将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:水戸天狗党

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 こうしていっぱいのことを思い出しています。

2014/02/17 04:03こうしていつもいろんなことを思い出しています。今は「あがた森男『赤色エレジー』」を思い出していました。あの当時の雑誌『ガロ』も思い出します。林静一の漫画も思い出します。『同棲時代』も思い出しますね。
 ああ、そうだ。11月に我孫子の義姉の家に行ったのですが、帰りに我孫子北口の『盛』に寄って飲んだのでしたが、その時聴いたことを、すぐに翌日調べて、また教えたいのですが、『盛』のマスターはケータイもないし、インターネットもやっていないのです。そもそも私は苗字も知らないのですね。いや何、水戸天狗党の話なのですがね。だからまた私自身が行くしかないのですね。いや水戸天狗党に「萩原」という姓の人がいて、その人のことです。
 この水戸の天狗党の人は敦賀まで行きまして、にしん小屋で惨めに処刑されました。でも実は萩原という苗字の人はもう一人いたのです。この人はこの時に常陸の国で殺されています。
 なんだか、悔しい思いばかりです。そんなことをあのマスターに伝えたいのですね。
2014/02/17 04:29思えばいろんなことがありますね。今日はおはぎの家へ行きまして、三人の孫と触れ合います。


 思い出せば、いくつものことがあるものですね。

13051301 いや私の将門Web内の漢詩をリンクするのに時間がかかっていまいました。

2013/05/13 17:23おはぎの家にきましたが、私は一人です。でも今ポポがばあばと上がってきました。
2013/05/13 20:52もう家に戻って来ています。

2013/05/14 06:10昨日吉田医院で「カッパまつりラッキーカード」を「お孫さんと一緒に」ということで2枚もらいました。でもすぐに渡すと無くしてしまうかもしれないと思いあとで、17日(金)か18日(土)に渡します。まつりは19日(日)なのです。
 ああ、今NHKテレビを見ていて、タブレット端末を見ています。
 あ、また少し別なことですが、私の将門Webからも私の声が聞こえるようにしないといけないなあ。私は今私が詠うものを当然「黒澤忠三郎『絶命詩』」、と思いましたが、私の口から出て13051302きたのは「雲井龍雄『題客舎壁』」なのです。いやいや、もういくつもの詩が出てきました。今その詩をいくつも詳細に思い起こしています。「佐野竹之助『出郷之作』」も思い出していました。このポメラではちゃんと人名や漢詩名を書くのは大変なのですが、
 やっぱり私は、尊皇攘夷からは離れられないなあ。もちろん、私の尊皇攘夷は、薩長ではなく、水戸天狗党のものです。もちろん水戸諸生党は決して許せません。許しません
2013/05/14 07:39上の書いたいくつもの詩(たった4つですが)はポメラでは書くのが大変なのです。パソコンだと楽なのですね。
2013/05/14 08:38いくつもの詩をリンクします。

 私はここに関鉄之介の詩もリ13051303ンクするつもりでした(だから「たった4つ」と書いたのです。事実は「たった3つ」でした)が、なんと私はまだこのブログの将門WebにUPしていないのですね。詩句は思い出せるのですが、ここで書いていないとは、情けないです。

  私の 「続不況についての考察−特に消費税のこと」 (1993.10.20)目森一喜さんからのコメントがありました。

1. Posted by 目森一喜   2011年10月17日 11:07
山川菊栄は東京の人ですが、母親は水戸の人で青山延寿の娘ですね。幕末の殺し合いさえなければ、水戸からはもっと優秀な人が出ていたんでしょうに・・・私の大好きな文学者樋口一葉の短歌の師匠も水戸藩士の妻女で、あの殺戮合戦で夫を亡くされた方だったと記憶しています。

11102508 まずこんなにレスするのが遅くなり申し訳ありません。いや私はどうしても孫のじゅにのことで、なにやかやと忙しいことです。じゅにの見舞いに行くことで、往復で5時間近い時間を費やしています。その意味では今はパソコンではなく、IS01というスマートフォンがあって実にいいです。これでどこでも、とくに電車の中でもインターネット上にUPできますからね。
 ブログにでも、メールにでも実に簡単です。昔は電車の中で、ノートとPHS(あるいは携帯電話)で実に面倒なものでした。このことが、今でも電車の中でノートをいじっている40代の男性(ほぼ私が見る限り、この年代が多いです)に、「まだあんなことをやっているのか」と思ってしまうところです。

