将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:母への手紙

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 私の母に、私は 周の母への手紙 に書きましたように、今年の4月14日から手紙を書いてきていました。でも入院していた母はもうそれを読むことはできませんでした。だから母が8月14日に亡くなったあとは、8月16日の 私の手紙 は、母のお棺の中に入れたものです。
 それで、母への手紙を書き始めてから、千葉県君津市に住んでいる次女ブルータスへは、手紙を出すようになりました。いや、それはもう我孫子の自宅へ住まなくなった次女への手紙が来ると、王子へ転送されてくるようにしましたから、それを同封した私の封筒に、私も何かを書いて送っていたのです。
 実は、これはもう1月からやっていました。次女の結婚式の出席の手紙が着くと、私がそれを次女宛てに送っていたのです。
 それで、次女宛の手紙がなくても、何かを書いて送っていましたら、長女おはぎも「えっ、私にはないの?」というので、おはぎにも書くようになっていました。
 でも母が亡くなってしまうと、それもやらなくなっていました。

 でも先週の15日ときょう18日にブルータスへは手紙を出しました。返送する手紙があったこともありますが、ひさしぶりに出したのです。
 そうしたら15日の手紙は、朝11時すぐに王子駅前でポストに入れたら、翌日16日夕方にブルータスは「手紙をありがとう。ひさしぶりで嬉しかったよ」というケータイメールをくれました。それで、私はまた嬉しくてきょう11時頃、また手紙をポストに入れました。
 なんだか、ケータイメールをもらって嬉しくなったのです。単純な父なのです。
 15日の手紙には 吉本隆明鈔集「赤ん坊は病気をする、治るごとに大人になる」のことを書きまして、18日の手紙には、王子のおおばばに手紙を書いてくれというお願いと、そしてまたこういうことを書きました。
 これは前から私が感じていたことを書いたものです。次のようなことを書きました。ええと以下にはもちろん、私が書いたことをそのままは書きません。

 よくポコちゃんがいるからなのでしょうが、小さい赤ちゃんを連れている親子がとっても気になります。でも私が嫌なのは、その赤ちゃんや子どものお母さんが、その子どもに実に乱暴な言葉をはくことです。小さい子どもは、最初はとまどっていますが、そのうちに、お母さん以上の乱暴な言葉で返すようになります。小さい子どもが、「うるせい、ばあァ」なんて言葉を母親(この母親もひどい言葉使いです)に投げつけているのを見ると聞くと、本当に嫌になるし、でもそうなったことの責任はその子の母親及び父親にあるのです。
 その点、うちの加壽子ママは実に丁寧な言葉を、あなたたち二人にも使っていたでしょう。あれが大事なことだと思うよ。そのことが、必ずそのあとのその子ども自身に返ってくるのだと思っています。

 ええと、私はこのことが一番気になることなのです。よく子どもを連れたお母さんが、その子どもに実な乱暴な言葉使いを使っているのが、私にはたまらなく嫌になり、そしてとても気になります。小さな子どもも自分のお母さんのその乱暴な言葉を、最初の最初はとまどっていることもあるのですが、そのうちその子自身も、その乱暴な言葉を自分の口からも話すようになります。
 これはお母さん方にも、お父さんにも実に気を使っていてほしいと思うのです。優しい丁寧な言葉を使っていれば、きっと子どももそれを真似して、心の中も優しく綺麗になります。「心や気持は綺麗でも、言葉使いは乱暴でも構わない」なんてことは決してありません。言葉使いが乱暴だと、心や気持も必ず荒んできます。言葉使いを優しく綺麗にするように心がければ、それを使う家族の気持も優しく穏やかになります。
 もうこれは間違いないことです。そんなことを今しきりに考えている私です。

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 以下、私が今書き終えた母宛ての手紙です。もうポストには入れられません。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年8月16日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 8月4日も11日もお見舞いに行ったのですが、起きなかったね。でも手を握ると、握り返してくれたから、気がついていたのかな。
 7月29日と8月4日と11日のお見舞いのあと、我孫子駅前の「メヌエット」というケーキ屋さんに行きまして、ケーキを買って王子に持って帰りました。ケーキといってもババロアとかカスタードというものです。前のよう単に甘くないから、王子のお義母さんに最初食べてもらいましたが、あまりお気に召さなかったようでした。
 11日には、これまた新しくできた我孫子北口の「福一」という和菓子屋さんのお菓子も買いました。これも、王子の家に持って帰ったら、おはぎにもその彼のミツ君にも喜ばれました。
 こうして、我孫子の北口は美味しいお菓子屋さんができたわけで、おそらく新しい名所になると思いますよ。
 でも思い出せば、我孫子は、ずっと北口なんてなかったわけですから、ずいぶんこれで変わりましたね。驚いてしまうことです。
 14日の午後2時に、正志から、お母さんが亡くなったことを電話もらいました。ちょうど、おはぎがポコちゃんを連れておばちゃんのお見舞いに行くと言っていたところでした。だからきょう、うちの加壽子とおはぎはポコちゃん連れて行きますよ。
 それから、きのうは、ブルータスが彼のナオキ君と行きましたね。ひさしぶりにおばあちゃんに会いに行くのに、大変に残念だけど、もう仕方ないよね。
 13日には、ブルータスが結婚して住んでいる君津市へ加壽子と、ミツ君・おはぎ・ポコちゃんとで行ってきました。私の家族がこれで全部で7人になったのです。
 まだ0歳のポコちゃんなのですが、ブルータスに抱かれて絵本を読んでもらっていると、何故かおとなしくてよくブルータスの絵本を読む声を聞いて、絵をじっと見ています。もともと、「いい絵本を選んでくれたんだあなあ」と感心して見ていました。
 きっとブルータスにも、元気で可愛い子どもが生まれます。もうそのときのことを考えると、そのときが早く来てほしいとばかり思っています。これからまたその子とブルータスのことを見守っていてください。
 あちらへ、行って、久二おじいちゃんにはもう会ったかなあ。たぶん、そちらでも勝手な久二父でしょうが、なんとかつき合ってあげてね。そして、いつまでもおはぎブルータスのことを見ていてください。
 お疲れさまでした。さようなら。                早々

