将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:柳田国男

12031603  吉本(吉本隆明)さんが亡くなったことが、日経新聞夕刊に大きく出ています。
  そこで山折哲雄さんが、次のように言っています。

…、吉本さんの言葉は独創的なために翻訳されにくく、同じく翻訳が少なかった柳田国男や折口信夫に通じるところがある。

  私は吉本さんの言葉が独特に感じられたからこそ、私の「吉本隆明鈔集」を始めたものなのです。
 それが、現在毎日UPしているのが400を越え、さらにもう昔にUPしたものを含めると、すべてで709になります。 そして、今後も書いて行きますから、全部で1、000を越える気持でいます。
 まだまだやって行かないとならないのですね。

  柳田国男の二つの中心

 この吉本隆明鈔集でのこの言葉は

(「わが歴史論」1987.7.5我孫子市市民会館で行われた「吉本隆明講演会」(主催我孫子市史編纂室)の速記記録に全面的に筆を入れ、)

で私が選んだものです。(またこの言葉は、私の「吉本隆明鈔集」で今後出てきます)

11090709 この我孫子市の講演会のときには、私も友人二人と行きました。会場入口で大和書房「吉本隆明全集撰」の署名セールに協力しているのでしょうが、吉本さんは懸命に署名されていました。吉本さんがあんなことやるなんてめずらしいことです。私も署名してもらいました。吉本さんはもっているサインペンが薄くなって、それを気にしていましたが、大和書房の社員(と思われた)の二人は、売ることばかりにかまけてそんな吉本さんのことをかまっていませんでした。思えば、私がすぐにどこかの文房具屋に走っていって、サインペンを買ってくればよかったんですがね。
 当日の講演会は不思議な感じがしました。最初に我孫子市長の挨拶があって(我孫子は柳田国男にかなりゆかりのある町なのです)、それが保守系の市長なものだから、なんだかそぐわない感じもしたものなのです。
 いや「保守系」だからではなく、もちろん「革新系」とかだともっとおかしいわけだけど、なんというか、NHKでは絶対に出さない評論家とまでいわれている吉本さんのことを、市長は挨拶の中で、

  戦後最大の思想家であり、また詩人でもある……

などと紹介しているのです。吉本さんが60年安保ではブンド全学連の学生と一緒に闘った人であることを知っているのかな。
 でも講演の前に、市長は車で吉本さんを柳田国男のゆかりの地を案内したとのことですから、少しはいろいろと判っていたのかもしれません。。

 講演はかなり熱の入った長いものでした。私にはかなり吉本さんの柳田への愛というようなものを感じました。ところが「柳田国男論集成」の第1部「柳田国男論」を読むと、吉本さんは柳田に対しても、かなり厳しい人だなという印象があります。その私の中で感じる、吉本さんの柳田への「愛」というようなものの乖離は何なのかななんてけっこう考えてきました。このごろになってそれがいくらかぼんやりと判ってきた気がします。いつかそれをもっと明確に書けるようになっていきたいなと思います。
 吉本さんの講演の内容では、柳田の「山人」などの話ではなく、「神武天皇の話」という印象が私には強かったのです(これは私の印象です、講演の内容は読んでもらえば判りますが、けっして神武天皇の話ばかりではありません)。
 私が昔習った社会科などでは、「神武天皇なんてまったく架空だ」などと教えられたものでした。でも本当はどうなのでしょうか。柳田国男が折口信夫と一緒に天皇陵へどんどん入っていこうとして、守衛に止められた話を思い出します。吉本さんも、昔天皇陵を公開してしまえば、天皇制の問題はあらかた型がつく(ただし、あと二つの条件も言っていましたが)と言ってましたが、このごろは(87年ころから)は、もはや宇宙からの視線ではっきりとしてくると言っています。

ランドサットの映像

 僕らは都市論というのをやったわけですが、初期の天皇制の成り立ちや性質がどうだったのか、それから神武から崇神までは、実在していたのかどうか、そういうことについての関心も、ランドサットの映像みたいなもので、はっきりと目に見えるように映像として解けるはずだと思います。
1987.7河合塾名古屋校講演 「幻の王朝から現代都市へ−ハイ・イメージの横断」1987.12.1河合文化教育研究所に収録された

 考古学で苦労して掘っていく方法を宇宙からの視線で超えてしまったのだろうか。私は全国の天皇陵を公開発掘していけば、もはや天皇制の問題ははっきりとしてくると思っていたが、もはやこの宇宙からの視線でそれもどうでもよくなるのかもしれない。

