将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:自己としての自己

12052501 <自己としての自己> あるいは <個人としての個人> (個人主義といってもいいんですけれど)というものは、たとえば政治家になろうと、実業家になろうと、学者になろうと、それはもう誰からもまったく制約されない、自由であるというふうになります。徹底的にそうかんがえたほうがいい。それをはじめから倫理的にいろんな制約をつくるようなかんがえ方をしたはだめであって、それはもうそれでいいんだとかんがえたほうがいいですね。政治家なり学者なり実業家になって、社会的な意味において <自己> というものを問うたときに、それが過剰だったり過小だったりということでもってほかに累を及ぼしてしまうというのだったら、そのときはじめて <個人としての個人> は批判、否定の対象となる。だけど <個人としての個人> というのを純粋にとり出した場合には、それはもう何になろうと何をしようと自由であるということです。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」

 このことは、そういうふうに考えるように生きてきたつもりですが、もっと徹底して自分でそう考えていこうと思いました。ただ、これは吉本さんには、前々から吉本さんの核に存在する考え方のように思えます。徹底して自分は自由であると考え尽くすことが大事だなと私は思っています。

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 ぼくは親鸞以外でいうとフーコーが好きなんです。やはりとても似ているところがあって、違う発想がありますね。ぼくなんかは、 <自己としての自己> なんていうわけのわからない言葉を使うけれど、フーコーは <自己への配慮> ということをいっています。(『主体の解釈学』筑摩書房、『性の歴史  自己への配慮』新潮社)。
 その「配慮」という言葉は、哲学語としてはないんです。自己的でもないし、社会的でもない。ふたつの自己がはっきり分離されているという意味合いに通ずる形で <自己への配慮> という言葉を使っている。
(『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」」)

 フーコーの本は読んでも私には、いつも判りにくいだけでした。ただ、いつも吉本さんの言われることから、フーコーを理解しようとしてきています。そして今どうしてもうまく理解できていない自分を感じてしまっています。いや、ようするに私が明確に説明できないと私は大変に不満なのです。

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06073102 たとえば極端なことをいうと、法律的な違反をしようとしまいと、そんなことは自由である。だけど違反したことが社会的な意味合いでほかに影響を与えてしまうのであったら、その個人 <自己としての自己> というのは利己的な自己ということになってしまう。こうなったとき、はじめて倫理的な部分が問われる。そういうことというのは、はっきりしておかないといけないですね。
 はっきりさせるにはどうすればいいんだというと、はじめから自分のなかではその分離が自覚されていて、それが行為なり思想なりとして出てくるというふうになれば、社会的に何かを問われるような、そういう過剰さや過小さというのは出てこない。
 だから「分離というのは人間力なんだ」という自覚をはじめに持っているかぎりは、出てくる自己は個人主義的であろうと、その個人主義が社会的に何かを問われることになろうと、そういうことに対して混同が起こることはない。
(『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」」)

 いや、何度読みましても、私が理解できえているのかというのははなはだ自信のないことです。今の私は何度も読み返して、現実の世界に当てはめて何度も自分に問い返していかないとならないでしょう。

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  <自己としての自己> あるいは <個人としての個人> (個人主義といってもいいんですけれど)というものは、たとえば政治家になろうと、実業家になろうと、学者になろうと、それはもう誰からもまったく制約されない、自由であるというふうになります。徹底的にそうかんがえたほうがいい。それをはじめから倫理的にいろんな制約をつくるようなかんがえ方をしたはだめであって、それはもうそれでいいんだとかんがえたほうがいいですね。政治家なり学者なり実業家になって、社会的な意味において <自己> というものを問うたときに、それが過剰だったり過小だったりということでもってほかに累を及ぼしてしまうというのだったら、そのときはじめて <個人としての個人> は批判、否定の対象となる。だけど <個人としての個人> というのを純粋にとり出した場合には、それはもう何になろうと何をしようと自由であるということです。(『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」」)

 このことは、そういうふうに考えるように生きてきたつもりですが、もっと徹底して自分でそう考えていこうと思いました。ただ、これは吉本さんには、前々から吉本さんの核に存在する考え方のように思えます。徹底して自分は自由であると考え尽くすことが大事だなと私は思っています。

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 結局、根本的にこの <自己としての自己> と <社会的自己> との分別あるいは分離というものを自覚していくしかない。それはいわば人間力を意識するということになるとおもいます。それができると、その精神性が外に現れたときには社会化して、 <自己としての自己> あるいは <個人的な自己> と混同することはあり得ない。外と内を混同することはありえない。あくまでふたつの自己の分離を自分のなかで自覚しないといけないわけです。その自覚というのは、ぼくの言葉でいうと人間力ということ自体の問題だというふうになってしまうんですね。(『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」」)

 私が自覚できているはずだと思い込んでいる「人間力」ですが、でもよくよく考えると、このことができ得ているのかということを、絶えず自分に問うていかなければならないなと気がつきました。

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