将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:第14章

13040804  いやこの章も私には難しいです。いや難しいというよりも、すべてが私には納得できません。私は自らを嘲笑うしかないのです。

第14章
 イエス安息日に食事せんとて、或パリサイ人の頭の家に入り給へば、人々これを窺(うかが)ふ。視よ、御前に水腫(すゐき)わづらふ人ゐたれば、イエス答へて教法師とパリサイ人とに言ひたまふ『安息日に人を醫(いや)すことは善しや、否や』かれら默然(もくねん)たり。イエスその人を執り、醫して去らしめ、且かれらに言ひ給ふ『なんぢらの中その子あるひは其の牛、井(ゐど)陷(おちい)らんに、安息日には直ちに之を引揚げぬ者あるか』彼等これに對して物言ふこと能はず。
 イエス招かれたる者の上席をえらぶを見、譬(たとへ)をかたりて言ひ給ふ、『なんぢ婚筵(こんえん)に招かるるとき、上席に著くな。恐らくは汝よりも貴き人の招かれんに、汝と彼とを招きたる者きたりて「この人に席を讓れ」と言はん。さらば其の時なんぢ恥ぢて末席に往きはじめん。招かるるとき、寧ろ往きて末席に著け、さらば招きたる者きたりて「友よ、上に進め」と言はん。その時なんぢ同席13040805の者の前に譽(ほまれ)あるべし。凡そおのれを高うする者は卑(ひく)うせられ、己を卑うする者は高うせらるるなり』
 また己を招きたる者にも言ひ給ふ『なんぢ晝餐(ひるげ)または夕餐(ゆうげ)を設(まう)くるとき、朋友(ほうゆう)・兄弟・親族・富める隣人などをよぶな。恐らくは彼らも亦なんぢを招きて報をなさん。饗宴(ふるまひ)を設くる時は、寧ろ貧しき者・不具(かたは)・跛者(あしなへ)・盲人(めしひ)などを招け。彼らは報ゆること能はぬ故に、なんぢ幸福(さいはひ)なるべし。正しき者の復活(よみがえり)の時に報いらるるなり』
13040807 同席の者の一人これらの事を聞きてイエスに言ふ『おほよそ神の國にて食事する者は幸福なり』之に言ひたまふ『或人、盛なる夕餐を設けて、多くの人を招く。夕餐の時いたりて、招きおきたる者の許に僕を遣して「來れ、既に備(そなわ)りたり」と言はしめたるに、皆ひとしく辭(ことわ)りはじむ。初(はじめ)の者いふ「われ田地を買へり。往きて見ざるを得ず。請ふ、許されんことを」他(ほか)の者いふ「われ五耜(いつくぴき)の牛を買へり、之を驗(ため)すために往くなり。請ふ、許されんことを」また他も者いふ「われ妻を娶れり、此の故に往くこと能はず」僕かへりて此等の事をその主人に告ぐ、家主いかりて僕に言ふ「とく町の大路と小路とに往きて、貧しき者・不具者(かたはもの)・盲人・跛者などを此處に連れきたれ」僕いふ「主よ、仰のごとく爲したれど、尚ほ13040806餘の席あり」主人、僕に言ふ「道や籬(まがき)の邊(ほとり)にゆき、人々を強ひて連れきたり、我が家に充たしめよ。われ汝らに告ぐ、かの招きおきたる者のうち、一人だに我が夕餐を味ひ得る者なし」』
 さて大なる群衆イエスに伴ひゆきたれば、顧みて之に言ひたまふ、『人もし我に來りて、その父母・妻子・兄弟・姉妹・己が生命までも憎まずば、我が弟子となるを得ず。また己(おの)が十字架を負ひて我に從ふ者ならでは、我が弟子となるを得ず。汝らの中たれか櫓(やぐら)を築かんと思はば、先づ坐して其の費(つひえ)をかぞへ、己が所有(もちもの)、竣工までに足るか否かを計らざらんや。然らずして基を据ゑ、もし成就すること能はずば、見る者みな嘲笑ひて、「この人は築きかけて成就すること能はざりき」と言はん。又いづれの王か出でて他の王と戰爭(たたかひ)をせんに、先づ坐して、此の一萬人をもて、かの二萬人を率ゐきたる者に對(むか)ひ得るか否か籌(はか)らざらんや。もし及かずば、敵なほ遠く隔るうちに、使を遣して和睦を請ふべし。かくのごとく、汝らの中その一切の所有(もちもの)を退くる者ならでは、我が弟子となるを得ず。鹽(しほ)は善きものなり、然れど鹽もし效力(こうりょく)を失は13040808ば、何によりてか味つけられん。土にも肥料にも適せず、外に棄てらるるなり。聽く耳ある者は聽くべし』

