将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:芝浦工大事件

12090611 また書くわけですが、私はけっこうしつこいでしょう。
 それでですね、私は「当時の芝浦生」さんに、多分69年に大学へ入られたということは、私が昭和23(1948年)生まれで、現在64歳ですが、「当時の芝浦生」さんは現在62歳か61歳だと推定します。
 そうだとしたら、私がこうしてブログを毎日書いているように、ぜひ「当時の芝浦生」さんもブログを立ち上げてください。私なんかは、いつも酔っ払いでどうしようもないのですから、それよりはずっとましだろう「当時の芝浦生」さんにもぜひともやってほしいものです。
 私なんかは、もともと漢詩が好きで、詩吟をやっていて、実際に70年安保闘争の6・23のときには、埼大のバリケードの中の集会で七言絶句の「黒澤忠三郎『絶命詩』」(実際に詠っているのはここです)をやったものでした。そのあと司会者の一人だった中核派のAがものすごく感激した旨のアジをしてくれたものでした。
 私のブログは内容はともかく、UPしている量だけは、誰にも負けません。中国にも米国にも欧州にも、私以上の量を書いているサイトはありません。私は知りません。
 まあ、しょせんインターネット上のブログなのですが、今は誰でもできるはずです。とにかく、私がやれてしまうのですから。

12090605 また書きます。
 周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ以下のコメントがありました。

2. Posted by 当時の芝浦生より   2012年09月05日 14:08
将門さんはじめまして。
朝に、大宮校舎内の寮生活者が起きるのはいつも遅かったのですが、ヘリコプターが上空を舞う音で起き、「事件」を知りました。
15日夜遅くに、バリケードから去るに当り、滝沢さんにお腹がすいたらインスタントラーメンをどうぞと言い伝え、大学講堂の椅子や机の細いトンネルをくぐり抜けドアを閉め最後に帰ったのが私です。
69年4月入学の私が運動には新入であり、生意気にも大学には境界はなく、どの大学も学生のために解放されてるなどと滝沢さんにも話をしました。
ラーメンの話をした時は座っていた滝沢さんは口頭では返事もせず、背筋を伸ばし、なにか考えごとをしてるようでした。

滝沢さんは、「これは美味しいパンだなあ」と丁寧な言葉で言ったことには、私は鮮明に記憶があります。

この文は心からわかるのです。温厚で心優しいお方との印象は今も忘れておりません。
窓下にたくさんの大宮の学生が花を供え黙祷しました。

12090608  ありがとうございます。私たちが「芝浦工大事件」と呼んできたものですね。あれは1969年9月19日早朝に起きた事件でした。
 前日9月18日に埼玉大学文理校舎のバリケードに、不審な黒ヘルメット姿の10名くらいが襲ってきました。そしてTという理工学部の男を拉致していきました。この不審な集団は言うことは早稲田の革マル派のようでした。でも真実は中核派が革マル派を装った姿でした。そしてこの日は早稲田の革マル派も、早稲田他の反戦連合が襲ってくるということで、構えていたといいます。
 要するに、みんな何かを構えていたのですが、それはみな誰かが流したガセ情報でした。でも事実は文理のバリケードにいた埼大生はこの不審な黒ヘル集団に襲われ中には怪我をしていたものもいます。
 私は当日北浦和のロビンという喫茶店で、東大闘争での埼大生の被告団会議をしていました。それで急遽この喫茶店への「早稲田の山本派(革マル派のこと)が襲ってきた。来てくれ」というので、急いで駆けつけたのです。このときの被告団の中の中核派のMさんは、埼大文理の正門で消えました(そのとき気がついたのでしょう。あとでMさんは、あくまでこの中核派の行動に反対していたということでした)。
12090609 私は埼大のバリケードに入って、現場の惨状を見るときに、「これは革マルなんかじゃない。学生運動というのはなんという恐ろしい世界だ」と思ったものです。私は8月20日に東大闘争で保釈になったばかりで、まだ1ケ月も過ぎていなかったのでした。
 当日はこのバリケード内にも中核派の諸君もいました。その中の一人が、滝沢さんが芝浦工大にいるということで、タクシーで訪れたのですが、滝沢さんは「Tのことは知らない」としか言わず、そしてとても眠たがっていたということが伝えられました。これは私たちは埼大文理学部ではなく、そこから徒歩15分くらいの経済学部で聞いたもものです。そのときには、私たちは、いわゆる反戦連合(とかいうのがあったそうだ)の部分だけでなく、中核派の人もその他の人も30人くらいになっていました。
 とにかく、拉致されたTを救出するのには、芝浦工大へいかなければならないということで、私たちはタクシーで東大宮の芝浦工大へ向かいました。行ったのは全部で23人でした。この中には中核派の人もいました。
 そしてそこで起きたのが滝沢さんが2階から飛び降りるという事態でした。そして彼は頭を打って亡くなるということになってしまいました。
 これで私たちは、内内ゲバ殺人事件の犯人とされ、12月9日に私は浦和地裁前で逮捕され、朝霞警察署に拘留されました。
 中核派で前日襲った部隊は外部大学の部隊ばかりで、滝沢紀昭さんのみがいたようです。このときの滝沢紀昭さんの気持は今は分かる気がします。

