将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:温泉新聞社

12081313 やはりインターネットでこうして昔の友人(私はもう友人と思っている)見つけることができていいですね。

2012/08/13 07:53「梅ちゃん先生」を見に来ました。早く始まらないかな。
 でもあとで放映されるようです。
 もういろいろなことが違ってきているのを思います。だから思うのですが、今の日本で生きている人は、他の世界へ行けるのかなあ。無理だと思うのですがね。
2012/08/13 08:39「梅ちゃん先生」が始まりました。
2012/08/13 09:23今私が昔いたことのある温泉新聞社でおつきあいが少しだけあった(少しだから、相手には迷惑かもしれません)方からメールの返事が来ました。もう私はものすごく嬉しいです。
 もちろん、すぐ書いてありましたケータイメールアドレスにケータイメールして、それから今はメールアドレスにメールしました。また改めてメールはちゃんと丁寧に書きます。

 誰もケータイメールでの挨拶がなんといいましても、真っ先にやるものですね。私は今も熱心に手紙は書いていますが、ケータイメールはその場で相手に届くからいいのでしょうね。

12031401 温泉新聞社の記者だったことを思い出しています。

2012/03/13 19:02前のUPを読んで、いくつものことを思い出しています。三島と修善寺を思い出していたのです。思い出せば、このときに、温泉新聞社のときに、修善寺温泉を私は歩いています。あのときは、どこへ泊まったのかなあ。土肥温泉まで行きまして泊まりましたが、その前に長岡温泉も集金したな。ここに泊まったのかもしれません。修善寺と土肥の間だでもどこかで集金に行きましたね。そこのホテル(か旅館)の受付のおばさんをよく覚えています。
 そこで「ああ、椎名誠も来たのかなあ?」なんてことを思い出しました(あとで気がついた、思ったのかもしれません)。
 そのあと、何年も経ちまして、私の家族4人で来たものでした。その時は、たしか何か何か台風のあとで、結構修善寺はあちことがその為に荒れていたものでした。
 でも私は思い出したのですが、この温泉新聞のときと、それからはるかにあとに、結婚しれから家族旅行で来た他に、「観光ホテルセンター」というところに勤めていたときに、ここ修善寺温泉に来ています。そのとき泊まったホテルの名前は覚えていないですが、あそこらへんのホテルだということは分かります。あとでインターネットで調べてみましょう。

 このあとすぐにインターネットを調べました。いくつものことを思い出しました。

11110301 先月に人形町で飲みましたときに、目当ての店が入れませんでしたので、そのすぐ近くに店に入りました。綺麗な感じのいい店だったからです。
 そこで、私はひさしぶりに、懐かしい酒に出会いました。
 昔、「これはいい酒だな」と思いながら、手に入れることも、どこかの飲み屋でも遇うことができなくなってしまった日本酒でした。こうして偶然に一見の店で再会することができて、やはり「いい酒だな」という確認ができましたので、以下に過去私が書いていた記録(1993.3.2)を書いておきます。

商品名  純米吟醸酒越乃冬雪花
蔵元   高野酒造
住所   新潟市木山24−1
電話   025(239)2046
値段   1.8l 3,000円
ラベル  アルコール分15度以上16度未満
     原材料名 米・米こうじ
     精米歩合55%以上

 このお酒は群馬の館林に住んでいる友人が送ってくれました。早速電話しましたが、そのときには彼は風邪をひいてダウンしていて話せませんでした。この友人は、私が「温泉新聞社」という旅行の業界紙に新聞記者としていたときに知り合いました。

