将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:爾靈山

2017032820 私はこのUPで、

彼の漢詩も好きで、今まで何度も詠ってきたものです。X12121402

と書いて、私のこのブログ内に私がUPした、乃木希典の漢詩をリンクするつもりでしたが、その時間がないままおはぎの家へ歩いて行きました。
私は乃木さんの詩を思い浮かべて、心の中で暗誦しながら歩いて行ったものです。

乃木希典「旅順をめぐる三つの詩」

でも私が書いていますはずの『乃木希典「詠富嶽」』は私の中で、七言絶句全体が浮かんできません。私はかなり焦りました。「こんなこことで、俺は乃木希典を好きだなんて言えるのか」と、
この「乃木希典『詠富嶽』」については、私は乃木希典「詠富嶽」のことで書いています。
それでここで改めて、乃木希典の四つの詩をここに書きます。

     金州城下作   乃木希典
山川草木轉荒涼  山川草木転(うたた)荒涼
十里風腥新戰場 十里風腥し新戦場
征馬不前人不語 征馬前まず人語らず
金州城外立斜陽 金州城外斜陽に立つ

    爾靈山   乃木希典
  爾靈山嶮豈攀難 爾霊山(にれいざん)は嶮なれども豈(あに)攀難(よじがた)からんや
  男子功名期克艱 男子の功名克艱を期す
  鐵血覆山山形改 鉄血山を覆いて山形改まる
  萬人齊仰爾靈山 万人斉しく仰ぐ爾霊山

凱旋      乃木希典
皇師百萬征強虜 皇師百万強虜を征す
野戰攻城屍作山 野戦攻城屍山を作す
愧我何顔看父老 愧ず我何の顔(かんばせ)ありて父老に看(ま)みえん
凱歌今日幾人還 凱歌今日幾人か還る

詠富嶽     乃木希典
崚曾富嶽聳千秋 崚曾(りょうそう)たる富岳 千秋に聳え
赫灼朝暉照八洲 赫灼(かくしゃく)たる朝暉 八洲を照す
休説區區風物美 説くを休めよ 区区風物の美を
地靈人傑是神州 地霊人傑 是れ神州

「乃木希典『金州城』」については、中国の郭沫若(私は「郭沫若『十批判書』」を書いています)は、「日本人の作った漢詩の中で最高のものである」と言っています。X12121403
   漢詩は韻を踏むということがあり、また平仄には「二四同じからず、二六同じ」という規則があるために、日本人には大変に作詞しがたいものです。夏目漱石の漢詩は中国人の詩のプロから見ても美しいもののようです。この乃木希典もまったく同じなのです。

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11081709  乃木希典のこととなるといろいろと話したいことがあります。旅順攻防戦のこと、明治天皇への殉死のこと、昭和天皇への教育のこと、それに彼の作った漢詩のことなどです。ここでは日露戦争における旅順攻城戦に関する彼の三つの詩を見てみたいと思います。

彼は日露の開戦で第三軍の総指揮官に任命されました。彼は休職の身だったのですが復職の命令をうけそれに従うことになります。旅順はロシア太平洋艦隊の基地でした。日清戦争ではたつた一日で陥落させた旅順をまた簡単に落とせると日本は考えていました。しかし最初の南山の戦いは攻略終るまで一四時間かかりました。しかも予想を越える死傷者の数です。大本営もその死傷者の多さに誤報ではないのかと問い合わせてきたといいます。この南山の戦いで乃木は長男勝典(かつすけ)を亡くします。この勝典の墓標の前で作ったのが以下の詩です。

    金州城下作   乃木希典
山川草木轉荒涼  山川草木転(うたた)荒涼
十里風腥新戰場 十里風腥し新戦場
征馬不前人不語 征馬前(すす)まず人語らず
金州城外立斜陽 金州城外斜陽に立つ

金州城外の山川も草木も悉く荒れ果てて実にさびしい限りである
十里に渡る戦場は風もまだ血臭い
   この酸鼻の極まりを眼の前にして、馬は進まず自らも声が出ない
   金州城外に夕日をあびて立ちなお暫く感慨無量であつた

