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Tag:自己への配慮

12052905 吉本隆明鈔集470「自己への配慮」目森一喜さんから、次のコメントがありました。

1. Posted by 目森一喜   2012年05月24日 16:39
 フーコーに限った話ではありませんが翻訳が怪しいですね。そのためにわかりにくくなっている・・・いえ、わかるわけのないシロモノに成り果てている場合が多いです。
 フーコーの主著というと「言葉と物」でしょうが、アレもどうかなと思う所があります。
 フランス語は出来ないのでどうしようもありませんけれども。

 私なんか、フランス語もなにもまったく分かりません。フーコーも読んでも、彼の著作はよく分からないです。ただ、吉本(吉本隆明)さんとの対談は良かったですね。ただし、そばで翻訳している人が、どうにも私には気に入りませんが。ただ私にはフーコーさんがけっこう遠慮がちに思えたものです。
 あの対談で言われたように、『言語にとって美とはなにか』なんか、フランス語に翻訳されたのかなあ。

12052310 ぼくは親鸞以外でいうとフーコーが好きなんです。やはりとても似ているところがあって、違う発想がありますね。ぼくなんかは、 <自己としての自己> なんていうわけのわからない言葉を使うけれど、フーコーは <自己への配慮> ということをいっています。
(『主体の解釈学』筑摩書房、『性の歴史  自己への配慮』新潮社
 その「配慮」という言葉は、哲学語としてはないんです。自己的でもないし、社会的でもない。ふたつの自己がはっきり分離されているという意味合いに通ずる形で <自己への配慮> という言葉を使っている。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」

 フーコーの本は読んでも私には、いつも判りにくいだけでした。ただ、いつも吉本さんの言われることから、フーコーを理解しようとしてきています。そして今どうしてもうまく理解できていない自分を感じてしまっています。いや、ようするに私が明確に説明できないと私は大変に不満なのです。

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 ぼくは親鸞以外でいうとフーコーが好きなんです。やはりとても似ているところがあって、違う発想がありますね。ぼくなんかは、 <自己としての自己> なんていうわけのわからない言葉を使うけれど、フーコーは <自己への配慮> ということをいっています。(『主体の解釈学』筑摩書房、『性の歴史  自己への配慮』新潮社)。
 その「配慮」という言葉は、哲学語としてはないんです。自己的でもないし、社会的でもない。ふたつの自己がはっきり分離されているという意味合いに通ずる形で <自己への配慮> という言葉を使っている。
(『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」」)

 フーコーの本は読んでも私には、いつも判りにくいだけでした。ただ、いつも吉本さんの言われることから、フーコーを理解しようとしてきています。そして今どうしてもうまく理解できていない自分を感じてしまっています。いや、ようするに私が明確に説明できないと私は大変に不満なのです。

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