将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:歴史研究会

12012713  今は秋葉原です。京葉線の新浦安に向かっています。もう東京駅ですね。また東京駅を歩くのですね。

   今は毎日乗っております京葉線の東京駅です。ちょうど2時に到着の予定です。今は地下だからメールが出せません。
  今日もいい天気ですね。でも風は冷たそうです。
 
小島均さんのことを思います。考えてみれば、彼とは同じサークル歴史研究会だったわけですが、彼が卒業してからは、1985年くらいの浦和会から会うだけだったのだなあ。
 それから今日が彼が亡くなって10年なのだから、思えば私はそれほどの付き合いだったとはいえないのだなあ。
 なんかいくつものことを思い出します。 涙は流さないようにしましょう。

10122707 先日9日の夜の私の2年下の埼玉大学の後輩からメールが入りました。文面は、彼の同級生だった土屋立行君が突然亡くなり、11日(金)に「偲ぶ会」が催されるという連絡でした。
 私は1967年の入学ですが、土屋君は1969年の入学です。ただし、彼は2浪でしたから、年は私と同じです。ちょうど彼が入学したときの4月には埼大でバリケード闘争が開始されていました。これが埼大闘争でした。なんでも彼の入学した教養学部の入学式では、突如黒ヘルで棺桶を担いだ集団が入ってきて、壇上に上がり、私の友人である山本元君が、巻き紙を出して読み上げました。「本日埼玉大学は死んだ」と始まったようです。そのあと、すぐ金久保さんという私より1年上の活動家が、激しいアジテーションを開始したといいます。
 土屋君たちの学年は、大学入った早々から、こうしたことを受けてきました。いや、実はこの学年は、1969年の1月に東大闘争のおかげで、東大の入試が中止になり、その余波で、あらゆる大学の入試の基準が狂ってきて、どうしてか埼大に流れてくることになった人が多かったようです。そして私こそは、その東大の入試を粉砕してしまった張本人の一人で、その頃は府中刑務所に収監されていました。そして、この土屋君たちの学年は、多くが激しい活動家群になっていきました。
 それとサークル活動としては、この土屋君をはじめ、多くの人たちが私の属する「歴史研究会」に入ってきました。私は5月はじめには、この新しい学年の後輩たちと府中刑務所の接見室で、「はじめまして」と面会を受けたものでした。でも私は独房の中ですから、埼大のことは皆目判りませんでした。なんでも6月12日に羽仁五郎講演会があり、それを妨害しようという日本共産党民青と、私たちの部隊が埼大図書館前で激しく激突したというニュースを読売新聞(府中刑務所は読売新聞しか入らなかった)で読みましたが、私はその図書館前というのが、埼大文理学部(北浦和駅前)の校舎の図書館しか思い浮かばず、どうやってあそこでゲバルトになったのかななんて想像していたものでした(事実は、現在の図書館である、当時は大久保校舎と言われた新しい校舎にある図書館前での激突だったようです)。
 そして私は夏を越して、69年の8月21日に保釈になり、府中刑務所から出てきました。すぐに埼大へ行きましたが、夏休み中であり、しかも上の6・12事件で、何人もの友人が逮捕起訴され、さらに多くが指名手配されており、埼大はがらんとした風景でした。
 その風景の中で、私は2年下の土屋君たちと出会いました。「ずいぶん若い活動家がいるんだな」という思いでした。
 そんな中で「これから、どうしていこうか」なんてことを友人活動家と話している中で、私は偶然というか必然といいますか9月18日の芝浦工大事件に関係してしまいました。これは学生運動の「内ゲバ殺人事件」といわれる最初の事件です(事実は殺人でも何でもなく、事故だったのですが、このことは、また明らかにしていきます)。もう運動をやり続けるのは難しくなりまして、当初は逃げていたのですが、逮捕されるまではまだ時間がかかりそうだということで、それじゃ少し働こうかなんて気持になりました。
 それでちょうど私の弟の紹介で、上野の日本食堂の駅弁作りのアルバイトに行きましたところ、この土屋君に会ったものでした。土屋君は、ここでずっと働いているベテランでした。それで、そのうちに、ここは埼玉大学の上から下の年代までの活動家ばかりが大勢働くようになりました。他大学の人もいましたが、これまた新左翼の活動家ばかりでしたね。
 それでやがて、その年の12月10日に逮捕されまして、12月末までに、埼大からは実に20数人が逮捕されてしまいました。翌年1月10日までに25人が逮捕され、23人が起訴されました。
 そんな中で、それに関係しなかった活動家といいますと土屋君たちの年代がほとんどだったのですが、埼大闘争を継続していきました。だが、なにしろ芝浦工大事件のあとであり、かつ69年の11月佐藤訪米阻止闘争敗北のあとです。みな闘っていったわけですが、ほぼ惨めな敗北に終わりました。このときの敗北の挫折感から、また多くの活動家群は、また70年闘争を組織して行ったのですが、土屋君は、このときの挫折が大きく残ったようです。
 彼は一見、豪放磊落な感じの男であり、いつも私たちの周辺にいました。なにかあると一緒に飲んだものでした。だが彼は具体的には、運動に加わることはなく、上の日本食堂のアルバイトから、大宮競輪場で働くようになりました。競輪場で、真面目に制服を来て働いている彼を見に行ったものでした。
 彼はその後約30年間、この競輪場で働いていました。いつもうわさは聞いていましたが、元気だということしか聞いていませんでした。だが実は、彼には上の挫折感が大きかったらしいのです。それを今回聞きました。彼はこの正月に長野県の温泉に行きまして、そこで自殺しました。もう突然のことで、私はただただ驚くばかりです。
「偲ぶ会」のあと、埼大の仲間たちとずっと飲みました。土屋君と同級の元活動家が7人と、私の1年下の元活動家と私の9人でした。
 やはり、もっと会っておけばよかったと悔やまれてなりません。みな同じ思いのようでした。もし、会ってさえいれば、きっとこんな悲しいことは起きないこともあったのにと悔やまれてなりません。

