将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:秋田

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 私は日本中をあちこちですごしました。秋田、札幌、名古屋、鹿児島、横浜、浦和、沖縄、船橋、我孫子、東京北区………等々です。私が好きなのは、秋田と沖縄です。
 そこで、この画像を載せます。15082602
 そして私の母は、私に「周二(しゅうじ)」ではなく「千秋(ちあき)」という名前をつけたかったようです。それで最初東京豊島区巣鴨から引越しした秋田に千秋公園(せんしゅうこうえん)という秋田城のそばの公園に驚いたようです。
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 それと、この秋田から、私の家では秋田犬を飼いだしました。それが秋田から、札幌、名古屋(南区・千種区、北区)、鹿児島、横浜、我孫子と秋田犬と連れて歩きました。全部で200頭を超えていたでしょうか。
 でも思い出しても、いつも秋田犬のことばかりが頭の中に浮かんできます。

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 私が書きました2014年2月19日のポメラで次のように書きました。

この文を書いた最初から、私の頭には「〜志を果たして、いつの日にか、帰らん〜」という「故郷(ふるさと)」の歌が浮かんでいました。

 この歌を私はものすごく思い出しました。この歌は、1914年(大正3年)の尋常小学唱歌の第六学年用で発表されたということです。
 こんな古い歌なのに、私はすべて思い出せるのですね。故郷というものがないといえる私だからかな。いえ、私には日本中に故郷はあるのです。

「故郷(ふるさと)」

作詞 高野辰之
作曲 岡野貞一

一兎追ひし彼の山
小鮒釣りし彼の川
夢は今も巡りて
忘れ難き故郷
二如何(いか)にいます父母
恙無(つつがな)しや友がき
雨に風につけても
思ひ出づる故郷
三志を果たして
いつの日にか歸らん
山は悗故郷
水は罎故郷

 私のすべての思い出が甦ります。14021708

 ここの掲げた写真の路は17日に歩いたポニョとポポの保育園からの帰る道です。ここが私にははるか昔私が4歳の頃通った秋田市の幼稚園の行きかえりの路に思えるのです。それに似ているのです。いや本当は似てないのかもしれませんが。はるかな思い出だけなのです。昭和26、7年の頃かなあ。

ff725af6.jpg 沖縄は私が住んだ日本の中で、秋田と並んで好きになれたところです。沖縄の人たちの話す言葉は、日本の一番古いものをそのまま残しているのですね。実に丁寧な優しい言葉です。
 写真は4月15日午前8時のご近所にあったお花です。私は朝の散歩をしていました。妻が義母を送る日ですと、こういう余裕があります。(04/16)

041a9d95.jpg このブログのサイドバーにありました、「クリスマスまで、あと○○日」というブログパーツとジングルベルをなくして、今の「雪が好き」のパーツに変えました。いえ、「あと新年まで○○日」というようにしたかったのでしたが、よく判らないので、これにしました。思い出せば、私は秋田、札幌という雪国に住んでいましたので、雪が降る光景というのは好きなのですね。
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64ff360a.jpg 昨日は、用賀駅のビルの中で、クリスマスツリーを見ました。このツリーの下にピアノが置かれ演奏会が開かれるのだそうです。わが家のおかあさん2007.12.07 に載せた写真です。11月14日に、王子駅前の東武ストアの広場で、今年で最初にクリスマスツリーを見ました。 マガジン将門第379号発刊 に載せました写真です。
 でもこうしてクリスマスツリーを見ると、もっと私が歩いているときに見つけたクリスマスツリーを見てみて、撮ってみたくなりました。
 私の両親は私たちが生まれたときから、いつも大きなクリスマスツリーを飾ってくれました。秋田、札幌でのクリスマスは雪の中の冬の日、いつも大きなクリスマスツリーがあって、愉しいクリスマスでした。たしか昭和28年には、実際のサンタクロースの扮装をした(たぶん、デパートのサービスで、父が頼んだのでしょうけれども)人が夜来てくれて、私たちはたいそう驚いたものでした。
 私たち夫婦も、毎年二人の娘のために、小さなツリーを用意したものでした。あれをいつからやらないようになってしまったのだろうかなあ。かなり面倒で大変ですものね。
 たしか、そのクリスマスツリーに飾るたくさんのもので、みんなであたふたしていた年のこともかすかに思い出しました。愉しいいい思い出ですね。
 また街を歩いて、クルスマスツリーを見つけてみます。
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 私のこのUP永田光男さんから、以下のコメントをいただきました。