 この友人とは、この温泉新聞社を離れてやく1年後、どうしてか神田のある会社で偶然再会しました。そして私が入社後6カ月たったころ、彼と一緒にその会社に労働組合をつくることになりました。彼と私はほとんど言葉を交わさなくとも、考えていることが通じたもので、いっきにこのときの闘いもうまく面白く展開したものです。
 彼は現在東京三ノ輪、埼玉川口、群馬館林の3カ所で進学教室をやっています。
 その彼が先日事務所に電話してきました。送ってくれたお酒の感想をきくのです。彼の話ですと、彼も酒なんかただ飲めばいいので、あまり細かくいう奴はうるせいなあと思っていたのですが、まったくこのごろ「いやそうじゃないんじゃなかろうか、やっぱり酒にこだわるべきでは」というので、近所の酒屋の酒をかたっぱしから飲み始めたそうです。それでこのお酒に出会ったとのことでした。それで私に送ってきたのです。
 私が「いや、この酒は誤謬だよ」とでもいえば、また考えようかと思ってたようです。当然私はこのお酒を絶賛しました。

 実に飲みあきない感じの旨さがあります。美味しいお米を丁寧に丁寧に研いている感じがしました。このお酒なら毎日飲んでいける、という思いがします。醸造アルコールが含まれていないことも飲み味に関係するのでしょうか。美味しい米と美味しい水をぜいたくに使った美味しいお酒という感じです。
 あと思いましたのが、1升瓶のデザインの斬新さです。まず瓶の色が真っ白です。「冬雪花」(TOUSETSUKA)という名にぴったりなのです。ラベルが白い特殊紙を使い、その上に桜のイラストを桜の色で描き(印刷は4色印刷です)、真中に「冬雪花」と銀箔で箔押ししてあります。

   This Delicious Sake
   Brewed From Pure Water
   and Excellent Rice.

という説明ものせてあります。酒のラベルに横文字というのは、普通は嫌味なものなのですが、このラベルではなかなかうまく決っています。飲み終ったあとでも、この瓶だけでもとっておきたい思いがしました。やはり瓶のデザインも旨いお酒の大切な要素といえるように思います。(1993.03.02)

 さて、このお酒に再び出会えましたことで、私は明確に私の中で思い出が確認できました。そして、今ではインターネット上でいくらでも検索できるわけです。

   高野酒造直営店

 ここで確認しますと、1.8リットルで2,920円という値段になっています。
 またあの店でも飲むつもりです。一升ビンも手に入れて飲むつもりです。(2003.03.10)

11093008 今年ももう4分の1が過ぎたわけですね。なんだかんだとあっという間に時間がたってしまいます。
 タイタスにしてしまうと、最初の最初はとまどいました。だって「電話回線」を切るという行為ができないというか、そんなことが必要ないわけで、これは驚きです。ただすぐに慣れてしまい、逆に事務所でインターネットをやっているときのほうがついつい電話回線をつなぎぱなしにしてしまいそうです。各掲示板への書き込みもやり方が変わりました。今までは、メッセージを入れる場合もRESの場合もエディタで打っておいて、それを貼り込んでいました。直接書き入れることは稀にしかありませんでした。それはすべて電話料金が気になるからです。だが、タイタスだと、もうこれはそのまま書き込んでもなんでもいいわけです。回線を切る必要がないのですから。
 でもでも、やはり今度は東京千代田区の会社事務所ですね。なんかいい手はないかな。(99/04/01 08:41:12)

 きょうひさしぶりに神田会の仲間で、東北の会社の社長になったSさんと出会いました。私が食事をして偶然事務所に真っ直ぐ帰ろうとしたときに、事務所前のお茶の水駅前交差点で何か考え込んでいる彼を見つけました。本当なら、きょうはあるクライアントへ行く予定だったのですが、急遽別な日になりまして、かつ食事の時間帯の遅い私が、でもなにげなく事務所へ帰ろうとした矢先です。Sさんも私に用があり(それがどうでもいいような用だけど)、でも「やっぱりあいつは事務所にはいないのでは?」ということで交差点で考えていたようです。そして、私の事務所でしばしインターネットを見て、彼はまた帰りました。なんだか不思儀なんですね。普通なら会えるわけがなかったのだけれど、実に久し振りに会えて嬉しいのと、なんで昨夜連絡くれないのという思い(あ、でも昨日は夕方は私のほうが無理だったな)があります。
 前々から東北へ来てくれ、「酒が美味いぞ」といわれているから、本当に行こうかな。彼とは長いつき合いです。私が温泉新聞社という業界紙の記者になったときの編集長でした。それから私も彼も会社が変わっても、つき合いが続いています。そして彼の会社も私の事務所から歩いてすぐのところなので、いろいろと関係ができまして、そしてよく飲むことになりました。ところが私も彼もその飲む相手がたくさんいまして、ダブルブッキングの場合に、「ええい、もう面倒だ、みんな紹介して飲み友だちになればいいんだ」ということで、飲み続けてきました。これが「神田会」になっていったのです。
 やっぱりたまには飲んで話したいな。私の大事な人生の先輩です。(99/04/01 17:33:13)