この詩は郭沫若が「日本人の作った漢詩中の最高傑作である」と激賞しています。たしかに見事な詩だと思います。私は昔いろいろな漢詩の平仄と韻を詳細に調べたことがあるのですが、乃木の詩はきわめて原則に忠実に作られています。逆に李白なんか驚くくらい自由奔放に作詩しているところがあります。いつかまた「周の漢詩作成講座」とか称して、この漢詩の構造を見てみたいなと思うのですが、中国人ではない乃木が戦場でどのように平仄(ひょうそく)など使い分けられたのでしょうか。

しかし南山の苦しい戦いがこの旅順要塞攻略戦のほんのほんの最初でした。それから苦しく困難な戦いが続くことになります。
戦いの詳細はここでは述べませんが、やがて旅順を攻略するのには二〇三高地を落とし、そこから旅順残存艦隊を攻撃しようということになります。だがこの二〇三高地をめぐる戦闘も激しく死骸の山をきずく戦いでした。

爾靈山    乃木希典
爾靈山嶮豈攀難 爾霊山(註1)は嶮なれども豈攀難からんや
男子功名期克艱 男子の功名克艱を期す
鐵血覆山山形改 鉄血山を覆いて山形改まる
萬人齊仰爾靈山 万人斉しく仰ぐ爾霊山

(註1)爾霊山(にれいざん)二〇三高地のこと

二〇三高地は難攻不落といわれているがどうして攻め上れないこ
とがあろうか
男子たるもの功名を為すには艱難辛苦を打破しなけらばならない
たくさんの兵士たちの熱血で山の形も変わるかと思われるほどで
あった
世人は永遠に爾霊山を仰いで尊い英霊を弔うであろう

「鐵血覆山山形改」という詩句はまさしくそうだったと思われます。二〇三高地は日露両軍の血で埋まりました。ここでも次男保典(やすすけ)を失います。旅順開城後、乃木と第三軍はさらに満州の地に向い奉天大会戦に参加します。旅順を落とした勇猛な乃木軍団がくるというのはロシア軍にはかなりな脅威だったようです。

日露戦争が終って日本に凱旋したとき、他の将軍たちが華やかな馬車で意気揚々としているのにくらべ、愛馬にのった乃木はまるで敗戦将軍のような姿表情でした。この心境を表しているのが次の詩です。

凱旋     乃木希典
皇師百萬征強虜 皇師百万強虜を征す
野戰攻城屍作山 野戦攻城屍山を作す
愧我何顔看父老 愧ず我何の顔(かんばせ)ありて父老に看みえん
凱歌今日幾人還 凱歌今日幾人か還る

我が軍はロシア軍を征し
原野に戦い城を攻め屍は山をなす程であった
だがこうして帰ってきてもどうして兵士たちの老いた親たちに顔
をあわせられようか
凱歌に迎えられる中、生き帰ったものは僅かであり、ただただ面
目ないばかりである

ここらへんのところがいつまでも乃木が日本人に人気のあるところなのでしょう。だが日本陸軍は、乃木をただ無能な軍人として描きたかったようです。これは陸軍参謀本部編纂の「日本戦史」に明解に表れています。それをそのまま写してしまっているのが、司馬遼太郎他だと思います。しかし、庶民は乃木を「一人息子と泣いては済まぬ。二人亡くした方もある」と口ずさみ、共感を覚えていたようです。

乃木は明治天皇の死にあたって殉死します。その前に昭和天皇に帝王学とかいうことの最後のことばを伝えるのですが、この内容へは私はかなり興味が有り、またこのような内容ではないのかという推測があるのですが、それはまた別な話です。
乃木の辞世は以下の二首です。