滝沢さんは、「これは美味しいパンだなあ」と丁寧な言葉で言ったこと

というのは、これは東大安田講堂の中でのことですが、私が東大に行く前に、王子から都電に乗る前に、王子の明治堂というパン屋で、パンをいくつも買って行ったのですが、ここは今の和弘さんのお父さんが現役で作られていたのです(もうお父さんは亡くなられました)。このときの私たち若者は、このお父さんにも大変に印象が強かったようです。
12090610 いえ、なんでそんなことを私が知っているかというと、のちにここの長女が私の彼女になったからです。あの頃はたくさんのことがいっぱい起きていたのでした。
 思えば、王子は王子野戦病院闘争からずっと訪れている街です。たくさんのことがあったものでしたね。王子柳田公園は今私が毎日通る路になっています。

12090514 周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2「当時の芝浦生」さんよりコメントがありましたが、それへのレスを先ほど書き始めたのですが、ちょっと簡単にはすまないのですね。時間がかかります。
 それで、またあとでUPします。他にもやることがあるのですね。
 まずは、これだけでUPします。でもこうして書き込んでくれてありがとうございます。もう私と同じ年代の方のほとんどは、こうしたパソコンでインターネットへ書き込むことは不可能という感じなのです。もう実に困っています。
 あとで書きますね。

12012811  昨日1月28日に埼玉大学の友人でありました小島均さんのお墓参りに行ってきました。私を含め8人の友人が集まってくれました。そこで私の持って行きました文書をここに掲示いたします。

         萩原周二よりの小島均さんへの思い     2012.01.28
1.私はいつも「書き言葉」と「話し言葉」ということを言っています。そして、私の友人でありました小島均さんについても、私の書き言葉で、こうして書いておきたいと思いました。もちろん、私のインターネット上のブログ