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 以下、私が今書き終えた母宛ての手紙です。すぐにポストに入れます。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年7月16日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等
 前略
 14日にお見舞いに行きましたが、ばあは起きませんでしたね。でもあの部屋は涼しくて眠るのには気持いいのかな。そんな感じがしました。でも、私の手を握り返してくれてありがとう。
 あの日14日は台風の日だったのよ。それも大きな台風だということでした。だから日本中が被害に遭いましたが、ほぼ太平洋岸をかすめただけだったから、その被害が大きくならなかったようです。
 ちょうど四国とか紀伊半島に上陸するのかな、とも思わせて、私たちが出会った伊勢湾台風を思い出したものでした。
 あの台風はもう私には絶対忘れられないものです。自然が怒ったときの力ってすごいものだなあ、と判ったものでした。
 でも病院からの帰り、傘が壊れていたので、私は濡れてしまいました。でも別に平気でしたけどね。
 あの日は、我孫子にあるピアノをあの部屋から出すところだったのよ。おはぎもブルータスももうピアノはいらないというのです。一時ブルータスが、結婚した家に持っていこうという気持もあったのですが、止めました。
 ブルータスは、もう三線もやっているし、オーボエもやっているのよ。ブルータスの勤めていた柏A小の生徒たちは、オーボエを吹いているブルータス先生を見たら驚くんじゃないかなあ。なんせ、社会科で、沖縄のことを学ぶときに、ブルータスは三線を持って行って、それを弾くのですから。それでみな驚いていたのに、実はオーボエのほうが前々からやっていたというと、もっと驚くでしょうね。
 おはぎは、ピアノも三線も、いまいち得意ではありませんが、やっぱりあの子は美術の先生です。いつも感心してしまいます。できたら、どこかで絵の個展をやってほしいと思っているのですが、今のままじゃ無理かなあ。
 今はもう毎日、子どものポコちゃんと大格闘です。ポコちゃんは、可愛くていい子ですが、でも母親のおはぎには、大変なことの連続です。なんとか、私もそれを手伝えたらと思っているところです。
 でもこうして、私が二人の子どもを育て、その二人が結婚して、一人は私の孫を産んでくれていて、もう一人も、それがもうすぐのことだと思うと、なんだか嬉しくて堪りません。
 そんなことを、ばあとずっとお喋りしたい気持でいっぱいです。早くそんな日が来ることが私には待ち遠しいです。              早々

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d4cceddd.jpg 今娘二人に手紙を書いて、ポストに入れてきました(長女は同じマンションの宛名ポスト)。なんだかひさしぶりの手紙になります。このところ書いていられませんでした。
 私はケータイメールでも書きますが、はやりこうして手紙を書いて切手を貼って(長女の場合は貼りません)、郵便ポストに入れるというのはいいですね。愉しい行為です。
 思えば、昔母にもこうして手紙を出せばよかったのですね。今は母への手紙は、母の病院のベツドの横のデスクに封も切らずに置いてあるだけです。
 また母にも手紙を書こうと思いました。そうするしか、私には、今の母に対してやることがないのです。もっと早くやるべきだったという悔恨の思いだけです。
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 以下、私が今書き終えた母宛ての手紙です。明日ポストに入れます。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年7月2日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等
 前略
 ちょうどおはぎは、文教大学で美術専修生でした。だから今は小学校の図工の先生なのです。だから、おはぎの勤めた文京区の学校も、今の荒川区の学校も、私は二つとも行きましたが、どちらもいつもおはぎが、たくさんの生徒たちの美術の力を引き出しているなあ、と実に感心しています。
 できたら、私の小学校・中学校のときにも、あんな風に教えていてくれたら、もっとこの世界が違うように見られたいたろうなあ、と思っています。
 それで、その大学の同級生たちも(女の子が圧倒的に多い)、ほぼみな教員になっていて、それぞれみな結婚をして、そしてみな子どもが出来ています。けっこうそれが多いのですね。
 私たちの世代の子どもたちだから、また数が多いのでしょうが、それにしても、こうして元気な同級生がたくさんいて、そしてまた皆同じ職業について、みんなで連絡取り合っていて、その子どもたちも会っているという傾向は、とっても素敵です。
 その子たちが、おはぎのところに来たときは、なるべく会うようにしているですが、実にいい子たちで、愉しいですよ。思えば、私はおはぎの大学にもたびたび行きましたから、みんな私のことをよく知っているのです。
 ブルータスは、結婚して今は彼の実家のほうの小学4年生の担任をしています。ブルータスは、おはぎのような、図画工作というような科目の先生ではなく、クラスの担任をしています(おはぎは、担任にはなりません)。
 これがまた、実に元気な先生ですよ。ブルータスの実際の授業を何回か見学しましたが、実に私にはいい授業でした。いや、私は見学しているのではなく、私も生徒の一人として一緒に学んでいるつもりなのです。
 ブルータスは、実に熱い先生です。柏の学校では6年生を続けてやったのです。6年生は教えたくないというような先生もいるらしいのです(6年生の担任になるのは、実に大変なことのようです)が、ブルータスは違うんです。
 また今度の学校へも、授業参観に行きます。声を出さなければ、私のことはなんだか判らないのですよ。「あれ、誰か生徒のおじいさんかなあ?」と思われるくらいじゃないかなあ。
 あ、おはぎの学校も行きたいな。いや、私はみーねえの二人の息子の学校へも行きたいのよ。運動会は行ったけど、授業参観にも行きたいんですね。
 考えてみれば、いろいろと忙しいことになってきそうですね。   早々

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 以下、私が午後7時台に書き終えた母宛ての手紙です。もうポストには入れました。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年6月27日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等
 前略
 またひさびさの手紙になってしまいました。この6月はこれで3通目です。
 おはぎにもブルータスにも手紙を書いています。そして私の何人かの友人にも手紙を書いていますよ。おはぎの子ども(私の孫でばあちゃんのひ孫)のポコちゃんが字が読めるようになったら、書きますよ。でもまっさきには、ケータイメールかな。今では、みーねえの二人の息子(ばあちゃんのひ孫だよ)とは、私はケータイメールをしています。
 私が中学2年のときに、ばあちゃんの中央公論社の夏目漱石集や、谷崎潤一郎集、永井荷風集が実に読んでよかったものです。漱石は他でも読めたでしょうが、谷崎と荷風の本をあれほどいわばほとんど読めたというのは、実によかったなあと思っています。ばあも文学少女だったんだねえ。
 谷崎潤一郎は、その後も読みまして、『新々訳源氏物語』を府中刑務所にばあが差し入れてくれて、それを読んだの最後かなあ。そのあとは、みなどの本も読み返すばかりでした。しかし、一応いうと、谷崎の作品も退屈なものもありますね。それと荷風は、中学生には、あまり面白いとは言えませんでしたが、その後実にこのごろは、どうやら少しは判ったような気がしています。荷風という人はお父さんが漢詩人だから、今の私にはとても興味深いのです。
 でもその意味では、漱石もあの当時は全然判らなかったわけですが、漢詩がいいですね。私もこの歳になって、やっとその良さが判ってこれたように思います。といっても、もう私は59歳、あの漢詩の多くを書いていた時期の漱石の歳をはるかに超えてしまいました。三年前修善寺にママ、おはぎ、ブルータスと4人で行きました(泊ったのはまた別な温泉です)。修善寺というところは、私には、頼家、実朝、政子のことしか思い浮かばないものなのですが、思えば漱石をこそ思い出すべきでしたね。もう実に反省しています。
 おはぎもブルータスも、こうして一緒に温泉に行くと、実に愉しいですよ。少し残念なのが、家族4人のときは、温泉の前までは4人でわいわいお喋りしながらいきますが、温泉そのものは男組・女組で別れてしまうことです。
 でも今年からは、ブルータスも結婚して、ポコちゃんもいますから、男組・女組の数が4対3なのです(昨年は、おはぎの彼ミツ君がいましたから、私独りではありませんでした)。
 だからこれはいいですよ。ポコちゃんにも赤ふんさせて、私と二人威張って入ります。これはもう今から愉しみです。             早々

