将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:死霊

12031504 吉本隆明さんが亡くなられました。妻が私に知らせてくれたのです。

2012/03/16 07:35吉本(吉本隆明)さんが亡くなりました。このことでケータイメールもいただいています。今後インターネットの方でもメールをいただくことだと思います。吉本隆明さんが最後に入院された医院もよく分かります。ここの医院の前も歩いたことがありました。
 でもどうしてか、私はこの医院を訪れたことがあるような、医院の中を歩いたような思いがあったのですが、でも私にはまったくありません。何故なのかなあ。
 今NHKテレビを見て、東京大空襲のことを見ました。いくつものことを思いますね。吉本隆明さんも、講演で、この空襲のことを話されたことがあります。
2012/03/16 07:58もうすぐ「カーネーション」が始まります。吉本隆明さんが亡くなっても、日常は同じように過ぎて行きます。そして、このことこそ、吉本隆明さんがするどく指摘されていたことでした。そのことを、今つくづく思います。
 昨日このあとのNHKの番組でコシノヒロコが出てきたのを見ました。ものすごく興味があって、ものすごく嬉しかったです。吉本(吉本隆明)さんが雑誌アンアンに出たときのこと(この時はコシノジュンコの服のモデルでした)を思い出します。あれで埴谷雄高さんは片なしでした。私はそれまでは埴谷さんをを尊敬し、「死霊」はもう実に愛読したものでした。でも吉本さんのいうことを聞いて、もう私は埴谷さんのことがすっかり分かってしまったものでした。もう私には「死霊」は愛読書ではなくなりました。
2012/03/16 10:58いいなあ。先ほどの「カーネーション」を思い出しています。

 でも、私がこの自分の部屋に入るときに、いつもこの「死霊」に足がつかえてています(要するにいつも、私には歩くじゃまになるのです)。いつも『また「死霊」か』と思っています。もう私にははるかに遠くへ行ってしまった著作なのですがね。

12021410 この日は私が行きましても、全然眠らないじゅにでした。

2012/02/17 06:31今日はけっこう早く起きてしまいました。
2012/02/17 07:47知らずにこんな時間になってしまったという思いです。
 今NHKを見ていて、どうしても涙になってしまいます。癌になってしまって、でもそれでも明るく元気にやっている若者たちの姿です。
2012/02/17 08:07今「カーネーション」を見ています。やっぱり吉本(吉本隆明)さんはすごいです。これだけの彼女を正当に評価していたのでしたね。彼女のファッションを身につけた吉本さんを埴谷雄高はけなしていたのでした。このことは実に最低な思想家でした。いやもう私は「死霊」は駄目な作品だと気がついたものでした。
2012/02/17 13:35今はじゅにのそばにいます。思えばすぐに書けば13:30に書き出し始めていたのでした。今じゅにはミルクを身体に入れているのです。
 もうミルクを終えたじゅには眠ると思えば、目をぱっちり開けてしまいました。じいじは何も悪いことはしていないぞ。
 まだじゅには眠られないのです。可哀想で見ているのがつらいです。でもウンチしていたみたいです。
2012/02/17 14:56今レストランから帰って来ました。ブルータスママが同じお部屋の他のお母さんとお話しています。じゅにはまだ眠っていないようです。
 さてこれで眠ったかなあ。お母さんとブルータスの話を聞いて、私は不覚にも涙を流してしまいます。しょうがないじいじですね。
2012/02/17 15:17今ウンチを出してきました。
 どうしてかなあ。じゅにはまだ目をつぶっていません。眠らないのかなあ。
 余計なことにじいじが眠っていました。じいじはすぐに居眠りするんだよなあ。
2012/02/17 15:42もうすぐ帰りです。今日は全然眠らないじゅにです。じいじが手を握ると握りかえします。ブルータスママはおでこをなでています。
 さてじいじは帰りますよ。

「死霊」の「あっは」「ぷぷい」などと叫んで動き回る首猛夫(おびたけお)の人物をしりきに思い出します。

11112302   けっこう寒いですね。 今日はポコ汰、ポニョの七五三です。平塚神社で11時に集まります。だから、私は10時におはぎの家に着くように行きます。

「カーネーション」を見ました。
   この番組の主役の方の娘さんのコシノジュンコの作ったファッションを、吉本(吉本隆明)さんが着て、アンアン(ノンノだったかもしれない)に掲載された時に、埴谷雄高がものすごい貶し方をして、それにたいして吉本さんがきっちり返答というか、批判をおおいにしたのです。もうそれは見事でした。埴谷雄高の「死霊」よりもコムデギャルソンのほうが、ずっと上だということです。
  これを読んだときに、私はあまりに惨めな埴谷雄高と、それまでは『死霊』は少しは評価していたのですが、もはやまったく駄目だと感じたものです。あの小説は登場人物にはシンパシーも感じていた人物(首猛夫)もいたのでしたが、埴谷雄高のおかげでもはやつまらない作品としかおもえないものになりました(この作品は未完です)。