 イエスの言葉を何度でも読んでいかないと、私には理解できません。そして理解できたかなあ、と私が思うとき、私はイエスの言葉に納得できないでいるのです。

13011513 この章が私には、もう凄まじいばかりです。もう読んでいて、このときの凄まじい出来事、イエスの言葉にどうしても涙が出てしまいます。
 ペテロは、イエスから自分を「知らない」と言うだろうという言葉に「そんなことはない、そんな自分ではない」と言いきります。
 イエスはいいます。『鷄ふたたび鳴く前に、なんぢ三たび我を否むべし』。事実はペテロが三度『其の人を知らず』と言ったときに、『また鷄なきぬ』となるのです。
 ペテロは『思ひ反して泣きたり』となるだけなのです。

第14章
  さて過越(すぎこし)と除酵(じょこう)との祭の二日前となりぬ。祭司長・學者ら詭計(たばかり)をもてイエスを捕へ、かつ殺さんと企てて言ふ『祭の間は爲すべからず、恐らくは民の亂あるべし』
 イエス、ベタニヤに在して、癩病人シモンの家にて食事の席につき居給ふとき、或女、價(あたひ)高き混(まじり)なきナルドの香油(にほひあぶら)の入りたる石膏(せっこう)の壺を持ち來り、その壺を毀(こぼ)ちてイエスの首に注ぎたり。ある人々、憤ほりて互に言ふ『なに故かく濫(みだり)に油を費すか、この油を三百デナリ餘に賣りて、貧しき者に施すことを得たりしものを』而して甚く女(をんな)を咎(とが)む。イエス言ひ給ふ『その爲すに任せよ、何ぞこの女を惱すか、我に善き事をなせり。貧しき者は常に汝らと偕にをれば、何時にても心のままに助け得べし、されど我は常に汝らと偕にをらず。此の女は、なし得る限をなして、我が體に香油をそそぎ、あらかじめ葬りの備をなせり。まことに汝らに告ぐ、全世界いづこにても、福音の宣傅へらるる處には、この女の爲しし事も記念として語らるべし』
13021503  ここに十二弟子の一人なるイスカリオテのユダ、イエスを賣らんとて祭司長の許にゆく。彼等これを聞きて喜び、銀を與へんと約したれば、ユダ如何にしてか機(をり)好くイエスを付(わた)さんと謀る。
 除酵祭の初の日、即ち過越(すぎこし)の羔羊(こひつじ)を屠るべき日、弟子たちイエスに言ふ『過越の食をなし給ふために、我らが何處に往きて備(そな)ふることを望み給ふか』イエス二人の弟子を遣さんとして言ひたまふ『都に往け、然らば水をいれたる瓶(かめ)を持つ人、なんぢらに遇ふべし。之に從ひ往き、その入(い)る所の家主に「師いふ、われ弟子らと共に過越の食をなすべき座敷は何處なるか」と言へ。さらば調へ備へたる大なる二階座敷を見すべし。其處に我らのために備へよ』弟子たち出で往きて都に入り、イエスの言ひ給ひし如くなるを見て、過越の設備をなせり。