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f6d5b512.jpg 娘二人に手紙を書いていますが、今は長女に書きました。次女は我孫子の自宅から転送されてくる手紙を送るので、それに私がどうでもいいことを書いています。おそらく私が手紙を入れた翌々日にはついているでしょう。
 長女のほうは同じマンションですから、その郵便ポストに直接入れます。
 母にも手紙を書いていますが、もう母は読めないのだろうなと思っています。でも私はただ、手紙を書くしかないのです。
 私は今、孫が少し大きくなったら、手紙を書こうと思っています。でも字が読めるようになるのには、あと6年くらいかかるのかなあ。
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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年6月12日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 またもひさしぶりの手紙になります。
 もうきょうなんか、けっこう暑いです。おはぎは同じマンションですが、あそこのほうが涼しいです。ここの部屋はどうしても暑いです。もう古い部屋で、そのままだから。しかたないよねえ。夏だもの。
 うちの家族は、鹿児島にも住んだわけですが、はやり名古屋のほうが暑かったですね。ただ、このことは住んでみないと判らないでしょうね。今はもっと暑いんだろうなあ。言われることだけど、年々暑くなる年を感じています。このままいくとどうなっちゃうのかな。
 思い出せば、私が一夏過ごしたした府中刑務所も暑かったです。狭い独房なので、ただただ暑いだけでした。ただ中にいると、まったく外の世界のことが判らないので、ときどき面会に来られるかたの話はどうしても私には判らないことが多々あったものでした。
 ただ、私は保釈になってから、こうした拘置所なりに面会に行くときには、そうしたことを判った上でお話しするようにしていましたからね。私が中にいるときは全然無理解な人とは会っても、一応わざわざ面会に来てくれたからという感謝の気持は失わないようにしましたが、独房に長期勾留されているということがまったく判っていないとしか思えないという人もときどきいたものでした。まあ、でもこれは仕方ないことです。
 でも、こうして自分の母親にひさしぶりに手紙を書くようになって、昔を思い出しているのですが、いろんなことを振り返るようになりました。
 私は秋田というところは2カ所住み、名古屋は3カ所だが、鹿児島は1カ所だとばかり思っていましたが、私は原良町に下宿もしていたんだねえ。だから鹿児島は2カ所に住んだことになるんだ。
 浦和は2カ所だとばかり思っていたら、あそこは3つのところに住んでいるんだ。
 我孫子も勝手に3カ所だとばかり思い込んでいたけれど、我孫子の実家にも住んでいたのだから、4カ所なんだねえ。
 私がまったく記憶ないのが、東京の巣鴨に住んでいたということだけなんだけど、あそこはどこにいたのかなあ。私の孫のポコちゃんが巣鴨で生まれたから、あのとき、何度も、「自分の住んでいたのはどこらへんだったのかなあ?」という気持でいっぱいでした。できたら、いつかそこ場所を知って歩いて見たいものです。たぶん、何かを思い出すんじゃないかなあ。       早々

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

                2007年6月1日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 ちょっとしばらく手紙を書いていませんでした。どこに郵送したらいいのか判らなかったんです。きょうは、おはぎと孫のポコちゃんが、あちらの実家へ行っています。あちらのお母さんにおはぎは可愛がられているんですよ。それはね、このあいだ結婚したブルータスも同じなんです。
 ああいうふうに、相手のお家の家族に可愛がられているというのは、みなおばあちゃんと王子のおばあちゃんが育ててくれたおかげだと思っています。
 思い出せば、横浜で私は大学に入って大学1年の終わりの頃、我孫子に引っ越したものでした。でも私はいいのですが、マサシは横浜の鶴見まで通ったのだから大変だったね。あのときは高校2年の最後の頃だ。だから高校3年は大変だったろうなあ。
 私も我孫子というところは、中学高校の友だちもいるわけではないから、それほど親しい感じがする街とは言えませんでした。私はまた北浦和にアパートを借りて住みだしたしね。でもあの北浦和のアパートは1カ月も住まないうちに、東大闘争で逮捕されることになってしまったね。私が逮捕されて取調を受けていた東調布署というところは、一体東京のどこなのかさっぱり判りませんでした。「東調布」というから、調布市のそばなのかなあ、なんて思っていましたが、のちに、こののちというのは今から10数年前に、私が役員をしている会社が大田区にあって、そのときに税務調査があったときに、その税務署の職員に聞いたものでした。東調布署というのは、大田区の田園調布にあるんだね。驚いて、その日は、夕方わざわざこの東調布署を見に行ったものでした。
 外から、あのときの留置場の位置を確認しましたよ。でもよくあそこまで、みんな差入れに来たりしてくれたものでした。ばあもよく来てくれていました。まだ面会はできなかったけれどね。起訴されて接見禁止が解けたときに、友人が来てくれて、そして府中刑務所に移管になったときに、ばあは来てくれていましたね。あのときに、ばあは「こんな秋田犬を飼いだしたよ」と言ってくれました。私はシロのことがとても心配になって、そのことを聞いたら、「シロはこなくなっちゃったよ」と聞きまして、「ああ、またうちは秋田犬を飼うのか」という思いで、でもシロのことばかりが気になりました。でもそのまたあとの面会で、シロがまたやってくるようになって、子犬の秋田犬に喧嘩のやり方を教えているなんて話を聞いたものです。
 あのシロという野良犬は、実に面白い頭のいい犬だったねえ。もうたくさんの思い出を残してくれた野良犬でした。              早々

