12081507私の昔のサイトにいくつも「掲示板」がありました』に目森一喜さんから以下のコメントがありました。

1. Posted by 目森一喜   2012年08月14日 20:19
「読み言葉」は解釈学になるのでしょうか、言語論では喩(直喩、比喩、換喩、提喩とかですね)の問題かな。
 言語学で解釈が問題になるのは、聖書で神が喩で語るからです。聖書にこうあるのが、これはこのように解釈するとか、いや、こう解釈せねばならないはずだとか、色々と大変な世界がありますね。

 吉本(吉本隆明)さんに「喩としてのマルコ伝」という著書があります。といいましても、私には今その本が取り出せないのですが。
 マタイ伝はこの私もいつも何度も読んでいます。吉本さんの「マチウ書試論」(マチウ書とはマタイ伝のフランス語読み)を読んでから、文語訳マタイ伝そのものを何度も読むようになりました。インターネットでも読めますし、文語訳は一つしかないので、いいのです。 ところが仏典などですと、道元がいけないのだと思いますが、全然分からないのです。岩波の「日本思想大系」の最初の配本が「道元」でした。だけど『正法眼蔵』なんていくら読んだまねしても読むふりしても分からないよ。
12081508 私が前に住んでいた我孫子にもよく歩く谷中にも、曹洞宗のお寺が多いように思います。私の両親のお墓のある正泉寺もそうなのです。
 私がよくいうのですが、哲学者としては道元が上だったかもしれないけれど、宗教家としては栄西のほうが1段も2段も上だと私は思います。
 でもでも、もう私は曹洞宗の寺を歩いても、もうなんだか良くなったな。仏教なんて、小難しくて嫌な思いでしたし、道元なんて難しくていやでしたが、もうどうでもいいなあ。「文語訳聖書」はいつも読んでいていいのですが、もうこの聖書は真面目で嫌にもなります。
 道元なんか、私には少しも好きになれないから、いいのかもしれないな。私が本来好きであるはずの神道よりも、一見面倒な曹洞宗でもいいなあ、なんて思うようになりました。
 義母の葬儀のあと、牧師さんとお話したのですが、今のキリスト教って、一番日本的な気がしますね。あの「文語訳聖書」は日本そのものな気がします。
聖書で神が喩で語るから」でいいのですが、私は自分の墓はもうどこか曹洞宗のお寺でもいいなあ。私の父があそこを墓に選んだのが分かるような気になりました。12081509

 私はまだ「読み言葉」を極めて行きます。このことで、私は本を読むことが再びできるようになったものなのです。
「書き言葉」も極めて行きます。私がどうにも苦手なのかもしれない「話し言葉」もやって行きます。