将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:與謝野晶子訳「源氏物語」

11091005 何年か前に、金曜日の夜に帰宅するときに、コンビニの周りで「少年ジャンプ」の発売を待っている多くの男の子たちの姿を見たものでした。本屋だと月曜日発売のジャンプを誰よりも早く読みたいのです。そして彼らが読みたい漫画はもちろん「ドラゴンボール」でした。
 私はこの少年たちの姿を見るときに、いつも平安の時代に紫式部の出す「源氏物語」を心待ちにしているたくさんの少女たちの姿を重ね合わせて感じていました。そして、この少女たちのずっと後輩に與謝野晶子がいるのだな、と思うのです。

書名     源氏物語
訳者     與謝野晶子
発行所   角川文庫

 私が源氏物語の世界に初めて接したのが、ちょうど21歳のときでした。谷崎潤一郎「新々訳源氏物語」をいっきに読んでしまいました。当時私は学生運動のことで、府中刑務所の拘置所にいたので、ひとりで誰にも邪魔されることなく読むことができました。しかし、かなり難しいのです。ちょうど中央公論社版で毎巻に登場人物の関係図があり、それを見ながら、「あ、そうか、これはこういう関係か」なんて確認しつつ読んだものです。
 しかしそれにしても難解なことには変わりありません。源氏と各女性たちとのあいだにとりかわされる短歌なんか、いくら読んでもさらによく分かりませんでした。これだと原文の源氏って、もっとむづかしいんだろうななんて想像していました。

 ところが、吉本さんの源氏に関する文とか、小林秀雄に関する文などを読むようになってから、どうも私のこの源氏に対する感じはなにか違うのじゃないかなと思い至るようになりました。
 もっと源氏は軽く読んでいけるものなのではないか。手軽に読んでのちに、いろいろなことが見えてくるのではないのかと思い到ったのです。谷崎源氏では、あまりに律儀に律儀に忠実に原文にそっているだけで、少しも面白く読んでいけません。そうしたときに、昔中学生のころ、少し接したことのある、與謝野晶子の訳で源氏に迫ってみたいと思いました。
 そしてどうやら、吉本さんのいうことの意味が少しは判ってきたものです。

 小林、宣長の源氏理解の欠陥

  宣長の「物のあわれ」論は、「源氏物語論」としてだけでなく、文学論としても画期的なものだったが、敢えていえばもうひとつこの物語の奥行きを測るところまではゆかなかった。
 わたしたちが現在『源氏物語』をたどるとき、この作品が作者と語り手の完全な分離に耐えるものであることが、すぐに理解される。宣長の『源氏』理解と、それをいわば円環的に追認し、情念を傾ける小林秀雄の『源氏』理解の欠陥は、すぐに「宇治十帖」を論じている箇所にみることができる。
「小林秀雄について」1983.5「海」に掲載 「重層的な非決定へ」1985.9大和書房に収録 「追悼私記−小林秀雄批評という自意識」1993.3JICC出版局に収録

 つまり現在の「源氏」理解では、この物語が作者と語り手の完全な分離に耐える優れた作品であるという点まで到っているということだと思う。小林にも宣長にも、そのことの読みが欠けていたということなのだが、小林にはさらに宣長の「物のあわれ」論にも至っていなかったのではと思われるのも吉本さんの指摘である。(「吉本隆明鈔集」より)

 私はこの長大な物語のなかで、好きになれるところ、好きになれる女性といったら、空蝉と夕顔でした。だが、たとえばどうして、空蝉は源氏の思いを拒絶するのか、どうして夕顔は突然死んでしまうのかがよく判りませんでした。

  こうした空蝉とか夕顔とかいうようなはなやかでない女と源氏
  のした恋の話は、源氏自身が非常に隠していたことがあると思っ
  て、最初は書かなかったのであるが、帝王の子だからといって、
  その恋人までが皆完全に近い女性で、いいことばかりが書かれて
  いるではないかといって、仮作したもののいうように言う人があっ
  たから、これらを補って書いた。なんだか源氏にすまない気がす
  る。(「夕顔」)

 こうして「なんだか源氏にすまない気がする」といっているのは、語り手なのですが、作者は「すまない」といっているわけではなく、厳然と読者に対して向っている力強い女紫式部を感じてしまいます。ここらのことが、與謝野晶子が「源氏物語」の中に力強く自立した女を感じてこうして訳していった動機なのかなとも思います。「源氏物語」は源氏の華やかな女性遍歴の物語なのではなく、その中に力強い作者の存在をも感じられるのです。おそらくは藤原道長に口説かれたこともあったであろう作者が空蝉の姿でもあり、また夕顔を殺してしまうのは、源氏自身のなかにある、「貴種」としての、もうひとりの源氏なように思います。
 與謝野晶子には、「源氏物語」はよく読み込んできていた物語なのだと思います。だから、読んでいると、書いているのが、紫式部なのか、與謝野晶子なのが判らなくなってくるところがあります。これが谷崎源氏だと、おおいに違うのですね。正確に正確に、そして谷崎はこの物語に魅せられすぎているように思われます。それに対して、與謝野晶子には、この物語がもう自らのものとして、こなれすぎているような感じがあります。谷崎は何度も何度も源氏を訳しなおします。多分もっと生きていたら、また訳し直して完全なものを作ろうと考えたのではないでしょうか。與謝野晶子はそうではなく、こんなに面白い身近な物語を、出来るだけ大勢の女性たちに読んで貰いたいとのみ思っていたように、私には思えるのです。
  ただ私にはまだまだ源氏にはもう少し迫り足りないように思っています。また何度も、読み返していきたいなと思っているところです。(1998.11.01)