 ところで、やはり水戸の(いや茨城県全体でしたが)、幕末明治始めの殺戮合戦はどうにも嫌になります。薩長もとめないのだよね。
 水戸諸生党は、一旦会津へ行くのですが、土方歳三らは、そのあと函館へいくのですが、何故か諸生党だけは水戸へ帰ってきて、そこで水戸天狗党と最後の血戦が行われます。日本の歴史の中でも誰もまともに見ていません。両方ともに、尊王攘夷であり、同じ茨城弁で喋る同じ茨城人です。おそらく、薩長も幕府側も、もうこの殺戮戦には、「我関せず」というところだったでしょうね。
 といいましても、私にも天狗党の血が流れています。私も、同じ茨城の人でも、心の中で「その苗字だと、諸生党じゃないか」なんて思っているところがあります。
 でもでもその私でも、この明治になっての血戦だけは嫌になってきます。
 水戸天狗党の首領とされた武田耕雲斎の孫の金次郎が、彼は若かったから(まだ未成年だった)遠島処分だけで、それも実行されないまま、明治になり、彼は官軍となりますが、彼が求めたのは、故郷の水戸へ帰って、諸生党退治だけでした。そして殺戮戦がまた始まるのです。
 彼のかぶるシャグマ(幕末明治最初に官軍のかぶるもの)は、殺した諸生党の血で真っ赤に染まっていたといいます。

 私には、山川菊栄は、戦前の社会主義活動家というよりは、「幕末の水戸藩」を書いた著作者です。そして岩波文庫の表紙にある顔写真とともに、けっして忘れられない人なのです。
 樋口一葉も小説は大好きなのですが、目森さんのおかげか、いつもこの水戸天狗党と関連して思い出してしまう作家なのです。

11011304 NHKの大河ドラマ『新撰組』をずっと見てきました。私は実に熱心に見てきました。ときには涙ぐんでいたりして見ています。
 私は歴史上の新撰組というのはあまり好きではありませんでした。なんだかただのテロリスト集団としか思えなかったからです。そして外部へのテロというよりも、内部粛清を執拗に日常的にやっていた集団という印象が強いのです。これまた私の嫌うところでした。
 そして私は、徳川幕府をあくまで守ろうとする姿勢は、私には赦せないものなのです。私はあくまで、尊皇攘夷であり、そして倒幕の姿勢がない勢力は嫌いなのです。ただまた同時に倒幕であっても同時にまた反薩長でもないと、これまた私は気にいりません。
 私はよくいろいろなところで詩吟を詠います。それで、それを聞いている方から、いわれるのが「白虎隊の詩を詠ってほしい」といわれることです。私は「会津は、私にとって敵でしかないので、詠いたくない」といいます。私は聞かれれば応えます。私は今も水戸天狗党が好きなのです。私の身体に流れる血もまたこの天狗党の血だと思っています。この天狗党の一番の敵が、水戸諸生党でした。明治維新のあと、この諸生党は会津にいきまして、会津藩とともに官軍と戦います。だが会津が破れたときに、新撰組の土方は、函館へ逃れますが、この諸生党だけは、何故か水戸に帰ってくるのです。この水戸で、天狗党と諸生党の最後の血戦が開始されます。ただの殺戮戦です。そして天狗党は勝利しますが、ただただ血が流れるばかりでした。これをただ黙殺するのが、当時水戸に蟄居していた、徳川慶喜です。彼が出ていって、何故止めないのだと私は心の底から思うのですね。なんで殺し合いを止めないのだ。お前なら止められるだろう、と。だから私は慶喜はもう大嫌いであり、少しも評価できない人物です。
 そんな私ですから、やはり新撰組は敵でしかないという思いなのですが、このNHKのドラマはよかったです。見ていて、どのシーンにも感激していました。
 新撰組をえがいた作品で、最初の清河八郎の「浪士組」がらえがいたのは、前にはありませんでした。私は知っているのでは、たしか昔漫画週刊誌(ビックコミックオリジナルだったかな)で、バロン吉元が、この「浪士組」の中山道をゆく過程を書いていたことがありました。私が覚えているのはそれくらいです。ただ、私は昔から清河八郎が好きですから、このドラマの描き方では少し不満でした。でも山岡鉄太郎の描き方なんかよかったと思いますね。山岡鉄舟は剣では、一番強いといわれましたが、生涯剣を抜いたことはないそうです。でもそんな鉄太郎が、浪士組の中で、清河八郎や佐々木只三郎の前で、うろうろしている姿はいいものでした。本当にあんな感じだったのでしょうね。
 また藤堂平助もいい描き方でした。彼が江戸で、「私の尊敬する先生は二人いる」というシーンで、私は「一人は伊東甲子太郎か」という思いの中で、やがて至ってしまう油小路の死闘を思いました。「つらいよな、つらいよな」という思いでした。
 そして一番私がよかったのは、芹沢鴨の描き方です。佐藤浩一がよかった。あるときに、私の仕事の関係で、ある社長さんが言われました。

