将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:王子野戦病院闘争

2017062602  実に懐かしく思い出します。あの時は私は大学1年生だったなあ。この時は2度目に来たものでした。柳田公園が集会場でした。1968年3月28日でした。あのときは三里塚闘争と交代で行ったものなのだなあ。上の画像は現在の野戦病院跡です。
2017062603続きを読む

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 私が毎日通ります柳田公園の桜です。最初の2つが3月28日の11時1分に撮りましたもので、次の2枚は31日の13時45分で、次の3枚は4月1日の16時46分のものです。
 中央にありました桜はなくなってしまいましたが、毎年ここの桜は実にいいものです。 私はここを通ると、はるかな昔の王子野戦病院闘争(1968年2月3月4月)を思い出しています。私の孫の三人もここを通ったものです(一番小さいポポは桜の季節は通っていない。じゅにも通っていないです)。
 また私は今日もここを通って桜の花を見ていくでしょう。14040101
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12090605 また書きます。
 周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ以下のコメントがありました。

2. Posted by 当時の芝浦生より   2012年09月05日 14:08
将門さんはじめまして。
朝に、大宮校舎内の寮生活者が起きるのはいつも遅かったのですが、ヘリコプターが上空を舞う音で起き、「事件」を知りました。
15日夜遅くに、バリケードから去るに当り、滝沢さんにお腹がすいたらインスタントラーメンをどうぞと言い伝え、大学講堂の椅子や机の細いトンネルをくぐり抜けドアを閉め最後に帰ったのが私です。
69年4月入学の私が運動には新入であり、生意気にも大学には境界はなく、どの大学も学生のために解放されてるなどと滝沢さんにも話をしました。
ラーメンの話をした時は座っていた滝沢さんは口頭では返事もせず、背筋を伸ばし、なにか考えごとをしてるようでした。

滝沢さんは、「これは美味しいパンだなあ」と丁寧な言葉で言ったことには、私は鮮明に記憶があります。

この文は心からわかるのです。温厚で心優しいお方との印象は今も忘れておりません。
窓下にたくさんの大宮の学生が花を供え黙祷しました。

12090608  ありがとうございます。私たちが「芝浦工大事件」と呼んできたものですね。あれは1969年9月19日早朝に起きた事件でした。
 前日9月18日に埼玉大学文理校舎のバリケードに、不審な黒ヘルメット姿の10名くらいが襲ってきました。そしてTという理工学部の男を拉致していきました。この不審な集団は言うことは早稲田の革マル派のようでした。でも真実は中核派が革マル派を装った姿でした。そしてこの日は早稲田の革マル派も、早稲田他の反戦連合が襲ってくるということで、構えていたといいます。
 要するに、みんな何かを構えていたのですが、それはみな誰かが流したガセ情報でした。でも事実は文理のバリケードにいた埼大生はこの不審な黒ヘル集団に襲われ中には怪我をしていたものもいます。
 私は当日北浦和のロビンという喫茶店で、東大闘争での埼大生の被告団会議をしていました。それで急遽この喫茶店への「早稲田の山本派(革マル派のこと)が襲ってきた。来てくれ」というので、急いで駆けつけたのです。このときの被告団の中の中核派のMさんは、埼大文理の正門で消えました(そのとき気がついたのでしょう。あとでMさんは、あくまでこの中核派の行動に反対していたということでした)。
12090609 私は埼大のバリケードに入って、現場の惨状を見るときに、「これは革マルなんかじゃない。学生運動というのはなんという恐ろしい世界だ」と思ったものです。私は8月20日に東大闘争で保釈になったばかりで、まだ1ケ月も過ぎていなかったのでした。
 当日はこのバリケード内にも中核派の諸君もいました。その中の一人が、滝沢さんが芝浦工大にいるということで、タクシーで訪れたのですが、滝沢さんは「Tのことは知らない」としか言わず、そしてとても眠たがっていたということが伝えられました。これは私たちは埼大文理学部ではなく、そこから徒歩15分くらいの経済学部で聞いたもものです。そのときには、私たちは、いわゆる反戦連合(とかいうのがあったそうだ)の部分だけでなく、中核派の人もその他の人も30人くらいになっていました。
 とにかく、拉致されたTを救出するのには、芝浦工大へいかなければならないということで、私たちはタクシーで東大宮の芝浦工大へ向かいました。行ったのは全部で23人でした。この中には中核派の人もいました。
 そしてそこで起きたのが滝沢さんが2階から飛び降りるという事態でした。そして彼は頭を打って亡くなるということになってしまいました。
 これで私たちは、内内ゲバ殺人事件の犯人とされ、12月9日に私は浦和地裁前で逮捕され、朝霞警察署に拘留されました。
 中核派で前日襲った部隊は外部大学の部隊ばかりで、滝沢紀昭さんのみがいたようです。このときの滝沢紀昭さんの気持は今は分かる気がします。