11032208 5月17日(金)の松戸自主夜間中学校のKAMOさんの漫画の授業のあと、柏の『平井食堂』で、当日漫画の授業の教材に使った沢野ひとしの漫画の話をしました。それで、沢野ひとしさんというのが、誰と結婚したのかというような話になり、私は小説ではこうだったけれどと『銀座のカラス』の内容を思い出しました。
 この中で沢野ひとしにあたる登場人物は、木村晋助にあたる人物の中学か高校の生徒会の同級生の女性と新宿のビヤガーデンで会い、一目惚れして、やがて結婚することになるのですが、KAMOさんの正確な情報だと、本物の沢野さんは同じ職場の女性と結婚するようです。「なんだ、あれも小説の中の出来事なのか」と思ったものでした。

書 名 銀座のカラス
著  者 椎名誠
発行所 朝日新聞社
1991年10月1日第1刷

 それで次の日の18日(土)に朝早くからこの本を読んでみるみる間に読み終えてしまいました。私は4年くらい前に椎名誠の本は40冊ばかり、ある飲み屋の女性に送ってしまいましたが、この朝日新聞社の本はまた私の兄からもらっていたのです。
 これは椎名誠の『哀愁の町に霧が降るのだ』『新橋烏森口青春篇』に続く3部作といっていい作品です。高校生からそのあとのバイト及び仲間で住んだアパート生活から業界紙に勤めて、次第に大人の社会へ出ていく椎名誠の姿が描かれています。
 私にとって、椎名誠はちょうど『哀愁の町に霧が降るのだ』の中巻で就職した「温泉新聞社」(これは実際に存在する会社名で、小説の中では別な名前になっている)に、ほんの少しばかりいた、言わば先輩になる方であり、非常に親しみを感じています。小説の中で、あれほど学生時代(椎名さんたちの生活が学生生活とはいえないかもしれない)に飲んでばかりいるのに、また社会に出ると、これまたとてつもなく飲んでばかりいる職場と同僚たちばかりだという姿に、私も「同じだな」とよくよく思ったものです。作品の中では、主人公たちがよく飲んでばかりいるわけですが、またよく働いている姿もよく見えるわけで、まったく同じだよなと思います。
 しかし、この3部作のどれをよんでも、なんだか「せつない」です、悲しいです。自分のあの頃が思い出されるからかな。少しも豊かではなく、毎日懸命に働いて、毎日飲んで、ただそれだけで日々が過ぎていった思いです。仕事が終わって恋人と会うのもけっこう大変でした。日曜日に彼女が来てくれたり、休みの前の日に昔の仲間と会えるのがなんだか安らぎでした。
 この『銀座のカラス』のあとの物語はどうなるのでしょうか。『岳物語』にまで至るのには、まだまだ時間がありそうだから、ぜひ続きの話を書いてもらいたいものです。いやもう書いているのかな。(1996.05.21)