   http://shomon.livedoor.biz/  将門Web

にも、今夜28日か明日29日に、この文章をUPします。
2.小島均さんのことを思うと、いくつものことが思い出させます。思えば彼には手紙も書いたことはなかったのだと思い出します。私は手紙はけっこう書いていて(2008年には私的な手紙は600通を超えました)、でも彼には書いていなかったのだと悔やむばかりです。でも今では、ケータイメール(私はけっこう長文のケータイメールですよ)が多くなりましたが、彼とも交わしたかったものです。
3.彼と私は1967(昭和42)年に埼玉大学に入学し(ただし、彼は私より2歳年上でした)、同じ歴史研究会に入り知り合いました。彼はよく、年上の先輩方とも、丸山正男や吉本隆明の話をしていまして、当時は丸山正男は知っていましたが(高校時代に岩波新書の「日本の思想」は読んでいました)、吉本隆明は私は名前もまったく知らないもので、いつも驚いていました。
12012812 でも今では、吉本隆明といえば、私のサイトは知られていますし、吉本(吉本隆明)さんご自身も、私のことをマスコミ者に対して、「律儀な人」と言われるようになりました。これも、思えば小島均さんのおかげだよなあ、と思っています。
4.思い出せば、1967年秋のむつめ祭で、我が歴史研究会は講演会で高島善哉を呼びまして、そのときに、小島均さんが彼の腕を取って歩いていたことを(高島さんは目が失明に近いくらいに見えませんでした)思い出します。
 高島さんが、小島均さんの言うことに対して、「長洲(神奈川県知事だった長洲一二のこと)なんか読んだってしょうがないよ」と言いまして、あとで小島均さんが舌を出したのを覚えています(私は小島さんが舌を出したのは、初めて見たものです)。
5.その翌々年1969年1月、私は東大闘争で逮捕起訴され、府中刑務所に拘留になりました。このときに、彼は3月に2度、4月に1度、7月に1度、8月に1度面会に来ています。その7月の接見面会で、彼が私のことを「うらやましい」と言ったのを覚えています。私は今孫のじゅにが「千葉県こども病院」に入院していますが、最初の昨年5月は府中市の「多摩医療総合センタ−」に救急車で運ばれました。私と妻はあわてて、京王線のどこかの駅で行ったものでしたが、そこからタクシーで府中刑務所のわきを通ったのでしたが、あんな遠くまで小島さんは面会に来てくれていたのですね、そのことを強く思い出していました。
6. 私がその後、芝浦工大事件があったのちも、また1970年の秋にも、学生運動の場で、激しくやっていると、彼は「いつまでやるんだ」というような視線をくれていたものです。
 その後、社会へ出てからも、彼が職場のことで、私に相談に来たことがあり、でももうちゃんと応えられていたのかと不安です。
7.もう毎年年末の浦和会の忘年会でお会いするだけになっていました。いつも二次会に誘うと、言葉少なく断るだけでした。
 思えば、もっと話しておけばよかった。手紙もメールも書いておけばよかったと今は悔やむだけの私です。萩原周二

   小島均さんのお墓は「1-6-7-11」です。

11111610 もうすぐ神田会です。名簿を用意したりいろいろしました。あとは飲むだけです。ただ、私は2日間完璧に徹夜なのですね。昨日の昼に少し仮眠を取るつもりでいたのですが、来訪者がありまして、その相談でその機会がなくなり、そのままです。これで飲んだらまずいかな。なにしろ神田会は飲むんですね。会場を探すのが大変なのです。宴会時間って、2時間が多いじゃないですか。延長しても30分でしょう。無理を言って1時間の延長。でも神田会はそれじゃだめなのです。2時間半くらいでおわると、必ず2次会になってしまし、そここそ効率が悪い(いや、誰がどこかへはぐれただの、どこへ行ったか判らないなどと大変です)ので、すべて1軒ですむのがいいのです。
 それで本日は4時間貸切です。これはいいなあ。
 でも思えば、浦和会というのは、いつも3次会4次会5次会とやっていたものでしたね。土曜日の午後6時からはじめて、次の日の昼をすぎても、まだ飲んでいまして、私は午後3時ころになって逃げ出したことがあります。今の浦和会はさすがに、朝の8時ころ解散です(いえ、最後の店のマスターが大歓迎してくれるのですが、さすが「もう朝だから、私を眠らせてよ」というんですね)。
 そんな話はさておき、本当はいろいろなことをいいたいわけです。
 今月18日は、「芝浦工大事件」のあった1969年9月18日からちょうど30年でした。埼大生かつ中核派の活動家であった滝沢紀昭さんが、芝浦工大で「反戦連合」がやってきたときに、2階から飛び降りて、脳座礁で亡くなってしまった事件です。そして私は、その滝沢さんを襲ったと言われる側の人間でした。30年というので、私の友人たちや先輩たちが、何人も滝沢さんの墓参りに行きました。滝沢さんのお父さんは87歳、お母さんが76歳でお二人ともお元気で、わざわざ埼大の人たちが来たということで、大歓迎してくれ、大量の酒が出まして、みな帰れずに,しこたま飲みまして、その日夕方からありました小野田襄二さんの出版記念会には、出席できなかったということです(小野田さんも埼大の先輩なのです)。なんだか、中核派だ、反戦連合だという前に、埼大生ということで、酒が酌み交わせるなんていいことです。
 私は、前々から予定していたことがありまして、どちらにも参加できませんでした。でもこの18日は、私は朝から、さまざまなことがあり、真夜中まで、上の芝浦工大事件の思い出含めて、感慨深い日でした。
 本当はそんな思いをたくさん書き残しておくべきだよなと思っています。(1999/09/29 18:34:30)

