将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:河竹黙阿弥

13012806 2013年1月28日のポメラに次のように書きましたように、

あとでこの「白波五人男」の五人の口上を書いてみます。高校時代はすべて暗記したものでしたね。

以下に書きましょう。高校時代には、歌舞伎が好きだとはいっても実際に見ることはできないで、河竹黙阿弥を文庫本で見るだけでした。たしか大学4年の秋に歌舞伎座で見たものです。誰の公演だったかは、すべて詳細に覚えています。
 以下が稲瀬川勢揃いの場の五人の口上です。

日本駄右衛門
 問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業(なりわい)も白浪の沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情を掛川から金谷をかけて宿々(しゅくじゅく)で、義賊と噂高札に廻る配附の盥越(たらいご)し、危ねえその身の境界(きょうがい)も最早四十に、人間の定めはわずか五十年、六十余州に隠れのねぇ賊徒の首領日本駄右衛門。
弁天小僧菊之助
 さてその次は江の島の岩本院の児(ちご)あがり、平生(ふだん)着慣れし振袖から髷(まげ)も島田に由井ヶ浜、打ち込む浪にしっぽりと女に化けた美人局(つつもたせ)、油断のならぬ小娘も小袋坂(こぶくろざか)に身の破れ、悪い浮名も竜の口土の牢へも二度三度、だんだん越える鳥居数、八幡様の氏子(うじこ)にて鎌倉無宿と肩書も、島に育ってその名さえ、弁天小僧菊之助。
忠信利平
 続いて次に控えしは月の武蔵の江戸そだち、幼児(がき)の折から手癖が悪く、抜参りからぐれ出して、旅をかせぎに西国を廻って首尾も吉野山、まぶな仕事も大峰に足をとめたる奈良の京、碁打と言って寺々や豪家へ入り込み、盗んだる金が御嶽の罪科(つみとが)は、蹴抜(けぬけ)の塔の二重三重(ふたえみえ)、重なる悪事に高飛びなし、後を隠せし判官の御名前騙(おなめぇがた)りの忠信利平。
赤星十三郎
 又その次に連なるは、以前は武家の中小姓(ちゅうごしょう)、故主(こしゅう)のために切取りも、鈍き刃(やいば)の腰越や砥上ヶ原(とがみがわら)に身の錆を磨ぎなおしても抜き兼ねる、盗み心の深翠(ふかみど)り、柳の都谷七郷(やつしちごう)、花水橋の切取りから、今牛若と名も高く、忍ぶ姿も人の目に月影ヶ谷(つきかげがやつ)神輿ヶ嶽(みこしがたけ)、今日ぞ命の明け方に消ゆる間近き星月夜、その名も赤星十三郎。
南郷力丸
 さてどんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯馴(そなれ)の松の曲りなり、人となったる浜そだち、仁義の道も白川の夜船へ乗り込む船盗人、波にきらめく稲妻の白刃に脅す人殺し、背負(しょ)って立たれぬ罪科は、その身に重き虎ヶ石(とらがいし)、悪事千里というからはどうで終いは木の空と覚悟は予て鴫立沢(しぎたつさわ)、しかし哀れは身に知らぬ念仏嫌えな南郷力丸。
13012807

 でも今はほとんど忘れてしまったといいましても、日本駄右衛門は覚えていますね。「問われて名乗るもおこがましいが」というのが忘れられないのかなあ。いやだんだん、他のセリフも思い出してくるものです。

13012804 テレビで、子どもたちが「白波五人男」をやっていました。

2013/01/28 07:48NHKテレビで見ますと、あちこちすごい雪ですね。
 今銀座での歌舞伎の「白波五人男」を見ています。この歌舞伎座の近所の子どもたちがやっています。今は南郷力丸の口上をやっていました。私は高校時代に、河竹黙阿弥をすべて文庫本で読んで、テレビでも見たものでした。
 歌舞伎はいいよねえ。子どもたちがやっているのを見ていいなあと思います。

 あ、あとでこの「白波五人男」の五人の口上を書いてみます。高校時代はすべて暗記したものでしたね。

11080413 今仕事をしながら、これを書いています。プリンターがうるさく動いています。電話でクライアントの社長と打ち合せて(きのうの夜も自宅でやっていたな)、その合間にこうして書きます。それからしばらく会社に泊まっていたのでモデムでアクセスするところはいけませんでした。今夜は書き込みます。
 それこそたくさんの方がおいでになり、嬉しい悲鳴というところです。とくに昨日は埼大の後輩たちのむつめ祭常任委員会のホームページを見つけて、すぐさま行って書き込んで、互いにリンクしあいました。後輩といっても30年近く離れていると、もう顔が判らないのですよ。でもこうしてホームページでの話題があれば、会ったときにいろいろ話せていいですね。問題は「浦和会」の年寄り(つまり私の世代)たちだな。
 その同じ世代の一人が昨日夕方急にはじめてメールをくれました。会社ではもう必要だし、自宅では娘たちに教わっているといいます。私と同じく、若き時代に死力をつくして、学生運動に邁進していた男です。入学したときから、私と同じ学科で、そして不思儀に歌舞伎が好きで(河竹黙阿弥をすべて読んでいると言っていた。私も同じで歌舞伎もまた好きだった)、私と気があった。その彼が三派全学連の中核派になってやりだしました。私は国粋主義者でしたが、私も同じ時代を生きる男で、また激しくやりだしました。
 そんな彼が優秀な営業マンとして長年生きてきて、そして今は50歳のおじさんです。でもこうして、またインターネットの世界で出会えるのだと思うととても嬉しい。(10/30/98 14:09:37)

