将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:源実朝『金槐和歌集』

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 以下をUPしておきます。どうしても昨日22日18時からの野村澄子さんのお通夜を思い出していまします。それはまた別に書きましょう。

2015/05/22 06:19昨日鎌倉を歩いたわけでしたが、知っている店にも行かないで(いやお店がやっていないのとしか思えませんでしたが)歩き疲れた感じです。もう私はじいじなのですね。実朝様が公暁に討たれた銀杏の樹のもとでは、実朝様が私に、「もうわざわざ来なくてもいいよ」と言ってくれるのです。実朝さまのその言葉を素直に聴きます。
2015/05/22 07:49私は今まで源実朝を「実朝様」と読んでいませんでした。28歳(満26歳)で公暁に殺された実朝は66歳の私にはどうしても「様」をつけていう気にはなれなかったのです。でも今は違います。「源実朝『金槐和歌集』」を読みました私には、親しみだけでなく、もはや尊敬の気持があるのです。
 それをいつも考えていきましょう。


 画像は昨日の17時30分頃の私が歩いていたときの空です。

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 なんか久しぶりに書いています。

2015/03/18 19:11こうして今はテレビの前にいます。どうしてもテレビを見てしまうなあ。
2015/03/18 19:37もうばあばが帰ってくる時間ですね。
 でもなかなか帰ってこないなあ。
2015/03/18 19:56ばあばは今帰ってきました。

2015/03/19 06:17もう3月も19日なのですね。
2015/03/19 17:35また今はリビングです。ここではどうしてもテレビの画面を見てしまいますね。
 いつもばあばが帰ってくると、いつもおはぎの家の三人の孫がどうしていたか聞いてしまいます。そしていつもこの3人を思うと、もう一人の孫じゅにを思い出します。どうしているかなあ?15021978
 あとで電話しようかなあ。

2015/03/20 05:32もう今日は3つUPしました。昨日「源実朝『金槐和歌集』」が終わりましたので、今日からは、「与謝蕪村『俳句』」をやっていきます。蕪村は昔から好きなのですね。ただ私は俳句というと苦手意識しかなくて(短歌も苦手でしたが、どうやら実朝『金槐和歌集』を書くことによりこの私も落ち着いてこれました)、でもやっていけそうです。
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 こうしてポメラも書いて行きます。もうこうしてやっていくのですね。

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 私は与謝蕪村の俳句を書き始めました。どうやったらいいのか検討がつかなかったのですが、今まで源実朝『短歌』を書いてきたことが実にいいことに思えたのです。
 私は以前に以下を書いています。
   「『与謝蕪村の詩』
 これでどうやって行くのかが目安がつきました。
 私は実朝の短歌についても、以前に「源実朝『短歌』」を書いています。それで、実朝の全部の歌が載っているだろう『金槐和歌集』をやることになりました。(ただし、一部は載っていません。実朝の最後の日の朝の歌「出でて去なばぬしなき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」は載っていません。これは厳密には実朝が作った歌ではないでしょう)。15021976
 とにかくまた私はやっていきます。

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     道のほとりにをさなき童(わらは)の母を尋(たずね)ていたく泣くを、そのあたりの人に尋(たづね)しかば、父母なむ身まかりにしと答へ侍しを聞て
七一七 いとほしや見るに涙もととまらず親もなき子の母を尋ぬる

     慈悲の心を
七一八 物いはぬ四方の獣(けだもの)すらだにもあわれなるかな親の子を思ふ

     建暦元年七月洪水漫天民愁嘆きせむ事を思ひて一人奉向本尊聊致念と云
七一九 時により過ぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ

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 こうして最後に七一七と七一八の歌を知り、私は大変に嬉しくなりました。私が昔書いていました、「源実朝『短歌』」に書いていた通りです。
でもこれは吉本(吉本隆明)さんが書いていることなのです。それを私はいわば後追いしているにすぎないのです。ただ、私は高校2年のときから、実朝の歌を万葉調の歌として褒め、古今集・新古今をただ貶す正岡子規には大きく異議をとなえていました。思い出せば、古典の先生(これが担任でした)には迷惑だったかなあ。まだ私は吉本(吉本隆明)さんのことは少しも知らないときでした。思えば、それから時間が経ちましたが、こうして読むことができました。
 このあとの岩波文庫「源実朝『金槐和歌集』」には賀茂真淵の言葉が書いてあるのですが、もう読んでみて書く気がなくなりました。
 さあ、次は何をやりましょうか。15031901
 それから、この花は今もここの玄関にあるお花です。ようやく花びらが開いてきたのです。

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七一二 現(うつヽ)とも夢とも知らぬ世にしあれば有(あり)とてありと頼むべき身か

     わび人の世にたちめぐるを見て
七一三 とにかくにあれば有ける世にしあればなしとてもなき世をもふるかも

     人心不常といふ事を
七一四 とにかくあな定めなき世中(よのなか)や喜ぶものあればわぶるものあり

     世間つねならずということを人のもとに読(よみ)てつかはし侍り
七一五 世中(よのなか)にかしこきこともわりなきも思ひしとけば夢にぞ有ける

     日比病(ひごろやまふ)すとも聞かざりし人あかつきはかなく成にけるを聞(き)ヽてよめる
七一六 聞(きき)てしも驚くべきにあらねどもはかなき夢の世にこそ有けれ

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 こうして「巻之下」も終わりに近づいています。これだけの歌を書いて、そして今にまで伝える実朝の思いを私も感じます。そして私の次女のブルータスが生徒にずっと「小倉百人一首」を教えていること、ここに来た孫たち三人がやっていたことを思います(孫たちは「坊主めくり」をやっていたのでしたが)。そのときに、偶然私の手に実朝の「世中(よのなか)は常にもがもな渚こぐ海人の小舟(をぶね)の綱手かなしも」がありました。そしてその時に私は実朝を強烈に思いました。
 吉本(吉本隆明)さんが「源実朝」を書いたことを強烈に思うのです。源家なんていう貴種はもはや必要のないものになっていたのです。そのことを強く感じていただろう実朝はそれでもだからこそこうしていくつもの歌を詠んでいったのです。
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     千鳥
七〇七 朝ぼらけ跡なき浪に鳴(なく)千鳥あなことごとしあはれいつまで

     桜
七〇八 空蝉の世は夢なれや桜花咲(さき)ては散りぬあはれいつまで

七〇九 いにしへの朽木(くちき)の桜春ごとにあはれむかしと思ふかひなし

     蘆
七一〇 難波がたうきふししげき蘆の葉におきたる露の哀(あはれ)世中(よのなか)

     無常を
七一一 かくてのみありてはかなき世中(よのなか)を憂しといはむあはれとやいわむ

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 こうしてこの「源実朝『金槐和歌集』」も終わりに迫っています。でも私の心はまだ実朝の心に迫り足りません。なんなのかなあ。私にはどうしても空虚感をまだ持ってしまうのですね。まだどうしても実朝には迫りきれていません。
 この空虚感がどうにかならないかなあ。
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     かち人の橋わたりたる所
七〇二 かち人の渡ればゆるぐかつしかのまヽの継(つぎ)橋朽(くち)やしぬらむ

