将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:満月

11012701 私はこれをいつ読んだのだろうか。とにかく、私の大好きで尊敬する吉本隆明さんの娘さんの作品だということで、読んだものでした。
  一つ前に書きました『ムーンライトシャドウ』も、これと同じ本に掲載されていたものです。
 私は新宿でよく飲みまして、ゲーボーイもおかまさんとも随分知り合いになりました。ただこの作品のえり子さんのような美形の方には会ったことがありません。
 主人公のみかげは、両親と祖父母を失っています。その中で一番みかげが親しかったのかもしれない祖母の知人の雄一の家に住みはじめます。
 この雄一の母親(元は父親だった)がえり子さんで、ものすごい美形なのです。彼はゲイバーを経営しています。
 なんだか、この物語が現実に新宿でよく会う人たちとは違って、小説の中のすさまじい展開に驚いてしまいます。
『キッチン』の続編の『満月』ではえり子さんは殺されてしまうのです。そんなことは、私の目の前の現実では、少しもないものでした。
 ただ。少し角度を深化させれば、どこにでも生まれてきたようなことだったのでしょう。そのことを充分に思うものです。
 もちろん私がそういう世界には出会わなくて正解でした。
 こうした世界を深化させ、作品を生み出した作者をすごいなあ、と思いました。
 おそらく、この作品についても、これから何度も書くことがあるかと思っています。(2011.01.27)

10122204書名    満月
著者    原田康子
発行所  新潮文庫
定価    600円
    *ただし、今(1997年当時)は絶版のようだ
1984年11月朝日新聞社より刊行

  なんだかとても切ないラブストーリーを読んでいる雰囲気にひたれてしまう本です。朝通勤の電車の中で最後の別れのシーン読み終えたときには、なんだか涙が浮んできました。どうにもありえない童話のような話なのに、それでもなんだかその中に私も入り込んでしまっていたようです。

 主人公の高校教師まりは、まるで私にはその顔や姿が想像できてしまいます。昭和27、8年の釧路の町で凍えるような道を、ズボンに手を突っ込んで少しうつむきながら歩いている「挽歌」の主人公の姿であり、おかっぱ頭の原田康子そのものがこのまりなのですね。そしてその少女はこの小説の中でも、その姿を少しも変えていないのです。作者の原田康子が少しも年をとっていないどころか、むしろ若くなってしまったような印象すらあります。
  実は私にはこのまりの姿こそ、300年前の江戸時代から何故かこの世に出現してしまった津軽藩士杉坂小弥太重則の存在よりも、なんだか不可思議さを私に与えてくれます。そして彼女が生きている北海道の姿もまた、何故かまったく昭和20年代と変わっていないような気がしてきます。いったい時間の歩みはどうなってしまったのでしょうか。

 仲秋の満月の夜(1970年代の後半の年)に、まりは愛犬セタのおかげで、豊平川の河原で、不思議な男で出会います。その男は、セタのせいなのかまりのあとを追い家にまでついてきてしまいます。まりは祖母の貞子と二人で住んでいるのです。祖母はこの怪しげな男をどうしてか家に上げて話を聞き出してしまいます。まりはそんな祖母と、そしてこのえたいのしれない男にこそ反発していきます。実にこの奇怪な男とまり、祖母の描き方が見事だなと思わせます。見ている読者は、このおばあちゃんがいなかったら、このラブストーリーは出来てこなかったと確信できるでしょう。そしてこんなおばあちゃんが私にもいたらなと思うかもしれません。実は本当はこんなおばあちゃんは前には大勢いたし、今もいるわけなのですが、なかなか現在の多くの家族の現状では、なかなか出会えないものなのです。
  最初はこの奇妙な男に反発し、嫌い抜いていたまりですが、段々と彼に惹かれていきます。このところの展開がなんだかそのまままりの心の動きとともに、読んでいる私たちも少しずつ歩いているような気になってきます。なんだかまりがどう男に反発していながら、いわば磁石にひきつけられるように、まりはそのまま彼に愛を感じていくようになってしまいます。これは誰も経験することなのだろうと思います。それが「恋」なのだと思います。だがまりが少し違うのは、この物語がいわばファンタジーの世界であり、恋の相手と別れのときが一本の道の先に用意されていることです。その道は自分が歩いていく道ではなく。どうしても訪れてしまう時間の道なのです。ここがどうにも読んでいる私たちが、どうにも切なくまりの気持に涙してしまうところなわけでしょう。