  沖縄の人はいいよね、あの愛ちゃん(ゴルファーで沖縄出身の女性)
  なんか、目がぱっちりしててね。………………………

 私はその社長の言いたい思いがすぐ判りました。彼は茨城県の生まれで、彼の故郷は芹沢鴨の生まれたところなのです。芹沢鴨は、どこでも乱暴者のような描き方しかされていませんが、実は割りと小心者ではなかったかなんて言われています。そして彼は目が小さかったと言われています。私は、

  いや、HNKの今回のドラマでは、芹沢鴨の描き方はよかったです
  よ。8月18日の政変の描き方は、史実の通り、芹沢鴨は実に格好よ
  かったですよ。

といいました。その社長は、

  そうですか、それはよかった。私の生まれたところのすぐそばが芹
  沢鴨の出身地なんです。

と言って喜んでいました。
 ただ、私は近藤勇はやはりどうしても評価できないですね。あまりにも、どの暗殺の仕方も、惨酷であり卑怯すぎます。
 ただ、とにかく、一年間熱心に見てきた大河ドラマでした。
 このドラマが開始された頃、ある会合の席で、ある方が大声で、こんなことをいいました。

  俺は、もう『新撰組』を見ない。あれは歴史じゃないよ。

 すかさず私はまた大声でいいました。

  え、今までNHKの大河ドラマを歴史だと思ってみていたのですか?

 彼は絶句して、そのあと声が出ませんでした。
 こまったものだな、なんでテレビを愉しくみられないのだろうと可哀想なものでした。(2004.12.06)

11011008「周の発言」(最初の頃は私のブログ「将門Web」はこういう名前でした)のサイドバーの「周の掲示板」のバナーの下に、私の友人たちのブログページのリストが並べてあります。そのページが更新されるたびに、最新の更新ページ順に上から並び変えられます。
 ですから、ここで「NEW」がついたブログは、必ず私は見にいくようにしています。そして、そのページを見て「なるほどな」なんて頷いたり、「あ、これはトラックバックしようかな」なんて考えているのです。

 ところで、以下のブログで、私が気になることがありました。

  Kumie'sBlog(この当時は「ウェスタ社長のじゃじゃ馬日記」という名前でした)。

 いつも私は、この社長のブログは毎日感心して拝見していて、「やはり素敵な社長だな」なんていつも確認しているのですが、以下の書込みには、「これはちょっと言わなくては」と思ったものなのです。いえ、この川本社長の書かれた内容には問題は何もないのですが、私は以下の中で、出ていました。徳川慶喜の写真を見て、それがとても心に残ったのです。

  松戸市中小企業融資資金運営委員会

 再度いいますが、この文章の内容には、私は何もないのです。ただ、私は徳川慶喜の写真が気になったのです。というか、私はこの慶喜がどうしても嫌いなのです。許せないのです。

 慶喜は、水戸徳川家の第9代藩主徳川景山斉昭(烈公)の息子として生まれ、若くして一橋家の養子となり、徳川の最後15代将軍になって、大政奉還をして、いろいろありましたが、とにかく幕府は倒れます。そして慶喜はやがて駿府に移ります。晩年は東京に住んでいます。
 私は生まれは茨城県藤城です。本籍はずっと茨城県笠間にありました。私は「将門Web」と自分のホームページをなずけましたように、この故郷の下総(この下総とは、今の千葉県東葛地区だけではなく、茨城県の南部も含んでいました)で活躍していた平将門様が大好きなのです。
 私は自分の祖先は承平天慶のときに、この将門さまのもとで戦っていたと信じています。そうすると、明治維新のころはどうしていたかといいますと、それはもう当然に水戸天狗党として活動していたわけです。そして明治になってからは、加波山で爆裂弾をもって義挙する仲間であったし、その後は2・26で決起する兵士であり、そしてその後は、60年安保闘争での全学連主流派であり、そのあとは三派全学連であり、そして全共闘であったと思っています。