     故郷の心を
七〇三 いにしえを忍ぶとなしに磯の神ふりにし里に我は来(き)にけり

     まないたといふ物の上にかりをあらぬさまにして置(おき)たるを見て
七〇四 あはれなり雲井のよそに行(ゆく)雁もかヽる姿に成(なり)ぬと思へば

     黒
七〇五 うば玉のやみのくらきにあま雲のやへ雲がくれ雁ぞ鳴(なく)なる

     鶴
七〇六 沢辺より雲ゐに通ふあしたづも憂きことあれや音のみ鳴(なく)らむ

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 鎌倉武士にとっては実朝は、貴族のおぼっちゃんでしかなかったのだろうな。その多くの視線を感じていたことでしょう。そしてそれは母政子の視線にも言えるのです。ただこの『金槐和歌集』のみがありました。少しはいいと感じてくれたのが藤原定家だったのです。それを思うと私は嬉しいのです。15031608

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     又のとし二所へまゐりたりし時箱根の水海を見てよみ侍る歌
六九七 玉くしげ箱根の海はけゝれあれやふた山にかけて何かたゆたふ

     民のかまどより煙のたつを見てよめる
六九八 みちのくにこゝにやいづく塩釜の浦とはなしに煙(けぶり)立(たつ)見ゆ

     浜へ出たりし海人のたく藻しほ火を見てよめる
六九九 いつもかく寂しき物か葦のやにたきすさびたる海士の藻塩火

     山のはに日の入(いる)をよみ侍ける
七〇〇 紅のちしほのまふり山のはに日の入(いる)ときの空にぞ有ける

     二所詣下向に浜べの宿の前に前川といふ川ありなが雨ふりて水まさりしかば日暮てわたり侍し時よめる
七〇一 浜べなるまへの川せろ行(ゆく)水の早くも今日(けふ)のくれにけるかな

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 六九八と六九九の「塩」が二つとも違う「しほ」(この二つは同じ字です)なのだが、画面上に出せなくて困ってしまいます。前にも同じことがありました。
 でもこうして六九八の「民のかまどより煙のたつを見て」を見ると、「実朝もそうした民の家を視ていたのだなあ」と思い少し嬉しくなります。
 私は昔から鎌倉の海は見ているのですが、今度行くときには実朝の視線で見てこようと思いました。
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六九二 年ふれば老(おい)ぞたふれて朽(くち)ぬべき身は住江の松ならなくに

     屏風の絵に野中に松三本生ひたる所をきぬかづける女一人とほりたり
六九三 おのづから我を尋ぬる人もあらば野中の松よみきとかたるな

     三崎という所へまかれし道に磯辺の松としふりにけるを見てよめる
六九四 磯の松いくひさゝにかなりぬらむいたく木だかき風の音かな

     ものまうでし侍り時磯のほとりに松一本ありしを見てよめる
六九五 梓弓いそべに立てるひとつ松あなつつれづれげ友なしにして

     あら磯に浪のよるを見てよめる
六九六 おほ海の磯もとどによする波われてくだけてさけて散るかも
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 もうこうして「巻之下 雑部」の140にいたりました。六九六の「あら磯に浪のよるを見て」とは実朝の前にはどんな景色が見えていたものなのでしょうか。鎌倉の海を思います。私が鎌倉で今見るのと同じ景色なのでしょうね。
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     雑歌中に
六八七 世にふればうきことの葉の数ごとにたえず涙の露ぞおきける

六八八 嘆(なげき)わび世を背くべきかた知らず吉野の奥も住(すみ)うしといえり

六八九 いづくにて世をばつくさむ菅原や伏見の里も荒ぬといふ物を

六九〇 春秋はかわりゆくともわたつ海(み)のなかなる島の松も久さしき

     屏風歌
六九一 とよ国のきくの浜松老いにけり知らずいく世の年か経にけむ
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 六八七の「たえず涙の露ぞおきける」というところで、いくつも同じだなということを感じます。実朝はいつもこう感じていたのだろうな。義時は「面倒な貴族のおぼっちゃんだなあ」と絶えず思っていたことでしょう。
 それがこの鎌倉という地だったのですね。父頼朝を殺した関東武士団は恐ろしい存在だったのでしょうね(今も関東武士団が頼朝を殺したとは確認されていませんが)。
 実朝をいつも思い浮かべます。15021959

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      相州の土屋と云(いふ)所に年九十にあまれるくち法師ありおのづからきたる。昔語(むかしがたり)などせしついでに身のたちゐにたへずなむ成(なり)ぬる事をなくなく申し出ぬ。時に老といふ事を人々に仰せてつかうまつらせし次(ついで)によみは侍し
六八二 我いくそ見し世の事を思ひ出のあくるほどなき夜の寝覚に

六八三 思ひ出(いで)て夜はすがらに音(ね)をぞなく有し昔の世々のふること

六八四 中々に老いはほれても忘れなでなどか昔をいとしのぶらむ

六八五 道とほし腰はふたへにかヾまれり杖にすがりてこヽまでもくる

六八六 さりとも思ふ物から目を経てはしだいしだいに弱る悲しき
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 六八五の「腰はふたへにかヾまれり杖にすがりて」というのはまだ若いだろう実朝がどうして歌うのかなあ。いくらこうして読んできても実朝の真実の姿は私にははっきり見えてきません。
 ただ、私も実朝の歌にかかりきりにもなれないから、はっきりとは実朝の歌も気持も把握できていません。ただただ読んでいくだけなのだなあ。
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     大嘗会の年の歌に
六七七 黒木もて君が作れる宿なれば万世ふともふりずも有なむ

六七八 いまつくる黒木のもろやふりずして君はかよはむ万世までみ

     太上天皇御書下預時歌
六七九 おほ君の勅(ちょく)をかしこみちゝわくにこころはわくとも人にいわめやも

六百○ 山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

六八一 ひむがしの国にわがをれば朝日さすは藐姑射(はこや)の山のかげとなりにき
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 ここまで書いてきてもまだまだ私には実朝の歌を理解するのはほど遠いのです。仕方のないものです。ただ読むだけではなく、こうしてその「実朝の歌を手で書いていけば少しは理解できるかなあ」と思っていましたが、まだまだ理解するのには遠い世界のようです。でも私はこうして書くしかないのです。歌を読むだけではなく、書いていくほうが理解することに近ずけると思っているのです。
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六七二 君が代に猶(なほ)ながらへて月きよみ秋のみ空のかげを待たなむ

六七三 万代に見るともあかじ長月の有明の月のあらむかぎりは

六七四 朝ありて我代はつきじ天の戸や出(いづ)る月日の照らむかぎりは

六七五 君が代も我世もつきじ石川やせみの小川のたえじと思へば

六七六 宮柱ふとしきたてて万代に今ぞさかえむ鎌倉の里
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 こうして実朝はいくつもの歌を詠みます。私には苦手意識しかなかった詩歌ですが、こうしてここまでいたりました。ただただ実朝に感謝します。実朝のおかげで、今後「古今集」にも「新古今集」にも与謝蕪村にも迫ることができるでしょう。
 ただそうした詩歌はどのように解明していくのかは、私には大きな課題です。
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六六七 相生(あひおひ)の袖のふれにし宿の竹よゝは経(へ)にけりわが友として