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年5月24日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 きょうに午前中にまっちゃんから電話があり、28日に病院を移転すると聞きました。でもそこで簡単な手術して、また戻るんですね。
 前の手紙の続きだけど、鹿児島のつぎが横浜だったね。
 実はね、私は鹿児島というところは少しも好きではなかったのだけど、鶴丸高校へ行ってからは実に面白い毎日だったから、けっこう鹿児島というところが気にいってきていたのでした。でもまた転校になりました。
 この横浜という街も面食らいましたね。まず私は皆が平気で話す言葉が標準語でなくて驚いたものです。なんだか、「…じゃん」という音(おん)ばかりが耳について嫌なものでした。でも入った学校には行きたくなかったのだけど、選んでくれた先生が鶴丸高校の卒業生だということで、あの先生と話して覚悟を決めました。
 この高校の2、3年のときのクラスの同窓会をすべて私がやっているのですが、今でも、その場で多くの人が私を鹿児島の出身だと思っているようで、もうこれにはげんなりします。あの人たちは思考法が実に堅くて保守的なんだよなあ。でも今になって、横浜の街を歩くと、なんだか懐かしくてなりません。
 我孫子の家の隣の娘さんの家族が中華街のあるビルの上のほうの部屋で、みんなで学校をやっているのだけど、そこへ行ったら懐かしい思いばかりでしたが、なかでも長男は実に私たち家族が懐かしいようです。おはぎ、ブルータスにニューヨークに来てくれって言っていました。彼は今航空会社で働いているのだけど、その前にはコマーシャルのモデルをやっていて、実にいい綺麗な男だと思うのですが、彼はアメリカ人のモデルというのは193センチ以上ないとだめだから(自分は3センチばかり足りないんだって)、その道はあきらめて、さらには母や父や他の二人の兄弟もアメリカがいいと思っているようだが、僕はやがて日本で生きようと思っています、なんて言っていました。彼は見た目はアメリカの白人だけど、心根は日本の我孫子人のようですね。私は我孫子も好きじゃないけれど、彼の前では、その私の本音が言えませんでした。彼には、我孫子というのは、うちの二人の娘やみーねえ、それに隣の怖い親父(の久二じじ)やばあちゃんの思い出だけで面白く懐かしいところのようです。
 でも彼は、おはぎとブルータスにニューヨークに来てほしい、ニューヨークは思われているほど、怖い街ではないです、と懸命に言っていましたね。私はおはぎとブルータスが子どもを連れてニューヨークを彼の案内で歩いてほしいな。そんな時がきっといつかくることでしょう。       早々

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522bf134.jpg 母にも手紙を書いているわけですが、二人の娘にも手紙を書いています。ケータイメールもけっこう打っていますが、なんだかこうして手紙を書くクセが私につきました。母はもう手紙を自分で読むことはできないかもしれません。でも二人の娘は読めるはずです。そして、「なんで、こんなどうでもいいことを書いているんだろう」なんて思っているかなあ、と私は思いつつ、でも引き続き書いています。
 自分が思ったことを、そのまま書いていますから、何もちゃんとしたことを書いているわけではありません。
 でも、このところ、こうして娘に手紙を書いていて、こうして手紙を書くっていいことだなあ、と思いました。
 このごろ、娘二人が昔にこの王子の義父や義母に書いていた手紙を見ることがあります。もうそれを読むと、もうこの私は実に嬉しいのですね。「あ、あのときに、こんなことを書いていてくれたんだ」と思うのですね。
 私の手紙は、ただただ、しつこく脈絡なく、だらだら書いているだけです。
 二人の娘の子どもへは、つまり私の孫へは、またちゃんと手紙を書いていきます。ケータイメールも、手紙も書いていきます。ポコちゃんは男の子だから、また全然違うことを、どんどんと書きますよ。
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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年5月20日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 きょうは柏の病院にいるのかなあ? あとでまっちゃんに電話して聞いてみます。
 私は今、おはぎとブルータスにも手紙を書いていますよ。やっぱり、こうして父親から手紙をもらうということも、いいことだと思うんだね。
 我が家族は鹿児島にも住みました。思えば、家族としてはちょうど3年半ほどいたんだね。名古屋にいた期間と同じ長さですね。ただし、名古屋は3カ所に住んだから、東千石町だけに住んだのは、長い期間だったね。そして私だけは、そのあとも鶴丸高校で下宿していたから、私だけは小学校・中学校・高校と過ごしたのです。小学校と高校はわずかの期間だけど、中学が一つの学校だけというのは、私だけでしたね。兄の莞爾は、秋田・札幌・名古屋の3つの中学だったし、マサシは、鹿児島・横浜の二つの中学でした。
 だから私には、かなりな思い出がたくさんあるのが鹿児島です。おそらく今でも天文館へいけば、いくらでも同級生に会えると思うんだね。
 私が26歳のときに、鹿児島を歩いて、本当に驚くくらい天文館で昔の甲東中学の同級生と再会したものです。
 ある飲み屋に入って、そこのママに、「ここにAさんという方がいませんか?」と言って、その苗字ばかりでなく、名前もあげたら、「えっ、Nは私の息子です。さっき、ここの来たのが息子です」といいまして、すぐに彼を呼んできたものです。数分前に、この店の業務用の大きな氷を運んできていたのが、彼でした。お母さんはすぐに、本人を呼んできてくれたから、彼が、「あっ、萩原じゃないか」と言って、「今も下駄はいているのか」と懐かしい表情になりました。もう風貌が変わっていたので、数分前には判断できなかったのです。
 そのお母さんは、すぐにばあちゃんのことを思い出してくれたよ。「お母さんはお元気ですか。あなたのお母さんのことはよく覚えています」といくつものことを思い出してくれました。
 もうそのあと、何人もの友だちに会えたものでした。中学2年3年と同じクラスだった黒岩君がラーメン屋になっていたのは驚きました。でもこの「黒岩ラーメン」が今では、大きなチェーン店になっているんだよ。
 いや、実は鹿児島で私たち家族がお会いした人たちは、みなその息子さんなんかが、店を継いでまた元気に活躍していますよ。もう懐かしい思いばかりがしてきます。やっぱり私たちがおつき合いした方たちは、鹿児島市で、すべてで頑張っている方たちでしたね。                 早々

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年5月16日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 たった今、まっちゃんと電話でお話しました。今度簡単な手術をするということですね。