 ちょうどこの問題は、樋口清之との対談でもかなりなことが話されています。またそんなことを詳しくみていくべきかなと思っています。
 それにしても柳田は「山人」からの視線でそのことは判っていたのではないのかな。だけどどうしても彼は「山人」という魑魅魍魎のみには身をおけなかったように思えます。いま柳田はあの世とやらで、天皇と一緒にいるのだろうか、それとも山人と一緒なのだろうかなんていつも思ってしまうのです。
 私はもちろん魑魅魍魎のほうが大好きです。私はそちらの子孫ですから。

 柳田国男に私が初めて触れたのは、中学2年のときに角川文庫で「日本の昔話」「日本の伝説」を読んだときからです。なんだか判らないが、こうして日本の民俗にとりくむとてつもない人というような印象がありました。よくNHKテレビなどでやる日本各地の民芸の踊りなどを、私たちなら最初の5分であきてしまうようなものなのに、それを現地へいって何時間でも見ている人というような感じをもったものです。そして「海上の道」を読んだときの驚き、それは内容の豊さとか面白さではありません。第一私はそのときは高校1年で、内容なんかよく判らなかった。ただただ、その執拗なまでの緻密さみたいなものに驚いたのです。
 ただどうしても、私たちのまわりには柳田を語り、折口信夫を語る(といっても、うわっつらだけ、当然私もだが)輩が多すぎます。ために何故か真面目に読み込んでこなかったように思います。もっともっと読んでいかなければいけないのでしょうね。
 しかし私の人生で間に合うのでしょうか、そんな気もしてくるのです。気持はあせるばかりで、柳田も折口も遠くにかすむだけなような気がします。
 とにかく、みな巨人なのですね。私はとてつもなく自分の小ささに嫌にもなってきます。(1993.09.09)

11082718   Thursday, September 09, 2004 1:09 AM
はい、了解しました。

すごく綺麗で優秀な姉でしたから、「いつか白い馬に乗った王子さまが、お姉ちゃんを迎えにきて連れていく」ものだと真剣に思っていたよ

 フェミニスト運動をやっている人がこのような王子様幻想が女性のさまざまな不幸の大きな原因の一つだと書いていました。この妹はこのような幻想を持たずに育ったのなら幸福になったのではないでしょうか。

 中国では昔にさかのぼるほど記録が多いという話はなるほどなー、と思いました。それにしても日本の記録の少なさは悲しいですね。せめて卑弥呼のいた場所ぐらいはっきりわかればいいに。

 じつは香乱記は読んでます。あれは毎日新聞の連載だったんです。前半は始皇帝の時代の話で男装の美少女などの小説的仕掛けもあって楽しく読めました。後半は楚漢戦争の時代ですが、新聞連載ではだんだん何が何だかわからなくなってしまいました。私は男装の美少女が大好きです。だからジハードという小説も好きです。木蘭の話も好きです。当然ベルバラも大好きです。

   Thursday, September 09, 2004 5:42 PM
Re: はい、了解しました。

フェミニスト運動をやっている人がこのような王子様幻想が女性のさまざまな不幸の大きな原因の一つだと書いていました。この妹はこのような幻想を持たずに育ったのなら幸福になったのではないでしょうか。

 うーん、なんと言ったらいいのかな。まあ、私がとんでもない存在でしたからね。

中国では昔にさかのぼるほど記録が多いという話はなるほどなー、と思いました。それにしても日本の記録の少なさは悲しいですね。

 これはまず、中国が文字を持っていた国だということがありますね。日本には残念ながら文字がなかったのです。ただ、その替わりに、日本のたくさんの民俗の中にたくさんのものが残されているのだと思うのですね。柳田国男という人は、日本各地の、民俗の中に私たちの祖先のたくさんのものを見ることができたのだろうと思うのですね。また折口信夫は、万葉集の中にも、古事記のなかにも、さらに昔のたくさんのものを見つけられていた人だろうと思うのです。私は少しはこの二人の見ていたものを、少しは私も見られるようになれないかなと思っております。

