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Tag:田中克彦

 田中克彦『チョムスキー』へ のほたろう さんが以下のコメントをくれました。

1. Posted by のほたろう   2011年05月05日 18:25
初めまして。読ませていただきました。かなり誤解があるようなので、少しだけ書かせてもらいます。深層構造は心理や、思ったこととはまったく関係がありません。
この誤解はちまたに流布されているようですが、チョムスキーの書いたものを読めば分かることです。
田中克彦氏はまったく生成文法を理解しないで「チョムスキー」を書いています。上のURLで田中克彦氏の誤解に触れたところを読んでいただけると話が早いと思います。田中氏は言語学の基礎的な概念もおぼつかない人です。言語学会ではまったく相手にされていません。どうか一度上のURLから入って、田中氏の誤解を目にしてください。失礼します。

11050911 ええと、私は誤解も何も、チョムスキーという人の本は読んだことがありません。大昔20年くらい前にパソコン通信ネットで、慶応大学の先生と少しお話したときに、その先生の言っていることを、「あれはチョムスキーの言っていることだよ」と教えてくれる方がいて、私はこの人を少しでも知ろうとして、岩波のこの本を読んだものです。だから、田中克彦氏はまったく生成文法を理解しないで「チョムスキー」を書いています と言われても私にはまったく分からないというか、そもそも興味もありません。
 どうか一度上のURLから入って、田中氏の誤解を目にしてください と言われても、今更仕方ないのです。
 私はまったく少しも興味ないことを言われて、少し戸惑っています。私は慶応大学の先生との論争(と言えるほどのものではありません)で、たまたま知ろうとして、この岩波の本を読んだだけでです。もう今はまったくチョムスキーも田中克彦氏の誤解もまったく興味を持ちません。
 なんか、それだけですね。私萩原周ニの誤解といわれてもとまどうばかりです。私は吉本(吉本隆明)さんの言われる言語のことは、興味がありますが、また関連することには興味がありますが、のほたろうさんが言われることには興味がありません。

11032910 何年か前にあるパソコン通信ネットで、ある大学の言語学の先生とかいう方と少し論争になったことがあります。「どんな言語でも、その持っている深層構造は同じである」という言い方をするのです。これは一体何なのかな、と言うところで、「それはチョムスキーだよ」と教えてくれた方がいるもので、早速読んでみたのが以下の本でした。もう読んですぐに売ってしまいましたが。

「日本のチョムスキアンにとって禁制の書」とか言われる本を読んでみました。

書  名 チョムスキー
著  者 田中克彦
発行所 岩波書店同時代ライブラリー

 チョムスキーは1928年生まれのアメリカの言語学者です。彼の理論はチョムスキー理論とか生成文法といわれます。また彼はベトナム戦争のとき激しく政府を攻撃し、投獄までされた政治活動家でもあります。
 チョムスキー理論とは、

  人類のすべての言語は表層構造の相違をこえて、同一の深層構
  造に還元できると主張できると主張するのみならず、その深層構
  造こそが、言語にとって本質的であると主張している

ということです。ではその深層構造とはなんでしょうか。

  現実にある言語の外に別の言語……これは考え方によればすで
  に言語ではないのであるが……を設け、ことばの現象は、すべて
  そこへもどして、あるいはそれと関係づけることによって説明す
  ることにした。すなわちそれというのは深層構造(deep structure)
  である。実際にあらわれる言語は、単に表面にあらわれた現象に
  すぎないのであって、じつは、その背後の奥底の深いところには、
  人間の言ったことではなく、考えたことの方により近い、なにか
  ことばの原型のようなものがあると仮定する。

 したがって、言語は日本語もロシア語も英語もインドネシア語も、深層構造は同じことになるわけでしょう。

  それぞれの言語は、この深層構造を、一定の規則にもとづいて
  変形し、表層構造において、いわゆる言語として実現する。この
  深層構造と表層構造との関係、とりわけ深層構造を表層構造にもっ
  て行くのに、どのような変形規則が使われるか、それを明らかに
  するのが文法の仕事だと考えた。

  なるほどとうなずいてしまう。だからこの理論はソビエトにおいても歓迎されたのがよく理解できます。あれだけの諸民族のいる中でのロシア語の位置には、よくなじむと思います。
 しかし、どうなのでしょうか。たとえばアイヌ語や、沖縄の言葉などにも、この理論はそのまま応用できるのでしょうか。いやできなければ、もはや理論とはいえないのでしょうから、あたりまえということかもしれませんが、私はそうかなと思うのです。ロシア語や英語、フランス語ならさておき、抑圧された小数民族の言語の場合、この理論でいう「深層構造」そのものも違ってくる場合があるのではないでしょうか。その民族のもつ宗教、民俗、神の位置などが違えば、また「深層構造」とやらも違ってくると思えるのです。
 私はこれを何度か読んで、「なんだこれは」と思いたったことがあります。それはこの深層構造と表層構造というのは、吉本(吉本隆明)さんのいう、自己表出と指示表出にあたるのではないかということです。これに該当する吉本さんの記述を見てみます。

   人間の自己意識の外化としての言語表出が、自己意識に反作用
  をおよぼし、もどってくる過程と、外化された意識が、対象的に
  文字に固定されて、それが<実在>であるかのように自己意識の外
  に<作品>として生成され、生成されたものが自己意識に反作用を
  およぼし、もどってくる過程との二重性が、無意識のうちに文学
  的表現(芸術としての言語表出)として前提されていることを意
  味している。それは文字が固定され<書く>という文学的表現が成
  立して以後、文学作品は<書かれるもの>としてかんがえているか
  らだ。もちろん、語られる言語表現もまた文学、芸術でありうる
  し、現在も存在しつづけている。しかし、おこりうる誤解をさけ
  るためにいえば、現在まで流布されている文学理論が、いちよう
  に<文学>とか<芸術>とか以上に、その構造に入ろうとはせず、芸
  術と実生活とか、政治と文学とか、芸術と疎外とかいいならわせ
  ば、すんだつもりになるのは、表出という概念が固有の意識性に
  還元される面と、生成 (produzieren)を経て表現そのものにし
  か還元されないという面とを考察しえなかったためである。
           (吉本隆明「言語にとって美とはなにか」)

 私たちの先祖が始めて海を見たとして、その時の感動を音として自己表出する。それからそれを、みなの共通のものとして指示表出するとき「海」と呼ぶこととなる。これが深層構造と表層構造ということではないのでしょうか。そうしたとき、私はまた吉本さんの言語論にむかわざるをえないということになります。それは吉本さんが、「言語にとって美とはなにか」のみならず、「共同幻想論」「心的現象論」によって、私たち人間の存在する、共同幻想、対幻想、自己幻想というすべての領域への踏み込みをしているからだと思います。 (1995.11.01)

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