将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:田口賛吉

13022712 東京各駅への思い2「山手線田端」へ田口賛吉さんの息子さんより、以下のコメントがありました。

1. Posted by 田口賛吉の息子より   2013年02月27日 21:58
父について何度も書いていただき恐れ入ります。以前の投稿を拝読した時、ご連絡しようかと思ったのですが、どうやってご連絡差し上げたものかと考えあぐねておりました。
今日、私がかつて文学のご指導を受けた月村敏行さんのことを調べようと検索していたところ、たまたま本日の貴ブログを拝読し、驚きのあまりコメントさせていただきました。
なんとかご連絡を差し上げたいのですが、どうすればよろしいでしょうか。ご教示いただけますと幸いです。
なお、残念ながら我が父は2008年7月末に亡くなりました。父に代わり謹んでご報告申し上げます。

 わざわざありがとうございます。私は過去貴宅へもお電話もしたのですが、電話にはどなたもお出になりませんでした。
 そして一昨年と昨年に千葉こども病院に長期に入院していた私の孫のじゅに(これはハンドル名です)に会いに行くときに、京葉線を使うのですが、幕張あたりでいつも田口賛吉さんを思い出していたものです(これはその頃の「周のIS01ブログ」で書いています)。
13022713 田口賛吉さんとは港区赤坂のJCA(シャパン・クリエイティブ・アソシエーション)という会社にいたときにお付き合いがありました。親会社のライダース・パブリシティという会社(もちろんそれ以外のクライアントの仕事もしました)の莫大な量の広告制作(ほぼ広告コピーのみ。いや最初は制作全般をおやりでしたが)をお願いしたものです。
 その後、銀座の会社事務所にも行きました。それから水道橋(だったかなあ。私はこの記憶には自信がないです)の事務所にも行きました。
 それと私の事務所を置いてあった御茶ノ水でも会ったことがあるのではないかなあ。
 ただ私の記憶は随分あいまいになっています。
 でも月村敏行さんの「文学のご指導を受けた」ということなのですね。私のサイト(前のホームページも)は吉本(吉本隆明)さん関係のサイトと思われてしまうところもあったので、月村敏行さんは知っています。もう何もかもが遠くなってしまいましたね。
 昔は毎日浴びるように飲んでいたお酒も今は缶ビール一個だけです(でも私の部屋のカンビールの量を見て、ある方が驚かれていたな)。
 とにかく、ありがとうございます。私は私の長女おはぎの三人の子ども(私の孫)に毎日でも会いたいのに、「あまり来すぎだ」と怒られることを怖れています。今日は会いに行ってもいいはずです。
 次女ブルータス13022714の孫には、「今度はいつ行けるのかな(実はもう分かっていますが)」とばかり思っていますよ。

13022703 この田端駅は、京浜東北線でもいけます。私の長女おはぎの家からは歩いてもいけます(少し遠いかな)。東口にはケーキ屋さんもあります(2008年11月30日昨日いただいたケーキというUPで、ア・ラ・カンパーニュというお店)。
 東口は昔(大昔ですが)芥川龍之介、室生犀星が住んでいました。ただ私は、2008年09月28日田口賛吉さんのことで思い出したことで書きました友人の田口賛吉さんを思い出します。
 この駅の東口(北側の出入り口)のだらだら坂を見ると歩くと、必ず思い出すのが、この田口賛吉さんの語ったことなのです。

 田口さんがまだ4歳くらいのときです。賛吉さんは、お母さんと弟さん(2歳か3歳でした)と、田端駅から出て、上中里のほうへ歩く長い坂道を歩いていました。田端駅に向かっていました。たぶん、昭和22、3年の頃のことでしょう。その頃、賛吉さんのお母さんは担ぎ屋をやっていました。いつも常磐線で、茨城のほうへ米や野菜を仕入れに行くのです。
 その坂を昇っているときに、後からお巡りさんが来ました。少年の賛吉さんは気が気ではありません。担ぎ屋をやっている人には、お巡りは敵でしかありません。
13022704 後から迫ってくる警官のことが心配で心配で、賛吉さんは、「かあちゃん、後から来ているよ」といいました。もちろん、お母さんも覚悟を決めたのでしょう。逃げようとしてもあの長いだんだら坂です。
 でもそのほんらい怖いはずの警官が、親子を追い抜くときの、弟のことをいきなり抱きかかえてくれて、「高い高い」をしてくれて、「こんなに小さいのに偉いな」と言ってくれたそうです。もう、早鐘のように鳴っていた賛吉少年の心臓は、ホッとしたことでしょう。
 この話を聞いていたのは、私ともう一人のデザイナーでした。もうその話を聞いていて、そのデザイナーも私も涙でいっぱいになったものです。
 今もまた私の目には涙が溢れています。おそらく、その警官にも、お母さんの商売はそこでも摘発すべきものだったと推測します。でも、その警官は小さな子どもを連れている母を尋問する気持にもなれなかったのでしょう。あの時期は誰もがそんな苦しい時代だったのです。13022705

 またとろい私は涙になってしまうのです。
 この田口賛吉さんのことは、以下にも書いています。

 2008年09月27日夢の中の日常「ひさしぶりのコピーライターの田口さんに会った夢」

 いや、私が孫のじゅにの入院している医院へお見舞に行っていたときにも書いていましたね。

2011年02月26日2011年2月25日のポメラ
2011/02/25 10:05「ちい散歩」で稲毛海岸(海岸風景はないですが)を歩いています。私もいつの日かこの海岸を歩いたことがあるのです。なんでどうして歩いたのかなあ。
 そしてここには私の親しい友人のコピーライターがいたのでしたが、彼はどうしたかなあ。以前にホームページもあったのでしたが、数年前から、それは見られません。