     寄苔祝という事を
六六八 岩にむす苔のみどりの深き色をいく千年までと誰(たれ)か染めけむ


六六九 たまだれのこがめにさせる梅の花万代(よろづよ)ふべきかざしなりけり

     桜花さけるを見て
六七〇 宿にある桜の花は咲にけり千とせの春もつねかくし見む

     慶賀の歌
六七一 ちヾの春万(よろづ)の秋にながらへて月と花とを君ぞ見るべき

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「相生(あひおひ)の袖のふれにし」って、どういうことだろうと漢字林で調べました。「ああ、そうか」なんていいながら、実は分かっていないのかもしれません。800年の昔が実は私には正確には分からないのかもしれません。
 梅の花、桜の花は見ているのですが、よく私には分かっていません。今年の3月から4月初めには鎌倉の桜を見に行こうかなあ。
 実朝は私に歩いて花を見ようとする意欲をわかせてくれるのです。
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六六二 くらゐ山木(こ)高くならむ松にのみ八百万(やおよろず)代と春風ぞふく

     障子の絵に岩に松の生(お)ひたるところ
六六三 岩の上に生(お)ふる小松の年も経(へ)ぬいく千代までと契りおきけむ

     寄竹祝
六六四 竹の葉にふりおほふ雪のうれを重み下にも千世の色は隠れず

六六五 なよ竹の七の百(もゝ)そぢ老いぬれど八十(やそ)のちふしは色も変らず

六六六 相生の袖のふれにし宿の竹よ丶は経(へ)にけりわが友として
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 まだ実朝の居る鎌倉も寒い季節なのです。私は鎌倉の雪の中も歩いたことがあります。あれはいつのことだったかなあ。ある店で店員の方が杖をつく私を気づかってくれたものです。またあの店に行けるのはいつのことでしょうか。
 また鎌倉も歩きたいです。このお店では素敵なものをいくつも買ったのでした。このお店は私のここのサイドバーでリンクしています。
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     寄松祝といふ事を
六五七 田鶴のゐるながらの浜の浜松のまつとはなしに千世をこそふれ

六五八 君が世はなほしも尽きじ住吉の松は百(もも)たび生(お)ひかわるとも

六五九 行末(ゆくすゑ)もかぎりは知らず住吉の松にいく世の年か経(へ)ぬらむ

六六〇 住の江に生(お)ふてふ松の枝しげみ葉ごとに千世の数ぞこもれる

六六一 行末(ゆくすゑ)の千とせをこめて春霞立田の山に松風ぞ吹く
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 私は学生(埼玉大学)の時に、『「君が代」は「代」ではなく「世」なのだ』と強く主張したものでした。でも思い出せば、あの時の大学の先生もあとで私が東大闘争の安田講堂にいたことには驚いただろうな。それが今実朝も書いているので、嬉しくなりました。
 ここの132で書いたことですが、「私の前で神社とお寺が違う信仰だということを知らない若者がいて」というのは、最後の大学入試の結果がだめで私の事務所(御茶ノ水の駅前)来たものなのですが、二人いまして一人が私の知り合いだったのです。そこでの初対面の若者との会話です。

 私「それなら神田明神に祈りに行ってこいよ。あそこはお寺じゃなくて神社だから拍手を打つのだよ」
 若者「……あの、神社とお寺って違うものなのですか?」
(もうここで私はものすごく驚いていいました。でもきっとこの子は社会科は世界史等で受験しているだろうと思いました)
 私「キミは社会科は何だったの?世界史かなあ?」
 若者「日本史です」
(私は大いに驚いてさらに聞きました)
 私「廃仏毀釈ってあったよね」。
(この若者は知らないようです)
 私「仏教が日本に伝来したときに、蘇我氏と物部氏(私は物部守屋を思い浮かべていました)の闘いがあったよね」
(でもまったく知らないようです。それで社会科は日本史選択なのです。私はただただあきれていたものでした。大学入試の担当者の入試テストでの判断は間違いないのです)
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 この後私の知り合いの若者は2浪の後ある大学に入りました。その後コンビニチャーンに就職し、長く店長をやっていました。この私の話した相手は知りません。その後私の知り合いの若者は私の家にも泊まりました(大学生になってから)が、この私と会話した若者は分かりません。

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     思罪業歌
六五二 ほのほのみ虚空にみてる阿鼻地獄行へもなしといふもはかなし

     大乗作中道観歌
六五三 世中(よのなか)は鏡にうつる影にあれやあるにもあらずなきにもあらず

     心の心をよめる
六五四 神といひ仏というも世中の人のこゝろのほかのものかは

     祝の心を
六五五 姫島の小松がうれにゐる鶴の千とせふ(れ)ども年老いてずけり

六五六 田鶴(たづ)のゐる長柄(ながら)の浜風に万代(よろづよ)かけて波ぞ寄すなる

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 六五四の「神といひ仏というも」を読みまして、大昔に私の前で神社とお寺が違う信仰だということを知らない若者がいて驚いたものでした。このことを思い出したものです。21世紀の今知らないのです。あの男の子は今はまっとうになったのかなあ。
 その男の子は「大学入試」のすべて失敗して私がたずねたところでは社会科は日本史を選択していました。驚くことばかりがあるのですね。
15030203

15021916
     神祇歌あまたよみ侍しに
六四七 かみつけの瀬多の赤城の神社(かみやしろ)やまとにいかで跡をたれけむ

六四八 さとみこがみ湯たて笹(ざさ)のよそよそに靡きおきふしよしや世中(よのなか)

六四九 みづがきの久しき世よりゆふだすきかけし心は神ぞしるらむ


六五〇 大日の種子(しゅじ)よりいでて三味(さま)耶形(やぎよう)さまやぎやうまた尊形(そんぎやう)となる

     懺悔歌
六五一 塔(たふ)をくみ堂(だう)をつくるも人なげき懺悔にまさる功徳やはある

15021917
 神社を『「じんじゃ」ではなく、「かみやしろ」と読むんだ』と思っています。そんなことが私には大変なことです。
 今、ウクライナでのウクライナ軍と親ロシア派軍の戦争を聴いています。15年くらい前にゴールデン街のある飲み屋でロシアの悪口ばかり言うウクライナ人の女性と話したものでした。ものすごい美人でしたが。
 こうして実朝も、当時の鎌倉の状況でただただこうして歌を書くだけでした。でも大事なことだよなあ。
15021918

