将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:社会観の探求

2017020601
2017020602

11042113 私は大昔はいわゆる新左翼であったから、当然革マル派が大嫌いでした。そして今でそれは同じです。ちょうど私は水戸天狗党が諸生党をみるような眼で、この党派をみている。諸生党を考えるとき、いまも許すことができないように、革マル派もどうしても許す気になれません。この党派がこの日本から消え去るにはどうしたらいいのか考えてみました。
 私が思うのには、革マル派は次の4点で存在しています。

1.黒田寛一の哲学
2.反スターリン主義
3.革命的マルクス主義
4.松崎明の動労革マル

 まず2ですが、これはもはやソ連が崩壊したことで、終りだと思います。そもそも黒寛の「現代における平和と革命」1冊読めばもうばかばかしいことが自明になることなのですが、要するに現代世界を帝国主義世界とスターリン主義世界が分割しているとし、このスターリン主義とは「疎外された反革命イデオロギー」であり、これによって、戦闘的労働者は眠りこまされているから、反スタとはこれをなくすことである、具体的にはスターリン党に加入して、新しい共産党を作り出していくというのです。え、なに、日本共産党に加入するのか、中国共産党、朝鮮労働党に入ってそれを変えろというのかという問いで終りでしょう。
 3とは何でしょうか。この「革命的」の意味とは。私はこれを若いとき、そう18歳くらいのときには「創造的マルクス主義」とかいう意味かと思っていました。しかしこれはもうばかばかしいことなのです。実にこの革命的という意味は、日共に対する革命的だということでもなく、日本の一方の雄である共産同ブントに対する革命的ということでもない。革共同の関西派に対しての革命的ということなのです。呆れてもう何もいえなくなってしまいます。そもそもマルクス主義が革命を指向するものなら、その上に又革命をつけてどうするのでしょうか。馬鹿じゃなかろか。
 そして4です。私はこの動労だけは大変な存在だと思ってきました。黒寛の生み出した最大のものがこの動労かもしれません。黒寛の血の結晶が動労革マルであるといえるかと思います。しかし私はさらに思うのです。この動労は黒寛というよりは、松崎明の生み出したものではないのか。さらにいうと私はあまり動労に「革マル」という感じを持たないのも事実なのです。しかしまたしかし、そうもいかないのです。松崎はやはり黒寛の革マルであるのでしょう。この日本が少しは明るくなるためにも、この動労革マルに消えてもらわなくてはいけないと思います。それには、以下のように提案したい。まず松崎を蝪複凖貽本の取締役社長(代表取締役でなく)にすること。そして国家は、松崎を中核派、並びに解放派から完璧に守ることを約束すること。できたら両派とも国家が潰せば、なお松崎には安心だ。こうした約束で動労を全てやめてもらいましょう。
 さて以上はこれでいいのですが、残るは1の黒寛の哲学です。

書 名 社会観の探求
著 者 黒田寛一
発行所 社会思潮社

 私はこれを最初は理論社の初版本で読みました。これをかなり時間をかけて読んでノートをとり、随分感動した記憶があります。ちょうど「経済学・哲学草稿」「ドイツイデオロギー」などを読んでいた時期でしたから、かなり理解しやすかったものです。しかし現在の社会思潮社版は、その最初の版とはいくつも違う印象があります。

  スターリニズムからの袂別の過渡期の産物である『社会観の探
 求』には、それゆえに(スターリニズムそのものの究明がまだ足
 りなかったということ−周)、なお部分的にスターリニズムの残
 りかすがまとわりついている。とくにスターリンの「一国社会主
 義」と「平和共存」理論にたいして無批判的であったことは決定
 的な誤謬である。   (「新書版への序文」)

 なんでこんなことを言ってしまうのでしょうか。まあこう言ってしまうから革マル派になってしまうのでしょうが、社会観の探求をさらに進めたマルクス主義哲学探求の道もあったのではないかと思うのです。私は「社会観の探求」にはかなりな感動をおぼえたものですが、「スターリニズムそのものの究明、その政治経済的分析に踏まえつつ、きりひらかれた」所産である「現代における平和と革命」なぞ、もう唾棄すべき内容でしかありませんでした。黒寛は後退してしまったのです。

