将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:絶命詩

11100701  昨日の「男の隠れ家」の取材はうまく愉しくいきました。5月27日発売になります。そのあとライターのHさんと赤羽「まるます家」で飲みました。ここはヒサンないい飲み屋(私の「ヒサン」とは褒め言葉)でしばらく飲みました。それから用のある彼と別れて、谷中の「双葉」でまた飲みました。いろいろな知り合いとたくさんお話して、そしてたくさん唄(詠)いました。詩吟は2曲「絶命詩」「川中島」。あと私の唄ったのは、鶴田浩二「街のサンドイッチマン」、渡辺はま子「蘇州夜曲」、高峰秀子「銀座カンカン娘」、その他忘れた。いつもいい歌声を聞かせてくれるSさんにせがんで唄ってもらったのが、林伊佐雄「ダンスパーティの夜だった」、フランク永井「公園の手品師」。

 それから突如、この店のすぐ近くの「檸檬屋」で宮崎学さんのなんかの会合をやっていたなと思いだし、その店にいきました。入るなり、宮崎さんが「あ、萩原君、ひさしぶり」と声をかけてくれます。そこでまた飲み出しましたが、途中からあんまり記憶が定かではありません。皆さんは、タイの田中裁判のことを真面目にお話していました。私はそこでまた詩吟をやり、軍歌も唄っていたかもしれません。 ただ、強烈に覚えていることがあります。

 私は宮崎さんは大好きな方であります。彼の出版されている限りの本はすべて読みましたし、その人がらに強くひかれるものです。ただし、30年前の彼は、私の敵であった日本共産党の軍事組織の長であったわけです。それで、私としては、彼の周りには、今でも、あの当時の日共あかつき部隊に属した人がいることだろうと思ってきました。もはやそうした方も日共ではないでしょうから、愉しく飲み合う関係になれるのでしょうが、どうしても会いたい人物が私にはいるわけです。このことを私はこの飲んでいる席で宮崎さんに聞いていきました。
 今から30年前の1969年1月11日の夜に私は東大安田講堂にいました。当日は全共闘の部隊は東大駒場で日共との戦闘に入っており、安田講堂は中大全中闘を中心として100名を足らない人数しかいませんでした。私も埼大の友人とともに、この全中闘にまぎれて安田講堂に入ったものでした。
 その夜午後9時ころ、予想どおり、日共の軍事部隊が安田講堂に攻撃をかけてきました。こちらは、とにかく人数が少ないですから、それぞれ担当部署をきめて、守備になります。私は安田講堂西側の階段を一人で守っていました。もう私は石を投げるだけではなく、ありとあらゆる日共の悪口を敵に投げかけます。日共も相当頭に来たのか、とにかく大勢で私めがけて石を投げてきます。ときどき、全中闘の指揮者が見回りにきますが、「なんだ、ここはとくにひどいな」といいます。そして「あんまり挑発に乗らないように」なんていいながら、急に日共に、「お前ら一度でも権力と闘ってみろ!」などと怒りだし、彼こそが挑発にのり、かつ相手を挑発しだして石を投げ出します。
 とにかくこの戦いは長時間続きました。トイレに行くときには、「おい、今しょんべんしてくるから、待ってろ!」と日共諸君に声をかけて、また戻って同じ戦いをしていました。だんだん、彼らが迫ってきまして、次第にすぐ近くで顔は判りませんが、声や背丈で相手を区別できるまでになります。そんなときに敵の一人が私めがけていいます。

  おい、そこのトロツキスト!、そこを出てこい、出てきて1対
  1の差しの勝負をしようじゃないか!

 私はこのセリフを聞いたときに不思儀な思いにとらわれました。

  え、「差しの勝負」なんて、それは俺らが使う用語じゃないか。
  なんで日共民青があんな言葉使うんだ!

 だって私らこそが、そのころからヤクザ映画が好きだったのですから。たしか私は、

  バカヤロウ! 「差しの勝負」なんてセリフは俺らが使う言葉
  だ、おう、いつでもやってやるよ!