11030714 私のホームページはかなり文書が多いかと思います。またこうしてこの私のメルマガもかなり文書の量が多いかと思います。そのために私は、なにか文章が書くことが得意な人間かのように思われがちです。「周の職歴」をごらんになると判るのですが、私は、過去さまざまな職業に就きましたが、その中でどの職業が向いていたと思うのかといえば、それは新聞記者なのです。温泉新聞社という旅行業界紙でした。
  ここへ就職した次の日に、何故かそれまでいた(前日の私の就職した日にはなんだか大勢いたはずなんです)若い記者が3人出社してきません。ために、その日の午後から私は山梨県の石和温泉での、「栃木県旅行業協会」の総会への取材を命じられました。名刺を急遽作らされ、カメラを持たされ、ただ「いけばあっちでうまく教えてくれるよ」とだけいわれて、交通費を5千円のみ持たされて行かされました。私は出社2日目で、この業界のことなど何も知らないのです。石和温泉だってどうやって行ったらいいのかもしりません。
 でもとにかく出発しまして、石和で一番大きな観光ホテル(このホテルをすべてその団体は貸しきっていました)入っていきました。栃木県旅行業協会の会合のある会場の受付へ行って、私の名刺を出しましたところ、今も忘れもしません。名刺を見た相手は、「なんだ」と言いまして、その名刺を私あてに投げ返しました。驚いたものです。
 でもとにかく取材しなければなりません。会合があって、そして大宴会です。この宴会もすべて取材してこいという命令でした。私はただただメモを取ります。ビールも酒もつがれる限りは飲みました。
 さて、それでまた次の朝も取材を続けます。「あ、これはすごい情報じゃないかな」というネタまで得ることができました。前日の取材分は、もう夜中に温泉新聞社の原稿用紙に書いてあります。あと、この日の取材分は、帰りの汽車の中で書き続けました。私はなんせはじめての取材ですから、帰社して編集長に出す原稿のできが怖かったのです。
 それでそのまま帰社しまして、すぐに原稿は出しました。フィルムはすぐ原像屋に持っていきました。原稿を出したときに、先輩の記者は、「え、もう書いたの?」というのです。私はそういうものだろうと思っていたのですが、みな取材のときはメモするだけで、その後帰社してから、そのメモをもとに原稿を書くようです。私の原稿はすぐ編集長が認めてくれて、それでなぜかみなに評価されて、私は自分の座る席も確保できました(実は全員が出てくると座る席が足りないような会社でした)。
 でも、このときに、「俺は文章を書くのは、他の人よりは得意なほうなのかな」という思いを抱いたものです。
 この新聞記者の2つ目のあと、ニチイ学館の保育総合学園に就職したときも、その思いのままいたわけなのです。ここでの仕事は、毎日、新聞や雑誌に出稿します、広告コピーの制作でした。私は「俺は文章を書くのは得意なのだ」という思いがあったわけですが、会社の先輩は私の書くコピーを少しも認めてくれません。書いても書いても、「これじゃ駄目だ」というだけなのです。 私は新聞記者時代で作ったペンだこを、さらに固くしながら、必死に書き続けました。同じコピーを何度も何度も書き続けました。ただ、毎日大量な広告原稿を出稿しないとなりませんから、「しかたない、これでいいだろう」とい
うことで、広告代理店には原稿を渡していました。同じ広告原稿とはいいましても、新聞社も雑誌社もすべて媒体がさまざまに違います。広告の量も違います。それを書き分けて、しかもその広告の広告効果も確実に調べないとならないのです。
 私はこのときに知りました。

  広告コピーというのは、うんうん唸りながら、汗をかいて必死
  に絞り出すものなんだな

 絶対に普通の取材原稿を書いたり、いろいろなことの感想文を書くこととは違うのです。
 いえ、これは実は先週、ある団体のいわば広告コピーを書くことになりまして、それで思い出したものなんです。短いコピーなんですが、私はそれこそ、汗かいて必死に書いたものです。「やっぱり、コピー書くのは苦労するよな、そしてこれでいいのかな、これだとどうやって効果測定したらいいのかな」なんて思ったものでした。(2002.10.14)