 もう5月も半ばです。きょうなんかずいぶん暑くなってきました。今いる王子の家で、ある部屋の冷房器械の調子が悪いので、明日見にきてもらいます。ちょうどおはぎのところも同じように調子の悪い機器のある部屋があるから、一緒に見てもらいます。こんなときに、こうしてすぐそばに住んでいることはいいなあ、と思いますね。
 こうして暑い夏になってくると、「暑い」ということで、名古屋を思い出します。あそこには3年半ほどいたんだね。そして南区若草町・千種区今池・北区大曽根と住んだね。夏は3年過ごしたんだ。その次に住んだ鹿児島よりも、この名古屋のほうがずっと暑かった思い出があります。鹿児島は陽射しは強烈だけれど、名古屋ほど蒸し暑くはなかったものでした。
 インターネット上で、今池にいたときに通った内山小学校の4年生の同級生を見つけて、メールしたのだけれど、彼には私のことが名前だけでは思い出せないようでした。私は日本中をあちこち歩いたわけだけど、同級生のことはどこでも覚えているんだけどね。
 名古屋といえば、小学校5年のときに出会った伊勢湾台風の思い出が強烈です。あれほど怖ろしい台風は他には知りませんね。今でも、あのときの台風の怖ろしい音はよく覚えています。
 普通なら、私たちの住んでいた家の壊れ方だとテレビにでも放映されるんでしょうが、あのときは、どこの家もそうでしたね。翌日は、実にいい天気だったのをよく覚えています。あのとき以来、我が家では台風が来るというときは、かなりな防衛策をしたものでした。でも実際に台風がきても、それほどの被害もなくて、いつも拍子抜けの気持になっていたものでした。
 私がこの名古屋の出身の人がいるところで、このときの「伊勢湾台風の歌」を唄っても、誰も知らないのですね。何でわすれちゃうのかなあ。担任の島先生が、「いつまでも、この台風のことを忘れないようにしましょう」と言って教えてくれたものです。あの先生は旅行好きの人でした。いつも、日本中を旅行したときの思い出を私たち生徒に話してくれていました。
 このときは六郷小学校でしたね。名古屋の最初は桜小学校でした。もうみなたくさんのことを覚えています。                早々

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 一つ前の わが家のおかあさん2007.05.11 に次のように書いていました。

あ、でもケータイメールもあるのになんで手紙なのかなと今考えました。あ、そうか。

 これは、私の今の王子は、私の事務所のあった御茶ノ水と、我孫子の自宅への手紙がすべて転送されてきます。それで、ブルータスあての文書を私が封筒に入れて送っています。このときに宛名を書くのに(私は宛名が窓空きの封筒を長年使っています。だから宛名と同じ用紙に手紙文も書くことになります)、なにか手紙を書いていたのでした。それが、同封する文書がなくても、私はブルータス宛てに何か書くようになったのです。
 そして、入院した母にも手紙を書くようになって、おはぎにも「何で私にはないの?」と言われて、「あ、そうか」と書くようになりました。
 だから考えてみれば、ブルータスもおはぎもケータイメールか普通のメールですむはずのものがたくさんあるのですが、こうして手紙にしますと、これはこれでまたいいものなんですね。
 そしておはぎには、切手なしでいいわけですが、ブルータスにも母にも切手が必要で、これを貼るのもまた愉しいです。ブルータスの手紙には、もうこの王子や我孫子の自宅にあったあらゆる切手はすべて貼ってしまいました。一円切手まですべて使いましたよ。封筒の大部分が切手ということもありました。
 考えてみれば、このごろ妻へも手紙を書かないといけないかな、なんて思うようになりました。

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年5月11日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 今はね、ブルータスにもおはぎにも手紙を書いています。ブルータスは、少し遠いところにお嫁に行ったから、手紙を書いて送ると、少しは気がまぎれるかなと思うんです。おはぎは、同じマンション内に住んでいるのですが、ここには切手を貼らなくて出しています。
 もう私にも孫がいるわけですが、この孫が字を覚え出す頃には、手紙を書こうと思っています。いや、今は小学校に入る頃にはケータイをもつのだろうから、それあてにケータイメールを書くことにします。
 たぶん、「じじは、なんでこんなどうでもいいことばっかり書いてくるのかなあ」と思われるかもしれないけれど、たくさん書きますよ。
 思えば、私が学生で府中刑務所に居たときに、たくさん手紙をくれたね。でも私はほぼ返事を書かなかった。その前に鹿児島で鶴丸高校に入ったときにも、下宿あてによく手紙をくれていました。あのときにも私は返事をほとんど書きませんでしたね。申し訳ない思いでいっぱいです。でも今はこうして書いても、よく読めないのかもしれないね。だからやはりどうしても、申し訳ない思いでいっぱいです。
 私が子どものときに、記憶がはっきりしてくるのは、秋田に住んだ時からです。その前の東京巣鴨の記憶は全然ありません。ただ数年前に浅草の朝顔市に行きましたら、「あっ、ここには来たことがあるんじゃないかな」という思いが甦りました。おそらく昭和24年くらいに、あそこへ連れて行ってくれたことがあったんじゃないかな。
 でも秋田のことは、初めて記憶にあるようになったと言っても、やはりところどころ曖昧です。繁華街の川端の思い出や木内デパートの思い出は曖昧です。千秋公園の思い出や、家での出来事はよく覚えています。よくマサシと親父の三人で、近くの公園に花火をやりに行ったものでした。考えてみれば、あのときにマサシは一つか二つなんだねえ。でもよく仲良く遊んでいたのを覚えています。
 兄貴の莞爾とは7つ違いだから、遊んでもらったという記憶はないなあ。でも雪遊びをするようになると、よく遊んでもらった記憶が鮮明になります。もう私が幼稚園で、兄貴は中学生だったものね。
 それに秋田は、やはり秋田犬の思い出が鮮明です。これはもう忘れようがありませんね。我が一族がこれから長い間、この秋田犬とのつき合いの最初だったのですね。もう忘れようがありません。昔秋田に旅行したことがあるけれど、また必ず行ってみたいな、と思っています。            早々

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「あ、いろいろな犬のことを思い出していたんだな」とは思ったのですが、それをどこに書いたのかすっかり忘れていました。今思い出しました。周の母への手紙 にいくつか書いたのですね。

ああ、うちにもベアとケリがいたな

それで、ダックスフンドといえば、我孫子でしばらく飼っていたカルボという犬がいたね。

名古屋の南区若草町にいたときに、我が家に、何故かクロという野良犬がきたよね。あのノラ公は一体何だったのかなあ?