 寂しい悲しい思いです。彼が昔よく行ったという新橋の地下街の飲み屋も行ったものでした。その店のママさんは「そういえば、長いこと来ないわね」と言っていましたが、もうすでに亡くなっていたのでしたね。

 でもこれじゃ、私の田端に関し13022708た思い出というより、田口さんの思い出ばかりになってしまいました。

 あと田端というと、私の親しい友人が駅そばのビルに事務所兼自宅を置いています。ただその友とも随分会っていないですね。

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 本日私は午前3時55分に目が覚めました。その私が目が覚める直前まで、私は昔つき合っていたコピーライターの田口賛吉さんの顔を見ながら打ち合せている夢を見ていました。

 思えば、私はこの「夢の中の日常」ということで、自分が見た夢の内容を書いてきていました。でもこのごろは書いていませんでした。別に夢を見なくなったのではありません。でもなんだか、書かないままきてしまっていました。また私の見た夢のことは書いていくようにしたいと考えてします。

 この田口さんとは、1979年の秋に、私が赤坂の広告制作会社で、プロジューサーをやっていたときに、初めて会いました。彼は、「田口アドバンス代表田口賛吉」という名刺で、もう一人のグラフックデザイナーを連れて面談したと思います。
 その後はずっと彼とはつき合いました。彼が一緒にやっていたデザイナーが少し頼りなくて(真面目な方でしたが)、その後は彼だけでコピーライターとしてのみやっていて、そのときもずっと私の会社の広告コピーを依頼していました。
 私がこの会社を去ったあとも、私は彼とつき合っていました。
 私がこの赤坂の広告制作会社にいたときは、この親会社は少し大きな広告代理店で、ここの若い社員はみな大学卒に新人たちですが、彼らはもともと自分で広告制作をやりたいという思いばかりの気持を持っています。でも実際は、大学卒業しただけの人間に広告なんかまともに作れるわけがないのです。
 ただ、彼らもすぐにグラフックデザイナーは、到底自分たちにはできない仕事なのだということはすぐに理解するのですが、ことコピーライターというと、原稿用紙に字を埋めていくのですから、自分の容易にできるのではないかと錯覚してしまいます。これが実に面倒なことでした。
 クライアントと、私たちの連れていくクリエーターたちの間で、AE(アカウントエグゼクティブ)として振る舞えればいいのですが、ほぼ大学卒の子たちは、デザインは無理だけど、コピーならできると思い込んでしまいがちなのです。
 だから、もうそういう阿呆な若い奴は面倒でなりませんでした。だから、そこらへんは私がプロジューサーとして仕切らないとならないのです。
 そこらへんは、いつもこの田口さんには迷惑でご面倒をお掛けしたものです。
 でも私がこの赤坂の会社を辞めたあともお付き合いが続きました。神田会に属していただき、何度か会合にも来てもらったものでした。

 彼は千葉市に住んでいて、住んでいる住所に知っていましたが、のちに身体を悪くしたということを聞いていまして、その後連絡はとっていません。彼がホームページを開設したことはよく電話で話したものですが、そのホームページも今はないのですね。

 グーグルで、「田口賛吉 コピーライター」で検索すると、私のメルマガの他、彼のことが次で出てきました。

  http://www.stad-mg.net/cf/artist/artistmain/writers/taguchi.html
                      企業組合コミュニティフォーラム

 彼に関するデータは次のように出てきます。

田口 賛吉 たぐち さんきち
history 立教大学文学部科卒業後、1970年毎日広告社にコピーライターとして入社。ラジオ・テレビ制作部に所属し、森永牛乳、横浜プリンスホテル、ピジョン、山田うどんなど、ラジオCMを主体にコマーシャルフィルム、生CMなどを制作。その後、代理店や制作会社数社に勤務。1983年よりフリーランサーとして独立。

その他主な仕事先
銀座松坂屋、フジサワ名店ビル、高島屋、西武不動産、ライダース・パブリシティ、三菱農機、セイコー電子工業、NTT、集英社(美術書)、福式書店など

favorite works  ●コピー制作(新聞・WEBページ・雑誌・DM・パンフレット・チラシ・ポスター・案内状・POPなどあらゆる媒体、ツールなど)
●編集取材執筆(社内報・PR誌・会社案内など)
●テキスト入力(タイピング入力・OCR入力・音声入力)
●そのほか社史、自叙伝・自分史の執筆、支援など

comments 東京だけの仕事だけでなく、永年千葉での暮らしの中で蓄積してきた情報や体験を生かし、愛着のある地域に役立つ仕事をぜひともしてみたいと思っております。受け手と送り手との密接で、インタラクティブな関係が、これから強く求められると思います。

 思えば、私のほうから電話してみようかな。あ、でも思い出せば、何回か電話したけれど、連絡がつきませんでした。彼の行く飲み屋も新橋にあったので、そこも数年前に行きましたが、彼はしばらくきていないということでしたね。

 たしか彼は私より年上だから、たぶん現在63歳くらいですね。

 そして私は、夢を見た今朝、この文を書き出して、最初は「Tさん」としていましたが、この上のデータがインターネット上にあったわけで、それなら田口賛吉さんという名前も出していいのだろうと考えたものなのです。

 今朝の夢の中では、懸命に仕事の打ち合せをしていました。また、彼とは、仕事はできなくても、一緒に話をしたいなあ、なんて強く思いました。そんな思いを実現できるために、彼は私の夢の中で、私と懸命に話してくれたような思いがしてきたものです。

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