と答えたかと思います。
 その後の展開は、この「周の発言」の1998年11月22日に書いた内容になりました。
 だから、私はこのときの相手を探しているのです。まず出会うことはありえないと思っていましたが、今はこうして、あのときの敵であった日共の軍事組織の長である宮崎学さんと知り合いになることができたのです。宮崎さんがお一人のときは仕方ないけれども、こうして大勢集まったときには、あのときの日共の相手もいるのではないかと思って私は、この会合で

  あの、ここに昔日共の軍事組織に属していた人で、1969年
  1月11日の夜安田講堂を攻めてきた方がいませんか。あのとき
  …………………(と説明しまして)、その約束を果たせたらと思
  うんです。

と言い出しました。宮崎さんにも、誰か思い出せないものかと聞いていったのです。宮崎さんは、「そんなもん、覚えとるかい!」と怒られてしまいましたが、やっぱり残念だなあ。
 でももう30年がたってしまったのですね。(99/04/18 14:00:56)

11092905 私が大学6年生のとき、1972年のことです。あるときに酒の席で何故か、7月14日(パリ祭であり、祇園祭の宵山の日であったかな)京都駅で集まろうという話になりました。しかも全員ダークスーツにサングラスで集まろうというのです。私たちはみんな貧乏な学生ばかりです。しかも夏のスーツなんて持っていないほうが多かった。でもなんとか9人が集まりました。
 私は3人の仲間とスーツケースを持って前もって京都へ行きました。私たちは立命館の活動家たちのいる「ぷくとん寮」というところにお世話になりました。私たちは、たしか8日くらいに京都へ行きました。それから何をしていたかというと、ただ毎日ひたすら飲んでいました。
 14日の約束の前の日は、次の日にスーツを着る関係で、大酒とくにビールを飲むのはやめようとの決意のもと、四条や木屋町あたりで飲んでいました。それでもけっこう飲んで、夜の8時頃私が四条大橋の上で鴨川に向って詩吟をやり出しました。
 大勢の人がただ私を眺めていきます。そのときに、全く不思議な格好をした60歳くらいの老人が私のそばへやってきました。ちょうど鵜飼の装束のような格好です。烏帽子みたいなものをかぶっています。そして、驚くほど長い尺八を担いでいました。その尺八はその人の背よりも長く(160センチくらいあったのではないかな。かなり湾曲していたから担いで歩けたように思えます)、紐で上下を結んで肩で担いでいました。
 その人が私たちに声を掛けてきました。

  うん、桜田門外の詩(うた)ですか

と。私がやったのは、私が一番好きな黒沢忠三郎「絶命詩」(註)なのです。そこで私たちは話し出しました。そしてぜひその尺八を聞かせてくれと頼みました。

 (註)この詩は私が一番よく吟う詩です。

      絶命詩     黒澤忠三郎(勝算)
    呼狂呼賊任他評 狂と呼び賊と呼ぶも他の評に任す
    幾歳妖雲一旦晴 幾歳の妖雲一旦晴る
    正是櫻花好時節 正に是桜花の好時節
    櫻田門外血如櫻 桜田門外血は桜の如し

 その老人は、

  人にお聞かせできるようなものではありませんが

といって、私たちを鴨川の河原へ導きました。なるべく人が大勢いないようなところまで行って、「では……」の尺八をならし始めました。
 とにかく長い尺八なので、おそらく低い音なのだろうと想像していましたが、それは低いが、かなりな音で、鴨川の流れの音にも負けません。
 演奏が終ったとき、私たちは思わず拍手していました。そしてその老人は、私たちの誉める言葉に

  いやいや、桜田門外の詩にはかないませんが

といいながら、その尺八をまたかついで鴨川の河原を下流に歩いていきました。
 なんだか、時代が現代ではないような、そしてついさっきまでの尺八の音が私たちの耳にそのまま残ってしまいました。でも嬉しい出会いであり、嬉しい思い出です。

 そしてまた年月がたちました。その4年後のことです。1976年の夏に私はまた京都の鴨川の河原にいました。7月13日の午後7時くらいでしょうか。河原を歩く中、またあの老人を見つけたのです。老人は何故か同じような不思儀な格好でしたが、寂しげに鴨川の流れを見つめ、佇んでいました。尺八をまた持っているのですが、前のときのような長さはありません。もう120センチくらいの尺八です。
 私はその老人の背を遠くから眺めながら、一緒にいる私の連れの女性に、この老人との愉しい思い出を語りました。なんだか、その寂しい背を見ていると、哀しくなりますが、どうしても声を掛けられません。
 でもあまりにその老人が動こうとしないために、随分経ってから私たち二人で隣へ行って、挨拶して話掛けました。4年前のことを話しました。老人は覚えていてくれました。