というように書きました。
 たくさんのことを思い出していました。

 私が昨夜夜悔やんでいたのは、私が1964年春鹿児島の鶴丸高校にいまして、下宿に帰るときに、いつも道端でのんびり眠っているノラ犬がいたのですが、あのあまりに呑気な顔に、ちょいと嫉妬して、私が足をトンと大きく踏んで彼を起こしたことがあります。きのうそのことを思い出しました。彼の迷惑そうな顔をよく思い出します。悪いことをしたものだなあ、と思います。あのときの道も、あのときのあのノラ犬の迷惑そうな顔もよく思い出しました。

 犬のことで、思い出すことは、たくさん書いていこうと、深く思ったものです。

 思い出せば、いつも母は、どこにもいる犬のことを気にかけていました。自分の家で飼っている犬、自分の家にやってくるノラ犬のことはいつも可愛がっていましたが、よその家で飼われている犬のことで、そこで大事にされているならいいのですが、母がいつも、「あんな飼い方じゃ、可哀想だ」と言っていたたくさんの犬がいます。
 でも考えてみれば、私がいつも何もできなかったのでした。

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

                2007年5月7日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 手紙を1日に出してからもう1週間が過ぎてしまいました。なんやかやと忙
しいものなんですね。

 ブルータスがお嫁に行きまして、我孫子の台田の家を引き払わないとなりません。けっこう大変な作業です。当初は、あの大きなピアノをブルータスが持っていくということだったのですが、やはりそれは止めにしました。そうすると、あのピアノを廃棄しないとならないのです。廃棄するのも大変な作業です。
 あの台田のマンションに、私たち家族4人が引越することになって、あのピアノを王子の家から持ってきました。おはぎもブルータスも、あのピアノをよく弾いていましたよ。
 おはぎは、やがて音楽よりも美術が得意だということで、そちらに精進しましたが、ブルータスはピアノが大好きでした。だから、小学校でオーボエをやって、先生になってからは三線をやっていますが、その基本にはピアノをやったことにあるのだと思っています。
 ブルータスはね、実はピアノにしろ何にしろ、音譜を見るのではなく、指で覚えちゃうのですよ。だからよく、我孫子の家で、テレビのアニメなんかの放送の曲をピアノで弾いていることがあって、私が「あの曲は何の曲だ。あの曲はテレビ番組で流れているだけで、音譜がないだろう?」というと、ママが、「あの子はね、音を指で覚えちゃうのよ。それで弾いているの」と言ってくれたものです。この能力は私には、全然備わっていないものです。
 思えば、この能力は私ではなく、マサシにはあるものですね。よく子どものときからハーモニカを吹いていたことを思い出します。それがああして尺八を自在に演奏できるようになったんだろうね。
 でも子どものときから、私にはない能力といか、私には想像もできない能力ですから、正志が羨ましかったものでした。
 思えば、私たち3人兄弟はかなり違った性格と能力なのでしょうが、いつもマサシにはたくさんのことをやってきてもらっていました。親父の葬式のときも法事のときも、いつもマサシがすべてを仕切っていたね。私はいつもマサシの下で小回りよく動き回ろうと思っていただけです。
 でもいつも長男である兄貴のことは必ずあらゆることを支えているつもりですよ。これはマサシも私も同じです。
 思えば、こんな兄弟でよかったな。              早々

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。さきほど、次女の結婚式でもDVDを感激してみていましたから、そのことを母に伝えます。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

                2007年5月1日

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 前略
 今ブルータスの結婚式をビデオに撮ったものを見ていました。撮ってくれたのはミツ君です。DVDというもので、撮ってくれたので、今ママと見ていました。全部で2時間くらいあります。ブルータスの結婚式はとてもいい式だったよ。もう親として実に感激感動していました。
 ブルータスは、本当にいい娘になって、そしていい教師になりました。もう私は嬉しいばかりです。これは、うちの二人の娘を育ててくれたたくさんの人がいたからだと思っています。
 そんな人たちが皆、ブルータスの結婚式の映像に中に映っていました。いないのは、我孫子ばあちゃんと、王子のおばあちゃんです。それにもちろん、久二じいも、八郎じいもいません。これは見ていて、いつも少しさびしくなるところです。
 でもこうして、私も二人の娘をお嫁に出すことができて嬉しいです。そして二人とも実にいい彼で、そして実にいいお父さんとお母さん、そしていいご兄弟がいてくれるのです。
 今は、娘たちの友だちを見ていると、結婚するのが、みなけっこう遅くなる人が多いようです。私の二人の娘は早いほうだよ。娘二人の友だちは私も昔から、よく知っているから、いつも「あ、あの娘は結婚はまだなのかしら?」って思っています。
 このブルータスの結婚式の映像には、おはぎのポコちゃんも映っていて、ポコちゃんが映像に映ると、ただただ私は嬉しくなっています。孫ってこんなに可愛いものなんだね。
 だから、ブルータスにも早く子どもができてほしいし、おはぎにも、早く、ポコちゃんの弟か妹が欲しいです。
 二人にもっと子どもが出来たのなら、もう私はそれらの孫を一同に集めて、いろいろなことがしたいです。思えば、ばあちゃんには、孫が5人だったね。みな女の子ばかりだった。でもばあちゃんも、我孫子じじもただひたすらこの5人の孫を可愛がってくれたことを私はいつも見ていました。
 私もあんなことを、そのままやっていきたいのです。二人の娘に子どもがもっとできれば、もうとても嬉しいとても愉しいことになります。もちろん、みーねえや、しほちゃん、かなちゃんの子どもと遊ぶわけだから、この子たちの時代は、はとこ同士につきあいも活発になるのです。そしていつも中心に私がいるつもりです。              早々

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。ちょっとしばらく出していなくて反省しています。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年4月26日

                周のURLメール
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 前略
 ちょっと手紙を出すのを3日空けてしまいました。
 一昨日は嬉しいことがありました。くにちゃんの子どものポコちゃん(ばばのひ孫だよ)がちょっとした病気で入院していて、でもきのう元気に退院したのです。もうとっても元気で、そばにいるだけで嬉しいです。
 でもおはぎがいうのには、23日夜私が帰ったあと、ミツ君は来ていたのですが、そこに看護婦さんが来て、その人がポコちゃんに打つわけではないのですが、注射器を持っていたそうです。それで、最初はその注射器を見て、驚いた顔をしていましたが、あの痛い注射をされると思ったのか、「ワアッー」と大声で泣き出したようです。可哀想だね。
 その前にも、大きな注射を打たれたときは、大泣きしたと聞いていたので、そのときには、「よし、今度はそんな注射は、じじが代わりに受けるから」と思って、そう口に出しそうでしたが、おはぎやミツ君に笑われるので、黙っていました。

 この手紙に我が家族に関係した犬の思い出で、名古屋若草町にいたときに出会ったクロのことと、我孫子のシロのことを書きました。ずっと飼っていたケンのことも書きました。まだまだたくさんの犬のことを思い出します。ケンの奥さんだったヒデ(秀峰姫という実に綺麗な秋田犬だったね)のことは、もう忘れようがありません。実にきかない犬でしたが、ケンに惚れていたんだろうね。ケンとヒデの子どもは、何頭育てたでしょうか。たしか名古屋大曽根で5頭の子犬が生まれ、鹿児島では5頭と7頭が生まれたんじゃなかったかな。
 でももう子犬たちが少し大きくなってからは、ヒデお母さんのところへ寄っていくと、怒って寄せつけないところがあったね。ヒデとしては、針金のように尖っている子犬たちに、乳房を噛まれるのが嫌だったのだろうね。でもその代わり子犬たちは、大勢で父親のケンに襲いかかっていました。ケンは耳噛まれても尻尾噛まれても我慢していましたが、そのうち逃げ出します。子犬たちが、お父さんの背中から転げ落ちるところをよく覚えています。
 でもそれで遠くへ逃げ出したケンを、また子犬たちがみんなで追いかけていたのをよく思い出します。それでまた同じことが起きます。そのうちケンはまた耳を噛られ、尻尾を振り回されます。思えば、実に優しい父親だったんだね。
 うちの二人の娘は、犬も何も飼ったことがないから、本当は飼ってあげたかったなあと思っています。                     早々