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私がちゃんと書き忘れていたことがあります。
それは メール苦手だから の2 へのコメント に次のように書いた中で、これは少し私には大事なことだから、詳しく書いておこうと思いながら、そのままになっていたことです。

司馬遷が、いかに竹簡にあの膨大な「史記」を書いていったことなのか。屈原の「楚辞」は実はもともと、岩を穿って書かれていたものだということ。司馬遷がこの歴史書を書いたことは、そもそも彼が宮刑にあってしまった事件にあり、それは李陵が匈奴に屈したことが(司馬遷はそれを武帝の前で普通に擁護した。ほぼ李陵のことを彼は知らなかったわけだが)、理由になっている。その李陵と、匈奴によって19年間シベリアに抑留された蘇武が出会って二人で作った詩がいい。「アベラールとエロイーズ」の書簡がどうしていいのか。「十六夜日記」は鎌倉時代に60歳近くの女性が土地の訴訟で、播磨から鎌倉までの旅行記だが、これがなぜいいのか。
あともう一つ話しましたが、ようするに、みな実に大変だったけれど、やり抜いたのです。当時の手段で、懸命に記したのです。

もしももしも、これらの時代にケータイメールがあったら、彼ら彼女たちは、もっとたくさんのものを私たちに残してくれたはずです。だから、こんな便利で楽な手段はもっと使うべきなのです。司馬遷の前で、私は頭が下がるばかりです。

ここで、「あともう一つ話しましたが」というのが、鎌倉時代の青砥左衛門藤綱のことなのです。
この人物のことは

http://www.kcn-net.org/sisekihi/aoto2.htm 鎌倉史跡碑事典 (青砥藤綱邸旧蹟)

に、次のように書いてあります。

碑文
鎌倉執権の美績を談ずる者 概(おおむ)ね先ず時頼 時宗を称す 蓋し(けだし: 恐らく)其の間 両代に歴任せる青砥左衛門尉藤綱が捕益の功に負ふ所のもの 亦(また)必ず少なからざるべきなり 藤綱逸話に富む 嘗(かっ)て夜行きて滑川を過ぎ 誤りて銭十文を水に堕(落)す 乃(すなわ)ち五十文を以て炬(たいまつ)を買ひ水を照らして之を捜れりとの一事 特に最も人口に膾炙(かいしゃ:話題)す 此の地は其の藤綱が居住の旧蹟なりと言ふ

説明
鎌倉の執権の善い行いを言う時、大体まづ北条時頼(ときより)、北条時宗(ときむね)の名前がでます。しかしその間にあって、両執権に仕えた青砥藤綱の業績が大きく貢献していることを忘れてはなりません。藤綱には、逸話が多くあります。ある夜のこと、滑川(なめりがわ)を渡るとき、失敗してお金十文(じゅうもん)を川に落としてしまいました。そこで、五十文でたいまつを買って、水を照らしてお金を探したと言う話は、特に多くの人々が話題にしました。この場所は、その藤綱の屋敷の跡であると伝えられています。
(これは二人の執権のことを将軍と言っているので、それは間違いですので、書き改めました。もちろん、このときも将軍もいますけれど、誰だったか判らないよ)

この碑は、「浄明寺5-2-451の邸宅の南東端で,青砥橋を渡って20メートル進んで右側に建つ」ということですから、私は鎌倉へ行く次回の機会には、この浄明寺付近を歩こうと思っていたのです。

この鎌倉時代の北条時頼、時宗の両執権に使えた青砥左衛門という役人が、夕暮れに滑川に落とした1文(実際は10文)の銅貨を探させるために50文支払ったという逸話です。

このことは私は誰だったか(今その人が浮かぶのですが、2人の著者が浮かびまして、はっきり判りません)の著書で知ったものです。
以下のように言われていました。

後日、この話をきいた人が、「10文を取り返すために50文をつかうとは大損ではないか」と笑うと、藤綱が言うに、「落とした銭をそのまま放置すれば、銭は永久に失われてしまうが、自分の費やした50文は商人のところにあるので、あわせて60文は1文も失われずに天下の財として残っている」。 これを聞いて、 周囲の者はみな感心した。

このことは大事なことです。そしてこの鎌倉時代から、こういう人物がいたのですね。でも今も、「10文を取り返すために50文をつかうとは大損ではないか」と笑う人は大勢いるのじゃないですか。
そしてこのことが今も記録に残っているというのが私は大切なことだと思ったものなのです。

実は、この人物は、河竹黙阿弥の「白浪五人男」(原題が 「青砥稿花紅彩画)にも名前が出てきます。また太宰治の「新釈諸国噺」にも、この話はあります(ただし、話の内容は主旨が違う話になっています)。
思い出せば、河竹黙阿弥は、高校2年のときにすべて作品を読みましたし、太宰治全集は、東大闘争で勾留されていた府中刑務所で、読んでいたものでしたが、この藤綱のことまでは考えが及ばなかったなあ。

とにかく、今度鎌倉へ行きましたときは、この碑文を読んできます。

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