11072108 いや、いくつものことを思います。明日じゅにとブルータスの顔を見て、それで私は少し安心します。

2011/07/23 12:25今NHKの「生活笑百科」を見ています。
 これはいつも見ています。考えてみればいつから見ているのだろう。随分昔から見ていますね。
2011/07/23 18:31原田芳雄さんを思い出します。思えば、私は2度しか会っていないのかなあ。私のクライアントの新事務所(というか、7階建ての、あ、地下もあった)の設立パーティのときと、彼のご自宅にお伺いしたときです。彼のご自宅では彼の奥様含めて大事なお話をしたのでした。
 思えば、原田芳雄さんは、私は昔「原田」という偽名を使っていたこともあるように、実に好きな俳優でした。いやこれは実に私には大変でした。実に芝浦工大事件で、少し逃亡している時でした。私はうまく偽名を使うことができないのですね。1969年の9月のことで、私はやっと東大闘争で保釈になって、まだ1カ月にもなっていないときでした。
 思い出せば、(この間に、大事な電話がありました)あの当時もいくつものことがあったのですね。69年8月20日に保釈になって、12月10日にまた逮捕されました。でもあの短い期間にもいくつものことがあったのですね。いくつものことを思い出します。

 もうこれでUPしないといけないですね。

11021409 私の 当世駿台生気質 に江田さんからの次のコメントがありました。

1. Posted by 江田   2011年02月14日 09:18
ちょっときまぐれに読んでみたら、
う~ん、面白かった。
私などは頭をけっこう柔らかく使っている方だと自負していたけれど、いやいや、この人達は遙かに上手だなあと思った。若い人達は、案外ちゃんとものを考えていて、バカじゃない(人もけっこういる)のかねえ。
それに対して素直に「脱帽」している小野田氏もいいねえ。

(ところで)私は小野田襄二さんという人には会った記憶がなくて、たぶん名前だけしか知らないのだけど、当時のカリスマ的イメージとは違って、本当はけっこう親しみやすい自由人だったのかな?今は、かな?
私はかつて同時代を生きたそれらの人たちにも、ふだんは直接にはほとんど感心が無くなっていましたが、みんな元気にやっているのかなあ?
みんなそれぞれに元気で、幸福に生きているといいなあ、と思いますが。

 ありがとう。私はずっと御茶ノ水駅前に事務所があったので、小野田さんやさまざまな人が駿台予備校にいたので(今もいるか)、ときどき路で会ったり、私の事務所にもおいでになりました。
 このときには、駿台生とのお話会を小野田さんが企画されて、私たち昔の活動家が何人も参加したものです。駿台の事務側は昔の過激派が大勢来るというので、最初は警戒していたのですが、途中から我々の姿に安心されたようです。私もその事務官の一人とも熱心に会話したものです。
 その最初は駿台予備校を使いましたが、二次会は新宿でお酒を飲んで、随分長く話したものでした。駿台側も、こうした試みはいいことだと判断されたようです。
 小野田襄二さんは、数学担当の講師でした。それでいくつも、この数学に関した、或いは数学教育に関した、そして教育に関した本を書かれています。
 実は1969年9月17日の芝浦工大事件(マスコミ的には、内ゲバ殺人事件と言われました)で、その後私は初めてお会いしたものです。小野田さんは、あの事件にはまったく関係ないのですが、実に救援をよくやってくれました。私の両親も、兄弟も実に小野田さんのことは信用していました。
 そして小野田さんは、私と同じでウオッカのストロヴァイアンを好まれます。新宿ゴールデン街では、小野田さんと私がこれを一貫として飲んでいたものです。
 また小野田さんは、我々の中でコンピュータ・パソコンに触れたのも一番早いんじゃないかな。でも私のようなものがやりだすと、数学者である彼は困ったろうね。私はいつも詩吟をやって、パソコンを操作するのだから。
 ただし、この頃は、お会いしていません。奥さまも娘さんお二人もよく知っていますよ。
 あ、「遠くまで行くんだ・・・」全6冊が覆刻したのね。私はもう一冊も持っていないな。