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。きょう会ってきて、母はやはり手紙はもう読めません。でも今の私はこうして書いて送るしかないのです。

   萩原たか子 様

               2007年4月22日

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 前略
 きょう会いに行きました。でもばあちゃんは目を開けてくれませんでした。でも義姉のまっちゃんの話だと、私のことは判っていると聞きましたよ。
 正志にも会いました。今も相変わらず彼は真面目ですね。兄として、いつも私が存在していることが羞しい思いになります。
 私の二人の娘、おはぎとブルータスもいつもおばあちゃんのことを心配しています。おばあちゃんが私の手をしっかり握っていてくれたよ、ということを今度も伝えました。
 きょうは、私たちがいなくなったあと、しほちゃんとかなちゃんとしほかなママが来てくれましたね。みんな大好きなばあちゃんの孫と嫁です。私もみな大好きですよ。
 一昨日書いたことですが、きょうは、やはりまた突如思い出しました。名古屋の南区若草町にいたときに、我が家に、何故かクロという野良犬がきたよね。あのノラ公は一体何だったのかなあ?
 もちろん私は可愛がりました。そして近所の悪ガキたちも、みな可愛がりましたよ。でもあのクロは何故、我が家にきたんだっけ。
 クロも雄犬だから、うちのケン(剣光号という雄の立派な秋田犬)に恋したわけじゃないよね。でも、ケンに惚れていたのは間違いないなあ。「親分!」という感じだったのだろうね。
 いつも、このクロのことも思い出すのだけれど、私は何もいいませんでした。いつもいつも犬の記憶は、思い出すだけで、ただただ悲しくなってしまうだけなのです。
 実はあの頃、私は小学3年生のときだけど(もう4年生になったら転校しました)、私の友だちと何回か、あのクロと遠く遊びに行ったことがあるんだよ。天白川を遠く歩きました。そのときのある時に、クロは天白川に、突如落ちて、そしてそこはものすごく深い恐ろしげに流れが渦巻いているところでしたが、クロは最初はもがいていましたが、すぐに悠々と泳いでいたものでした。たぶん、最初は焦って、実際に焦ったが、私たち小さい少年が大声をあげているので、もう面倒なので、悠々と泳いだものでしょう。そんなクロが実に格好よかったものです。
 私の生涯で、たくさんいた秋田犬は、どれも懐かしい思い出に溢れていますが、それでもこの名古屋南区若草町で会ったクロと、我孫子で会ったシロのことが、私には一番大きな犬の思い出になっています。        早々

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。今は私しかいないので、あとで王子郵便局のポストに入れにいきます。午後9時に集配があるのです。

   萩原たか子 様

               2007年4月20日

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 前略
 ばあちゃんに会いにいけませんが、この前の手紙に書いたとおり、23日にいきますよ。

 きょうは、仕事であるお客さんのところへ行きまして、その帰りにある駅まで歩くのに、別な道を歩きました。そうしたら、小さな公園(いや東京の中野区だから、大きいと言えるのかなあ)があり、そこを通っていたら、私の前をダックスフンドを2頭連れている娘さんがいました。
 私はすぐに、「ああ、うちにもベアーとケリがいたな」と思い出していましたが、すぐに「あ、あの二人はダックスフントじゃないや」と気が付きました。あの二人の犬は、英国コッカスパニュールだったね。
 それで、ダックスフンドといえば、我孫子でしばらく飼っていたカルボという犬がいたね。あれはいつだったかなあ。私はあのカルボはあまり好きになれませんでした。なんだか、いつも尻尾を振って、人間に胡麻ばっかりすっている犬にしか思えなかったのです。「こんな犬には猟なんてできないのだろうな」と思っていました。
 でもあるとき、銃で猟をする人が、このカルボを借りて猟に出かけたときに、私は「ああ、あいつもこれで耻かくのか」と思っていました。
 でもこのカルボを借りていった人の評価は違いました。もうカルボは猟犬として大活躍だったようです。鳥を狩り出したり、穴の中に入り込んでも、獣を追い出したりと活躍したようです。私は驚きました。「えッ、本能ってのは、このカルボもすごいものがあるんだなあ」。でももうそのときには、私の目の前のカルボはいつものだらしない、尻尾ばかり振っている犬に戻っていました。
 でもいつも、たくさんの犬には、実に驚くことばかりでした。いろんな本能も性格も一匹一匹で違うんだね。
 もう私の記憶の中にいる犬たちは、一匹一匹が違う大きなことをたくさん思い出させてくれます。
 私はいつも、その一匹一匹の犬に何かを喋っていました。どの犬も、「何言っているのかなあ? 俺は人間の言葉なんか判らないよ!」という顔をしていたものでした。
 でもばあちゃんは、いつもその犬たちの言葉が判っていたのじゃないかなあ。私はそういうふうにいつも思ってきたものでした。
                   早々

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07041901 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。すぐにポストに入れにいきます。ここに出てくる人の名前は、ほぼハンドル名に変えてあります。

   萩原たか子 様

               2007年4月19日

                周のURLメール
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 前略
 今度4月23日にお見舞いに行きます。当日は、我孫子の台田のライオンズマンションの部屋のゴミの収集日に合わせた時間にいきます。もうあの部屋は誰もいないので、ゴミが資源の収集日に出せないのです。
 我孫子市は真面目な市だから、前日に出したりできないから、当日朝早く行ってやらないとなりません。
 きのう19日の手紙では、「ブルータスは結婚して、彼の家の2階に今住んでいますが、その家に近くにアパートを借りて、5月から二人で住みます」と書きましたが、今月25日からということです。だから我孫子のあの部屋からいくつも持っていくものがあります。そしてそれが終わったら、あの部屋をすべてかたずけないとなりません。

 思い出すと、あの部屋に住みだしたのは、1992年で、おはぎが6年生、ブルータスが5年生でした。あの部屋が日当たりが良くて、広いので、二人が大変に喜んでくれたのを、よく覚えています。そして我孫子じじがよく来てくれて、部屋のかたずけ整理をよくやってくれました。
 じじは、フロントにいる管理人さんと親しくなって、あの管理人さんは、じじのことを、「すごい人だ」なんて言っていたのをよく覚えています。