滝沢さんは、「これは美味しいパンだなあ」と丁寧な言葉で言ったこと

というのは、これは東大安田講堂の中でのことですが、私が東大に行く前に、王子から都電に乗る前に、王子の明治堂というパン屋で、パンをいくつも買って行ったのですが、ここは今の和弘さんのお父さんが現役で作られていたのです(もうお父さんは亡くなられました)。このときの私たち若者は、このお父さんにも大変に印象が強かったようです。
12090610 いえ、なんでそんなことを私が知っているかというと、のちにここの長女が私の彼女になったからです。あの頃はたくさんのことがいっぱい起きていたのでした。
 思えば、王子は王子野戦病院闘争からずっと訪れている街です。たくさんのことがあったものでしたね。王子柳田公園は今私が毎日通る路になっています。

 今年のお正月は、天気はいいし、私も体調もいいし、私の各クライアントも苦労しながらもなんとか切り抜けられそうだし………、それに珍しく昨年31日までに全部の年賀状を投函できたしと、なんだかいい気分でいたのですが、4日の夜に体調を壊してしまいました。5日は1日中寝ていました。電話かける元気もなくて、ただ寝ていました。本日もお休みしてしまいました。でも明日からは、またやりぬくぞと、だんだん気合いを入れています。
 4日は事務所へ出て、いろいろ整理して、神田明神に参りまして、そのあと友人のぱらむさんの会社へ行きまして、愉しく飲みまして、かつ次の日に、大事なことをやりぬこうとぱらむさんの提案で、それこそのりまして,さらに気合いが入っていたのですが、自分の事務所へ帰って、そのことばかり考えていまして、思えば、このときが良くなかった。暖房も入れずにいろいろなことをしていたもので、気がついたら夜の12時をすぎていまして、それであわてて帰りましたが、次の5日の朝にベッドから起きれない状態になりました。身体を冷やしすぎたようですね。もう年ですね。肉体が消耗すると、気持も駄目になってしまいます。
 私はいろいろな方から、「いつも元気ですね」と言われるのですが、いやはや、もう身体がなかなかいうことをききません。今回もよくよく考えると、年末はずっと眠らないでいましたから、それが身体を冷やしたことで、いっきに出てきたのかななんて思います。ただ、身体が弱ると、精神も萎縮してしまうので、まともに分析できません。

 1日はいつも母の実家へ行きます。ここへ弟の一族もきます。兄の娘も結婚していますが、子ども2人を連れてきます。それで今年は私の娘二人は大阪へ行っていましたから、少し寂しいのですが、でもにぎやかな元旦の風景です。私はただただ飲んでいます。ノートパソコンで、母に娘のホームページを見せたり、姪の4歳の子どもゆうちゃんと遊んだりして、実に愉しいときを過ごせました。姪の旦那も酒好きなので、私は少しは勢力が増えました。いつもは評判のいい弟(この男は酒を飲まない、テニスをやる)が、ゆうちゃんのパズルをもとに戻せなくなり(ええと、むかしのルービックキューブみたいなもので、私が買ってあげたのだ)、ゆうちゃんが泣き出して、評判を落としました。
 夜遅くなって、私の二人の娘が帰ってきまして、またお喋りして、朝4時すぎまで起きていました。それで2日は、また母の家に娘を連れていきまして、すぐに神田明神に初詣にいきます。私は神田明神には毎年2日に、家族親族の健康を祈りにいきまして、4日か5日には、私のクライアントや私自身の会社や友人の健康と繁栄を祈りにまいります。
 そういえば、2日は神田明神にお猿さんがいたな。ete1ete2ete3




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デジカメがあるといいですね。家族の写真もいくつか撮りました。そしてその足で妻の実家へ向かいます。ただし、娘二人は買い物に行くということで別れました。「あいつらは元気だな」と夫婦で言い合います。
 そうえいば、妻の両親は東京北区の王子に住んでいるのですが、王子の柳田公園を通りまして、その風景も撮りました。