11010105 25日(火)午前11時15分くらいに石岩先生の治療が終わって、外へ出て携帯の電源を入れると、メールが入っていました。

  川尻死んだ。トロイカで昨日聞いた。

 友人の清水さんからでした。私はもう大変に驚きまして、すぐ清水さんに電話をかけました。だが、その清水さんも驚いています。なんでも2カ月くらい前に突然亡くなったそうで、トロイカ(神田のトリスバー)のマスターも1カ月くらい前に突如知ったようです。
 川尻久夫さんは、私より1歳年上の昭和22年生まれでした。私たち神田会の友人でもありました。私が26歳のときに、温泉新聞社で出会いました。そのときに清水さんは、温泉新聞社の編集長でした。そのときからの友人です。
 彼はずっと新聞記者のみをやっていました。温泉新聞社のあとは、百貨店業界の業界紙、そのあとはどこか通信社の記者になっていました。
 ただとにかく、彼は酒飲みでした。私も同じなんですが、私がすぐに、どこでも歌を唄いだすような人間で、なおかつ毎日あちこちの飲み屋で飲むのに、彼は黙って、黙々と飲んでいました。そして毎日、トリスバーの「トロイカ」で飲んでいました。思えば、このバーで約30年間毎日(除く日曜日)飲んでいたのです。そして、このトロイカのあとに行くのが、

  フジクラ

でした。ここでも、ただただ毎日飲んでいました。
 思えば、私は彼の自宅や奥さんのことはほとんど知らず、とにかく「トロイカ行けば、必ず会える友人」でした。トロイカにいなければ、「フジクラ」にいます。フジクラにいないときは、神田小路の他の店を見渡せば、必ずどこかで飲んでいるのです。
 ただ、私は温泉新聞のあとは、またいろいろと違う業界を渡り歩きました。それで、ときどき「トロイカ」に行くと、カウンターで眠っている彼を見たものでした。そして眠っていても、必ず私に対して同じことをいいました。「清水さんに迷惑をかけるなよ」と。
 そして、あるときに、この「トロイカ」に行ったら、何故か彼は頭を丸めて袈裟を来ています。なんだか判らないまま、あとで店のマスターに聞くと、

  今は、禅宗関係の業界紙の記者らしいですよ

ということでした。
 それから彼は、この禅宗というか、その仏教の関係の編集の仕事を続けていました。そして私が神田会に誘うと、入ってくれまして、神田会でも一緒に飲むようになりました。
 ただ、とにかく彼は、毎日酒を飲むことだけはそのままでした。そして飲む飲み屋も同じでした。私が彼の編集の仕事に、ある女性を紹介したのですが、その彼女と仕事の合間には、また同じ飲み屋で飲んでいました。私は呆れ果てて、

  あんなに若い綺麗な娘と飲むときは、もう少しましな店に連れてい
 けよ。可哀想だよ。あんまりだよ。

 でもでも、彼はまったく同じでした。ただ、彼ももうパソコンを駆使して仕事をするようになっていました。そのパソコンの操作についても、私はいろいろと聞かれたものでした。また彼が作る仏教関係の本について、あるお経を漢文書き下し文にするのに、私もお手伝いをしたりしたものでした。お教というのは、インドだけではなく、中国でも書かれたものがたくさんあるんですね。それを、どういうふうに書き下すかというので、解釈が違ってしまう場合があるのです。大学の先生のような学者はなかなか、その書き下しをやってくれないのです。だから私が必死にやったものでした。
 そんなお経の解釈のことや、パソコンの操作、ホームページの作り方などを彼とよく話しました。また彼がいつもよくいく店だけではなく、私は他にもいろいろな店に彼を連れていきました。彼はただただ、ずっと飲み続けていました。
 このごろは、「痛風になった」というので、ビールは飲んではいけないらしいのですが、それでもただただ飲んでいました。ビールだって、普通にそのままただただ飲んでいました。
 思えば、私たちは友人といいましても、何かあったときに、その奥さんとかいう関係者が連絡をくれるという関係ではないのですね。それは飲み屋のマスターたちも言っていました。