 日暮れてイエス十二弟子とともに往き、みな席に就きて食するとき言ひ給ふ『まことに汝らに告ぐ、我と共に食する汝らの中の一人、われを賣らん』弟子たち憂ひて一人一人『われなるか』と言ひ出でしに、イエス言ひたまふ『十二のうちの一人にて、我と共にパンを鉢に浸す者は夫なり。實(げ)に人の子は己に就きて録されたる如く逝くなり。されど人の子を賣る者は禍害なるかな、その人は生れざりし方よかりしものを』
 彼ら食しをる時、イエス、パンを取り、祝してさき、弟子たちに與へて言ひたまふ『取れこれは我が體なり』また酒杯を取り、謝して彼らに與へ給へば、皆この酒杯より飮めり。また言ひ給ふ『これは契約の我が血、おほくの人の爲に流す所のものなり。まことに汝らに告ぐ、神の國にて新しきものを飮む日までは、われ葡萄の果(み)より成るものを飮まじ』
13021504 かれら讃美をうたひて後、オリブ山に出でゆく。
 イエス弟子たちに言ひ給ふ『なんぢら皆躓(つまづ)かん、それは「われ牧羊者(ひつじかひ)を打たん、さらば羊散るべし」と録されたるなり。されど我よみがへりて後、なんぢらに先だちてガリラヤに往かん』時にペテロ、イエスに言ふ『假令みな躓(つまづ)くとも、我は然らじ』イエス言ひ給ふ『まことに汝に告ぐ、今日この夜、鷄ふたたび鳴く前に、なんぢ三たび我を否むべし』ペテロ力をこめて言ふ『われ汝とともに死ぬべき事ありとも、汝を否まず』弟子たち皆かく言へり。
 彼らゲツセマネと名づくる處に到りし時、イエス弟子たちに言ひ給ふ『わが祈る間、ここに座せよ』かくてペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴ひゆき、甚く驚き、かつ悲しみ出でて言ひ給ふ『わが心いたく憂ひて死ぬばかりなり、汝ら此處に留りて目を覺しをれ』少し進みゆきて、地に平伏し、若しも得べくば此の時の己より過ぎ往かんことを祈りて言ひ給ふ『アバ父よ、父には能(あた)はぬ事なし、此の酒杯を我より取り去り給へ。されど我が意のままを成さんとにあらず、御意(みこころ)のままを成し給へ』來りて、その眠れるを見、ペテロに言ひ給ふ『シモンよ、なんぢ眠るか、一時も目を覺しをること能はぬか。なんぢら誘惑(まどはし)に陷らぬやう、目を覺しかつ祈れ。實(げ)に心は熱すれども肉體よわきなり』再びゆき、同じ言にて祈り給ふ。また來りて彼らの眠れるを見たまふ、是その目いたく疲れたるなり、彼ら何と答ふべきかを知らざりき。三度來りて言ひたまふ『今は眠りて休め、足れり、時きたれり、視よ、人の子は罪人(つみびと)らの手に付さるるなり。起て、われらは往くべし。視よ、我を賣る者ちかづけり』
