浦工大事件(これは当初は内ゲバ殺人事件と報道されました)になりまして、またその年の12月に逮捕されることになりました。
 そして、この事件の勾留中にも、東大裁判があります。私はこの裁判に出て、他の仲間と連絡が取りたい気持でいっぱいでした。それでこの裁判のときに、芝浦工大殺人事件の被告で、東大裁判の被告が4人いたのですが、みな埼玉県のいくつものところからパトカーで、東京地裁までいくのですが、これがまた実に愉しい旅行でした。
 裁判の場では、一応私たちは、統一公判を訴えますが、とにかく仲間といくつも打ち合せをしまして、いわば芝浦工大事件では敵とされた中核派の活動家とも話をします。全然真相をつかめないブンドの活動家とも話をします。
 そして、傍聴席には、私の弟が来ていて、父の再就職のことを伝えてくれて、私の彼女(まだ「私の彼女」になっていたわけではありませんが)がいて、そして私の高校時代の後輩の女の子も来てくれていて、いろいろな連絡がありました。

 それで、また70年3月に私は再保釈になり、また後輩たちと、70年闘争の隊列の中にいました。だが彼は、このときは、けっこう長く浦和刑務所の拘置所に入っていたかと思っています。

 その後もさまざまなことがありました。彼と一緒に、北浦和で偶然知り合った日の丸土建の仲間と土方の仕事をするようになったのも大きなことでした。私はそもそも日の丸が好きですし、この日の丸土建の仲間も、実に法政大学・明治大学・早稲田大学等の学生活動家集団でした。

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df70c8b6.JPGたくさんのことを思い出しています。なんだか年月の経つのが速いです。友人と私ははるかな昔、69年1月に東大闘争の安田講堂で一緒に火炎瓶を投げていた仲です。もうこんなに時間が過ぎたのですね。

 写真は、24日舞浜駅で、次女ブルータスと待ち合わせたときに、駅前で撮りました光景です。まだ明るかった時間、午後5時10分くらいでした。
 ただし、この本文を書いたのは、26日の午後7時少し前です。お通夜でずっと待っている時間でした。

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「埼玉県立近代美術館」に、アトリエイグレック今日の出来事 の igrekさんが、次のコメントをくれました。

1. Posted by igrek    2007年02月27日 21:38
まさに団塊の世代のお話ですね。私の夫もその時安田講堂の近くにいたそうです。やじうまのノンポリ学生で。周さんとは随分違いますね。二期校とはなつかしい言葉です。

埼玉も今は赤羽まで湘南新宿ラインができて、横浜からは東京に行くのと同じ感覚で行けますね。埼玉県立美術館は近代建築見学のいい企画があるんですよ。

ではまたイグレックに遊びに来てください。

 あ、そうなんですか。では旦那さんも同じ世代なんですね。何年か前にどこかの会合で浅野史郎さんとビールを手に持ちながら話したことがありますが、あの方も東大全共闘だったらしいです。そばで話しても、彼は実にいい方でした。私は民主党なんて嫌いですが、あの浅野さんが都知事選挙に出られるのなら、石原さんよりはいいかなあ、と思っています。
 思えば、いろいろなところで、あの1969年1月に東大闘争にいた方、それを見に来られた方と触れ合うことがあります。みなさん、いろいろな思いを持たれていますね。
 埼玉大学は、実に田舎大学なので、実に牧歌的な愉しい雰囲気ばかりでした。ただねえ、やはり学生運動はどうしても都内に出ますからね、私たちは、もう何もかも判らないことばかりでした。
 埼玉県立近代美術館は、あの前あたりが埼大のメインストリートでした。1968年の4月に、そのメインストリートを紺色のミニスカートで青い水玉のシャツを着た色の白い女の子が本を抱えて歩いてきました。私はその子を見たとたんに恋に落ちました。彼女は、その前月の王子闘争で、「埼大理工学部」の旗がひるがえっているのを見て、それで他の大学ではなく、埼大に入学してきたのです。彼女もまた高校生で近所の方に呼びかけて王子野戦病院反対のデモをしてきたそうです。その「埼大理工学部」の旗を持って王子の柳田公園とその周りを走り回っていたのは私でした(ただし、デモに移ったときは、あの旗は誰が持っていたのかなあ)。