11091002 前にある若い方に応えたことがあります。彼は、「人生とは何なのか、生きている意味とは何か」というようなことを聞いてきたものでした。

 戦前の若者には、必読書というようなものの中に、

  阿部次郎「三太郎の日記」
  倉田百三「愛と認識との出発」「出家とその弟子」
  西田幾太郎「善の研究」

などという本があり、けっこう人生とは何かとか、生きることは何かというようなことが問われていたように思います。
 戦後も私たちの年代まではこうした本も読まないと格好つかないななどという雰囲気があり、大学生のときにもけっこうこうした本の内容を友人たちと話した思いがあります。「三太郎の日記」「三太郎の日記補遺」などは、詳しくノート取って読んだのを覚えています。
 そうしたこと、人生とは何かとか話すことが今の若者にはなくなってきているようです。その意味では

それで、特に最近よく考えることは、人間の存在、生死、生きがいということなのです。

ということは、まずはいいことだなと思います。
 上にあげたような本は、そうした問題をけっこう真面目に考えていける内容をもっていると思います。だが私から言っても、もはやこうした本では現代の若者たちが考えるところとは、かなりすれちがってしまうのかもしれないなということを感じています。

最近では、人間が不完全な存在なのではなくて、宇宙そのものが不完全な存在であることを知りました、それは教育TVでやっていた、埴谷氏の「死霊」の特集を見て、氏がそういった不完全な世界を越えるところに生きる存在を「虚体」であると言っていました。

 実は私はこの「死霊」も結局は上にあげたようなものと同列な系統にあると思うようになりました。もしそんな風に位置ずけられることを知ったら、埴谷雄高は非常に嫌がるでしょうが(これは吉本さんが指摘してしまった)、それだけの存在でしかありません。単純に言い切れば、どうでもいい「教養小説」ですね。
「死霊」といえば、「あっは」「ぷぷい」などと叫んで、夜昼眠ることもなく動き回る奇怪な人物(首猛夫という)などがでてくる一見訳の判らない小説です。戦後ずっと書き続けられ、作者の生存中には書き終れないということです。小説の最後は決っていて、最後は釈迦と大雄(ジャイナ教の開祖)の会話で終るといいます。そしてまたそのあとに、なんだか虫の会話が出てくるといいます。それがなんだか宇宙の何だかを象徴しているとかいいます。私たちが学生のときも、誰もが「『死霊』……」といってうつむいてしまうような存在でした。ただただ難解なんだよなという小説です。

 私にはどうみても、文壇では埴谷よりは大物と思われる北杜夫すら、埴谷のことをただただ「すごい人だ」と恐れているようなところがあります。埴谷は北と同じ福島生まれで、北には同郷の親しみがありながら、埴谷は本名が「般若」といい、そのことだけで怖いだろうというような記述があります。そしてただただ難解な「死霊」という小説を書いているというんですね。
 でも、もうそんなことないよというのが私の思うところです。私が大学6年のときに、ある後輩とこの小説の話をしていて、

 私「あの小説はさ、4人でてくるじゃない(といって名前をあげ
    る)。あれは実はみんな兄弟なんだよ

 相手「え、どうして?
 私「あの兄弟は、ドストエフースキー『カラマーゾフ兄弟』がモ
    デルなんだよ

 相手「え?
 私「ほら、カラマーゾフ兄弟というと、ドミィトリイ、イワン、
    アリョーシャだろう

 相手「うんうん?
 私「それにもう一人、スメルジャコフがいるじゃないか

 このときの相手は、そのとき「それはないよ」と言って、大声で埴谷雄高に怒っていました。あんまり難解な小説でもないんですよ。
 私には、藤村操(17歳で華厳の滝に身を投げてしまった)の遺書「巌頭の感」、

