10110912 何故か私は高校で教壇に立っています。なんの授業だか判らないが、中世キリスト教の話をしています。2人ばかり元気な生徒が盛んに意見を述べてきます。
 現代でも私たちがかなり強く興味をもっていることですが、人が死んでしまったあと、いったいどうなると中世のキリスト教では考えたのかというようなことです。極楽、錬獄、地獄などということをどのように彼等は考えていたのかなんて話をします。でも実をいえば、私はそこらのことはまだよく知らないのだなという思いがあります。
 ただ私たちは、どうしてかこの世に生まれてきてしまい、そしてまたいつか死ななければならない。それをどう考えるべきなのか、どう考えようと、過去の宗教家たちは言っているのか、というようなことを話合います。
 だんだん中世ヨーロッパの話から離れていきます。私は日本の宗教家は何だといっているのかというような話をします。禅宗でいう考えをいくつも箇条書きにしました。そして浄土宗の法然の言うことから、やはり親鸞に触れます。

 晩年になっていた親鸞は、「めんめんの計らいにまかせよ」といった。多分死とかいうことにも同じことではないのか。念仏をひとこと述べることにより、阿弥陀如来がその人に訪れるだろう。ただそれだけでいいのだ。愚者として、ただ阿弥陀如来にすがること、いやもっと言えば別にすがらなくたっていいのだといっているのだ。これがおそらくは、中世キリスト教の教えより、あるいは現在の「生」と「死」に関する論議の中よりも最も進んでいる考えではないのか。

というようなことを喋ります。ある生徒が述べます。

 こうして過去の宗教家なりが述べたことを考えたとて、まだ現代のほうが科学も進歩しているわけで、こうした「死」をどう考えるのかというのも、まだ現在のほうが進歩しているのではないのか。

 それから、ひとしきり、それならこうした過去の宗教家と現代人が対話できればさらにはっきりするだろうにというような話になります。しかし仮定の問題として、過去の人間と私たちが対話できるものなのだろうかということがまた論議になります。私は、私たちの側が過去の時代になかった事実とか、科学上のこととかを出して話していかなければ、充分対話できていくのではないのかというように言いました。そうしたときに、やはり親鸞は今も未来にも生きていける考え方ではないのかと話ました。
 E・H・カーの「歴史とは過去と未来の対話である」などという言葉をひいて話しましたが、このとき「ああ、カーがいうのはこういうことなのだな」なんて思ったものです。そして同時に解けたことがあったのです。
 私はこの授業の中、頭の中で複雑な図形のある三角形のある線分の長さを出すことを解かなければなりませんでした。それを頭の中で、ああだこうだと解いていました。ちょうどこの最後のころ、解答できました。5センチという答えでした。二つのことを同時に考えるのは大変だななんて思っていたものです。
 長い長い夢でした。夢の中であんなにすらすらと喋れた内容がいまはまた思い出せません。また夢の中であの生徒たちに会いたいものです。(1994.12.09)