 私はこのことを知った日の夕方、まず「トロイカ」に行きました。何も喋らないまま、ウォトカを5杯飲んだあと、マスターと少し彼のことを話ました。 そして「フジクラ」へいきましたら、マスターが私の顔を見るなり「川尻が死んだんだよ。飲んべいだったからな」といいました。私はもうただただ、酒とビールを飲むしかありませんでした。

 次の朝、私は妻にいいました。「早くブルータスを嫁に出そうよ」。妻は「何を急に言い出すの?」といいます。私は「いや、川尻が死んでサ、飲み過ぎなんだ。あいつが死ぬんなら、俺も同じだよ。いつ死ぬか判らないから、せめてブルータスの花嫁姿見ておきたいよ」といいました。

 昨日の夕方、自宅に帰宅して、そしてひさしぶりに長女のおはぎがきました。

  パパが元気ないんだって、友だちが亡くなったんだってね。でもブ
 ルータスがお嫁に行くときまでなんて考えないでよ、孫と一緒に遊ぶ
 んでしょう?

と言われました。もちろん、私はそのつもりだったのですが、こうして私の親しい、ただただ毎日酒を飲んできた友人に死なれてしまうと、私も元気が出ないのです。私は先週、次の日もその次の日もその次の日も彼を想って飲んでいました。これじゃ、同じになってしまうかな。
 私の中の彼の思い出の顔に献杯します。(2004.05.31)

b4b19ef5.jpg きょうの日経新聞の「日経PLUS1」の最終面の「温泉列島再発見」は修善寺温泉でした。4年前かな、家族4人で行きました。長女は結婚していましたが、その日は彼は仕事でした。大昔温泉新聞社の記者として来たときとは、もう温泉の雰囲気がまるで違いました。源頼家の墓に詣でたのでしたが、娘二人が「パパ、何してきたの?」というので、「頼家に、『もう政子お母さんを許してあげてね』と言ってきたよ」というと、娘二人もまたそのお墓へ登って、手を合わせてくれたものでした。もう修善寺温泉のたくさんのことを思い浮かべてきます。またみんなで行きたいな。
 きょうの夕方は担当者会議をお待ちします。
 写真は17日朝の撮りました朝顔です。(08/22)

続きを読む

はるかな湖
 私は椎名誠が大好きです。彼の本はかなりな量を読んできていました。ある飲み屋で、この椎名誠が好きだという女性がいたので、私は私も持っている本をすべて宅急便で送ったものでした。
 実は、椎名誠は私が新聞記者をやっていたことのある「温泉新聞社」にもいたのですね。ちょうど「哀愁の町に風が降るのだ」に、そのことが書かれています。そして、この絵本の原作は、私が「おじいさんの旅」を読んですっかりファンになりましたアレン・セイです。

書 名 はるかな湖
作・絵 アレン・セイ
訳   椎名 誠
発行所 徳間書店
定 価 1,600円+税
発行日 1998年2月28日初版発行
読了日 2007年10月31日

 この絵本の作品を読みまして、描いたのはアレン・セイなのでしょうが、絵に出てくるお父さんの顔が若いときの椎名誠にそっくりに思えます。不思儀ですねえ。そうなると、ここに出てくる息子は、岳クン(もうこの方は渡辺岳というカメラマンです)に思えてしまうのです。

 これは父親と一人息子とのいいお話です。いい絵本です。私は子どもは女の子が二人ですから、こんな男の息子との触れ合いの絵本を見ていると羨ましくて仕方ありません。もちろん、私は二人の娘とまたそれでものすごく愉しかったわけなのですが。
 こんな父親と息子だけの、ふたりっきりの湖を探り当て、その湖のすぐそばに居られるなんて、実に最高の時間を過ごせている親子だなあ、と思いまして大変に羨ましいとともに、私も孫を含めて、こんな瞬間を必ず獲得するぞと深く決意しています。

↑このページのトップヘ