せめて卑弥呼のいた場所ぐらいはっきりわかればいいのに。

 ええとですね、私はこう思っています、大胆に言い切っちゃいますが、卑弥呼という存在はいなかったのだと思いますよ。あれは中国がでっちあげた存在ですよ、。
 三国志の歴史の中で、魏は漢から政権を簒奪します。そして晋が魏から政権を簒奪して、呉を滅ぼして中国を統一します。この晋の司馬氏は、どうしても自分を中国の正統な後継者と言いたかったのだと思います。このときに、東国の島国の摩訶不思議な、女王卑弥呼が誕生したのですよ。遠方の東国の国からも、卑弥呼という女王が、晋に貢ぎ物を差し出し、晋に服従したがっているというようなことが大事だったのです。そのために、卑弥呼と邪馬台国が作られたのです。
 もっと言えば、この日本には、あのような巫女としての女性とその弟が王をつとめる小さな国はたくさんあったことだろうと思います。天照大神と須佐之男命も、姉と弟で、この日本を治めようとしていました。いや、日本では、姉妹と兄弟との関係(これもまた対幻想なのですが)が、やがて日本という国家の成立に至ったものだと思います。
 だから、実は卑弥呼は、日本中にいたのです。九州にも大和にも、私の故郷の茨城にも東北にもいたのです。ただ、「卑彌呼」という漢字を当てられた女王は、あくまで、陳寿の書いた「三国志」の「魏史倭人伝」の中で作られた人物なのです。と私は言い切ります。
 そもそも、「卑弥呼」の「卑」、「邪馬台国」の「邪」などという字をなぜあてるのでしょうか。いえ、その前の「奴国」も同様です。また漢の光武帝から貰ったという金印は

  漢委奴国王

と書いてありますが、本来は委ではなく、「倭」であるはずです。東方の島国の人間は、しっぽでもはえている野蛮人だろうということで、「人」をはずしてあるのですよ。
 私たちだけではなく、日本の過去の知識人たちも、この中国のいう「卑弥呼」とは誰だろうと考えてきました。間違いなく聖徳太子は、この中国の書物に書かれている「卑弥呼」を、中国が勝手に作った人物だと看破していたでしょう。 その当時の若き日の蘇我蝦夷と中臣御食子(この息子が藤原鎌足)が二人で話していた姿が見えるような思いになります。

  この卑弥呼って一体誰のことかな?
  神功皇后のことかな?
  いや、太子は何も言われないけれど、みんなもう判っているんだろうね。

 聖徳太子には、卑弥呼の話のくだらなさが判っていたのですよ。おそらく、このことは、江戸時代の新井白石も、水戸光国も判っていたと思いますよ。

じつは香乱記は読んでます。あれは毎日新聞の連載だったんです。

 私も毎日新聞なんです。もう子どものときからそうなんです。朝日も読売も読んでも面白くないのです。「香乱記」はまた文庫本になったらちゃんと読み返します。

「男装の麗人」というと、私は真っ先に川島芳子を思い浮かべます。なんだか彼女のことは可哀想でなりません。木蘭の話は、これまた可哀想な思いになります。ベルバラは読んだことがないので、よく判らないのですが、あの時代のパリでは、男装は大変だったでしょうね。この日本の江戸時代なら、トイレは完備されていましたが、あの時代のパリでは、トイレがないのですよ。ベルサイユ宮殿にもトイレはありません。だから女性は長いスカートをはいていたのです。まあ、こんな話はいつもどうでもいいときにやっています。娘たちに話すと面白がっていますがね。ヨーロッパの都市って、実に不潔窮まりなかったのですよ。江戸時代には、厠は別にありましたが、ロンドンやパリでは、それが存在せず、窓から投げ捨てていたといいます。汚いことが平気な民族なんですね。

 本日は、どうも何ごとにもやる気がなかったのですが、あなたへのメールをこうして書いていまして気力が回復しました。またいろいろなことをやらなくちゃね。萩原周二
(第217号 2004.10.11)

11022306 1875年(明治8年)7月31日〜1962年(昭和37年)8月8日の生涯でした。私がこの本を読んだのが中学2年の時でしたから、その年に柳田国男が亡くなっていたのでしたね。角川文庫の随分古い本でした。
 私は小学生の時に日本の昔話はいくつも読んできたものでした。それが、この短い文庫本の中にずっしりと詰まっている感じがしたものです。でも今の私には、一つ一つの本は思い出せません。ただ私にとっては、柳田国男の本を始めて読むものでした。その後高校生になって、「定本柳田国男全集」の何冊かを手にするようになったのでしたが、それはあまりに膨大で、その点、これは文庫本で容易く読める感じで私には実にいい読書でした。
 でも、この本で始めて私は柳田国男に接したわけです。高校生になって、柳田国男と折口信夫はすべて読もうと決意したものでしたが、そうした思いに至る最初の出会いがこの文庫本でした。今後きっとキンドル(今は私はガラパゴスですが)でも読んでいくことでしょうね。(2010.03.14)