 もうあんなに小さかった二人も、白山中学校へ行って、二人とも生徒会をやって、二人とも三年生のときには、副会長をやったのでした。あんなに小さいときには引っ込みばかりのおとなしいブルータスが、お姉ちゃんの応援演説をしたり、自分でもやりだしたときには、もうとても驚いたものでした。
 ブルータスは、保育園よりも小学校のほうがすっと面白かったそうです。でもさらに中学校はもっと面白かった。そして高校はもっと面白くて、そして大学こそはもっと最高だったようです。
 そしてまた就職して教員になったら、それがまた面白くてやりがいがあってもう実に面白く充実しているようです。
 そんなことを聞いていると(いや親の前ではあんまり話してはくれないのですが)、本当にこの娘をもって私こそが一番幸せなんだなあ、と思っているところです。
                               早々

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  以下、私がたった今すぐ近くの郵便ポストに入れた母宛ての手紙です。ただし、ここに出てくる人の名前は、ほぼハンドル名に変えてあります。

   萩原たか子 様

               2007年4月18日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 きのうもきょうもお見舞いにいけませんでした。
 王子の松本のお母さんも、きょうの毎週水曜日はデイサービスがお休みで、一日家にいます。この同じマンションの4階におはぎ夫婦が住んでいるから、きょうは昼の12時少し前におはぎが、息子のポコちゃんを連れて来てくれました。ポコちゃんは今年1月3日生まれです。とっても可愛いですよ。この子は、ばあちゃんの3人目のひ孫です。みーねえのところが二人。そして次が、このポコちゃんです。
6d8047a9.jpg 次は、マサシのしほちゃんか、私の娘のブルータスか、それともおはぎの二番目の子どもが早いか判りませんが、ばあちゃんの4人目にひ孫が生まれますよ。全部で何人になるのかなあ。おはぎは、子どもが4人ほしいと言っています。そしてたぶんブルータスさよちゃんにも4人の子どもができます。
 だから、ばあちゃんにはたくさんのひ孫ができるんだよ。
 ブルータスは結婚して、彼の家の2階に今住んでいますが、その家に近くにアパートを借りて、5月から二人で住みます。それが1階と2階が一緒にある部屋なんだって。私なんかのときには、考えもできなかったアパートだね。それで彼のご両親の家のすぐそばだそうですから、これは良かったなあ、と思っています。
 この部屋に住みだした頃、私もブルータスの新居に行ってきます。
 それと今は、ブルータスには、たくさんの手紙を出しています。そうすると、おはぎが「何で私には手紙がこないんだ」というので、おはぎにも手紙を出しています。ただし、切手は貼らないで、おはぎの部屋番号のポストに入れるだけです。
 昔、私が東大闘争で府中刑務所に勾留されていたときに、ばあちゃんは、よく手紙をくれたね。でも、私はほとんど返事を書かなかった。いや、その前の高校1年のときにも、鶴丸高校で下宿していた私にたくさん手紙をくれていたね。でもそのときも返事を書いていませんでした。今そのことをものすごく反省しています。だから今はこうして手紙を書いています。遅い反省ですね。
                               早々

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   萩原たか子 様

          2007年4月15日                                               周のURLメール
            住所電話等

 前略
 きのう、ブルータスに会えたね。ブルータスの彼にも、その彼のお母さんにも会えたんだよ。それできょうは、おはぎとその彼と一緒に来ました。
 おはぎの子どものこうちゃんは、まだちっちゃいので、加壽子ばあに預けてあります。
 きのうは、ばあちゃんの手を握る力が強くて嬉しかったよ。それでそばにいるときにいろんなお話をしました。
 秋田には3年半くらいいたのかなあ? それから札幌には2年半くらいいたよね。札幌の幼稚園には、私は7カ月居て、卒園だった。
 そのあと、名古屋には3年半、ただし3カ所住んだ。南区、千種区、北区だった。そのあとの鹿児島には、3年半くらいいましたね。
 それから、横浜にもちょうど3年半くらいだったかな。
 そうすると、ばあちゃんは、我孫子に住んでいるのが一番長いんだね。
 東京の巣鴨に住んでいたのは、どうくらいだったのかなあ? 私は小さかったから全然覚えていないよ。ただ、たしか6年くらい前に、浅草のほおずき市に行ったら、何故だか、「あ、ここには小さいときに来たことがある」って、なんだか光景が甦ってきたのよ。久二じいと、昭和24年くらいのとき、私を浅草のほおずき市に連れて行ってくれたことがあったのじゃないかなあ。

 それから、まだばあちゃんが子どもの頃、茨城の佐貫に住んでいたのではなく、いっぱい千葉県を引越したのでしょう。どこにどのくらい住んで、そう引越したのかは、私にはまったく知りません。元気になったら、そんなことも教えてください。
 私にもこうちゃんという初孫ができたから、とても可愛いです。この孫を、ばあちゃんが、私の二人の娘やみーねえやMの二人の娘を可愛がってくれていたように、絶対に可愛がります。ばあやじいがあれだけ可愛がってくれたから、みんな実にいい娘になりました。
 だから、それを私もただただ真似していきます。
                               早々

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   萩原たか子 様

         2007年4月14日                                                       周のURLメール                                                                                                 住所電話等

 前略
 まっちゃんから、おばあちゃんが具合が悪くなって、つくしの病院に入院したと連絡がありました。みな心配しています。だから、私がこうして来ました。

 私の次女のブルータスは、3月25日結婚式を挙げたばかりです。そして今は、彼の実家の君津市に住んでいます。職場も、お隣の街の木更津市で、すぐ近いところです。今年は、4年生を担任しているそうです。
 ブルータスは、彼も、そのお父さんもお母さんもとても優しい方です。私も妻の加壽子も大変に安心しています。

 また長女のおはぎは、私も加壽子も今いる王子のMRさんと一緒の部屋のあるマンションの違う階に住んでいます。だから、私も加壽子も、おはぎにも、孫のこうちゃんにもよく逢いますよ。
 こうちゃんは、まだ生まれたのが1月3日ですから、まだ100日経っていませんが、もう体重は7キロを超しています。抱くともう随分重いのですが、もう私じじとしては可愛いばかりでです。

 こうして、おはぎもブルータスも結婚して、着々と新しい家族を大事に育んでいます。
 こうしたことは、いつも我孫子のおじいちゃんとおばあちゃんが、二人を優しく育ててくれたおかげだと、心より感謝しております。

 きっとおはぎもブルータスも、この病院にお見舞いにきます。お喋りしてあげてくださいね。
                              早々

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