 この津軽藩士は、藩主の命令で蝦夷地を探索していたのですが、そこでアイヌの老婆フチの魔術で、この世に現われることになってしまったのです。そしてまりにとって悲劇なのは、この魔術では1年後の満月の晩にまた小弥太は300年前には帰ってしまうことが、動かし難い道として用意されていることです。そしてもう一つ、小弥太は女と交われば、そのときにはフチの魔術は解けてすぐに300年前に連れ戻されてしまうのです。このこともまた、まりの小弥太に対する愛が悲しく切なくなってしまうところであり、誰もこのまりの気持を自分のものとひきつけてしまうところでしょう。まりはなんとか300年前の老婆フチの魔術(呪いと言っているが)と、自分の愛とどちらが強いのか試したかったところでしょう。だが、この物語の中では、どうにもまりはその決意ができません。

 いったいこの小説を読んでいる私たちは、何にひきつけられてしまうのでしょうか。それはこのまりの切ない愛の物語が、実は誰でも経験する恋であるわけであり、それがメルヘンの世界の中で描かれているからだけのことなのです。また小弥太が、現代日本人の男にはかすかにしか残っていない美点を凝集したような存在であることが、またこのまりの愛の行き着く道が別れにしかならないのだというところでしょうか。実はこんな男はいないのです。そして、本当はこの小弥太のさまざまな姿を少しずつ持っているのが、現在のたくさんの男たちなのです。この物語の中にも、まりのまわりにいる何人かの男たちは、小弥太ほど完全ではないのですが、それぞれ少しづつ少しだけの魅力を貯えた人間であるわけです。まりがこの小弥太というメルヘンの世界の男が300年前に去ったあとは、その少しつづのよさしか持っていない男の存在を判るようになれるかなと誰も期待するのではと思います。そして読んでいる私たちも、みなそうしてきたのだ、そうすべきなのだと思うところではないでしょうか。

 ただ、この作者は今はもう60代でしょうが、このまりがそのまま変わりない少女なのかなと想像してしまいます。
  とにかくいいメルヘンの世界にしばしひたってしまいました。「挽歌」を読んで以来実に30数年ぶりに読んだ原田康子の小説でした。(1998.11.01)

 これは映画も見ました。原田知世が実にいい演技だと思いました。でもやはり私には、少しも歳をとらなく思える原田康子(今はもう亡くなりました)のことばかりを思いました。
 …でもインターネットで検索してみて、以下にも私は書いていました。

  原田康子「満月」を思い出す

 今度は、『挽歌』のことも書かなくちゃね。(2010.12.22)

09102208 新聞の訃報欄で、この作家が亡くなったことを知りました。
 この作家は(1928年1月12日〜2009年10月20日)、私は最初に中学2年のときに、『挽歌』を読みました。そして、私はたしか10年くらい前にこの作家の『満月』を読みました。そのあと私はいつもこの小説を私の事務所にも置いていたものでした。
 この本への思いは以下に書いてあります。

   http://shomon.net/bun/sf3.htm#haraman 原田康子『満月』

 ここで私は以下のように書いています。

 主人公の高校教師まりは、まるで私にはその顔や姿が想像できてしまいます。昭和27、8年の釧路の町で凍えるような道を、ズボンに手を突っ込んで少しうつむきながら歩いている「挽歌」の主人公の姿であり、おかっぱ頭の原田康子そのものがこのまりなのですね。そしてその少女はこの小説の中でも、その姿を少しも変えていないのです。作者の原田康子が少しも年をとっていないどころか、むしろ若くなってしまったような印象すらあります。