 私は東大闘争で保釈になって、すぐに1カ月も経たないうちに、芝浦工大事件に関係しました。これは内ゲバ殺人事件といわれたものでした(事実は殺人なんかではないよ)。そして私はその後12月10日に逮捕されました。でもこの年は、こうして娑婆にいた期間はわずかなのですが、私は恋した女性に約200通の手紙を出していました。
 少し、私は「俺って、200通も手紙出したのは偉いな(あ、内容はさておき)」なんていう気持でいましたが、なんのことはありません。私は今は200通のケータイメールを2カ月で出していますよ。もう彼の家に住んでいる私の次女には、もう何通も手紙を出しています。ケータイメールもいいけれど、実際に手紙を書くのもいいですね。
 たぶん、きょうも次女ブルータスには手紙を出します。いえ、彼女の結婚式の出欠の返信葉書が我孫子の自宅に届いて、この王子に転送されてくるので、それを封入して次女宛てに送っているのです。
 実はきょうは、義母のデイサービスのお休みの日で、今週は私の担当なので、王子の家にいるのですが、さきほど長女が孫のポコちゃんを連れて来てくれました。もう孫は実に可愛いです。でもよく泣くんだよなあ。この孫がケータイを持ったら、もう毎日ケータイメールを打ちますよ。

 なにか、きょうはこのパソコンの前になかなかいられないものですから、こうしてブログに書くのが、遅くなってしまいました。

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 私は埼玉大学の教育学部出身です(入学は1967年、卒業は1973年です)。中学課程の社会科専攻で、専門は東洋史でした。もともとは、将来は教員になろうかなと考えていたわけですが、私の時代は、実に学生運動の盛んなにときでした。そうした中で、そういう道は歩かず(実際に公民権停止が続きましたから、事実上無理な話でした。)今の姿になったわけです。この私の大学卒業後の職歴に関しては、

   http://shomon.net/work/shoku.htm  周の職歴

書いてあります。
 ただ、教員にはなりませんでしたが、この「教育」ということに関して、ずっと関心を抱いてきました。私が加わりました東大闘争その他で、「教育とは何か?」という問いがあったときに、私は「教員にならなくとも、教育には誰でも携わっていけるし、そうしていくべきだ」と思っていたものです。
 また私には二人の娘がいますが、この二人の「教育」ということでもいろいろなことを考えてきたものです。そして長女は東京都の小学校の美術の教員になりました。次女は、千葉県の小学校の教員になりました。今でもよく「教育」についてのことを娘二人とよく話しています。二人の職場にもよく行っています。
 この私がこの「教育」についてさまざまに展開していこうと考えていますのがこのページです。               (2005.10.24)

   http://shomon.net/kyoiku/  周の教育の森

 私の長女の夫のみつ君も埼玉県の教員です。そして今年の3月25日に結婚する次女ブルータスの彼も千葉県の教員です。だからこの4人が集まるといつも自分たちの生徒たちの話になります。このときにそばにいる私も実に真剣にその話をきいています。
 いつも思うのが、今の生徒たちのご両親の教育に対する関心の高さです。これは私にはとても素晴らしいことに思えます。
 それともう一つは、もうどこの地域でも、日本人でない子どもたちがクラスに入ってきていることでしょうか。このこと事態はいいことだと思うのですが、でも教育の現場ではかなり大変な時代になっているのですね。
 でもつねに私も関心をもって、この教育について考えていく姿勢は失わないつもりです。
 私の生まれたばかりの初孫も、すぐに保育園に通うようになるでしょう。そうするとまた、すぐに教育の現場と触れ合うようになるのですね。私は積極的に関わってまいります。

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 最初の「はじめに」の最後に次のようにあります。

 もういい加減に書ける範囲のものを書いておかないと、結局は何も伝わらないままで終わることになる。この本では、自分の個人的な経験を出発点としながら、なるべく自分の枠を超えて世代に共有できるもんだいを取り出し、若い世代に全共闘とは何だったのか、そして今意味があるとすればとういうことなのかを伝えたいと思った。書く人が違えばまた違ったものになるだろうが、ぼくの書けるものを書くしかない。