 そうした私たち水戸天狗党にとって、どうしても許せないのが、この慶喜なのです。水戸天狗党は、いろいろとありましたが、筑波山の蜂起のあと、やがて京都を目指して、中山道を長征します。辛い冬の雪の季節です。
 天狗党はあちこちで戦いながら、最後に越前敦賀で加賀藩に降伏します。それは天狗党が頼みと仰いだ慶喜が現れたからなのです(実際に天狗党の前に出てきたわけではない)。でも慶喜は、自分を頼みとするこの水戸天狗党を見殺しにします。
 このときは、慶喜は、自分も天狗党派と見られるのを恐れたのだといいます。だがために水戸天狗党のほとんどは、ここで刑死し、そして鰊小屋の中で惨めに死んでいきました。
 だが、このとき、天狗党の首領武田耕雲斎の孫の金次郎が、若年(18歳だった)ということで、刑を遠島ということで(実際には遠島にならなかった、明治維新になったからである)命存えます。この金次郎が、維新のとき官軍となって、水戸へ行き、今度は天狗党を殺した、水戸の門閥派、水戸諸生党を殺し始めます。金次郎のかぶる白いシャグマ(幕末官軍のかぶるやつ)は諸生党の血で真っ赤に染まっていたと言われます。
 敵である水戸諸生党は、当初は奥羽列藩同盟の軍に加わり、会津で官軍と戦いますが、会津藩降伏後、新撰組の土方のように函館へ行くのではなく、何故か諸生党だけは水戸へ帰ってくるのです。そこでまた水戸天狗党との最後の血戦、最後の殺戮戦が開始され、そして終ります。当然天狗党が勝利し、またさらに諸生党を根こそぎ殺し始めます。もうお年寄りも、赤子もすべて殺します。実は天狗党も先年、諸生党に、同じように、身内をすべて殺されているのです。
 このために、水戸には、今現在にいたるまで、優れた人材がいないと言われています。みな死に絶えたのです。みな殺してしまったのです。

 だが許せないのは慶喜です。このとき、両派の殺戮戦を黙ってみているのが、当時水戸に蟄居している慶喜です。私は声をあげていうのです。

  お前が何故出て行って止めないのだ。お前なら止められるじゃないか。

 私にも水戸天狗党の血が流れています。諸生党はやっぱり憎いです。でもでも、このときの殺戮戦はやめるべきです。絶対にやめるべきでした。そしてそれをできたのは、水戸斉昭の息子であった、慶喜ではないですか。このときもまた、慶喜がわが身だけが可愛いかったのでしょう。そんな男です。そんな人物です。
 だから私は嫌いです。大昔から嫌いです。彼の写真を見ても、彼のやったことを読んでもただただ不愉快な思いだけです。
 後年明治の終わり頃、慶喜はある新聞記者の問いに応えていることがあります。何故簡単に朝廷に政権を帰したんだという問いに、こう応えたのです。

  それは我が水戸藩には、代々神君家康公の遺訓が伝わっていた。
 「それはいつの日か、徳川宗家と、朝廷が戦うような事態になったら、
 水戸家はあくまで朝廷側に立つようにすること」ということであった。
 私はあくまで、水戸家に代々伝わるこの家康公の遺訓に従っただけだ。

 この話を読むと、

  隆慶一郎「影武者徳川家康」

をはじめとする隆慶一郎のいわれたことが本当に思えてきます。

 あ、それから、念のため。私はこの慶喜を、「ケイキ」とだけ読みまして、「よしのぶ」とは読んでいません。「よしのぶ」なんて誰がいいはじめたのですか。「ケイキ」という音(おん)の読みは間違いではありませんが、「よしのぶ」は判りませんよ。この字の本当の読みが判るのは、親父の徳川斉昭と、慶喜(ケイキ)本人のみです。このことはまた別に書いていきます。

 慶喜は大正2年まで生きています。大正2年というと私の父が生まれた年です。慶喜は写真も好きだったようですね。ほかにもたくさん趣味があって。でも、政治にだけは一切関わりを持ちませんでした。
 彼は、聡明だと言われ、最初14代将軍の候補の最右翼でした。この一橋慶喜を推す勢力(一橋派)と紀伊紀州藩主徳川慶福を推す勢力(南紀派)が、それぞれ水戸徳川斉昭と井伊直弼を旗頭に対立しました。これに南紀派が勝利して、一橋派を弾圧したのが、安政の大獄です。
 このときが、慶喜は政治の恐ろしさをまず最初に感じたのではと思います。