 なほ語りゐ給ふほどに、十二弟子の一人なるユダ、やがて近づき來る、祭司長・學者・長老らより遣されたる群衆、劍(つるぎ)と棒とを持ちて之に伴ふ。イエスを賣るもの、あらかじめ合圖を示して言ふ『わが接吻する者はそれなり、之を捕へて確(しか)と引きゆけ』かくて來りて直ちに御許に往き『ラビ』と言ひて接吻(くちづけ)したれば、人々イエスに手をかけて捕ふ。傍らに立つ者のひとり、劍を拔き、大祭司の僕を撃ちて、耳を切り落せり。イエス人々に對ひて言ひ給ふ『なんぢら強盜にむかふ如く、劍と棒とを持ち、我を捕13021505へんとて出で來るか。我は日々なんぢらと偕に宮にありて教へたりしに、我を執へざりき、されど是は聖書の言の成就せん爲なり』其のとき弟子みなイエスを棄てて逃げ去る。
 ある若者、素肌に亞麻布を纏ひて、イエスに從ひたりしに、人々これを捕へければ、
亞麻布を棄て裸にて逃げ去れり。
 人々イエスを大祭司の許(もと)に曳き往きたれば、祭司長・長老・學者ら皆あつまる。ペテロ遠く離れてイエスに從ひ、大祭司の中庭まで入り、下役どもと共に坐して火に煖(あたた)まりゐたり。さて祭司長ら及び全議會、イエスを死に定めんとて、證據を求むれども得ず。それはイエスに對して僞證する者多くあれども、其の證據あはざりしなり。遂に或者ども起ちて僞證して言ふ『われら此の人の「われは手にて造りたる此の宮を毀(こぼ)ち、手にて造らぬ他の宮を三日にて建つべし」と云へるを聞けり』然れど尚この證據もあはざりき。ここに大祭司、中に立ちイエスに問ひて言ふ『なんぢ何をも答へぬか、此の人々の立つる證據は如何に』されどイエス默して何をも答へ給はず。大祭司ふたたび問ひて言ふ『なんぢは頌むべきものの子キリストなるか』イエス言ひ給ふ『われは夫なり、汝ら、人の子の全能者の右に坐し、天の雲の中にありて來るを見ん』此のとき大祭司おのが衣を裂きて言ふ『なんぞ他に證人を求めん。なんぢら此のけがれし言(ごと)を聞けり、如何に思ふか』かれら擧(こぞ)りてイエスを死に當るべきものと定む。而して或者どもはイエスに唾し、又その顏を蔽ひ、拳にて搏ちなど爲始(しはじ)めて言ふ『預言せよ』下役どもイエスを受け、手掌(てのひら)にてうてり。
 ペテロ下にて中庭にをりしに、大祭司の婢女(はしため)の一人きたりて、ペテロの火に煖まりをるを見、これに目を注めて『汝もかのナザレ人イエスと偕に居たり』と言ふ。ペテロ肯(うけたが)はずして『われは汝の言ふことを知らず、又その意(こころ)をも悟らず』と言ひて庭口に出でたり。婢女かれを見て、また傍(かたは)らに立つ者どもに『この人はかの黨與(ともがら)なり』と言ひ出でしに、ペテロ重ねて肯はず、暫くしてまた傍らに立つ者どもペテロに言ふ『なんぢは慥(たしか)にかの黨與なり、汝もガリラヤ人なり』此の時ペテロ盟(うけ)ひかつ誓ひて『われは汝らの言ふ其の人を知らず』と言ひ出づ。その折しも、また鷄なきぬ。ペテロ『にはとり二度なく前に、なんぢ13021506三度われを否(いな)まん』とイエスの言ひ給ひし御言(みことば)を思ひいだし、思ひ反(かへ)して泣きたり。