 思えば、この柳田公園というのは、1968年2月3月の「王子野戦病院闘争」のときに、最初に各党派が集会を開いたところでした。もうまったくその面影はありません。ただ、ここを通るたびに、あの頃のことを思い出します。ou1
 この王子の妻の実家では、私は不思儀なほど眠りました。義父にノートパソコンで娘二人のホームページを見せたりして、酒を飲んでいるうちに眠ってしまいました。
 でもまた、3日になって帰宅して、またあんまり眠らないまま、4日になって、会社へ出かけてしまいました。
 4日の神田明神は、なんだか、太鼓を叩いているグループ(伝統芸能みたいだったな)がいて、そして暖かくていい雰囲気でした。
 そこで携帯電話がなって、ぱらむさんの会社へ行って、元気に飲み出したのは愉しく良かったのですが、早く帰宅すればよかった。その後、ぐずぐずといろんなことをやっていましたから、こうして体調を壊してしまいました。
 それから、今年の年賀状を見ていて思いました。パソコンで作っていると思われるのが、自宅へ来たうちちょうど約半数あります。それから、「この人はインターネットをやっているな」と確認できる人、想像できる人も、約半数います。つまり年賀状をパソコンでは書いているが、インターネットはやっていないとか、逆に年賀状は印刷屋さんだけれど、アドレスが書いてあるとか、あと個人的によくメールくれるとかを勘案すると、約半数がインターネットをやっていると想像できました。元旦に自宅にもらいました、私および妻あての年賀状は140通だったのですが、そのうち67通がインターネットをやっていると確認できたり想像できたりする友人や親族でした。ただ、3日4日5日と来る年賀状では、だんだんインターネットもパソコンも関係ないだろうなという方が増えてきます。一般にパソコンをやる人のほうが、年賀状ははやめに出すようです。最終的にはどうなるでしょうかね。たぶん、45%くらいがインターネットをやっているというようなことになるのではないかと想像します。昨年よりは、それこそ圧倒的に増えましたね。これが娘たちの場合だと、この年賀状から判断できるインターネットしている人の確率はもっと高くなります。
 確実にインターネットが浸透しているのが判ります。変わったよな、と思いますね。そして思いもよらない友人や親族がインターネットのアドレスが書いてあると、実に実に嬉しくなります。できたら、50代、60代、70代がやってほしいよな。(2000/01/06 18:41:16)

   周の家族の2000年の年賀状

 今年の年賀状は昨年の12月19日の夜、ちょうど20日になっていまして午前1時頃家族4人が集まりました。下のブルータスは四国への旅行からついでに友だちのところに泊まりまして、それで午後4時頃帰ってきまして、それからアルバイトへ行きました。午後12時40分くらいに帰ってきまして、それから我が家はみんなで「よし、年賀状の写真を撮ろう」と騒ぎ出しました。今年はいつもの一眼レフではなく、デジカメがあります。それで、このデジカメについては、何故かブルータスが詳しく操作できまして、彼女がすべてを仕切ます。
 いつもは干支のぬいぐるみをみんなで手に持ちます。でも辰のぬいぐるみはありません。「まあ、パンダにしようぜ」ということでしたから、そこでパンダのぬいぐるみを出してきます。でも汚れているな。ママが洗います。昔、大きなパンダのぬいぐるみの「どんちゃん」がありましたが、それが出てきます。ブルータスが2つくらいのときに、私が夜遅く帰宅すると、ブルータスのとなりに、ブルータスの顔より大きいぬいぐるみが寝ていました。
 私の母は孫が5人いるので、順番にいろいろなものをプレゼントしてくれていました。とくにブルータスと弟の次女は小さかったので、二人順番にいろいろなぬいぐるみをくれていたのですが、この回は、弟の次女の番だったのですが、そのぬいぐるみを見た途端、ブルータスは自分より大きいぬいぐるみを抱き締めてしまったのです。そして勝手にどんちゃんと名づけて、自分の家まで持ってきてしまいました。そのぱんだのどんちゃんが今出てきました。でもそれが小さいこと小さいこと。ブルータスも驚いていました。「こんなに小さかったんだ」
 それで、いつくも写真を撮って、パソコンで見て、そして印刷しました。ブルータスがプリンタを見張っていまして、「おおッ!」っと声をあげます。「まあ、こんなもんだろう」。かくして、我が家の年賀状の撮影を終えました。そして各自が年賀状で言いたいことを再度明確に聞きまして、打直し、また印刷に入りました。(2000/01/06 22:45:21)