  悠々たるかな天上、稜々たるかな古今……人生、曰く「不可解」

から少しも前に進んでいないような小説という印象しか持ち合わせません。

 埴谷が戦前の共産主義運動の中で、拘置所の独房の中でカントの哲学に目覚めるわけですが、もう今の私にはすべて眉唾ものです。もうどうだっていい。私は以前にも少し埴谷雄高をけなしました。

周の書評 宗田理「ぼくらの七日間戦争」
 いやはや、映画「ぼくらの七日間戦争」のなかでだって、宮沢りえだって、「ユーモラスで、しかもまた、ちゃんちゃらおかしいしいとも思われる」ことやってたではないか。闘いの実際の現場ってのはそうなのですよ。結局あなたは革命家面しているだけで、あの元気なこどもたちほども闘いの現場が分かっていないのですよ。これだから、また最後の最後まであいも変わらず馬鹿なことばかり言い出していたのでしょう。
 まさしく「死霊」にはこのことを、詳しく指摘できると思います。たぶん埴谷雄高は観念の中の革命家は大いに結構なのだろうが、「ぼくらの七日間戦争」のようなこどもたちがでてきたら、闘い方が駄目だとか、甘いとか、1917年にはこんなことあったとか、あれじゃ全共闘のまねだとか、どうでもいいことテレビのこっち側でいうんでしょうね。

 埴谷の描く世界、そして宇宙はけっこう薄っぺらなものだと思います。私にはそうじゃないよと言っていきたいと思うのです。吉本さんがもう埴谷雄高の世界よりも、子どもを抱く保母の方をとるというようなことをどこかで述べられていましたが、私も同じ思いです。
 同様なことを以下でも思うのです。

自分の意志でこの世に生まれてきたわけでもないのに、自分の人生を生きるのは自分で無ければならないという矛盾。そして尚、自分が世界を認識すると同時に、自分が世界から消滅つまり死する存在であることに否応なしに気づかされるわけです・・・こんな悲劇があるでしょうか?サラリーマンとして終身雇用でで人生を終わって本当にいいのか?僕が人生>の終わりに近づき、後悔したとき、それが誤りだったと気が尽きたとき、どうするのか?

 現在未来の世界がはたして「サラリーマンとして終身雇用」で人生を終れるものなのかは判りません。おそらくそうはならないでしょう。実をいえば、そんな世界は過去にもなかったのだと思います。もうそんな形で人生を過ごせるものならば、それはそれでいいことだろうと私は思いますが、そんな人生を歩めた人はまずいないだろうなと思います。

 私は何度か書いてきたことですが、「人生は1度きりなのだから、若い今こそ好きなことをしたい、いやするべきだ」というような考えを好みません。私は仕事上でクライアントの若い社員などから相談があると、かならずこのことをいいます(たいがい会社をやめたいというようなときに話がある、若い女性だと、会社やめて、まだ若い今こそ海外留学しておきたい、なんてのが多い)。私は必ず彼彼女の両親のことを聞きます。そうすると、両親のようにただ決まり切った人生を送りたくないなどという彼彼女が多いのです。
 私は社会に出て、どこか一つか二つの会社に就職して、そのまま淡々と人生を送れるのなら、そうした生き方が一番いいのだと思います。そうした生き方が楽でもなんでもなく、実はむしろそうしたことのほうが非常に大変な道なのだということに、多分社会に出られると判ってくると思います。おそらく、自分からみて一見非常に単調な人生を送ってきているように見える自分の両親も、その実大変な人生を送ってきたことにきずかれるはずです。そうしたことにきずかれてはじめて、人生とは何かなどということに何かがつかめてくるように思います。

 私は毎日鞄を下げて満員電車に乗って、会社へ行って、帰りに仲間と赤ちょうちんへいって、上司の悪口や野球の話をしているようなサラリーマンが好きです。そうした存在を一番尊敬しています。飲み屋のカウンターのとなりに、席の向い側にいるそうしたサラリーマンには、きっと一見単純に見えて、それぞれに複雑でどういったらいいか判らないほどの人生をみな抱えているのです。
 私の父もそうでした。でも父や母にはあの戦争がありました。ちょうど満員電車で黙って会社へ行くように、私の父も、黙って、ただただタイやビルマの野を鉄砲背嚢担いで歩いていたに違いありません。
 私にはこうした存在が、こうした満員電車の中のひとりひとりが、赤ちょうちんで飲んでいるひとりひとりが、それこそ珠玉のような存在に思えてきます。宇宙の不合理を説く埴谷よりも、ずっと素晴らしい存在なのです。
 政治をやる人間(体制反体制、あるいは左翼右翼も)も、哲学宗教を説く人間も、こうした大衆の存在を単なるマスとしてしかとらえてきませんでした。そしてたえずそうした存在はつまらないもので、もっと高邁な存在になれと言ってきました。しかし私にいわせれば、話は逆で、そうしたことしか思えない連中こそつまらない存在です。
「人生不可解」といった藤村操は、ただそれだけで満足しているようです。だができたら、自殺しないで、焼鳥屋のカウンターでこうした大衆と話すことができたのなら(もっとも彼の時代は明治のときだから、そうはいかないが)、もうすこし人生を違う形でみて、違う哲学の世界が判ってきたろうと思うのです。