 老人「あゝ、そんなこともありましたね
 私  「あのときはもっと長い尺八をお持ちでしたね
 老人「そうでした。……もうあの尺八は、私には吹けないんです
   よ、年を取りました

 なんだかあまり声を交わさないまま、しばらく一緒に鴨川を見ていましたが、やがて、その老人は「ごきげんよう」とまた鴨川の下流へ向って歩いていきました。その背中がやけに寂しく見えたものでした。
 なんだか私たち二人も、なんだかその日は沈んでしまいました。あの人の元気なときにもっとお会いしたかったなと思ったものです。
 これが、私が尺八で思い出す話です。なんだか不思儀で寂しい思い出です。

2016122713

10110605 私が詩吟を詠うのに一番好きなのがこの詩なのです。

    絶命詩     黒澤忠三郎(勝算)
  呼狂呼賊任他評 狂と呼び賊と呼ぶも他(ひと)の評に任す
  幾歳妖雲一旦晴 幾歳の妖雲一旦晴る
  正是桜花好時節 正に是桜花の好時節
  桜田門外血如桜 桜田門外血は桜の如し

  狂人と呼ぼうと、賊徒と呼ぼうと、それはいう人の評に任せよう
  井伊を倒した今は、妖雲も一時に晴れた思いである
  この時はまさしく 桜の咲く三月三日の好時節である
  桜田門外の雪の上に飛び散った血も また桜のようであった

 万延元年3月3日桜田門外で井伊大老を討った時の水戸天狗党のひとり、当日拳銃で襲撃の合図をしたとされる、黒沢忠三郎(1840〜1861)の辞世です。
 当日は今でいえば、4月の桜の季節なのですが、ときどきいまでもある台湾坊主(といわれる台湾周辺で発生する低気圧)の気候のおかげで、季節はずれの大雪でした。
 忠三郎は、神田浦三と名を変えて薩摩藩邸に潜伏し、水戸・薩摩の浪士たちと連絡をとりあい、この挙を計りました。
 彼の銃撃は合図だけでなく、最初に駕篭の中向けて撃った彼の銃撃が、井伊大老には致命傷となったということです。忠三郎は武芸に長けていましたので、大奮闘をしまして、刀が鋸のようになっていたと言われます。身に数創を負いましたが、老中脇坂淡路守邸に自訴しました。即日細川邸に幽閉され、さらに移動させられまして、文久元年7月26日斬られました。享年22歳でした。
 この詩は、その刑死される日の辞世です。最初「走筆作詩(ふでを走らせて詩を作る)」と題して、1句目を「呼狂呼賊任人評」と考ました。そのあと、推敲してこの句になりました。私は意味で、「他評(たひょう)にまかす」というところを、最初の句の読み方の「ひとの評にまかす」と詠っております。

 この詩は昔埼玉大学むつめ祭(埼大の学園祭)の統一テーマになったことがあります。1971年のむつめ祭のときです。もちろん私が提案して採用されたテーマでした。あのとき以来この詩がやたらに埼玉大学関係のイベントで詠われるようになりました。ついでにいいますと、70年安保闘争のときにも、私は集会でヘルメット姿でこの詩を詠いました。

 また同じく忠三郎が刑死の日に作った辞世の短歌です。

  君がため身を尽くしつヽ益荒雄の
    名をあげとおす時こそ待て

 忠三郎の思いは、いつも私に伝わってきます。私はいつもどこでも詠ってきた私が一番好きな詩です。(2003.05.20)

 思えば、71年のむつめ祭のときに、このテーマが選ばれたのは、私が実行委員会でこの詩を吟じたからです。私は学生運動の場では、よく詩吟をやりましたが、むつめ祭の実行委員会で詩われたのは、みな驚いたものでしょうね。いえいえ、学生運動(三派全学連、そのあとは全共闘運動)で吟われるのも驚くべきことだったかなあ。いえ、私がいるわけですから、別に当然のことなのです。
 この「黒澤忠三郎『絶名詩』」を私に詠うように、命じてくれたのは、その前年70年の秋に、私の詩吟の宗家荒國誠先生でした。私はいつも荒先生の声もお顔も思い出しています。
 それから、この71年のむつめ祭の統一テーマは