 この思いは私も同じです。やっぱり書いておかなくちゃなあ、と思いながら、ずるずると今に至ってしまった感じがしています。
 まずはこの点で、私はこの新書を読み終わって、「よくちゃんと書いてくれているなあ」という思いがしました。彼は私よりも1歳年上であり、大学入学が1966年でちょうど学年も私よりも1学年上です。
 ただし、彼は東京大学であり、私は二期校の埼玉大学でした。同級生には、東大を落ちたので埼大に来たというのが、何人かいました。けっこう、「うちは国立しか駄目だと親に言われた」というような学友もいたものでした。

 私は大学2年の秋1968年に東大闘争に参加しだしました。11月22日の、東大闘争・日大闘争勝利集会に、日大全共闘の部隊の中に入って参加していたものでした。
 よく年の1月10日夜に私は友人と二人で、東大の安田講堂に入ろうとしました(実は前日にも私は東大構内に来ていました)。当時は、文京区本郷の東大構内は、日本共産党=民青が支配しており(全共闘の部隊は、駒場の東大で日共民青を攻撃していて、安田講堂には実にわずかの守備隊しかいませんでした)、その中でやっと安田講堂にたどりつきましたが、見張りの東大全共闘が、私たちが個人であると、その身分がなんだか判らないので、入れてくれません。
 そこで困っていたら、そこへ中央大学の中大全中闘が50名くらいの部隊でスクラムを組んできました。彼らもノンヘル姿で、全共闘と認められないようにしてばらばらで歩いてきて、東大構内に入ると、スクラムを組んで講堂前まで来ました。
 私と友人は、「あ、そうだ」とばかり、このスクラムに加わりました。中大全中闘なら、中に入れてくれます。それを見ていた先ほどの東大全共闘の見張りの学生も、私たちを見て、「あ、良かったね」という顔で笑っています。
 私たちが安田講堂に入って、その晩夜中に、日共の軍事部隊が安田講堂を襲ってきました。

 私はその日から、ずっと安田講堂に籠もりました。ただし、一度だけ12日か13日に埼大に戻りました。それで下着等を着替えて、今度は王子から都電に乗って東大に来たものでした。そしてそのまま18日の機動隊導入の日を迎えることになったものでした。

 今井(今井澄のこと)は、一日でも機動隊から安田講堂を防衛できたのは予想外であったと先の文章で述懐している。そこで今井は「われわれの闘いは勝利である」と放送したのだと言う。(100ページ「第五章 全共闘運動の展開」)

 私たちも、夜になって18日が終わる頃、「あれっ、この安田講堂って、きょうで落ちてないじゃないか」と気がついて驚いたものでした。

 そして翌19日私は午後4時ごろ逮捕され、東調布署に送られ勾留されました。勾留期限の切れる23日目に、起訴されました。そしてその1週間後に、私は府中刑務所に移管になりました。起訴されたら、巣鴨の東京拘置所に移されると思ってばかりいまして、「北一輝も入っていた巣鴨って、どんなところだろう」と期待していたのですが、府中刑務所と聞いて面くらいました。ただ、同じ留置場にいた、住吉会M一家のヤクザが、「えッ! 初犯で府中行けるなんて格好いいなあ」というのを、聞きまして、「あ、そんなにいいことか」なんて思っていたものでした。

 その後、8月20日に保釈になるまで、ずっとこの府中刑務所での独房暮しが続きました。出所後は、また埼大に戻りましたが、私には頼るべき党派もありませんでしたから、その後も単独で動き回っていました。
 よく月の9月18日東京教育大学と御茶ノ水大学の闘争支援に行きましたが、夜は埼大近くのロビンという喫茶店で、東大闘争の埼大グループの被告団会議がありました。まだ保釈されていない埼大の被告が3名いましたから、この3人への支援をどうするかという会議でした。
 ところが、その喫茶店へ、「早稲田の山本派が埼大のバリケードを襲って来たから、すぐ来てくれ」というKさんの連絡で、私たちは急いで大学へ走りました。

 埼大の校門を入ってすぐバリケードへ入ると、私は「ハッ」と気がつきました。そのバリケードの破壊の凄まじさから、私は怖ろしいことに気がついたのです。「学生運動って、こんな恐怖の世界なのか」。私はすぐに、この埼大のバリケードを襲ってきた部隊が、早稲田の革マルなんかではなく、中核派であるという恐怖です。中核派は、私は好きではありませんが(そもそも私はマルクス主義・共産主義が大嫌いだった)、一応革マルとは違って、スクラムを組める相手のはずです。
 しかし、もうその事実ははっきりしてきます。Tという仲間が拉致されたといいます。なんとしても彼を救い出さなければなりません。