10110918  吉本隆明鈔集19「ぼくは秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だ」へ、竹内正則さんから以下のコメントを頂きました。

1. Posted by 竹内正則   2010年11月11日 03:28
高校生だった私は、共同幻想論を呼んで衝撃を受けたのですが、

「気やすい隣人」という幻想によりかかる人間の哀しみ、
「秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だ」に存在する自己嫌悪的孤独感、
自分は、ひとり、であるという事実に震える夜です。

 竹内正則さんは、以下のサイトをやられています。

 http://blog.goo.ne.jp/yanagida_park
    東京北区の柳田公園にある不思議な遊具
 http://ryodan.com/books/
    旅団ブックス ryodan books オンライン古本店
 http://ameblo.jp/kmb-blog/
    くしゃまんべ店長・竹内のブログ

 ときどき拝見していますよ。
 そうですね。私なんかは、『共同幻想論』は大学生で読んだわけですね。中学高校のときに、柳田国男、折口信夫はもう知っていたわけで、でも吉本(吉本隆明)さんを知ってからは、この二人はまた違う大きな存在になったものでした。そうねえ、それとマルクスも違う目で見るようになったものです。今でも、その格闘は続いていますね。

10101210 昨日は長女の家でまた孫のポポに泣かれてしまいました。笑顔でいるのにじいじが抱くと駄目なのです。
 ポニョはまたじいじのポケットの中をいくつものものを取り出しました。なんだか面白いのでしょうね。私に「バナナ食べたい」と言ってきました。じいじが弱い部分だと知っているから狙うのです。もちろん私は「それはママに頼んで!」と言います。
「ニュースさとう」は「尖閣諸島は西沙諸島や南沙諸島にもつながる問題」を書きました。きょうは「歴史さとう」で、ゲーテのシュタイン夫人とのことを書きます。これでゲーテのことは終わりです。ちょうどゲーテの好きだった10人の女性を書きました。
 昨日は私の友人が「柳田国男『日本の伝説』」をブログで書いていましたので、そのことを書きました。中学2年のときに読んだものでしたが、いい作品です。
 写真は、昨日午後1時25分にサミットストアから帰ってくるときです。(10/13)

10101203 it's a floatingworld! blog に このUPがありました。

『日本の伝説』柳田国男・著

 私は蜘蛛業読書さとうに、「柳田国男『日本の昔話』」を書いています。私は、このあとに『日本の伝説』を書くつもりでいました(私がこの「読書さとう」にはたくさん書いていますので、なかなかこの本に至らないのです)。私が中学2年の6月に続いて読んだ本です。まだ角川文庫の帯が白ではなく、昔の紺色の帯だったものでした。
 私が中学生のときは、この二つだけで、高校2年のときに、「柳田国男全集」に触れだしたものでした(『海上の道』は高2で読んだものです)。でも高校では、もう一人の折口信夫という人にもつかまりまして、もはや実に大変なことになってしまいました。
 そして大学へ行くと、革命運動を熱心にのめりこんでしまい、大変なことになって、また柳田国男、折口信夫に熱心に読もうというのは、25歳を越えてしまいました。あ、もちろん、吉本(吉本隆明)さんを読みだして、それこそその引力のほうが強いものだったのですが。
 でもまた読み続けて行こうと決意するものです。
 いやいくつものことを忘れてはならないですね。

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 3面の「『遠野物語』に現れる相異なる柳田国男像――民俗学と経世済民の学のはざまで」を読んで、私にとって実に親しい思いのする柳田国男が、「これでは私には少し遠い人に思えてしまうな」という思いでした。

新聞名 図書新聞第2891号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 平成20年10月25日
読了日 2008年10月18日