2. Posted by 永田光男    2007年09月20日 09:42
ボクの誕生日は1948年5月30日です。
なんか、縁を感じて投稿しました。
上記URLでボクのブログへもお出で下さい。
お待ちしてます。

 ありがとうございます。私のこのUPは、2006年のことですから、今年の今は、もう59歳というわけです。もう60代もすぐそこに迫っているのですね。
 でも私と同じ日の生まれの方とは始めてのことです。私が生まれたのは、茨城県佐貫です。今は藤代市になっています。生まれてすぐに、東京の巣鴨に引越て、3歳のときには、秋田市に引越ました。その後、札幌、名古屋、鹿児島、横浜と引越て歩きました。小学校が5つ、中学校が1つ、高校が2つと転校してばかりいました。弟は小学校が4つですが、中学が二つです。兄は小学校が3つですが、中学校も3つ転校しています。ただ高校が二つというのは私だけです。

 永田光男さんのブログを拝見しました。とても綺麗な写真ですね。羨ましいです。私何か、ただただ画像を載せているだけという感じですね。
 今後もまたブログを拝見させてください。

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 おだんごぱん☆★絵本の名前だよ♪このUPがあります。あ、これが最新のUPなのです。ナミちゃんが、東北に彼と二人で旅行してきたという報告です。
 私もこのところ、いつも夏休みに娘二人と妻と4人で、旅行してきました。昨年は、長女の彼のミツ君と5人です。
 これが実に愉しいです。昨年は、湯西川温泉に連れていってもらいました。実は私は27歳のときに、この湯西川温泉には、温泉新聞の記者として集金旅行に行っているのです。でもそのときは、鬼怒川温泉で集金してまわり、あと川治、川俣温泉をまわり、この湯西川温泉にも行って、さらに日光湯元温泉に泊りましたから、実に強行軍でした(だって、翌日は那須温泉に行き、次の日は塩原温泉でした)。でもそのときの思い出と違って、実にいい温泉でした。家族で温泉に行くって、実にいいことですね。

そして今回は夫と二人!
高校生のときに食べた同じ山寺のこんにゃくを食べてみた。
あれから色んなことがあって大学生になって大学生の時も・・
色んなことがあってそれからそれからもっともっと色んなこと
があって大人になってお母さんになって・・・・高校生の時は
どんな思いでこのこんにゃくをほお張っていたんだろうなんて!
思いながら食べていた。親がいてくれる有難さと心地よさを今度
は子供たちに!

 私も今度は、孫のポコちゃんと愉しもうという気持になっています。それに次女ブルータスの彼のナオキ君も一緒だと、ミツ君もいるから、男組のほうが4名で、女組3人より多いのです。
 でも私は盛岡も弘前も行ったことがあるのですが、中尊寺は行っていないなあ。なんだか、私の若いときの旅行は、あちこちでただ飲んでいるばかりでしたね。それにどうしてもそのときは秋田も行きまして、秋田市は昔住んでいた思い出があるから、どうしても懐かしくていろいろなところを尋ねたくなるのです。

こんなおばさんがブログなんて恥ずかしいけど
パソコンに向かっている自分の素直?さにちょっと驚き・・

 あなたがおばさんで、羞しいなら、私は孫のいるじじいで、もっと「羞しいはず」ですが、私は少しも羞しくないよ。きっとそのうち、孫も読んでくれるだろうと思っています。
 いろいろとたくさんのことを書いていこうね。