 そんな原田康子をいつも感じていました。私よりもちょうど20歳年上だったのですね。
 なんだか、どんどん私が知った方が遠くに行きます。大変に寂しい思いになります。

 合掌します。

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06122304 昨日は、妻がノロウィルスで義母にそれがうつってはいけないということで、我孫子の自宅へ帰りました。それで義母のお迎えは長女おはぎがやってくれていました。
 私が帰ってきて、おはぎが「パパ、何か読む本ないの?」というので、考え込んでしまいました。私のほどんどの本はすべて我孫子の自宅です。それでもここにもありますが、お腹の中にいる私の孫への影響を考えると、「ちょうどいい本ってなかなかないなあ」。ヤクザ映画の関係とか、ビジネス関係じゃまずいでしょう。ここにある本で、真っ先に思ったのは、岩波文庫の「葉隠」。私は「葉隠」は大好きです。でも、これは読めないだろうな。お腹の孫も訳が判らないよね。
 それで、このあいだ持ってきた「舊新約聖書」ですが、これはおはぎにも言いましたが、全然興味を示しません。そうだよなあ、文語で舊漢字なんて読めないよな。
 それで、気がついたのが、この 原田康子「満月」です。この本は読み終わったあとも、何故かいつもそばに置いておきたくて、事務所の本棚に置いていました。だから事務所の移動とともに、今私の部屋にあるわけです。
 もう私は、「晩歌」の主人公を思い浮かべました。私が次のように書いているところです。(これは「周の書評(SF篇)」に書いています)

 主人公の高校教師まりは、まるで私にはその顔や姿が想像できてしまいます。昭和27、8年の釧路の町で凍えるような道を、ズボンに手を突っ込んで少しうつむきながら歩いている「挽歌」の主人公の姿であり、おかっぱ頭の原田康子そのものがこのまりなのですね。そしてその少女はこの小説の中でも、その姿を少しも変えていないのです。作者の原田康子が少しも年をとっていないどころか、むしろ若くなってしまったような印象すらあります。

 まさしく私には、原田康子が今もおかっぱ頭で、雪の釧路を歩いている姿が思い浮かんでしまいました。
 今朝、長女がその文庫本を手にして、ここに来てくれました。義母が出かけるまで、相手をしてくれています。そしてずっと今も「満月」を読んでいます。
 私は、まりのことも小弥太のことも、まりのおばあさんのことも私は口から出して、おはぎに怒られました(読んでいる途中で内容を喋ってはいけない)。こんなおばあさんがどの孫にもいることが大切なのです。おはぎには、私の母と義母がいるのです。
 フチは小弥太になんであんな魔術をかけたのでしょうか。でもそれは良かったことだよなあ、と思います。

 いったいこの小説を読んでいる私たちは、何にひきつけられてしまうのでしょうか。それはこのまりの切ない愛の物語が、実は誰でも経験する恋であるわけであり、それがメルヘンの世界の中で描かれているからだけのことなのです。また小弥太が、現代日本人の男にはかすかにしか残っていない美点を凝集したような存在であることが、またこのまりの愛の行き着く道が別れにしかならないのだというところでしょうか。実はこんな男はいないのです。そして、本当はこの小弥太のさまざまな姿を少しずつ持っているのが、現在のたくさんの男たちなのです。この物語の中にも、まりのまわりにいる何人かの男たちは、小弥太ほど完全ではないのですが、それぞれ少しづつ少しだけの魅力を貯えた人間であるわけです。まりがこの小弥太というメルヘンの世界の男が300年前に去ったあとは、その少しつづのよさしか持っていない男の存在を判るようになれるかなと誰も期待するのではと思います。そして読んでいる私たちも、みなそうしてきたのだ、そうすべきなのだと思うところではないでしょうか。

 きっと私の孫も、おはぎのお腹の中で、この物語を知ったはずです。そして今フチの魔術がけっしていけないものではなく、私たちにいつでもいい思いを抱かせてくれるものだということを小さな頭と心で感じているはずです。

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