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10091811 私はほぼ毎日この王子の家から、王子駅まで行く時に、いつも柳田公園を通ります。公園の中をいくも斜めに横切るのです。
 今朝、私はいつもツイッターを書いてUPしていたら(私はブログでもツイッターでも、まずエディタで書いてからUPします。直接は絶対にUPはしません)、くしゃまんべの竹内正則さんのサイトを見ているうちに、その竹内さんが新しく開設された以下のページを知りました。

 http://blog.goo.ne.jp/yanagida_park
   東京北区の柳田公園にある不思議な遊具

 それで、もちろん読んでいて感心いたしまして、ここのサイドバーの「東京都北区王子のウェブサイト」に載せたものです。実に竹内さんが載せている写真も、私はいつも見かけますものですから、嬉しくなりました。でも、この遊具も取り壊されてしまうのですね。
 この柳田公園は、私には1968年の2月20日の王子野戦病院撤去闘争の集会で始めて来たものです(でも当日は、王子駅前から機動隊に襲われ、散々なあと公園に到着できたものでした)。
 そのあとは、何度かの王子闘争で来たあと(3月28日が大きな闘争でした)、その後何度も別な用でこの公園を訪れ、そして何故か結婚して、またこの公園を通るようになり、またその後30年くらいを経て、またこの公園を通るようになったものです。
 この写真の遊具も、私の二人の娘とよく遊びました。また2年くらい前にまだ1歳のポコ汰をあの遊具に乗せて遊んだのですが、私が滑り台ですべるのに、少し怖かったものでした。もうじいじなのですね。
 あれが無くなってしまうのかと、大変に驚いてしまいます。

 とにかく、こうしたサイトを立ち上げてくれまして、こうして画像(二番目の画像です)で見られて嬉しいです。

10091803 私の 2010年9月22日のポメラくしゃまんべの竹内正則さんから、以下のコメントを頂きました。ありがとうございます。4時2分に書き込んでいただいたのですが、私がメール電話番号を隠しまして、再び4時32分に書き込みました。竹内さん、申し訳ありません。私のサイトはどうしても嫌な輩が見ていますので(もちろん、ほとんどはいい方々ですよ)、メールや電話番号を書くのは避けていただきたいのです。
 それで竹内さんには、以下の内容のコメントでした。

1. Posted by 竹内正則   2010年09月23日 04:02
周さま

こんにちは。
はじめまして、豊島1丁目で古書カフェ店長をしております竹内と申します。
先ほど、ブログ内のメールはこちらという記事中からメールしてみたのですが、エラーになってしまったようなので、
こちらに失礼いたします。申し訳ございません。

ブログの2005年12月17日記事、
「3・28王子野戦病院闘争」を拝読させていただきました。
貴重な歴史のお話をありがとうございます。

私、記事中に出てまいります柳田公園の事で調べ物をしております。

現在、柳田公園に残る、不思議な形の「すべり台付き大型遊具」が、
いつ設置されたのか?何故あのようなデザインなのか?
という謎を追っております。

記事の当時、王子野戦病院闘争で集会があった際に
あの大型遊具は存在していたのでしょうか?
もしご記憶ございましたら、ご教授いただければ幸いです。

もし当時存在していたのであれば、
集会の演台のような使われかたなどをしたのでしょうか?
非常に興味深く関心を持っております。

お忙しいところ勝手申し上げ、誠に恐縮です。
もし、お時間のある時で結構です。
お教えいただければとてもうれしいです。
どうぞよろしくお願いいたします。

東京都北区豊島1-7-6
竹内正則
(ここのメールアドレスは周が隠しました
03-○○○○-○○○○)

 ええと、私もこの自分の「ブログの2005年12月17日記事」の「3・28王子野戦病院闘争」を今読んでみました。でも自分のその記事を探して読むのにも、ものすごく時間がかかりました。もう私もじいじで阿呆なのですね。探すのに一苦労です。
 それで、あの当時は、あの「あの大型遊具」はありませんでした。集会は北側を演台のようにやっていましたね。1968年の3月28日は、実に大変な闘争でした。今でも、あのときの闘争のことを、偶然聞くことがありますよ。あのときには、王子駅前での戦い(このときは私は野戦病院正門にいました)はもう市民の方がものすごいものだったようです。それでけっこう機動隊相手に戦われた市民の方の話を聞きます。もう60代、70代の方ですが。
 私はいつも柳田公園を通りますが、あの公園のレイアウトや遊具の並べ方は、「もうここでは集会をやらせたくないのだろうな」と思ってきました。でも本当のところはもう分かりません。もう王子闘争も遥かな昔になりました。
 あのときは私は大学1年生で19歳でした。今は62歳ですから、はるかに時間が経過したのですね。住みましたところも、その後あちこちに住んだものです。そして今はこうして王子に来ました。結婚したときも、一時王子にも住んでいたものです。思えば、生まれた二人の娘も結婚して、長女には孫が3人でき、次女には今年11月に女の子が生まれます。
 貴店も毎日あの前を通りますよ。中に入って飲みたい思いもあるのですが、でも私だけでは仕方ないしなあ、と思ってしまいます。