  生産と消費との本質的な媒介契機としての分配が、それにもか
 かわらず現実には自立化するという、この論理的な過程は、歴史
 的には社会的分業の出現に照応するのです。社会的分業の発生と
 ともに、量的にも質的にも、不平等な労働および労働生産物の分
 配、つまり私有財産があたえられるのです。分業と私有財産とは
 同一のことを表現する言葉です。ただ同じことが前者においては
 活動との関係においてあらわされ、後者においては活動の結果と
 しての生産物にかんしてあらわされているのです。いいかえれば、
 社会的分業と私有財産の真理は、生産と所有との分離、人間生活
 の社会的生産そのものの自己疎外にほかなりません。
                    (「舷祐屬料続亜廖

  支配階級は、おのれの階級的な諸利害を社会全体の利害として
 妥当され、通用させるために、国家をうちたてるのです。これに
 よって、幻想的な共同利害は、「一個の独立的な容態」をとり、
 「幻想的な共同性」としてあらわれます。すなわち国家は、「共
 同性の幻想的な形態」であって、支配階級の特殊利害としての
 「一般的」な利害を物質的にうらずけるものにほかなりません。
 まさしくこのゆえに、国家権力の機能は、支配階級の生存上およ
 び支配上の諸条件を維持し、支配される階級の特殊利害にたいし
 て幻想的な一般的な利害を貫徹するための暴力の発動となるので
 す。だから国家は、「社会の集中的で組織的な暴力」として、支
 配される階級をしぼりとる機関という役割をえんじるのです。国
 家は、根本的には支配階級の手中にある生産様式、支配的な社会
 的生産様式=搾取様式をまもりとうすための権力にほかなりませ
 ん。                 (「舷祐屬料続亜廖

 いくつ抜き出してきてもいいのですが、かなりな内容の分析展開がなされています。だが、これが「社会観の探求」を離れて、現実社会への把握分析になると、「反スタ」というイデオロギーのみでの世界把握となってしまうのです。「スターリン主義は千年続く」と彼らはいっていたものでしたが、現実には100年ももたなかったではないですか。そのことを今黒寛はどうとらえているのでしょうか。
 そもそも、黒寛って今現実に生きているのだろうか、などと思ってしまうきょうこのごろなのです。(1998.11.01)

 私がこの本を読んだのは、大学4年の時ではなかったかと思います。いや、大学2年3年4年のときのいずれかではっきりしません(私はさらに大学へは5年6年といました)。早稲田の文献堂で購入したのだけはよく覚えている(ここの店主の顔もよく思い出します)のですが、なにしろ当時は学生運動で忙しく、府中刑務所他にもいたので、詳しくは思い出せないのです。
 でもこの本は実に丁寧に読みました。全編ノートをとりまして、読んだものです。この著者は、私は少しも好きになれないのですが、この著書だけは実に良かったのです。のちに、この著者は、自らのこの著作を、「スターリン主義の残りがまだある」なんて自己批判していますが、私からはそんなものは少しもあるようには思えません。実にいい著作です。
 この著者はもう、10年くらい前に亡くなったことが言われていました。(2010.03.16)

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 昨日3日、ある方から、この写真の図書新聞の最新号(2884号2008-9-6)が送られてきました。その方からのお手紙に同封されていました。
 こうしてこの図書新聞を読むなんてことは、どのくらいひさしぶりのことでしょうか。私はこの新聞の最終面で、以下のサイトもあることを知りました。

   http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/ ウェブ図書新聞

 しかし、このサイトは、この新聞を定期購読していないと、中身までは読めません。これは残念ですね。定期購読しようかなあ、なんて考えました。
 でもやはり、よくこの新聞のこの号を読みました。記事も広告もよく読みました。でも5面の植田隆という方の「六〇年代の黒田寛一像が鮮明に立ち現われてくる一冊――“社共”という塊りは“のりこえ”の対象なのか」を読んでみて、もうそのばかばかしい内容にうんざりします。
 私は黒田寛一は「社会観の探求」だけは、非常に面白かったものでしたが、「現代における平和と革命」はもうばかばかしくて読めなかったものです。哲学者としては優れていても、世界の現状を見る眼というのは、どうしようもないものしか感じられませんでした。だから、もうどうでもいい存在でしたが、今こうして紙面で読んでいても、実に今ここで書かれていることにも、違和感しかありません。

 それから、記事下の広告で、ある出版社の本の告知で、別々の2冊の本(著者は別人です)に、斎藤喜博の名前が出てきたのに、驚きました。もう私には、過ぎさってしまった教育者ですが、また読んでみようかなという思いにもなったものです。

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