将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:武田信玄

 漢詩の平仄のことで に次のコメントがありました。

1. Posted by ネーム思案中   2011年03月27日 04:43
おはようございます。
漢詩はやはり難しいですか。
直江兼続は漢詩ばかり残っているらしいですね。

#「直江兼続」/矢田俊文 編(高志書院ヨリ2009頃出版,税込2600円位)は、詳しくて面白かったです。専門書ですが。

11040909 そうですね。直江兼続は詩がいくつも残っています。私がここに書きましたように、日本人には平仄の原則などは、音(おん)では理解できないですから、ここのコメントしてくれた貴志白文さんのようにどうしても思い込んでしまいます。
 直江兼続は、あの時代の人としては、実に多くの漢詩を作っています。この江戸時代の元禄の頃からは、『詩韻含英異動辯』のような書籍ができまして、便利にはなったのですが、この頃は大変なことだったでしょう。だから、武田信玄なんか、いくつも漢詩を作っているのですが、私が見る限り、一つもいい詩はありません。その兼続は実に上手だと思います。でもそんな面倒なことは、信長や秀吉は一切やらなかったのです。
 今は平仄も、電子辞書でもパソコンでも分かりますから、便利なのですが(武田信玄なんか、喜ぶだろうな)、もう誰もやらないよね。兼続でもやらないでしょう。
 私なんか、昭和42年に作られた『詩韻含英異動辯』すら、なくしてしまいました(このただし、天保年間の和本は持っています)からね。
 もうパソコンで、必死に漢詩を作る時代でもないと思うのですね。

  でも実はこれは以前に書いたのですが、UPを忘れていました。

2017071724 848c8838.jpg私は昔から、武田信玄という人がどうしても好きになれませんでした。でもそのわけが、この詩を読んでみて判った気がします。

偶作 武田信玄
鏖殺江南十萬兵 鏖殺(おうさつ)す 江南十万(註1)の兵、
腰間一劍血猶腥 腰間(ようかん)の一剣 血猶(な)ほ腥(なまぐさ)し。
豎僧不識山川主 豎僧(註2)は識(し)しらず 山川(さんせん)の主、
向我慇懃問姓名 我に向かって 慇懃(いんぎん)に 姓名を問ふ。

(註1)江南十萬兵 長江の南の国の兵。だが日本のことですから、駿河や相模武蔵の国をいうのか。
(註2)豎僧(じゅそう) 小坊主 糞坊主

南方の国の十万の兵を皆殺しにして、
腰の一振りの剣はまだ血なまぐさくにおう。
糞坊主は、この山河の領主である私が判らないので、
私にたいして、丁寧に姓名を尋ねてくる。

一句目の「鏖殺江南十萬兵」を読んで、私は当然にすぐ明の太祖朱元璋洪武帝を思い出します。私は明の皇帝など、この洪武帝も、永楽帝も少しも好きになれませんでした。だから、この信玄の詩も、自らをそうした明の皇帝になぞらえているのかと思ったものでした。十万の兵を殺すことを、詩の上でも得意になることが私は少しも好きになれないのです。
この詩を初めて詩吟で詠ったのは21歳のときでした。そのときに一度しか詠ったことはありません。練習で詠っただけでした。
こうして漢詩を作成するときに、明のこうした非情な皇帝たちと自分を同じような偉大な英雄としていたというのは、私にはどうしても嫌な思いしか浮かびません。甲斐の南方の国というと、駿河の今川氏や相模の北条氏を思いかべるというのでしょうか。信玄はそれらの国とは、連携していたことも長かったはずです。
どうしても私は、上杉謙信のほうが好きになります。信玄の死後、上杉は武田氏を守ろうとするではありませんか。
私はどうしても、洪武帝も、永楽帝も、武田信玄も好きになれません。

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徹底分析 川中島合戦徹底分析 川中島合戦

 14日に我孫子の自宅へ行きましたが、行くときに電車の中で、チェーホフ『子犬のカシタンカ』を読みまして、帰りには、自宅にあったこの本をちょうど半分本を読み、そしてさきほど読み終わりました。もう随分前に読んでいた本でしたが、また読みかけると最後まで読んでしまうものです。