 その後の歴史は、以下の通りでした。

元治元年(1864)
 3月 天狗党、筑波山挙兵
 6月 新撰組、池田屋を襲う(池田屋事件)
 7月 禁門の変
 8月 第1次長州征伐
 12月 天狗党、加賀藩に投降
慶応元年(1865)
 2月 天狗党処刑される
 4月 長州再征発令
慶応2年(1866)
 1月 薩長連合成る
 7月 将軍家茂、大坂城中で没
 8月 慶喜、徳川宗家家督相続
 12月 慶喜、将軍に補任される
慶応3年(1867)
 5月 兵庫開港勅許
 8月 「ええじゃないか」起こる
 10月 大政奉還。討幕の密勅下る
 12月 王政復古の大号令
慶応4年(1868 明治元年)
 1月 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争起こる)
 1月6日 慶喜、大坂城を脱出、8日海路江戸に向う
 3月 五箇条の御誓文
 4月 討幕軍江戸入城、慶喜水戸へ蟄居
 9月 明治と改元
明治2年( 1869)
 5月 函館で、榎本武揚降伏
 6月 版籍奉還

 これだけの短い期間に、これだけのことが起きています。慶喜にとっては、実にその後の人生のほうが長かったことでしょう。まあ、誰もがいうことですが、決断力のない方でしたね。決断したのは、身内(武田耕雲斎と慶喜はとても親しかった)の天狗党を切り捨てることと、鳥羽伏見のときに、部下たちを見捨て、大阪から逃げることに関してだけでしょう。
 ただ、捨てられたほうは大変でした。今に至るも、私のように、そのことを怨んでいます。(2005.02.21)

10072401 私は、ここで勝手なことを書きましたが、このデザインマシロさんのコメントは、マタイ伝第28章を茨城弁にする を書いているちょうど途中で、このコメントを読んだものです。でも私は書いている途中だったのものを書き終えてUPしました。
 そしてそのあとすぐに私は長女の家に自転車で急ぎました。その途中でもこのデザインマシロさんのコメントを考えていました。そして、「俺が茨城弁のこと書いているのは不真面目だな」と思っていました。
 長女の家に行く(私は妻からのお菓子、バナナを持って行きます)と、今度は孫たちと懸命に遊びます。もうポコ汰は私の背中に飛び乗ります。ポニョは私が苦労して作ったクロスワールドを壊します。私が壊されたのをまた苦心惨憺して作ると、またひっくり返します。もう私は無理でした。
 私は、「じいじはもう、ポニョじゃなくてポポと仲良くするんだ」というと、ミツ君が「でもお父さん、その言葉をポニョは覚えているかもしれないですよ」といいます。
 さて、私はまた自転車で帰ります。
 それでまた、パソコンで書いたわけですが、でも茨城弁のことを書いているのを読むと、この茨城弁変換が愉しくなってきました。やっぱり私には茨城の血が流れているのです。しかも、それは水戸天狗党の血です。どうしても水戸諸生党が許せないのです。こんなことで、世界からは私なんかは遅れるばかりですね。

 でもそうですね。私は住宅展示場のあるメーカーの広告で、そのメーカーの展示場へ行って必死に仕事をしていたことがあります。栃木県のあるメーカーで、2泊3日の撮影日程でした。いや何、毎日夜はカメラマンとメーカーの人と飲んでいるばかりで、昼の撮影のときは、私は二日酔いで吐き気ばかりでしたが、でもでも必死にやりました。
 撮影は、エイトバイテン(8×10)のカメラで必死やるわけですが、メーカーの経営陣も見に来ます。それをうまくあしらわないと、カメラマンがカメラを回せなくなるのです。だから、私が面倒な住宅の作り方のコンセプトなんかを聞くふりして、論議し、カメラマンの撮影の邪魔にならないようにしたものでした。
 でも夜飲んでいるときに、「萩原さんって、真面目な人かと思っていましたが、全然違うんですね。難しい顔しているから、面倒な真面目な人だと思っていましたが、ただ二日酔い三日酔いだったのですね」と言われたものです。私はそのときは、国際プロレスのラッシャー木村の話ばかりをしたものでした。
 カメラは180度しか写せないのです。いやもちろん、今はそれ以上写せますが、でも紙の上には180度までで、見せないとならないわけです。ところが人間の目というのは、それ以上見られてしまうのです。だからメーカーの言わば家作りの専門家は、プロとしていっぱい見えてしまうのですが、カメラマンもプロとして、「そこは見えないのだ」というところがあります。このままだと喧嘩になってしまいます。そこで私なんかが、全然違う視点でまとめてしまうのです。

 でも今はアナログのカメラではなく、デジタルカメラなのですね。撮影も大きく変わったのでしょうね。パースも大きく変わったことでしょう。
 デジタルでもカンプも大きく変わったでしょう。そんなことを想像してしまいます。

 建築パース工房「デザインマシロ」さんからのコメント へ

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