 このナミちゃんのサイト おだんごぱん☆★絵本の名前だよ♪ は、ここのサイドバーの「将門のリンクするブログ」でリンクしました。

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年6月12日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 またもひさしぶりの手紙になります。
 もうきょうなんか、けっこう暑いです。おはぎは同じマンションですが、あそこのほうが涼しいです。ここの部屋はどうしても暑いです。もう古い部屋で、そのままだから。しかたないよねえ。夏だもの。
 うちの家族は、鹿児島にも住んだわけですが、はやり名古屋のほうが暑かったですね。ただ、このことは住んでみないと判らないでしょうね。今はもっと暑いんだろうなあ。言われることだけど、年々暑くなる年を感じています。このままいくとどうなっちゃうのかな。
 思い出せば、私が一夏過ごしたした府中刑務所も暑かったです。狭い独房なので、ただただ暑いだけでした。ただ中にいると、まったく外の世界のことが判らないので、ときどき面会に来られるかたの話はどうしても私には判らないことが多々あったものでした。
 ただ、私は保釈になってから、こうした拘置所なりに面会に行くときには、そうしたことを判った上でお話しするようにしていましたからね。私が中にいるときは全然無理解な人とは会っても、一応わざわざ面会に来てくれたからという感謝の気持は失わないようにしましたが、独房に長期勾留されているということがまったく判っていないとしか思えないという人もときどきいたものでした。まあ、でもこれは仕方ないことです。
 でも、こうして自分の母親にひさしぶりに手紙を書くようになって、昔を思い出しているのですが、いろんなことを振り返るようになりました。
 私は秋田というところは2カ所住み、名古屋は3カ所だが、鹿児島は1カ所だとばかり思っていましたが、私は原良町に下宿もしていたんだねえ。だから鹿児島は2カ所に住んだことになるんだ。
 浦和は2カ所だとばかり思っていたら、あそこは3つのところに住んでいるんだ。
 我孫子も勝手に3カ所だとばかり思い込んでいたけれど、我孫子の実家にも住んでいたのだから、4カ所なんだねえ。
 私がまったく記憶ないのが、東京の巣鴨に住んでいたということだけなんだけど、あそこはどこにいたのかなあ。私の孫のポコちゃんが巣鴨で生まれたから、あのとき、何度も、「自分の住んでいたのはどこらへんだったのかなあ?」という気持でいっぱいでした。できたら、いつかそこ場所を知って歩いて見たいものです。たぶん、何かを思い出すんじゃないかなあ。       早々

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年5月11日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 今はね、ブルータスにもおはぎにも手紙を書いています。ブルータスは、少し遠いところにお嫁に行ったから、手紙を書いて送ると、少しは気がまぎれるかなと思うんです。おはぎは、同じマンション内に住んでいるのですが、ここには切手を貼らなくて出しています。
 もう私にも孫がいるわけですが、この孫が字を覚え出す頃には、手紙を書こうと思っています。いや、今は小学校に入る頃にはケータイをもつのだろうから、それあてにケータイメールを書くことにします。
 たぶん、「じじは、なんでこんなどうでもいいことばっかり書いてくるのかなあ」と思われるかもしれないけれど、たくさん書きますよ。
 思えば、私が学生で府中刑務所に居たときに、たくさん手紙をくれたね。でも私はほぼ返事を書かなかった。その前に鹿児島で鶴丸高校に入ったときにも、下宿あてによく手紙をくれていました。あのときにも私は返事をほとんど書きませんでしたね。申し訳ない思いでいっぱいです。でも今はこうして書いても、よく読めないのかもしれないね。だからやはりどうしても、申し訳ない思いでいっぱいです。
 私が子どものときに、記憶がはっきりしてくるのは、秋田に住んだ時からです。その前の東京巣鴨の記憶は全然ありません。ただ数年前に浅草の朝顔市に行きましたら、「あっ、ここには来たことがあるんじゃないかな」という思いが甦りました。おそらく昭和24年くらいに、あそこへ連れて行ってくれたことがあったんじゃないかな。
 でも秋田のことは、初めて記憶にあるようになったと言っても、やはりところどころ曖昧です。繁華街の川端の思い出や木内デパートの思い出は曖昧です。千秋公園の思い出や、家での出来事はよく覚えています。よくマサシと親父の三人で、近くの公園に花火をやりに行ったものでした。考えてみれば、あのときにマサシは一つか二つなんだねえ。でもよく仲良く遊んでいたのを覚えています。
 兄貴の莞爾とは7つ違いだから、遊んでもらったという記憶はないなあ。でも雪遊びをするようになると、よく遊んでもらった記憶が鮮明になります。もう私が幼稚園で、兄貴は中学生だったものね。
 それに秋田は、やはり秋田犬の思い出が鮮明です。これはもう忘れようがありませんね。我が一族がこれから長い間、この秋田犬とのつき合いの最初だったのですね。もう忘れようがありません。昔秋田に旅行したことがあるけれど、また必ず行ってみたいな、と思っています。            早々