10121404 もう一度埴谷雄高のことを書きます。ちょうどいろいろ激辛庵さんと話したことがありますので、そのことを書いてみたいと思います。
 激辛庵さんはかなり身体の調子が悪く、今年になって一度も会っていませんでした(彼と会うということは、激烈に飲むということ)。それが11日に電話してきました。昼飯を一緒に食べようと、秋葉原で会いました。ビールを少し飲んで、コーヒー飲んでいろいろと話しました。少し元気になったようです。
 それで最初はPHSや携帯電話、ザウルス、電子手帳の話などから、インターネットの話やいろいろしていました。そして、彼が

   群像の「埴谷雄高追悼号」、読んだ?

という私への問い掛けから埴谷の話が始まりました。
 私が読んでいないというと、「今度あげるよ」といってくれます。そして追悼文を寄せている論者の中で、吉本(吉本隆明)さんの文が一番良かった、読み応えがあったというのです。

   吉本さんはあの中で、埴谷の「幻視の中の政治」を高く評価していたけ
  ど、読んだ?

といいます。私もたくさんある埴谷の評論集の中で、あの本だけはいいのではないか、あの本は読むべき内容を持っているのではと答えていきました。
 そこでいよいよ「死霊」の話になっていきます。「死霊」は結局は未完に終わった訳ですが、「群像」の中の論者には、「結局あれで終わりなのだ」という人もいたようです。私はいや、本当はまだまだ続くはずで、最後が釈迦と大雄(ジャイナ教の開祖)の話になり、さらにそのあと、虫の会話で終わるのだといいました。で、さらに私は埴谷の悪口を言いだすわけです。

   でも、終わりも何もないよ。最初から、あの小説はくだらないんだ。た
  だ評論家が「くだらない、つまらない、どうでもいい小説だ」といいきる
  勇気がないだけだよ。吉本さんだけは、あれは「三太郎の日記」とか長与義郎「竹沢先生という人」なんかに連なるような思弁小説だと言っちゃっ
  ているけれど。埴谷も、そこまで言われちゃって、悔しかったろうな。

てなことを、私は言い出します。

   あれはさあ、「カラマーゾフ兄弟」のやき写しなんだよ。ほら、カラマー
  ゾフ兄弟って、4人だろう。アリョーシャ、イワン、ドミトリイ、スメル
  ジャコフの4人で、「死霊」は首猛夫、三輪與志、矢場徹吾、黒川健吉の
  4人は実は兄弟なんだよ。しかも二つとも実に短い日時に起こった事件を描いているし、しかもどちらも未完なんだ。でもドストエフスキーはいい
  けれど、埴谷が真似したって、駄目なんだよ。この4人全員にいろいろと
  告白させるわけだ。矢部は精神病院に入っていて、何も喋らないのだけ
  れど、首が見る夢の中で、矢部はいろいろなことを告白するんだよ。……。

 こんなことを話していきます(ここで書いていることは、私の記憶で書いているわけで、埴谷の本を開けて確認しているわけではないので、内容違いや記述ミスがあるかもしれません)。激辛庵さんもいろいろ合いの手を入れてきます。ドストエフスキーの話もしていきました。
 そんなところで、彼も会社に帰らなければならなくなり、別れました。そして、結局夕方また彼から電話があり、結局飲みに行きましたが、当然埴谷の話の続きになるはずが、激辛庵さんの奥さんの呉燕尼がいわば見張り役としてついてきましたので(いや、激辛庵さんは自分の妻の会社の電話番号を知らないので、私がいつも連絡を取るために、3人一緒ということになりました)、またまったく別な話題になりました。
 でも、埴谷雄高も、こうして鬼籍に入ってしまうと、もうそれほど貶すこともないのかなと思うようになりました。はっきりいって、それほどの存在ではありません。私としては、「幻視の中の政治」をもう一度読み返し、そしてそして「死霊」を全部最初から読み直してみようとは思っています。それで、この方には「さようなら」をいいたいと思っているのです。(1997.04.14)