15021913
六四二 走湯(はしりゆ)の神とはむべぞいひけらし早き験(しるし)のあればなりけり

六四三 伊豆の国や山の南に出(いづ)る湯のはやきは神の験なりけり

     二所詣(もう)し侍しに
六四四 千はやぶる伊豆のお山の玉椿やほよろづ代も色はかはらじ

     社頭松風
六四五 古(ふ)りにける朱(あけ)の玉垣(たまがき)神さびて破(や)れたる御簾に松風ぞふく

     故郷を神宇治祇によせてよみける
六四六 いそのかみふるき都は神さびてたゝかにしあれや人も通はぬ
15021914
ちょっとこれをUPすることを怠って来ていました。いやポメラには書いているのですがね。あ、この実朝の歌だけはポメラで書いています。そしてパソコンでこの私の能書を述べているのですね。
 今「周の掲示板」で吉永小百合を書いていまして、笑福亭鶴瓶と川口の街(西川口ではなく、川口です。私は西川口のほうがよく歩いているのです)を思い出していました。思えばあの街では実朝のことも彼の歌も思い浮かべませんでしたね。
 今ではどこででも、実朝の歌と鎌倉の街を思い浮かべています。
15021915

15021905
六三七 み熊野の梛(なぎ)の葉しだり雪降ば神のかけたる四手(しで)にぞ有らし

     社頭時鳥
六三八 五月雨を幣(ぬさ)に手向て熊野の山時鳥鳴きとよむなり

     法眼定忍にあひて侍りしに那智山の瀧のありさまを語れしかば
六三九 み熊野の那智のお山に引(ひく)標(しめ)のうちはへてのみ落つる瀧かな

     屏風に同山をかきたるところ
六四〇 冬ごもり那智の嵐の寒ければ苔の衣のうすくや有るらむ

     走湯山参詣の時
六四一 わたつ海(み)の中に向ひていづる湯のいづる湯のいづのお山とむべもいひけり
15021906
 いつもこれをUPするときは、「漢字林」も見たり、「インターネットの単語登録」のことでも実にいっぱいのことがあります。大変なことですね。今回は「梛」が大変でした。もう登録しました。これは、ポメラでも登録したのです。
 今回『「源実朝『金槐和歌集』」123』で載せた画像のルーペがどこへ行ったのか分からなくなっていましたが、なんのことはない、すぐそばにありました。
15021907

15021901
     松間雪
六三二 雪つもる和歌の松原ふりにけりいく世へぬらむ玉津島守

     月前千鳥
六三三 玉津島和歌の松原夢にだにまだ見ぬ月に千鳥なくなり

     社頭夏月
六三四 ながむれば吹く風涼し三輪の山杉の木ずゑを出る月かげ

     三輪社を
六三五 今つくる三輪の祝部(はふり)が杉社(すぎやしろ)すぎにしことは問はずともよし

     社頭雪
六三六 年つもる越の白山しらずとも頭の雪をあはれとは見よ
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 こうして、この『金槐和歌集』ももうけっこう書いてきました。あの鎌倉であの時代にこの歌集を書いたことはすごいです。これを書いたのが、鎌倉であって、京都ではないのですね。私もこれを書き続けてきて、なにか実朝の気持が分かってきたように思います。その実朝の思いを私は私の言葉で書いていきたいです。15021903

15022108
     同社をよめる
六二七 あふひ草かづらにかけて千はやぶる賀茂の祭をねるは誰(た)が子ぞ

六二八 名にしおばその神山のあふひ草かけて昔を思ひいでなむ

     社頭霜
六二九 さよ深(ふけ)ていなりの山の杉の葉に白くも霜のおきにけるかな

     屏風にかきつけ侍し
六三〇 住吉(すみのえ)の岸の姫松ふりにけりいづれの世にか種はまきけむ

     社頭月
六三一 月のすむ北野の宮の小松原いく世を経てか神さびにけむ
15022109
 こうして私には、今まで知ったいくつかの文字列が思い起されます。そうなのだなあ。鎌倉でどうしても寂しくしか思えなかった実朝が私には、実に大きな存在になりつつあります。そうですね。そしていつも鎌倉の若宮大路で見た店を思い出します。
 また鎌倉も歩きたいけれど、何故か寂しい思いにもなってしまうのだなあ。
15022110

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     寄松祝といふ事を
六二二 八幡山木(こ)だかき松のたねしあれば千とせの後も絶えじとぞ思ふ

     鶴岡別当僧都のもとに雪のふれりしあしたよっみてつかわす
六二三 鶴岡あふぎて見れば嶺の松こずゑはるかに雪ぞつもれる

六二四 八幡山木だ(か)き松にゐる鶴(たづ)のはね白たへにみゆきふるらし

     河辺月
六二五 千はやぶるみたらし川の底きよみ長閑に月のかげはすみけり

     屏風に賀茂へまうでたる所
六二六 たちよればころもですずしみたらしや影みる岸の春の川なみ
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あくまで鎌倉を思い起こします。やはりもっと鎌倉を見ておかないとならないなあ。
 2月22日(日曜)19:00時よりの京都「ケーズバ」という飲み屋での会合と飲み会のお誘いがきました。私の昔の友人から(彼は昔の赤軍派です)のお誘いなのです。私は行きたいのですが、また無理です。行って、鎌倉のことも実朝のことも語りたいです。
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六一七 恋しとも思はでいかが久かたのあまてる神も空に知らむ

     神祈歌中に
六一八 いにしへの神代のかげぞのこりける天の岩戸のあけがたの月

六一九 月さゆるみもすそ河の底清みいづれの代にか澄みはじめけむ

六二〇 八百万(やほよろづ)よもの神たちのあつまれり高まの原にきし高くして

六二一 男山神にぞぬさを手向つる八百万代も君がまにまに
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 八百万(やほよろづ)という言葉にこの日本の神々を思います。でもこの神々は実朝が殺されることを防いではくれませんでした。何故なのかなあ。どうしても実朝が亡くなりましたのは若すぎます。まだ28歳なのです。どうしても悔しいです。
 源家という貴族は好きになれません。思えば「紫式部『源氏物語』」の光源氏も源家なのですね。武士であった多くの清和源氏の中で実朝だけは違って私には思えます。私は実朝が好きなのです。でも悲しくてたまりません。私の好きな平将門を思い浮かべるときとは大きく違うのです。
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15021704
六一三 おく山の苔の衣におく露はなみだの雨のしづくなりけり

六一四 すずかけの苔おりぎぬのふり衣おくもこのもときつゝ馴れけむ

六一五 いくかへり行来(ゆきき)の嶺のみそかくだすずかけ衣きつゝ馴れけむ

     伊勢御遷宮の年の歌
六一六 神風や朝日の宮の宮遷かげのどかなる世にこそ有りけれ

     健保六年十一月素○法師干時○行下総国に侍し
比(ころ)のぼるべきよし申つかはすとて
六一七 恋しとも思はでいかが久かたのあまてる神も空に知(しる)らむ
15021705
 またこうして、『金槐和歌集』です。こうして実朝は鎌倉を歌っていきます。これでも思います。源家という貴族は鎌倉武士団にとっては不可解に思えてしまうものだったのでしょうね。父頼朝では、かろうじて「源家という貴族」は保てました。でもこの実朝では、鎌倉武士団は実朝と『金槐和歌集』では、どうにもならない存在なのです。
 思えばそれがあの銀杏の下(もと)での出来事になるのでしょうね。兄頼家では鎌倉武士団とはあわせられなかったのです。実朝は兄とは違い懸命に努力してきたのでしたが、結果はあの出来事になりました。15021706
 だがこの『金槐和歌集』が残ったのです。