 そしてどうやらいろいろな調査の結果、どうもTは、当時同じ埼玉県でバリケード闘争が続けられている芝浦工大にいるらしいということが判りました。
 それで、Tを救い出すのには、どうしても芝浦工大大宮校舎にいかなければなりません。
 翌朝、私たちはK救出のため、23名で芝浦校舎大宮校舎へ行くことになりました。

 芝浦工大大宮校舎には、埼大中核派の滝沢紀昭さんがいました。そこで起きてしまったのが、私たちが校舎に入ったときに、滝沢さんが2階から飛び降りてしまうという事故でした。そして私たちは、すぐにこの事件で、権力警察からも、新左翼からも犯人として追われることになりました。
 当初は、右翼の犯行なんて報道していたマスコミも、そのうちに「内ゲバ」「内々ゲバ」とこの事件を呼ぶようになりました。

 そして私はこの事件で、12月10日に、浦和裁判所前で逮捕されることになるのですが、そのときまでに、この芝浦工大事件で、関係した私たちが毎日私たちの側の情報を教えてくれるのが、ある電話でした。毎日そこへ電話すると、「きょう埼玉県警はこういう動きをしてきた」というように教えてくれます。
 このときに、その役割をやってくれていたのが、この小阪修平さんでした。私たちは、まだ顔も何も知らない彼の電話の声にどんなに励まされたことでしょうか。
 私たちは警察もマスコミも、そして新左翼もみな敵のような振舞いばかりでしたが、その中で、この電話での小阪さんの声はどんなにありがたかったことだったでしょうか。

 そして彼は、このことを特別党派的は思いや思想的な思いでやってくれたものではありません。ただただ、私たちが感謝すべきことでした。

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2fcb6ba6.JPG王子明治堂で、いくつかパンを買いました。こんなにたくさん買ったのは、1969年1月の東大闘争以来ですね。あれは、1月12日だったかな。

 今、私の膝の上の鞄の上にあるので、とてもいいパンの味を感じています。

  さて、秋葉原だ。

医龍―Team Medical Dragon (8)
書 名 医龍8─選挙協力─
著 者 乃木坂太郎
    永井 明
発行所 小学館
定 価 505円+税
発行日 2005年4月1日初版第1刷発行
読了日 2006年6月18日

 私が「医龍7」で思っていたことが、この巻で、そのまま出ていました。
「第16幕選挙改革委員会」で、

  青医連運動って
  ……なんですか?

という問いに、加藤が答えている。

  昭和30年代から
  40年代初頭にかけて、
  当時の医学生たちが
  大学当局に対して
  医局の低賃金や待遇の改善を
  求めて起こした……
  改革運動よ。

  コ・メディカル・スタッフも
  巻き込んで
  大学を卒業しても
  国家試験を受けないとか、
  国家試験を受けないとか、
  ストまがいの運動をして、
  インターン制を
  廃止に 追い込んだ。

  しかし、
  結局名称が
  研修制度と改まっただけで
  実態は変えられなかった。

  多少の待遇改善を得ただけで、
  運動は尻すぼみに
  終わったわ。

「運動は尻すぼみに終わった」というんだね。こう言われても仕方ないのかな。医学部はさておき、私の闘いはまだ続いている気持は私は持っているのですが、そんなことを言っても仕方ないかな。
 なんだか、あのときの、今から約40年前の熱情を思い出しました。小さな声でいうよ。「まだ終わってねえよ」。

医龍―Team Medical Dragon (7)
書 名 医龍7─Near DOA─
著 者 乃木坂太郎
    永井 明
発行所 小学館
定 価 505円+税
発行日 2004年12月1日初版第1刷発行
読了日 2006年6月17日

 これを読んでいまして、私は「医者の世界って、何も変わっていないんだな」と思ったものでしたが、そこで「え、何から、いつから変わっていないと思うんだ?」と自分に問い直しました。「何でお前がそんなことを言えるんだ?」ということで、思い出したのは、私が20、21歳のときに参加した東大闘争のことでした。
 東大闘争は、最初医学部の問題で出発しました。インターン制度の問題などが最初は問われていたかと思い出します。それが結局あの東大闘争のあとも、変わっていなかったんだなということを、これを読みながらつくづくと感じていました。
 懐かしい思い出と悔しい思い出です。

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