   呼狂呼賊任他評
    −我がなすことは我のみぞ知る−

 でした。サブテーマの「我がなすことは我のみぞ知る」は、坂本龍馬の「世の中の人はなんともいわばいえ 我がなすことは我のみぞ知る」の歌からとったものでした。

2017041017  永井荷風の詩です。浅草を愛した荷風を思います。

墨上春遊 永井荷風
黄昏轉覺薄寒加 黄昏(こうこん)転(うた)た覚ゆ 薄寒(はくかん)の加わるを
戴酒又過江上家 酒を載せて又過ぐ 江上の家
十里珠簾二分月 十里の珠簾(しゅれん) 二分(にぶん)の月
一灣春水滿堤花 一湾の春水 満堤の花

ad7a9fda.jpg たそがれのとき、何となく寒さがつのり
酒を携えて、また川べりの料亭へと上る
十里の堤に立ち並ぶ青楼 名月が照らしている
春の水は入江に満ち、桜の花は堤に満ちている

漢詩は、他の詩から語句を転用するのはよくあることのようです。この荷風の詩も唐詩からいくつか転用しています。
「二分の月」とは、徐凝(じょぎょう)の「天下三分名月の夜 二分無頼是れ揚州(天下の明月の夜の美しさの三分のニはなんと揚州が占めている)」から転用しています。でも私なんかには、この二分の月でなぜ満月で名月なのかはすぐに判りません。この転用した詩を知ってはじめて判ることなのですね。
春といっても寒いので、酒を飲みたくなるのでしょう。隅田川沿いに並んでいる料亭に上がってしまうのでしょうが、そこに酒を持って上がっていってもいいのかなあ。

隅田川沿いの浅草では花見で飲んだことはあります。船でお花見で飲んだこともあります。いつも必ず隅田川に向かって、「正是櫻花好時節」という(これは黒澤忠三郎『絶命詩』の転句)詩を詠ったものです。

周の『独楽吟のススメ』の5へのコメント

永井荷風は、父親が永井禾原(かげん)で漢詩人です。母は鷲津毅堂という漢詩人の娘さんです。

と書きましたように、荷風には漢詩を作ることは普通のことだったのでしょうね。おそらく漢詩は30ほどしか残っていませんが、漢詩そのものは実によく学んだものなのでしょう。
私は浅草の北側の街で何度か飲んだことがありますが、いい街ですね。いつも永井荷風が好きだったのだろうななんて思いながら街を歩いています。

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 絵本「おじいさんの旅」のことで思い出しましたナミちゃんが、以下のコメントをこれました。

1. Posted by なみんと    2007年10月27日 21:09
周さん!こんばんは。日本語訳の「おじいさんの旅」を私も読んでみたいです。下手な訳で恥ずかしいです。細かい所のニュアンスを確かめたいです。荒國先生のお話。。この本と少し似ているところがありますね。収容所にいたことがあるのですか。オペラ歌手の勉強をずっとされていたとの事ですから・・さぞ高くて力強く美しいお声なのでしょうね。周さんの声も高く力強いですね。

 ありがとう。昨日は、すごい雨でした。午前中10時台の王子図書館に行きましたが、この本の予約では、まだ本が用意されていませんでした。今インターネットを見ると、もう用意されています。9時すぎたら行ってきます。
 荒先生のことをはるかにたくさんのことを思い出していました。思えば、私が一番好きな詩吟である、黒澤忠三郎「絶命詩」も、この國誠先生が1970年に國誠流の日米加の合同の大会があった(この荒先生の國誠流は、米国だけでなくカナダも会員が多いのです)ときに、私の詠う詩として、私が指名されたものです。おそらく、先生は、私に一番合っている詩として、この詩を選んでくれたものだと思われます。
 この詩は、私は1970年の安保闘争でも、埼大の集会の中で、これを詠いました。いつもこころの中でも吟っている詩です。

 周の雑読備忘録「アレン・セイ『おじいさんの旅』」 へ

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