11012107 何年か前に、金曜日の夜に帰宅するときに、コンビニの周りで「少年ジャンプ」の発売を待っている多くの男の子たちの姿を見たものでした。本屋だと月曜日発売のジャンプを誰よりも早く読みたいのです。そして彼らが読みたい漫画はもちろん「ドラゴンボール」でした。
 私はこの少年たちの姿を見るときに、いつも平安の時代に紫式部の出す「源氏物語」を心待ちにしているたくさんの少女たちの姿を重ね合わせて感じていました。そして、この少女たちのずっと後輩に與謝野晶子がいるのだな、と思うのです。

書  名   源氏物語
訳  者   與謝野晶子
発行所   角川文庫

 私が源氏物語の世界に初めて接したのが、ちょうど21歳のときでした。谷崎潤一郎「新々訳源氏物語」をいっきに読んでしまいました。当時私は学生運動のことで、府中刑務所の拘置所にいたので、ひとりで誰にも邪魔されることなく読むことができました。しかし、かなり難しいのです。ちょうど中央公論社版で毎巻に登場人物の関係図があり、それを見ながら、「あ、そうか、これはこういう関係か」なんて確認しつつ読んだものです。
 しかしそれにしても難解なことには変わりありません。源氏と各女性たちとのあいだにとりかわされる短歌なんか、いくら読んでもさらによく分かりませんでした。これだと原文の源氏って、もっとむづかしいんだろうななんて想像していました。

 ところが、吉本さんの源氏に関する文とか、小林秀雄に関する文などを読むようになってから、どうも私のこの源氏に対する感じはなにか違うのじゃないかなと思い至るようになりました。
 もっと源氏は軽く読んでいけるものなのではないか。手軽に読んでのちに、いろいろなことが見えてくるのではないのかと思い到ったのです。谷崎源氏では、あまりに律儀に律儀に忠実に原文にそっているだけで、少しも面白く読んでいけません。そうしたときに、昔中学生のころ、少し接したことのある、與謝野晶子の訳で源氏に迫ってみたいと思いました。
 そしてどうやら、吉本さんのいうことの意味が少しは判ってきたものです。

 小林、宣長の源氏理解の欠陥
  宣長の「物のあわれ」論は、「源氏物語論」としてだけでなく、
文学論としても画期的なものだったが、敢えていえばもうひとつこ
の物語の奥行きを測るところまではゆかなかった。
 わたしたちが現在『源氏物語』をたどるとき、この作品が作者と
語り手の完全な分離に耐えるものであることが、すぐに理解される。
宣長の『源氏』理解と、それをいわば円環的に追認し、情念を傾け
る小林秀雄の『源氏』理解の欠陥は、すぐに「宇治十帖」を論じて
いる箇所にみることができる。
(「小林秀雄について」1983.5「海」に掲載 「重層的な非決定へ」
1985.9大和書房に収録 「追悼私記-小林秀雄批評という自意識」
1993.3JICC出版局に収録)

 つまり現在の「源氏」理解では、この物語が作者と語り手の完全
な分離に耐える優れた作品であるという点まで到っているというこ
とだと思う。小林にも宣長にも、そのことの読みが欠けていたとい
うことなのだが、小林にはさらに宣長の「物のあわれ」論にも至っ
ていなかったのではと思われるのも吉本さんの指摘である。
                         (周の『吉本隆明鈔集』より)

 私はこの長大な物語のなかで、好きになれるところ、好きになれる女性といったら、空蝉と夕顔でした。だが、たとえばどうして、空蝉は源氏の思いを拒絶するのか、どうして夕顔は突然死んでしまうのかがよく判りませんでした。

  こうした空蝉とか夕顔とかいうようなはなやかでない女と源氏
 のした恋の話は、源氏自身が非常に隠していたことがあると思っ
 て、最初は書かなかったのであるが、帝王の子だからといって、
 その恋人までが皆完全に近い女性で、いいことばかりが書かれて
 いるではないかといって、仮作したもののいうように言う人があっ
 たから、これらを補って書いた。なんだか源氏にすまない気がす
 る。                     (「夕顔」)

 こうして「なんだか源氏にすまない気がする」といっているのは、語り手なのですが、作者は「すまない」といっているわけではなく、厳然と読者に対して向っている力強い女紫式部を感じてしまいます。ここらのことが、與謝野晶子が「源氏物語」の中に力強く自立した女を感じてこうして訳していった動機なのかなとも思います。「源氏物語」は源氏の華やかな女性遍歴の物語なのではなく、その中に力強い作者の存在をも感じられるのです。おそらくは藤原道長に口説かれたこともあったであろう作者が空蝉の姿でもあり、また夕顔を殺してしまうのは、源氏自身のなかにある、「貴種」としての、もうひとりの源氏なように思います。
 與謝野晶子には、「源氏物語」はよく読み込んできていた物語なのだと思います。だから、読んでいると、書いているのが、紫式部なのか、與謝野晶子なのが判らなくなってくるところがあります。これが谷崎源氏だと、おおいに違うのですね。正確に正確に、そして谷崎はこの物語に魅せられすぎているように思われます。それに対して、與謝野晶子には、この物語がもう自らのものとして、こなれすぎているような感じがあります。谷崎は何度も何度も源氏を訳しなおします。多分もっと生きていたら、また訳し直して完全なものを作ろうと考えたのではないでしょうか。與謝野晶子はそうではなく、こんなに面白い身近な物語を、出来るだけ大勢の女性たちに読んで貰いたいとのみ思っていたように、私には思えるのです。
  ただ私にはまだまだ源氏にはもう少し迫り足りないように思っています。また何度も、読み返していきたいなと思っているところです。(1998.11.01)

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