 私たちの埼玉大学の活動家群はセクトを問わず(民青と革マルは別だけれど)、みな仲が良かったものでした。これは年齢を問わず、そして父母とさらに教職員も含めて今も仲がいいのです。だから、もっと多数の仲間が集まれたはずなんですが、今回は自殺ということだったものですから、連絡をどうしたらいいのか躊躇してしまったのです。自殺の原因がよくつかめないのです。「偲ぶ会」とは言っても、まさしくお通夜だったわけですが、お通夜というわけにもいかなかったのです。
 彼の挫折感があれほど深いと思っていませんでしたし、私には、いつも酒飲んで大声で笑っている彼しか思い浮かびません。私の昔の彼女がいると私と彼女を大声でからかったりして、元気で快活に思えたものなんですが。思えば私は年は同じと言っても、上の年代に思えたのでしょうね。私なんかは、いい時代ばかりをやってきた気がします。私の他に来ていた2年下の活動家7名もそれぞれ、みな大変な思いを抱いてきたはずです。私たちの時代は華やかであり、数多くの活動家がいましたが、彼らは、70年が終わり71、72、73年とやっていきまして、埼大での闘争も、街頭闘争も、その他さまざまな闘争も、実に寂しい思いの闘いだったかと思います。もうその時代は、私は救待で、各留置場や拘置所めぐりや、彼等の恋人や親と連絡を取り合うだけでした。
 もう、これからは、もっと頻繁に会うようにしようと思いました。「浦和会」というのは、その為にもあるのですが、もっと活発にしないといけませんね。

  土屋君、君とどうしてもっと連絡をとって一緒に飲む機会を作ら
 なかったのだろうと悔やまれてなりません。君と会って、いかにも
 「酔っぱらい」然とした君の笑顔と大声のもとで、一緒に飲みたかっ
 たものです。私の思い出の中にある、君の笑顔に献杯します。さよ
 うなら。                 (2002.01.14)

10121803 1996年8月15日に丸山真男が亡くなりました。私たちの年代はこの人にさまざまな思い出があると考え、何か書いておこうと前々から思っていました。いまさらなのですが、それを少し書いてみます。

 私が大学へ入学したのが1967年(昭和42)でした。私は「歴史研究会」というサークルに入りました。このサークルは当時、日本共産党民青同盟員と、反日共系との激しいヘゲモニー争奪戦の最中でした。争奪戦というよりは、日共の拠点であったサークルが次第に反日共に奪われつつあるというところでしょう。そしてこの反日共系というのは、いわゆる当時の三派系ということではなく、とにかく日共の独善的なやり方は嫌だという一般学生の姿だったと思います。これがやがては、全共闘の姿になっていったのがどこの大学でも同じだったように思います。
 この反日共系というのが、この歴史研究会では、いわば市民主義者系、のちのべ平連系、構改系などになるのかなと思っています。そして歴史の研究においては、日共の教条的な講座派歴史観に対して、それを真っ向からあるいは労農派的見地から批判していく形でありました。
 そして、この反日共の立場にたつ人たちの当時の私たちの先輩で、いわゆる労農派的見地からでない人が、一番依って立っていた存在が丸山真男でした。日共系を嫌い切り、徹底して批判していた人たちが、いざデモだストだというときに、今度はまた三派系(学内では反戦会議と称していた)を批判する、その根拠には丸山真男があったように思います。丸山真男は戦後民主主義を代表する象徴だったのでしょう。そして当時、この丸山真男を徹底して批判している存在が吉本隆明だったのです。
 サークルでのゼミでは、日本史でいえば、明治維新の規定をめぐって、西洋史でいえばドイツ(ちょうどドイツ革命のあたりをやっていた)のユンカーの性格をめぐって、第2次世界大戦では、ファッシズム対民主主義の戦いという規定をめぐって、常に日共対反日共での論争がありました。そして、現在の情況論では、不思議と日共諸君は割りと沈黙する中、丸山真男と吉本隆明の対立が私たちの中にも現れてきていた気がします。