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 きょうは、私が午後5時すぎに、義母を迎えます。だから、妻が午後7時に帰ってきて、私はそれからまた外出できます。もうきょういそいでやっていた書類を、3通書留で出します。王子の本局は一日24時間開いていますから、実に助かります。私は御茶ノ水のときには、神田郵便局よりも、東京駅北口の東京郵便局をよく使っていました。JRに乗ったほうが、歩いて神田郵便局へいくよりも近いのです。
 でも、今はもっと使い勝手がいいです。私はいつも自転車で行きます。でも郵便局もいつも私よい先に使っている人がいて、いつもしばらく待たされます。でも、これだけ近いといいですね。
 それが終わって、借りていた本を4冊王子図書館に返しに行きました。きょうは休館日ですから、本を返すだけです。

 そしてそのあと、王子警察の前を通りましたときに、ここに置いた写真を撮りました。その前に通ったときに、警察署の玄関に七夕飾りがあったので、「へえ!」っと思って、撮りたかったのです。おまわりさんが出てきたら、「昔は王子野戦病院闘争のころ、ここや滝野川警察は嫌いだったけれど、そこで、こんな七夕飾りを見られるとは嬉しいな……」というような話をするつもりでしたが、別に署の前でこの写真撮っても、誰も出てこなかったなあ。
 でも思うけれど、王子って私はますます好きになれましたね。

ouzikitune3 私のこのブログ将門のサイドバーに、「王子・狐の行列」の画像をUPしました。
 ここをクリックしていただきますと、この

   http://www.netcity.kita.tokyo.jp/kitsune/  王子・狐の行列

へいけます。あ、ここにもUPしました。
 私もこの「王子・狐の行列」に参加します。

 私は今は、義母の介護ということで、この王子の妻の実家にいます。でも、もう今年の1月9日から、ずっとこちらにいます。
 自宅は、我孫子なのですが、もうほんのときどき帰るだけです。妻もときどき荷物をとりに帰るだけです。

 我孫子のマンションは、100平米(を少し切る)のマンションで日当たりがよくて、しかも私の母の家(母は、私の兄夫婦と一緒に住んでいます)から歩いて3分くらいなので、いいところなのですが、もうあそこに住むのは無理です。
 私の母は、義姉がよく看てくれています。私の弟も、弟嫁もよくきてくれています。私の兄の長女みーねえも我孫子駅前に住んでいて、その彼もみーねえの二人の子どもも、よく母の家にきてくれます。
 もちろん、私の妻も私の娘二人も、よく母のところへいきます。弟の二人の娘も実に母に優しいです。えーっ、私は一人だけあげていません。それは私の兄です。兄はいつもいつも家にいません。詩吟のことで、いつもどこかへ出かけています。

 私の次女は、来年3月に結婚します。それはとっても嬉しいです。いい彼で、素敵なお父さんと綺麗なお母さんと、優しい弟がいます。あそこに次女がお嫁に行けるのなら、私は最高に嬉しいです。

 それで次女が結婚したら、私は王子の住民になります。
 だから、この王子の装束稻荷に集まる狐たちとも仲良くなるのです。

 私は生まれは茨城県佐貫ですが、1歳のときから引越をしはじめまして、東京−秋田(2カ所)−札幌−名古屋(3カ所)−鹿児島−横浜−我孫子−浦和−府中−我孫子−浦和−沖縄−浦和−船橋−東京早稲田−王子−我孫子(3カ所)と引越ばかりしていました。
 思えば転校も繰り返しましたね。

 そんな私でしたが、これで王子の住民で落ち着くかな。これで柳田公園を、孫を走らせているおじいさんになります。

 王子は、1968年2月3月の王子野戦病院闘争のときに初めてきた街でした。柳田公園もその最初の集会の場でした。柳田公園を通るときに、いつもあの頃を思い出しています。忘れられない思い出ですね。

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