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     秋のころいひなれたる人のものへまかりしに便りにつけて文などつかはすとて
六〇九 うはの空に見し面影を思ひ出(いで)月になれにし秋ぞこひしき

六一〇 思ひ出(いで)よ見し世はよそに成りぬともありし名残の有明の月

     忍びていひわたる人ありき遥(はるか)なるかたへゆかむといひ侍しかば
六一一 ゆひそめて馴れしたぶさの濃紫(こむらさき)思はず今もあさかりきとは

     遠き国へまかれし人のもとより見せばや袖のなど申おこせたりし返事に
六一二 我ゆゑにぬるゝにはあらじ唐衣山路の苔に露にぞ有(あり)ける

     法限定詩の忍にあひて侍しとき大峯の物語などをしいへるを聞てのちによめる
六一三 おく山の苔の衣におく露はなみだの雨のしづくなりけり
15021525
 鎌倉で「苔」は前は思いあたらなかったのですが、前にテレビでその鎌倉の苔を見せてくれたことがあり、それでいくらでも思い出すのです。そうですね。あれだけお寺があるのだから、苔もいくらでも思い浮かぶのですね。実朝が見た苔も私も見ているのですね。
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15021601
     ちかうつかふ女房とほき国に罷らむとていとま申侍しかば
六〇四 山とほみ雲ゐに雁の越えていなば我のみひとりねにやなからむ

     遠国へまかれりし人八月ばかりには帰まゐるべきよしを申て九月まで見えざりしかば彼の人のもとにつかはし侍し
六〇五 こむしもたのめぬうはの空にだに秋風ふけば雁は来にけり

六〇六 今来むとたのめし人は見えなくに秋風寒み雁は来にけり

     素○法師物へまかり侍けるにつかわしける
六〇七 奥津波(おきつなみ)八十島(やそしま)かけてすむ千鳥心ひとつといふかヾたのまぬ

     返し
六〇八 浜千鳥八十島かけてかよふともすみこし浦をいかヾ忘れむ
15021602
 もう虫眼鏡(先日買いましたものが見つからないので、古いのを使います)で文庫と漢字林を見て、でも見つけられません。もうこうしたことばかりです。実朝に言いたい。もう私はじいじなのだから、もうこういう難しい字は使わないでください(実朝のせいではないのですが)。もうそれで莫大な時間を費やしています。
 実朝の短歌を読むのには、歌を詠む前に時間だけがかかっています。
15021603

15021532
五九九 都べに夢にもゆかむ便(たより)あらばうつの山風吹もつたへよ

六〇〇 都より吹きこむ風の君ならば忘るなとだに言はしまし物を

六〇一 うちたえて思ばかりはいわねども便につけて尋ぬばかりぞ

六〇二 岩ねふみいくへの峯を越ぬとも思ひを出(いで)む心へだつな

     五月の頃みちの国へまかれし人のもとに扇(あらぎ)などつかわし侍し中に時鳥の書きつけ侍り
六〇三 たち別いなばの山の時鳥まつと告げこせ帰りくるがに
15021533
 実は私がポポにもらったポケットティシュは前に私があげたものです。でも私は嬉しいのです。もう早速使っています。そして「じいじは使ったよ。ありがとう」と伝えるのです。
 でもこうして実朝の歌を詠んでいきます。いいです。いつも読んでいきまして、孫にもお喋りしていきます。孫はまったく分からないでしょうが。
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15021519
     二所に詣たりし還向(げかう)に春雨のいたく振れりしかば
五九四 春雨にうちそぼちつゝ足曳(あしびき)の山路(ぢ)ゆくらむ山人やたれ

五九五 春雨はいたくな振りそ旅人の道行衣ぬれもこそすれ

五九六 旅をゆきし跡の宿守おれおれにわたくしあれや今朝はまだこぬ

     ある人みやこの方へのぼり侍りしにたよりにつけて読みてつかわす
五九七 夜を寒み独寝覚(ひとりねざめ)の床さえて我衣手に露ぞおきける

五九八 かゝる折もありけるものを手枕(たまくら)のひまもる風を何いとひけむ

15021901
こうして春になるのです。今の私と同じです。私も鎌倉を歩く実朝を思います。春雨を見てまだ寒いけれど、春を感じられるのですね。
 ここのティシュペーパーは昨日ばあばが持ってきてくれました。ポポが私じいじにくれたのですね。私は嬉しくて電話しました。もう私はたまらなく可愛いです。
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 私はまた鎌倉のあの銀杏の下で実朝と会話してきます。

15021516
 いつもこれをUPして、始まるという思いです。今は「源実朝『金槐和歌集』」も書いていて始まるのですが、今日はまだ書いていないのですね。

2015/02/16 07:35もうこの時間なのです。
 先ほどおはぎから電話がかかってきて、ポポがお熱があるということで、おはぎが医院へつれて行きまして、ばあばも行きまして、帰ってきたポポを見ます。ポコ汰は学校へ行き、ポニョも保育園へ行きます。
 私は少しも役にたたないのですね。

2015/02/17 02:29また0時に起きました。そして「将門Web」と「周の掲示板」はUPしました。
 ポポのお熱はどうかなあ。
 昨日夕方おはぎの家に電話しまして、ポコ汰とポニョとポポとお話しました。ポポはお熱があるはずなのに、電話では元気にお喋りしてくれました。
2015/02/17 05:17今はリビングです。いつもテレビは聴いています。
2015/02/17 05:53○(名前が分からない。17歳の女性タレント)が「ニラが好きだ」といいまして、驚いたものです。私もニラは好きですが、こんなに口にだしてまでいうものなのかな。
2015/02/17 19:00今テレビを見始めました。15021517
2015/02/17 20:37今日はばあばが職場の飲み会なので、私は一人です。おはぎの家へ電話したら(2時間くらい前)、ポポがまだお熱が下がらないのです。

2015/02/18 04:59もうチラシも日経産業新聞も日経MJも日経新聞も読みました。もちろん、この順に読んでいます。15021518
 昨日の地震はものすごく三陸地方が心配でした。でもそれほどのことがなくて良かったです。ホットしました。


 そうだな。確定申告もやらないといけないのだ。

15021512
五八九 まれに来て聞くだにかなし山がつの苔の庵(いほり)の庭の松風

五九〇 まれに来て稀に宿かる人もあらじあわれとおもへ庭の松風

     相模川といふ川あり月さし出(いで)てのち舟にのりてわたるとて
五九一 夕月夜(づくよ)さすや川瀬の水馴(なれ)棹(ざを)なれてもうとき波の音かな

     あさぼらけ八重のしほぢ霞わたりて空もひとつに見え侍りしかば
五九二 空や海うみや空とも見えわかぬ霞も波もたちみちにつゝ

     箱根の山をうち出(いで)て見れば浪のよる小島あり、供の者に此うらの名を知るやと尋ねしかば、伊豆のうみとなむ申(まうす)と答(こたへ)侍しをきゝて
五九三 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
15021513
 この五九三の「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ」を私は高校2年の3月(1966年のことでした)に言ったものでした。高校の国語の教師が、「これが実朝の万葉調の歌だ。実朝は海を見て雄々しく歌っている」というのに、激しく異論を言い出しました。「実朝は沖の小島をさみしい思いで見ているのだ。沖の小島は母政子であり、そこに波が寄せてもむなしくくだけてしまうのだ」と言いましたものでした。 今もそう思うのです。母政子は、「それでも私はこの鎌倉武士団のための幕府が大事なのだ」と心の中で言ったに違いありません。
15021514