神あかりあかりましぬる大君の
みあとはるかにをろかみまつる

うつし世を神さりまさしゝ大君の
みあとしたいて我はゆくなり

静子夫人の辞世です。

出てましてかへります日のなしときく
けふの御幸に逢うそかなしき

乃木はひとりで死ぬ気でした。どうしても静子夫人もついていきたいという。二人の子どもも亡くなって、一人で生きていきたいとは思わなかったのだということでしょう。この時くらい妻の言うことをきいてもいいのかもしれません。
殉死なんてアジア的な野蛮な風習なのかもしれません。だがこのときの乃木と静子夫人の気持は判る気がします。
だが判らなかったのは、軍部と国家官僚たちです。彼らは乃木の遺書を抹殺し、乃木は精神に異常をきたし自殺したということでかたずけようとします。ところが最初かけつけた警官が感動のあまりこの遺書のコピーを作っており、公表されることになりました。だがまだ野蛮であり、無責任だという非難が続きました。そのときに森鴎外と夏目漱石が一篇の小説を書きます。鴎外が「興津彌五衛門の遺書」、漱石が「こころ」です。これによってどうやら乃木の死は普通に悼まれるようになったかと思います。
乃木の詩はよく詩吟の世界では吟われます。私もよく詠うほうです。私の好きな吉本(吉本隆明)さんも愛国少年のころ吟ったようです。

1941年(昭和16年)16歳
4月半ば土曜日府立化工にて、電化全員出席の「弁論会」を開
く。第1回目、「現時局下に於ける日本の立場」という題で弁論。
最後に乃木希典「金州城外作」を吟ずる。この弁論会から機関誌
「和楽路」が生まれる。
(私が作成している「吉本隆明年譜」より)

でもいつも思うのですが、乃木さんは、戦場でも馬上でも漢和辞典とか「詩韻含英異同弁(しいんがんえいいどうべん)」(註2)とかもっていたのかな。

(註2)「詩韻含英異同弁」とは、日本人が漢詩をつくるときに使
用する辞書。漢詩を作るには、平仄と韻を踏むことが前提条件で
す。ところが中国人でない日本人には、音(おん)でそれを判断
することはできません。漢和辞典で1字ずつ、確認しなければな
らないのです。そこで韻を確認して、そこから詩句を比較的すみ
やかに作成しやすいようにできるのが、この辞典なのです。昔の
日本の知識人達の便利なフリーウェアみたいなものでしょうか。
私は和本と昭和三八年発行の松雲堂書店版で持っています。今も
神田の松雲堂へ行くと、手に入ります。

すらすらと漢詩が口から出てくるというのは考えられないのです。乃木さんの詩はどこをとっても、律儀に律儀に規則どおり作っていますから、あれが思うままに出てくるとは思えないのです。ただもちろんこのことは乃木さんの詩の価値をいささかも低めるものではありません。
おそらく、日本の漢詩人で、菅原道真、頼山陽などという人は、漢字ごとの平仄や韻はすらすらと判断して(つまりはすべてを暗記できていただろうと思います)、いつでも詩句が思い浮かんだと思います。その意味では、乃木さんも同じだったろうと思います。漢詩を作成しだすと、「仄音」の漢字はどれだと判断するのはそれほど難しいことではないようで、その「仄音」以外がすべて「平音」ですから、乃木さんが馬上であっても、詩文は口をついて出てくることはあると思うんです。
江戸時代の武士の子供たちは漢詩を作成するのが、一つの教養であり、勉強ですから、私たちが考えるよりは簡単に作成できたものであろうとは思います。とくに時代を経るにしたがって、漢詩作りのいわばアンチョコがたくさん出回ります。「詩語粋金」「幼学便覧」「幼学詩韻」等々という漢詩作りのさまざまな辞書というか「虎の巻」が出てきます。だから江戸時代の武士の子供の中には、「夜中に小便に立って、厠からそとを見ると、月が綺麗だった」というような、どうでもいいことまで七言絶句にしてしまうようなことすらできてしまいます。
ただ、そうだとはしても、頼山陽のように自らの才能をひけらかす乃木さんではありませんから、詩句は思い浮かんできたとしても、きっと夜深く、独りでそうした辞書で、平仄や韻を確認していて、その上で公表したのではと、私は想像するのです。あっと言わせるような詩句を使って読む人を驚かすのは李白とか頼山陽には得意なわざであっても、乃木さんにはただただ律儀に律儀に推敲作成している姿しか私には想像でできないのです。
私はこうした姿の乃木さんが好きなのです。(1998.11.01)

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