10121207 19日にあるクライアントの本社で、その会社が新しくつきあう会社の親会社を調べようと、私のノートパソコンからNIFTY へアクセスして帝国データバンク他を調べていました。そのときに、私のクリッピングサービスに埴谷雄高の死を告げるニュースが3つ入ってきました。私はいくつかの項目で新聞のクリッピングサービスを頼んでおり、「吉本隆明」ということで入ってきたものです。そのうちの一つが以下です。

 02/19 13:34 共: 3日間を半世紀かけて執筆  「死霊」未完のまま逝く
共同通信ニュース速報
 半世紀にわたって書き続けた長編小説「死霊」を完成させることなく、十九日、作家の埴谷雄高さんが亡くなった。宇宙、存在をめぐる思考実験だった大作は、第九章を終わったところで未完のまま残された。
 「証明不可能な事態をまざまざと表現するのが、文学の創造性」と取り組んだこの小説は、五日間の物語として構想されたが、第八章(一九八六年発表)で二日目の夜が終わり、第九章(九五年発表)で三日目に入ったところだった。
 八十歳を過ぎても、埴谷さんは毎日、眠られぬまま早朝まで「死霊」と格闘した。“無限的妄想家”の頭の中から紡ぎ出される文章は、一日で数行のペース。近年は「二十年かかるかもしれない。途中で死んでも仕方がないな」と達観していた。
 難解といわれ、日本では珍しい形而上の世界を構築した埴谷さんだが、繰り返しの多い“ボレロ的冗舌”と自ら言うほどの話好き。甘口のワインをちびりちびりと飲みながら、張りのある大声で語る話題は、尽きることがなかった。その語り口は、落語の名人のような雰囲気があった。
 作家の武田泰淳氏、大岡昇平氏ら友人に先立たれ「最近は秀才は出るが、生きる中から思想を絞り出すような人間がいなくなった」と嘆いていた。詩人の吉本隆明氏との「現代」をどうとらえるかの論争を振り返り「ああいうことも、これからの日本ではないかもしれない」とも。最近の短文集「虹(にじ)と睡蓮(すいれん)」の後書きで「このように長く生きることは、またボケることでもあって」と、体の不調と物忘れのひどさをぼやいていた。      
 アナキズムからマルクス主義へ、さらに中央集権的な「党」を批判してきた永久革命者は、「死霊」の残された半分を抱えたまま、この世を去った。
[1997-02-19-13:34]

 私は思わず「埴谷雄高が亡くなった」と声をあげてしまいました。だがそのクライアントには誰も埴谷に関心のある人はいません。
 当日神田会という、私の主宰する異業種交流会がありましたが、私より年上のNさんが来るなり「埴谷雄高亡くなったね」と声をかけてきました。そこでみんなに埴谷がきょう87歳で亡くなったことを伝えましたが、45歳以上の方は、それぞれみな「えっ!」という感じで、いろいろと感慨深げでしたが、45歳未満の方々は「埴谷?ってなんだ」という感じだったように思います。このことが、私には埴谷の存在を象徴しているように思われたものです。
 その場で私の言った言葉。

  こういっちゃ悪いけど、埴谷なんて、80年代の吉本さんとの消費文化
 をめぐる論争のときから、悪い奴だよ。
  いや、戦後「死霊」を書き出したときからだめだな。いやいや、そうじゃ
 ない。戦前に刑務所の中でカントの「実践理性批判」を読んで何かがつか
 めたなんていうのから嘘っぱちだな。

 亡くなったかたをすぐさまけなすのはいけないとは思うのですが、どうしてもひとことふたことみこと、言わないと私の気がすまない人なのですね。(1997.02.22)