 私にとっては、丸山真男というのは高校生のときに岩波新書「日本の思想」のみを読んでいた存在でした。そして非常に感激していた政治思想家でした(私は大学生になるまで吉本隆明のことはまったく知らなかった)。私はこの本を細かくノートをとって読んでいたのです。
 私は丸山真男をいわば尊敬していたので、「現代政治の思想と行動」も読んでみました。また丸山の弟子の藤田省三も読みました。だがこの本の内容あたりから、私は丸山真男に疑問がわいてきました。それは同時に私が次第に学生運動に目覚めていく過程でした。私のサークルの尊敬する先輩たちにも疑問がわいてきたところでした。あれほど日共を毛嫌いし、論争すると完膚なきまでに日共をやっつけようとするのに、いざ街頭闘争のことなどになると、どうしてこそこそと三派の諸君を批判するのだろうという疑問なのです。
 丸山の「現代政治の思想と行動」の内容は、私にとって日共民青諸君との論争のときなどには役に立ちました。現代の歴史、たとえばドイツの歴史などの丸山の解説には、日共諸君を攻撃できる内容がいくらでも塗り込められているのです。でも私には次第に丸山のメッキがはげてきたように感じました。丸山の中に鼻持ちならない戦後民主主義文化人意識を感じるのです。もっと言えば、東大の教授としての特権意識しか感じられないのです。そして、彼の中にある大衆蔑視の意識をどうしても感じてしまいます。彼が吉本隆明を馬鹿にするのは、「結局、お前なんか、東大の教授にはなれないじゃないか」というところであり、彼が日共を批判するのも、彼の大衆蔑視の特権意識(もちろん私は日共にも大衆蔑視の意識を感じるよ)ではないのかと思うのですね。
 そして、この大衆蔑視というのは、逆にいうと、ありもしない大衆像を逆に尊敬してしまうことと同じです。言いきってしまえば、丸山は日共を批判する民主主義勢力として振舞っていたとしても、同時に心の奥底では日共を尊敬したのだろうと、私は思ってしまうのです。宮本顕治は阿呆だとしても、本来の日共は正しいはずなのだ、正しくなければいけないのだと心の底では思っていたのではないでしょうか。
 だが、大衆を蔑視し、逆に大衆を尊敬していたとしても、東大の教授に絶対なれない吉本隆明のことは、まったくの敵でしかなかったと思います。「大学の先生にはなれず、しがない評論家にしかなれない」ひがみとか言って、貶していた吉本隆明の存在に、最終的には丸山はその根柢を打ち壊されました。それがあの東大闘争です(誤解しないでほしいのだが、吉本さんは決して東大闘争を支持も不支持もしていません。第一彼は悲しいことに「東大紛争」としか呼んでくれません。私はこれだけは吉本さんに不満です。闘争と呼んでください)。
 東大全共闘は、丸山の研究室になだれ込みました。丸山が言うには、「ドイツ本国にもないナチス研究のための貴重なマイクロフィルム」が破壊されました。丸山は、

  君たちは日本軍国主義もナチスもしなかったことをやった

と全共闘に言いました。全共闘は

  俺たちはお前のような奴を追い出すために闘っているのだ

と答えました(思い出だけで書いているから正確ではありません)。
 このことこそが、丸山の戦後の存在を象徴しています。丸山なんて、東大という象牙の塔にこもっていて、ただ日共を批判する存在だけでした。いざとなったら、すぐに権力の側に身を変えるのです。いざとなったら、日共とも手を組める破廉恥な人間なのです。

 丸山は現代の荻生徂徠になりたかったのでしょう。若き荻生徂徠は、元禄の時代綱吉の諮問に答えます。赤穂浪士の裁定のことです。徂徠の答えは理にかなったものでした。でもでも、どれくらいこの時代の庶民の声が分かっていたでしょうか。いや、庶民の声なんかどうでもよかったのでしょう。私にとって、徂徠は実に優秀な学者です。すごいな、たいしたものだなとの思いがあります。でもでも、私は大嫌いなのです。
 私は丸山真男もやがて、荻生徂徠と、同じような形に歴史の中にはめ込まれるだろうと思います。すごい人だったな、頭のいい人だったな、でも俺は大嫌いだったよ、と私は言うでしょう。

 もう丸山はどんどん去っていっている気がします。もう本を開くこともないでしょう。読む必要も価値もない方にしか、私には思えないからです。
 でもこうして、ただただ、一気に書いてしまいました。もう少し本を引用して正確に書けばいいのですが、なんだかその気になれません。そして、丸山真男の本は、もう随分昔に古書屋に売ってしまいました。
 もう、これで丸山真男にさようならを言いたいと思います。(1997.04.05)

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