書 名 徹底分析川中島合戦
著 者 半藤一利
発行所 PHP研究所
定 価 1,300円+税
発行日 2000年6月22日第1刷発行
読了日 2008年1月17日

08011701 私は川中島の戦い(第4回目の永禄4年1561年9月)は、やはり上杉謙信の勝利であると思ってきましたが、この半藤さんの考えも同じなようです。ただ、その後の第5回目の戦いののちには、このあたりは武田信玄の領地となり、やはり武田の勝利だという人も多いのですが、上杉謙信には、領土を獲得するという意思があまりに感じられないない武将なのですから、その判断では計れないと思うのです。
 それにしても、実に謙信という人は私にはまだまだ理解しにくい武将ですね。今後も、より多くの人がこの人のことを書いていくのだろうと思いました。

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 武田信玄は、いくつも漢詩を残しています。このいくつもの漢詩を残しているところが、上杉謙信とはおおいに違うところです。
 この詩を読むと、春の桜花が散るのを惜しむ信玄が見えてきます。

    惜落花   落花を惜しむ
             武田信玄

  檐外紅残三四峰 檐外(えんがい)に紅を残す 三四峰
  蜂狂蝶酔景猶濃 蜂狂蝶酔(ほうきょうちょうすい) 景は猶お濃し
  遊人亦借漁翁手 遊人亦た 漁翁の手を借り
  網住飛花至晩鐘 網に飛花(ひか)を住(とど)めて 晩鐘に至る

  軒先の外に紅の桜花を残しているのは。三、四の山にすぎない
  それでも蜂は狂おしく蝶は酔ったように飛び、春の気配は濃厚である
  遊興人の私はまた漁翁の手を借りて
  飛び散る桜の花をとどめようとしたが、晩鐘の夕暮れになってしまった

「漁翁の手を借りて、桜の花をとどめようする」ということが、実際にどうやっているのかは、私にはその風景が思い浮かびません。魚を獲ろうとする網で、どうやって桜の花びらをとらえようというのでしょうか。
 富士五湖のどこで、その湖人の「漁師の網を借りるのだろうか、そもそもその網にかかる桜の花なんてあるのかなあ?」と少し不思儀な思いにもなります。
 私には、これもまた熱心に詩作に耽ける信玄の姿が思い浮かんできます。

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 私の 周の掲示板に以下の書込みがありました。

不識庵の詩について  投稿者:貴志白文  投稿日:2007年 8月 5日(日)07時02分9秒

   九月十三夜陣中作  上杉謙信
    霜滿軍營秋氣清  霜は軍営に満ちて秋気清し
    數行過雁月三更  数行の過雁月三更
    越山併得能州景  越山併せ得たり能州の景
    遮莫家郷憶遠征  遮莫(註1)家郷遠征を憶う
の詩についてお訊ねします。末句の「遮莫家郷憶遠征」の「遮莫」は字源によれば"其れはそうであろうが・・・。ままよ・・。”。と在り、広字苑によれば"不本意であるがそのままにしておこう。どうであろうと・・・。”と解釈されています。此の二辞典の解釈。更に此の詩の醸し出す"壮大な雰囲気”、七尾城を落として"ほっとした雰囲気”を感じるには「遮莫遠征憶家郷」と為る方がすっきりします。此の原詩の"家や故郷はどうでも好い。唯"遠征を想う。”では詩が納まり難い。「憶家郷」を末尾に置く事で詩が引き締まる。
詩人で在る謙信、フィーリングに則る生き方をしていた謙信を考えた場合、遠征の二文字を末尾に置かないと想われるが・・・。
謙信の真筆を見たいものである。