15021509
     キ中雪
五八四 旅衣夜半(よは)の片しきさえさえて野中の庵に雪ふりにけり

五八五 あふ関の山みち越(こえ)わびきぬきのふもけふも雪しつもれば

五八六 雪ふりて跡ははかなく絶えぬとも越の山みちやまず通はむ

     屏風の絵に山中に雪ふれる所に旅人数多(あまた)かける所を
五八七 かたしきの衣手いたくさえわびぬ雪ふかき夜の嶺の松風

五八八 あかつきの夢の枕に雪つもり我がねざめ訪(と)みねの松風
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 こうして鎌倉にふる雪を思い浮かべます。実朝は寂しかったのです。鎌倉は妻も母も実朝を迎えてはくれません。実朝の最後の歌とされる「出テイナバ主ナキ宿ト成リヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ」(正確にはこれは実朝が作ったものではないでしょう)を思います。源家の頭領としての実朝、鎌倉で独りの実朝を思います。源家という貴族をむかいいれてくれない鎌倉武士団を悲しくも寂しくも感じていたはずです。
 そんなときに藤原定家が「小倉百人一首」に載せてくれるという便りにはとても喜んだはずです。だがそれを頼朝に報告に行こうとして、最後の悲劇が訪れるのです。
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15021406
     旅宿月
五七九 独(ひとり)ふす草の枕の露の上に知らぬ野原の月を見るかな

五八〇 岩がねの苔の枕に露おきていく夜(よ)み山の月に寝ぬらむ

     旅宿時雨
五八一 旅の空なれぬ埴生の夜のとこわびししきまでに洩る時雨かな

     旅宿霜
五八二 袖枕霜おく床の苔の上に明かすばかりのさよの中山

五八三 しなが鳥ゐな野の原の笹枕まくらの霜ややどる月影
15021407
 これを読みおわったら、少しはこの私も実朝の思いが分るかなあ。ただ藤原定家は私より実朝の思いには迫れていたろうな。なんだか私の情けない思いを感じるばかりです。少なくとも実朝のいうことだけは理解したい思いです。それでさらにもっと分っていきたいです。
 ただ私は、今までは漢詩のほうが、この日本でも上な表現行為のように思い込んでいました。でも短歌がよく理解できました。けっして短歌もいいのです。そのことに、この「源実朝『金槐和歌集』」は気がつくことを教えてくれました。
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15021529
五七四 野辺わけぬ袖だに露はおくものをただ此ごろの秋の夕暮

五七五 旅衣うらがなしかる夕ぐれのすそ野の露に秋風ぞ吹く

     キ中鹿
五七六 旅衣すそ野の露にうらぶれてひも夕風に鹿ぞ鳴なる

五七七 秋もはやすゑのはら野に鳴鹿の声きくときぞ旅はかなしき

五七八 ひとりふす草の枕のよるの露は友なき鹿の涙なりけり
15021530
 こうして「巻之下」になっても私にはどうしてもまだ「源実朝『金槐和歌集』」が分ったとは思えません。あんなに鎌倉の路も歩いている私なのになあ、と思うばかりです。多分今の世に実朝がいてくれたら、そして私とインターネットを通じて会話できたのなら、いっぱいのことを語るでしょう。あんなに厳しい鎌倉武士団のことを言うのではなく、インターネットもパソコンのこともいっぱい語れることだと私は思っています。
15021531

15021501
五六九 東路のさやの中山こえていなばいとど都や遠ざかりなむ

     旅泊
五七〇 みなと風いたくな吹そしなが鳥猪名(ゐな)の湖舟とむるまで

五七一 やらのさき月影さむし沖つ鳥鴨という舟うき寝すらしも

     舟
五七二 世中(よのなか)は常にもがもな渚こぐ海人の小舟(をぶね)の綱手かなしも

     キ中夕露
五七三 露しげみならはぬ野辺のかり衣比(ころ)しもかなし秋の夕暮
15021502
 やはり百人一首で選ばれた「世中(よのなか)は常にもがもな渚こぐ海人の小舟(をぶね)の綱手かなしも」はいいです。孫たちとこの家で百人一首をやったときに(孫たちは「坊主めくり」をやっていましたが)、偶然私の手にこのカードがありまして、私は「これは実朝の歌なんだよ」と解説したのですが、分ってくれたかなあ。
 今はテレビを見ていました。
15021503

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     旅の心を
五六四 玉鉾(たまほこ)のみちは遠くもあらなくに旅とし思へばわびしかりけり

五六五 草枕旅にしあれば妹に恋ひ覚むるまをなみ夢さへ見えず

五六六 草枕旅にしあればかりごもの思ひみだれていこそ寝られる

五六七 旅衣袂かたしきこよひもや草の枕にやどる月影

五六八 東路(あづまじ)のさやの中山こえていなばいとヾ都や遠ざかりなむ

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「草枕」という言葉が三つの歌で詠まれていて、「そうだ、こんなところで漱石を思い出すのだ」という思いです。また漱石は偉大だな」とばかり思います。
「妹に恋ひ」でどんな恋をしたのだろうか。そもそもどんな女性を恋したのだろうか。鎌倉を歩いてみてもその答えは私にはとけないだろうな。
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     神無月の比(ころ)人のもとに
五五八 時雨のみふるの神杉ふりぬれどいかにせむとか色のつれなき

     たのめたる人に
五五九 待宵のふけゆくだにもあるものを月さへあやな傾(かたぶ)きにけり

五六〇 小篠原(こざさはら)おく露寒み秋されば松虫のねになかぬ夜ぞなき

     ある人のもとに遣はし侍し
五六二 秋の田の穂の上にすがくさゝがにの糸わればかり物は思はじ

五六二 雁のゐる羽風にさわぐ秋の田の思ひみだれてほにぞ出(いで)ぬる

五六三 難波潟みぎはの蘆のいつまでか穂に出(いで)も秋をいのばむ
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 これでやっと「巻之中」が終わりました。いつもこれを書きながら、実朝はこうしてよく鎌倉の自然を見ていることが分かります。私ではこれほどみていませんね。
 鎌倉でも、私が長く住んだ我孫子でも、この王子でも、孫のいる上中里でも君津でも私は目に入るはずなのに、見ていないのですね。もう反省して、よく注意して歩いていきましょう。15021402

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五五三 宿は荒てふるきみ山の松にのみ訪ふべきものと風の吹くらむ