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 spider job  蜘蛛業このUP がありました。
 この内容は実によく判ります。「携帯電話は電話だと思っている人がいる」って本当にそうです。私なんか、そういう人が嫌でたまりません。でも、「たいていのオヤジがそうだ」といいますが、いやおばさんも同じですよ。たしか2、3年前の電車の中で、車内放送で、「携帯電話での通話はお控えください」ということが流れたら、椅子に座っていたおばさん二人が、「あんな放送したって、みんな携帯電話使っているわよ。もう若い人は駄目ね」と言っていました。それで、私は周りを見渡しましたが、誰も携帯電話で話している人はいません。私もケータイメールをしていました。
 私はこの二人のおばさんを呪いました。このおばさんはケータイメールも電話も区別できないのです。二人は60台前半の年代でした。
 ただ数ヶ月前に北区役所の前の信号を渡ったところで、大声で喋っているオヤジがいました。不動産取引のことを大声で叫ぶように話していました。もうああいうオヤジは珍しいですね。もう私は死に絶えたとばかり思っていました。

 若い人は通話よりメールを好む。オヤジは通話を好む。それは、コミュニケーションではなく、一方的に言うことをきかせたいからかもしれない。人の言う事など聞きもせず、一方的に言うだけ。メールだと、読まねば返事が書けないから、一方的にならない。

 私も高校時代の友人が、息子に携帯電話を持つように言われて、「言われたから持ったけれど、少しも電話してこないんだ」と怒っていました。彼は携帯メールが使えないのです。一度柳田公園を急いでいる午前10時少しすぎに携帯してきたので、「今駅まで急いでいるんだ、メールで頼むよ」と言ったのですが、その後はもう今に至るも(もう2年たっているよ)何の連絡もありません。私のことを、「あ、息子と同じだ」と思ったことでしょう。
 でも、こんなおじさんが多いですよ。
読みもしない「死霊」を本棚にしまって』って、こんなオヤジも本当にいます。「死霊」の話をしてくるから、私も悪いから、「では話し出すか」と、あのくだらない小説の話をしだすと(私も大昔はあの小説をすごい小説だと思っていましたよ)、知っているはずのそのオヤジが、私には「こいつはちゃんと読んでいないな」と判ってしまうものです。私はけっこう詳しく話せますよ。
 実は羞ずかしいのですが、私は『死霊』を今ももっているのですね。いまさら売れないしなあ。埴谷雄高なんて今はもう手にとるだけで羞かしいです。
 私は早く孫がケータイをもってほしいです。そうしたら、もういつもケータイメールしますよ。絵葉書では送っているのですが、まだ字が読めないですからね。

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ネット通販・古書店 Azuki堂」の「Azuki堂便り」に、このUPがありました。

 思えば、埴谷雄高の本はずっと捨てないできたものでしたが、昨年3月に我孫子の自宅を完全に引き払うときに、下北沢の古書店に来てもらいましたときに、他の本とともに持って行ってもらいました。
 もう読む気も、手に取る気持もまったくありません。私のところの「周の掲示板」にある会社の社長さんが、「埴谷雄高の本は100年後も読まれている」なんていう、どうでもいいことを書いてきまして、私はもうどうでもいい人なので、否定的に書きましたら、彼はしつこく繰り返しました。そして、そうして否定する私をものすごく非難しました。もうそれで私は彼と付き合うのを止めました。すぐに、電話で「ごめんなさい」と謝ってきたのですが、もう私は許す気持はまったく失っていました。どんなときにでも、人間の当たり前の礼儀をなくすことのほうが、埴谷の存在よりも大変に重いことなのです。
 埴谷雄高が、「生活の幅」なんて言っても、どこまで判っていたのかなあ。埴谷が、吉本(吉本隆明)さんに、亡くなる前に謝ってきたそうです。そのことを吉本さんが書いています。埴谷さんも晩年は狂っていたみたいですね。

09031808 埴谷雄高では、『死霊』のみが、この私の今の部屋のどこかにあります。これだけは持っていようかな、という思いになったものでした。私には、「ドストエフスキー『悪霊』」のほうが大事で重い本です(ただし、これも売っちゃったけど)。埴谷雄高は、自分は革命家でもあると思っていたのでしょうが、その革命家であるだろう首猛夫を醜く描きすぎなのですよ。どれほど、そのことが思い出されることでしょう。彼は、貴族として革命を考えていただけなのです。

 もう、埴谷雄高を読むことは永遠にないでしょう。私の後輩が三里塚で逮捕され千葉刑務所に勾留されていたときに、埴谷雄高の本を大量に差入れしまして、それを舎下げするときに(差入れした本は一旦は刑務所が預かり、本人の「舎下げ願いにより、房の中に入れる)、いつもその本の題名が読めないと、看守が文句を言っていたそうです。文句はみんな埴谷雄高にいいましょう。

 もう私には、遠い遠い、まったく関心もない人です。

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