 このことを指摘してくれたのは、吉本(吉本隆明)さんなのです。私はそのときの吉本隆明さんの言ったことを忘れることはできません。

13011303 ここのところは、何度か映画でも描かれたところです。ヨハネの首を盆に載せて、少女サロメはヘロデ王のために舞います。映像では華やかなものを感じますが、なんと残酷なことでしょうか。私はとても見ることも想像することもできません。「獄にてヨハネの首を斬り、その首を盆にのせて持ち來らしめ、之を少女に與ふ。少女はこれを母に捧ぐ」。なんというシーンなのでしょうか。

第14章
  そのころ、國守ヘロデ、イエスの噂をききて、侍臣(じしん)どもに言ふ『これバプテスマのヨハネなり。かれ死人の中より甦へりたり、さればこそ此等の能力その内に働くなれ』ヘロデ先に、己が兄弟ピリポの妻ヘロデヤの爲にヨハネを捕へ、縛りて獄に入れたり。ヨハネ、ヘロデに『かの女を納るるは宜しからず』と言ひしに因る。かくてヘロデ、ヨハネを殺さんと思へど、群衆を懼れたり。群衆ヨハネを預言者とすればなり。然るにヘロデの誕生日に當り、ヘロデヤの娘その席上に舞をまひてヘロデを喜ばせたれば、ヘロデ之に何にても求むるままに與へんと誓へり。娘その母に唆かされて言ふ『バプテスマのヨハネの首を盆に載せてここに賜はれ』王憂ひたれど、その誓と席に在る者とに對して、之を與ふることを命じ、人を遣し獄にてヨハネの首を斬り、その首を盆にのせて持ち來らしめ、之を少女に與ふ。少女はこれを母に捧ぐ。ヨハネの弟子たち來り、屍體を取りて葬り、往きて、イエスに告ぐ。
13011304 イエス之を聞きて人を避け、其處より舟にのりて寂しき處に往き給ひしを群衆ききて町々より徒歩(かち)にて從ひゆく。イエス出でて大なる群衆を見、これを憫みて、その病める者を醫し給へり。夕になりたれば、弟子たち御許に來りて言ふ『ここは寂しき處、はや時も晩(おそ)し、群衆を去らしめ、村々に往きて、己(おの)が爲に食物を買はせ給へ』イエス言ひ給ふ『かれら往くに及ばず、汝ら之に食物を與へよ』弟子たち言ふ『われらが此處にもてるは、唯五つのパンと二つの魚とのみ』イエス言ひ給ふ『それを我に持ちきたれ』かくて群衆に命じて草の上に坐せしめ、五つのパンと二つの魚とを取り、天を仰ぎて祝し、パンを裂きて、弟子たちに與へ給へば、弟子たち之を群衆に與ふ。凡ての人食ひて飽く、裂きたる餘(あまり)を集めしに十二の筐(かご)に滿ちたり。食ひし者は、女と子供とを除きて凡そ五千人なりき。
 イエス直ちに弟子たちを強ひて舟に乘らせ、自ら群衆をかへす間に、彼方の岸に先に往かしむ。かくて群衆を去らしめてのち、祈らんとて竊(ひそか)に山に登り、夕になりて獨そこにゐ給ふ。舟ははや陸より數丁はなれ、風逆ふによりて波に難(まやま)されゐたり。夜明の四時ごろ、イエス海の上を歩みて、彼らに到り給ひしに、弟子たち其の海の上を歩み給ふを見て心騷ぎ、變化(へんげ)の者なりと言ひて懼れ叫ぶ。イエス直ちに彼らに語りて言ひたまふ『心安かれ、我なり、懼るな』ペテロ答へて言ふ『主よ、もし汝ならば我に命じ、水を蹈みて御許(みもと)に到らしめ給へ』『來れ』と言ひ給へば、ペテロ舟より下り、水の上を歩みてイエスの許に往く。然るに風を見て懼れ、沈みかかりければ、叫びて言ふ『主よ、我を救ひたまへ』イエス直ちに御手を伸べ、これを捉へて言ひ給ふ『ああ信仰うすき者よ、何ぞ疑ふか』相共に舟に乘りしとき、風やみたり。舟に居る者どもイエスを拜して言ふ『まことに汝は神の子なり』
 遂に渡りてゲネサレの地に著きしに、その處の人々イエスを認めて、あまねく四方に人をつかはし、又すべての病める者を連れきたり、ただ御衣(みころも)13011305の總(ふさ)にだに觸(さは)らしめ給はんことを願ふ、觸りし者はみな醫されたり。

 このサロメがヨハネの首の前で踊るシーンは何度も映画で見たものです。残酷でそして美しいシーンでもあるのでしょうか。私も少しうっとりしてしまいます。

↑このページのトップヘ