五五四 荒にけりたのめてし宿は草の原露の軒端に松虫の鳴く

五五五 風はあれて宿は朽にし跡なれや浅茅が露に松むしの鳴く

     契むなしくなれるこゝろを
五五六 契けむこれや昔の宿ならむ浅茅が原にうづら鳴くなり

     今も見てしが山がつといふことを
五五七 山賊(がつ)のかきほに咲るなでしこの花の心を知る人になき

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 こうして今朝も実朝の歌を詠みます。藤原定家がこれらを読みながら、「さすが源家の頭領だ」と思ったものだろうな。「父の頼朝や兄の頼家とは違う」とも感じただろうな。
 昨日ちくま文庫の「吉本隆明『実朝』」が来ました。これには吉本隆明さんの「文庫本によせて」という文が付け加えられています。またほかにも付け加えられた文もあります。
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  そういえば、昔桶谷秀明もこの本の出版を知って驚いたことをいっていました。もっと源実朝の心をしるべきなのです。吉本隆明さんを知るべきなのです。

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五四八 真菰生(お)ふる淀の澤水水草(みくさ)ゐて影し見えねばとふ人もなし

     海邊恋
五四九 うき身のみ雄島の海士のぬれ衣ぬるとないひそ朽果つるとも

     故郷恋
五五〇 故郷の杉屋のひまをあらみ行あはでのみ年の経ぬらむ

五五一 草ふかみさしも荒れたる宿なるを露をかたみに尋にしかな

五五二 しのぶ草忍び忍びにおく露を人こそとはね宿はふりにき
15021204
 いつも「どうして実朝はこうして目の前を見ているのだろう」とばかり思います。そしてこうして和歌で表現することに驚くばかりなのです。私だと江戸時代にいくつもの資料で漢詩を作っていった武士の少年たちがよく分かります。
 ただあの鎌倉でこうして和歌を作ることは今の私には脅威的です。江戸時代の武士の少年たちのように作詩することは私にも可能だったことでしょう。でも実朝のように短歌を生み出すことは私にはできないような気がします。
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五四三 あふ事のなき名をたつの市によるかねて物おもふ我身なりけり

     人々歌よみしに寄衣恋
五四四 忘らるゝ身はうらぶれぬ唐衣きてもたちにし名こそ惜けれ

     寄兼恋
五四五 津の国のこやのまろやの蘆すだれまどほに成ぬ行(ゆき)あはずして

     寄物語恋
五四六 別(わかれ)にし昔は露かあさぢ原跡なる野べにあき風ぞ吹く

     水辺恋
五四七 みしま江や玉江の真菰(まこも)水隠(みがく)れて目にし見えねば刈る人もなし
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 こうしてただただ実朝の歌を詠んでいきます。思い出せば、実朝は一時宋に渡ろうとして船を造るのです。でもそれは何故か浮かんでも進んではくれないのです。私はいつも鎌倉の海ではこのことを考えてきました。ボートセーリングの上でもいつもこの時の実朝の気持を思いました。
 思えば、そうしたときの実朝の寂しい気持を藤原定家だけが、少しは理解してくれたのかなあ。母政子は分かってくれたのかなあ。私は実は母は分かっていたと思いたいのです。
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     寄七夕恋
五三八 七夕にあらぬ我身のなぞもかく年に稀なる人を待つらむ

     寄雁恋
五三九 忍びあまり恋しき時は天の原空飛ぶ雁のねに鳴ぬべし

五四〇 雲がくれ鳴て行(ゆく)初雁のはつかに見ても人は恋しき

     寄鹿恋
五四一 秋の野に朝ぎりがくれなく鹿のほのかにのみや聞ゝ渡りなむ

     寄金恋
五四二 金ほるみちのく山にたつ民の命もしらぬ恋もするかな
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「恋之部」なのだが、どうしても実朝の恋は想像できません。思えばこの『金槐和歌集』の歌だけだものなあ。ただこうしてこの歌集を読めて私は嬉しいです。私は和歌というものが、これだけ素晴らしいものだということが始めて分かりました。漢詩に負けないだけのものを和歌は持っています。そのことが分かって私はとても嬉しいです。
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五三三 秋はぎの花野薄露をおもみおのれしほれて穂にや出(いで)なむ

     寄薄恋
五三四 待人はこぬものゆゑに花薄ほに出(いで)ねたき恋ひもするかな

     寄○来恋
五三五 なでしこの花におきゐる朝露のたまさかにだに心へだつな

     寄薄恋
五三六 花により人の心は初霜のおきあへず色のかはるなりけり

五三七 消えかへりあるかなきかに物ぞ思ふうつろふ秋の花の上の霜
15020710

 五二三の「寄○来恋」の○の部分の漢字が出せないのです。「鸛」の左側だけだと分かるのですが(私は大きな虫めがねと漢字林を見て大変です)、でも画面に出せないのです。困り果てていますね。
 この虫めがねはこの通り21センチの大きなものです。もう老眼なのですね。
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 思えば、実朝に比べて長く生きすぎているのかなあ。

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     寄月恋
五二八 時鳥(ほととぎす)なくや五月(さつき)のさ月あめのはずれもの思ふ頃にも有かな

五二九 時鳥(ほととぎす)なく五月(さつき)の卯の花のうきことの葉のしげきころかな

五三〇 郭公(ほととぎす)待夜(まつよ)ながらの五月雨(さみだれ)にしげきあやめのねにぞなくなる

     寄露恋
六三一 色をだに袖よりつたふ下萩のしのびし秋の野べの夕露

六三二 我袖の涙にもあらぬ露にだに萩の下葉は色に出(いで)にけり
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 こうして時鳥(ほととぎす)と郭公(ほととぎす)と実朝は詠っています。思い出せば私の我孫子の父の家の庭にもこの鳥は来ていましたね。それに五月(さつき)、五月雨(さみだれ)と使い分けています。そうなのだなあ。実際にこうした鳥を見ていたわけだ。 思い出せば、貴重な経験ができていたのだなあ。そばにビッグカメラがありながら(柏駅前にあります)、こうした自然も味わえるのですね。
 こうした自然を見られる、いやそれは我孫子だけでなく、この王子でも長女の住む上中里でも次女の住む君津でも見られることなのだ。四人の孫たちにも言っていこう。「ほら小鳥もそばで見られるのだよ」と。15020904

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     寄月恋
五二三 数ならぬ身はうき雲のよそながら哀とぞ思ふ秋の夜の月

五二四 月影もさやには見えずかきくらす心のやみの晴れしやらねば

     寄雲恋
五二五 白雲のきえは消(きえ)なでなにしかも立田の山の名のみ立つらむ

     寄雲恋
五二六 あだし野の葛のうら吹(ふく)秋風の目にし見えねば知る人もなし

五二七 から衣裾あはぬつまに吹(ふく)風の目にこそ見えね身にはしみけり

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 前にも書いたのですが、これで「恋之部」というのですが、実朝はどういう恋をしているのだろう。どうしても実朝は孤独に思えてしまいます。いくつも私の口から思い出せる実朝の歌が実に寂しく孤独なのですね。母政子がそんな実朝を分かってくれればいいのだけど、どうなのだろうか。15020813