 ここでは2冊の本の紹介があります。

 「鶴見太郎『柳田国男入門』」 角川学芸出版
 『藤井隆至「柳田国男――『産業組合』と『遠野物語』のあいだ」日本経済評論社

 鶴見太郎の本は次のように言われています。

 この『遠野物語』ほど素材として扱いにくく、特異な位置を占める書はないという。なぜなら、「物語」と銘打たれているからであり、柳田が書いた農政学の論考はもとより、後に書き継がれた民俗学の著書と同じ目線で論じることが難しいからだ。
 柳田が佐々木喜善のことばを「感じたるまま」に書いたこの物語は、『柳田国男入門』が指摘するとおり、遠野郷に昔から伝承されてきたものであり、すでに『遠野物語』として書かれる前から「“原・遠野物語”ともいうべき民譚」が伝承されていた。柳田はそれを、虚飾ない文体で書いた。
 それは、「近代の道徳という暗黙のうちに設けられた尺度」から離れることによって、つまり対象をいたずらに分析するのではなく、「感じたるまま」に記述することによって生まれた物語だった。「ザシキワラシ」や「オシラサマ」などの怪異な現象に目を奪われてばかりいてはならない。実はそれらの多くは、ここにしるされた遠野の地勢や地名の由来、家の間取りなど、日常生活に関する記述のはざまに配置されることによって、はじめて鮮やかさと奥行きの深さを増すからである。
 つまり、近代の分析的な方法によって内面をえぐることなく、「感じたるまま」を書くことによって、かえって深い人間観察を可能にするものだった。柳田は「怪奇譚」を聞き書きしたのではない。それは遠野郷という「大海」のような日常を書くなかから、ふいに表れてくるものだった。近代の道徳意識というフィルターをとおして怪奇譚をつかみ出すのではない。柳田によって書かれた物語が、近代の道徳意識では説明できない、怪異なものの潜む遠野郷の日常
生活だったのである。

 藤井隆至は、次のようだということです。

 柳田の『遠野物語』が農政学、とりわけ協同組合論の人間的基礎を追究する過程で生まれた「人間研究の書」であったと述べる。つまり、『産業組合』と『遠野物語』を同じ目線で論じ、柳田が協同組合の思想家であり、日本人における自助と協同の精神を研究するため、その基礎となる人間学を深化させる過程で生まれたのが『遠野物語』だったという指摘だ。
 それは、「若いときの柳田は協同組合の研究をしていたけれども、途中で方向転換して民俗学を開拓する方向に向かったと整理する」ような、従来の捉え方とは異なる「深化説」である。実際、そのことは折口信夫も悟っていた。つまり、柳田の学問を「ふおくろあ」として理解しながら、その理解では把握できない学問すなわち経世済民の学が、「ふおくろあ」の地盤になっていることを見てとったのである。
 それゆえ、『遠野物語』を怪異譚と規定するのは正確でないという。柳田はこの物語を書いたあと、『時代ト農政』を刊行するが、そこでは協同組合の人間的基礎が重要であると繰り返し主張していた。その意味でも『遠野物語』と『時代ト農政』は連続する関係にあり、前者が示した人間学的な基礎の上に、後者の農政学が展開されていったのである。
 自助と協同を説く柳田の経世済民の学は、『遠野物語』人間学を基礎にしていた。それでは、銘打たれた「物語」とは何か――。この問いに対して、『柳田国男』はこう答える。すなわち、柳田は佐々木喜善の話を聞き書きしたが、「感じたるまま」に書き写した聞き書きしたというにはかなり特異であり、そこには著者・柳田の存在があった。彼は人間生活を「スケッチ」する方法で物語を書いたが、それは「霊」を感じつつ生きる人間を「スケッチ」することだった。
 人間生活を観察するためのそうした方法論を、柳田は西欧文学の研究を通して得た。『柳田国男』によれば、『遠野物語』を読むときに、柳田が法律の専門家であったこと、そしてこの物語が人間生活誌として書かれていることを念頭に置く必要があるという。それを踏まえて『遠野物語』を読めば、「怪奇譚を多く収録した人間生活誌」であることが分かると。その怪奇譚は、遠野郷の人びとの日常から生まれたものだが、柳田は、怪奇譚を生み出した人間の根源にまでさかのぼり、「前代」の人びとの畏怖や不安といった宗教意識を解明したのである。
 それによれば人間は、人知を超えた自然の力を畏怖し、日々の天候に不安を抱きながら、生活を営んできたが、そこに怪奇譚が生まれた。『遠野物語』は、そんな人間の精神を「スケッチ」した物語である。そうしてたどり着いた人間学的基礎の上に、柳田は自助と協同という、人と人との結合原理を確立することをめざしたのである。

 いや、こうして書いてみますと、私の理解が少しは深まる思いがしました。あとは本を手にして見ることですね。
 高校時代、部厚い「柳田国男全集」のいくつかを手にしていたことを思い出します。それと「折口信夫全集」も読んだものでしたね。私には、折口信夫さんのほうが読みやすかった思いがあります。あのとき、「口訳万葉集」や神道に関する本を読んでしまっていたことは良かったなと、今になって思い出しているものです。