 こうして私にお尋ねになっていまして、そもそも私に答えられる器量があるのだろうかと思ってしまうのですが、とにかく考えました。
 短歌に関しては、いくつも残している謙信です(「上杉謙信の短歌」)が、漢詩については、この七言絶句一つだけです。武田信玄はいくつもの漢詩を作っていますが、謙信はこの七尾城を落としたときの詩だけです。
 漢詩作りは、江戸時代には、実に盛んになりましたが、この戦国時代には、かなり大変なことだったろうと思うのです。江戸時代には、漢詩作りのためにたくさんのアンチョコ本が出てきます。漢詩を作るのには、日本人ではまったく考えることも予想もできない平仄のことがあるのです。私たちは、それを「音(おん)」で理解することはできません。でもそれは避けられない鉄則です。
 ただし、良寛のような人は、この平仄には全く関係なく漢詩をたくさん作っています。でも武田信玄や上杉謙信は、そうはいかなかったのだと思います。
 これについて、私は 漢詩のいくつかの規則に次のように書いています。

1.平仄の並べ方の法則
 各句のところで、二番目の語と四番目の語は反対の平仄に、二番目と六番目の語は同じ平仄にという法則があります。これを「二四不同、二六同(にいよん同じからず、にいろく同じ)」といいます。

 さて、これで、この謙信の決句を見てみます。

   遮莫家郷憶遠征

では、「莫」は平、「郷」は仄、「遠」は平、で規則にかなっています。

   遮莫遠征憶家郷

では、「莫」は平、「征」は仄、「家」は仄、で規則を逸脱しています。

 おそらくは、良寛のような人は、「平仄」なんて、俺には関係ないよ、と言いきれたでしょうが、信玄や謙信のような人は、ただただ教わったことに忠実にしたがったのだと思います。おそらく、これは「中国人が読んだら、音がちゃんと正しく聞こえてこないんだよ」というくらいの説明は聞いていたことだろうと思います。
 漢詩作りをすると、最初に考えていた語が使えないということが多々出てきます。でもそれは、もう仕方のないことだと思っていたことだろうと私は思いますよ。
 こういうことが嫌いだったから、信長や秀吉という武将は漢詩を作っていないのです。思い出せば、足利義昭なんか、漢詩をいくつも作っていますね。なんとなく納得してしまいます。

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私はどうしても武田信玄という人が好きではありません。でも彼の作った漢詩はいくつもありまして、いつもその作り方にいろいろな思いを抱いています。
何ごとにも熱心に研究してとりくんだのだろうなと思うのです。おそらく今いて、パソコンに取り組んだらまた熱心にやっているでしょうね。

当時は珍しかったろう薔薇の花を詠んだ詩です。7939e9bf.jpg

薔薇 武田信玄
滿院薔薇香露新 満院の薔薇(しょうび) 香露新たなり
雨餘紅色別留春 雨余の紅色 留春を別(こと)にす
風流謝傳今猶在 風流謝伝(註1) 今猶お在り
花似東山縹渺人 花は東山 縹渺(ひょうびょう)の人に似たり

(註1)謝傳(しゃでん) 東晋時代の隠棲していた風流人。のちに仕官し、の ちに東晋の宰相となり、肥水の戦い(肥は本当の字はさんずいがついています)で苻堅ひきいる前秦を破って、国難を救った。

庭を満たしている薔薇の花は 香を含んだ露がおりて新鮮である
雨が振ったあとのその紅の花の色は 去りゆく春を惜しんでいる
風流人謝安の伝記は、今もなお残っている
東山に隠れ棲んでいた霞んでいてしか見えなかった謝安の姿に似て美しい

なんとなく、漢詩を作る勉強をしていて、美しく咲いているある垣根に囲まれた庭を見ていて、そのままの風景を、自分が今勉強した中国の古典の中で、この三国志時代のあとの南北朝の肥水の戦いで、東晋が勝利できたことの嬉しさを、自分の今の日本の戦国時代に比したのだろうと私は思います。
上杉謙信にくらべて、どうしてもあまり好きになれない信玄ですが、彼の詩を詠むと、「こうしたいつも勉強熱心なのが信玄の姿なんだろうな」と強く感じています。

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