15020801
五一八 待て都市もたのめぬ人の葛(くず)の葉もあだなる風を恨やはせむ

     寄月待人
五一九 忍ぶれば苦しきものを山の葉にさし出る月の影に見えなむ

五二〇 恨わび待たじと思ふゆうべだになほ山のはに月は出(いで)にけり

五二一 待てとしもたのめぬ山も月は出(いで)ぬいひしばかりの夕ぐれの空

     月前恋
五二二 我袖におぼえず月ぞ宿りけるとふ人あらばいかヾ答えへむ
15020802
 いつも歌を読みながら、「これはどういう状態のことをいうのか」と考えています。私には難しいのですね。私以上に鎌倉武士団には違和感ばかりだったでしょう。藤原定家がいてくれて本当に良かったです。いや私は彼が編纂した「新古今和歌集」も読むつもりで、すぐそばに置いてあります。
15020811

15020809
     人々歌よみしに経年待恋といふ事を人々におほせてつかうまつらせ次(ついで)に
五一三 故郷のあさぢが露にむすぼゝれひとり鳴(なく)虫の人をうらむる

     待恋の心をよめる
五一四 さ筵(むしろ)にひとり空しく年も経(へ)ぬよるの衣のすそあはずして

五一五 さ筵にいく世の秋を忍(しのび)きね今はたおなじ宇治の橋姫

五一六 こぬ人をかならずまつとなけれど暁がたになりやしぬらむ

五一七 みちのくの真野のかや原かりにだにこぬ人をのみ待(まつ)が苦しき

15020810
 こうしていくつも恋という言葉が出てきます。実朝はどんな恋をしたのでしょうか。でもそのことはどうしても分からないなあ。ダンテやゲーテは自分の恋のことでいくつも言葉を書いていますが、実朝の恋は私には私には分からないのです。
 実朝の正妻は坊門信子です。この人は実朝の死後京都へ帰っています。承久の乱で兄は鎌倉幕府と戦い、でも敗れたのですが、この信子によって死罪は免れています。
 思えば、実朝はこの『金槐和歌集』があってのみ今に伝わるものがあるのですね。私は今「源実朝」の印鑑を見て、それを印字してもうまくいかないので、いらいらしています。でももうこの画像で行きます。
15020815

15020612
 なんとなく、自分がやる気が起きてこないことを感じています。

2015/02/06 04:12こうしてまたリビングでポメラに向かっています。
2015/02/06 05:01こうしてこのポメラを書いています。「源実朝『金槐和歌集』」はいくつもUPしました。
2015/02/06 05:45あと15分で6時になるのです。ああ、今日は孫たちに会いたいな。いえ私は毎日会いたいのですが、我慢しているつもりなのです。
2015/02/06 17:48いろいろといくつものことをやっています。思えば実にいろんなことがあるのですね。

2015/02/07 06:20もうすぐ6時30分を回りますね。
2015/02/07 12:18もう昼食の時間になりました。今は私の目の前に焼きそばが出てきました。
2015/02/07 18:33もう夕食の時間です。15020613
2015/02/08 03:55こうしてリビングに来ました。もう「将門Web」と「周の掲示板」にはUPしました。それぞれ2つづつUPしました。
2015/02/08 04:17何か書いていられないですね。
 思うのですが、前にはこのポメラもいくらでも書ける感じだったのですが、今は書けない自分を感じています。駄目な私なのですね。
 でもこの事態を何とかしなくちゃいけないなあ。
15020614
 ああ、なんとかしなくちゃいけないですね。

15020803
     会不逢恋
五〇八 今更になにをか忍ぶ花すゝき穂に出(いで)し秋も誰ならなくに

     夏恋
五〇九 五月やま木(こ)の下(した)やみのくらければおのれまどひてなく郭公(ほととぎす)

     冬恋
五一〇 庭の面(おも)にしげにけらし八重葎(むぐら)とはでいく世の秋か経ぬらむ

五一一 浅茅原跡なき野辺におく霜の結ぼゝれつゝ消(きえ)やらむ

五一二 あさぢ原あだなる霜の結ぼゝれ日かげを待(まつ)に消えやわたらむ

15020804
 いくつもの字がポメラでは書けません。それでパソコンで書きまして、ポメラで登録しています。けっこう大変な作業です。ポメラが私のパソコンの漢字かな変換と連動してくれればものすごく助かるのですが、こればかりは仕方ないでしょうね。
 とにかくやっていきます。あの鎌倉時代にこの『金槐和歌集』を鎌倉の地で書くことも実に大変なことだったはずです。15020805
 ただ実朝は実にいいものを残してくれました。私は感謝するばかりです。

15020609
     久恋
五〇三 わが恋は逢はでふる野の小篠原(をざきはら)いくよまでとか霜のおくらむ

     暁恋
五〇四 暁の鴫(しぎ)の羽掻(はねがき)しげゝれどなど逢ふことの間(ま)遠(どほ)なるなむ

五〇五 あかつきの露やいかなる露ならむおきてし行(ゆけ)ばわびしかりけり

五〇六 さ筵(むしろ)に露のはかなくおきていなば暁ごとに消えやわたらむ

     山家後朝恋
五〇七 消(きえ)なまし今朝たづねずば山城の人こぬ宿の道芝の露
15020610
 実朝は公暁に殺されて源家は三代で終わるわけです。その後鎌倉将軍は藤原氏、皇族と続くわけです。そしてこの将軍と執権は争い続けるわけですが、ここでは執権が北条時宗、貞時のときの「霜月騒動」(平禅門の乱)を見てみます。
 北条家の家臣であった平頼綱(平禅門、1241年〜1293年5月29日)が乱を起こします。実は平頼綱はほぼ幕府を掌中に収めるところだったのですが、北条貞時のときに執権側がかろうじて自らを守りきり、平頼綱を死においやります。15020611
けっして、鎌倉幕府北条執権政府も磐石ではなかったのです。
 実朝はそういう鎌倉幕府のことも予想していたのかな。いや予想はできなくても、そうした鎌倉だったのです。

15020609
     寄沼忍恋
四九八 かくれぬの下はふ蘆のみごもりに我ぞ物おもふ行くしらねば

     寄草忍恋
四九九 我恋は夏野の薄しげけれどほにしあればとふ人もなし

五〇〇 秋風になびく薄のほにはいでず心みだれて物をおもふかな

     忍恋
五〇一 時雨ふる秋の山べにおく霜の色にはいでじいろにいづとも

五〇二 時雨ふる大あらき野の小篠崎ぬれはひづとも色に出(いで)めや
15020610
 この「源実朝『金槐和歌集』」を読んでみて、この「巻之中」の「恋之部」がどうしても私には分からないのです。実朝はどんな娘にどんな恋をしたのだろうか。そしてこれを藤原定家に提出しているのです。
 そして右大臣となってそれを鶴岡八幡宮に報告に行きまして、公暁に殺されるのです。「公暁ドノ、何故ソナタハ私ヲ刺シタノカ」という実朝の言葉が実に悲しいです。将軍は実朝のあとは源家ではなく、藤原氏の貴公子がなることに決まっていました(でもずっとそのあとも執権と将軍は争い続けるのですが)。別にここで実朝を殺さなくてもいいのじゃないか。でもこれが鎌倉武士団の怖さなのです。
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