 その他、他のページでは親しく思う本を見つけることはできませんでした。

08050106 今朝の日経新聞を手にしましたら、最終面のきょうからの「私の履歴書」が谷川健一さんです。
 昨日までは扇千景さんでした。私は女優としての千景さんは大好きでしたが、国会議員になった彼女には少しも興味がなかったので、この「私の履歴書」もちゃんと読んでいませんでした。

 谷川健一さんのことを考えると、まずは当然に弟の谷川雁のことを考えないわけにはいきません。でも谷川雁に関しては、私はその著作はほんの少ししか読んでいません。そして今後も読むことはまずないでしょう。
 でも谷川健一については、彼の著作はいくつも読んでいます。それで、ここに書いてあります柳田国男への彼の思いはよく判る気がしました。
 思えば、私も柳田国男を読み始めたのは、中学2年のときで、その後高校生になっても、「柳田国男全集」をすこしづつ読んでいたものでした。私には判らないながらも、とにかく、ものすごい巨人だ、という思いは柳田国男への感じ方でした。
 このきょうの「私の履歴書」の最後に次のようにあります。これが柳田国男への健一さんの思いを考えて、ものすごく印象的です。

 当座は不運と見えたものが長い目でみると、むしろ好運だったと思う場合が少なくない、この年まで生きながらえると、人生は最後まで勝負の決まらないマラソンのようだとつくづく思う。

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 大正時代の自意識のことを言うと、多少進歩して明治維新とは違うわけですが、柳田国男という民俗学者と折口信夫という国文学者と、この二人はわりあいに自意識家じゃないでしょうか。
 いわゆる国文学者というのは、それこそナショナリストという、ただそれだけですね。ナショナリストと思っていないナショナリストで、ほかのことはどうでもいいぐらい、そこにのめり込んでいる。だけど折口さんという人は、この人の知識、教養、考察力の基になっているのは何かよくわからないけど、日本における古典的な法、特に刑罰、犯罪法がどこから発生してどうなってくるかというところからやり出して、そういう研究をちゃんと論文化して持っています。古典文学もありますが、そういうことをやっているのはあの人だけですよ。普通に考えているのとは大違いで、そういうことをやっています。
 柳田国男は語学もできるし、外国のこともよく知っていて、国際的な人だけど、やっぱり大正時代の自意識家なんですよ。
(「よせやぃ。」『自意識について───第三回座談会』)

 思えば私は中学生の頃から、柳田国男と折口信夫は少しずつ読んできていました。高校生のときによく読んだ思いがあります。ただ、やはりよく読めるようになってきたのは、吉本さんを知ってからかなあ、という気がしています。これからも読んでいかなくてはならないお二人です。

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2016112101

スーホの白い馬-Sukh's White Horse (CDと絵本)
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 周の雑読備忘録「『スーホの白い馬』」Kumie'sBlog 女性と仕事 の川本さんから以下のコメントをいただきました。

1. Posted by kawamoto    2007年06月04日 08:01
いい本をご紹介くださってありがとうございます。今月下旬、アメリカから孫娘が来ますので、
この本、用意して読んであげます。

アメリカの夏休みを利用して、日本の幼稚園を経験させていただいてきました。
今年は小学校です。

 ありがとうございます。私の娘二人も実に大事にしてきた絵本です。ただし、読むと実に哀しいお話ですよ。若き日の私でしたら、「こんなに悲しがるばかりではなく、この白い馬を殺した悪い奴に復讐するべきだ」という思いになり、そしてそう主張するわけですが、もう娘たちに読んであげていた頃は、ただただ哀しくてたまらない思いだけがしていたものでした。
 こうして絵本を声を出して読んであげるということは実にいいですね。私の秋田での保育園や幼稚園、札幌での幼稚園に行っていた頃、実によく母が読んでいてくれたものだと思います。
 そして今こうして絵本を選んでみて思うのは、いくつもの絵本がもう長い間ずっと読み継がれていることなんです。もうこれは驚きますよ。『スーホの白い馬』も、もう何年も長い間読まれている絵本なのです。

 それと、私の0歳まだ5カ月の孫ですが、こうした絵本を読んであげると、内容は判らないはずなのに、よく聞いてくれていることです。おそらく、こうして母親や、おばあちゃんや私のようなおじいちゃんが読んであげるというのは大切なことなのだと思いますよ。
 柳田国男の「遠野物語」や「日本の昔話」、「日本の伝説」を親たちが、子どもたちに読んであげていたことは大切なことだったんだなあ、と今私は確信しています。

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