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 団塊世代Uターンの経済効果試算 で私は、団塊の世代が「故郷へ帰る」というので、いわゆる田舎に帰ることには否定的なことを書きました。ただし、もちろんそれは個々人が自分の人生でどのような生き方をしようがそれぞれが自由なわけですから、それはまったく構わないことだと思っています。

 私は「故郷へ帰る」というときの「故郷」というのは、それぞれによって違うだと思っているのです。東京という都会が故郷の人もいれば、例えば、鹿児島県内の郡部が田舎の人もいるでしょうが、鹿児島県の県庁所在地の鹿児島市が故郷の人もいるでしょう。
 でも私は「故郷回帰運動」というものに賛同できないのは、「東京23区が故郷であり、そこへ帰りたい」という人の考え方には認めないようなことを感じるからです。
 ようするに、地方といいましても、東京や名古屋のような地方ではない、過疎化が進んでいる地方がなんとしても、その自分の地域を活性化したいというのが本音でしょう。そして、それは切実な思いがあるのでしょう。
 だから、個々人のとって故郷はいろいろあるわけで、さも「故郷は自然と田園のあるところ」と決めつけていることが私は嫌なのです。そこはついでに「車がなければ生活できないところ」と付け加えてくれよという思いです。

 かつそして、個々人にとって、故郷とは、実際に自分が行き住んだところでなくとも、自分で選んでいいところだと思っています。

 私は生まれは昭和23年茨城県佐貫です。今は藤代市になっています。でも、1歳のときに、東京巣鴨に引越て、3歳で秋田市に引越、そのあと、札幌、名古屋、鹿児島、横浜、そして千葉県我孫子と引越しました。秋田では2か所、名古屋では3カ所に住んでいます。だから名古屋では小学校も3つでした。
 それでそのあとは、浦和に住み、また府中刑務所から保釈ののち我孫子に住み、また浦和に住み、一時沖縄に住み、その後船橋に住み、早稲田に住みました。そこで結婚して王子に住んで、そのあと我孫子に住みました。そして我孫子で3カ所住むところを替えました。
 そして今は、我孫子の自宅と王子の妻の実家と2カ所に住んでいます。

 そんな私には「故郷」というところがないのです。いや、全部が故郷とも言えるでしょうか。私は秋田と沖縄は、私の故郷とよびたいところでしたが、あとはすべて嫌いでした。
 札幌は、なんだか実にハイカラで嫌でした。ストーブの石炭の煙で汚れた雪が嫌でした。名古屋が実に暑くて、そして方言がひどくて嫌でした。鹿児島は、もうまったく嫌でした。毎日桜島のばい煙が降るのが嫌でした。横浜も方言がひどくて「これは同じ日本なのか」と思ったものでした。町を流れる川が汚くて嫌でした。

 そんな、どこも大嫌いでしたが、今はとても懐かしく思い出されます。札幌も名古屋も鹿児島も懐かしいです。でも遠い。横浜は行くことができますから、歩くと、あんなに嫌だった街が、今では懐かしくてなりません。浦和も嫌いな街でしたが、今行きますと、もう涙がこぼれます。浦和から北浦和まで歩くと、もうそれこそ私はあちこちで涙目になっています。

 このWeb東奥の記事では、次のようにありました。

 今夏、県が行った団塊世代への意識調査では、首都圏在住の本県出身者のうち9.4%が定年後の本県移住を、23.4%が首都圏と本県の二地域居住を希望した。

「首都圏と本県の二地域居住」なんていいことだな、と思いました。
 私が、もう1カ所住みたいところはどこかといいましたら、それは沖縄かな。そして沖縄のどこかと聞かれたら、それは実に困っていまうけれども、やはり都会である那覇でしょうか。でも沖縄ももう車がないとどこにもいけない地方ですね。
 それがなんだか少し哀しいな。

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