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 周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2に、孤高団塊世代さんが、以下のコメントをくれました。

1. Posted by 孤高団塊世代   2009年10月19日 05:02
滝沢さんは経済学部の1年上に在学されていました。文理3番教室で開催された学部学生大会で、圧倒的多数で彼の執行部を否認したことを、いまでも鮮明に記憶しています。
同氏のことが「思想としての全共闘世代」の115Pに紹介されていますね。

 ええと、私はこの学生大会を知りません。私は拘留されていた1969年のことだからでしょうね。この著書は今探しましたが、たぶん、もう売ってしまっていたのですね。たぶん、この本での紹介といいましても、ただ滝沢さんの名前が出ているだけじゃないかなあ。
 それでこの著書の「思想としての全共闘世代」の著者の小阪修平さんも、この1969年のときに、芝浦工大事件で、かなり熱心に救援活動をしてくれた方です。実にありがたいことでした。
 思えば、日本の新左翼運動とかいうものも、この芝浦工大事件のことも、滝沢さんのことも、もうずっと闇に頬むっていくのでしょうね。
 私はあの頃のことを、少しも忘れていませんが、そもそも新左翼などといっても、「どこが左翼だよ」という思いしかありませんね。
 ただ、こんな前の私のUPにコメントをいただきまして、ただただ驚いてしまいました。
 小坂さんが亡くなりまして、もうあの頃のことがもう遠くへ行ってしまうのかなあ、なんていう思いばかりです。

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新聞名 図書新聞第2934号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年9月19日
読了日 2009年9月12日

 いつも思うのですが、この新聞を読んでも、日経新聞を読んでも、もう私には、新聞そのものよりも、パソコンの画面で読んでいたほうが読みやすいのですね。なんだか、もう新聞紙というものが、私には読むのに向いていない思いがします。この号も新聞紙よりは、やはりインターネット画面で読んで、「あ、こんなことが書いてあるんだ」と感心したりしています。
 一面の「日本赤軍私史――パレスチナと共に重信房子 河出書房新社」についての三上さんの文章もまた、私は新聞よりも、改めてインターネット上で読んで行って、興味が持てたものでした。

評者◆三上治 意識的な生の現在的困難さ重信房子のアラブ行きは、宿命という他ない

 僕が重信房子にはじめて会ったのは1965年か1966年だった。確か彼女は詩を書いているということだったが、髪の長い少女という記憶が残っている。〜彼女は笑顔が素敵な活動家になっていた。

 これで、「なるほどなあ」と当時の重信房子の顔が甦える思いがしました。思い出せば、1966年というと私は高校3年生だったのでしたね。
 でもこの味岡さん(三上さんの名前です)の文は、いくらもいろいろな思いを抱かせてくれます。
 1969年のことであるらしいのですが、次のように書いてあります。

映画関係者に会うためにそこに行き、その場で彼女に会った。彼女はアラブに行きたいがどう思うかと聞いてきたように思う。僕はやめた方がいいよと言った。このことは後々まで気になった。塩見孝也や田宮高麿、あるいは森恒夫らとブンド内部で論争していた時期以降の赤軍派がどのように活動しているのかを、僕はもう分からなかった。赤軍派から連合赤軍にいたる一方で、アラブへ行く面々が分岐していく過程は複雑であったのだろうが、本書で書かれているように、彼女は森恒夫とは体質的に合わなかったのだろうと思う。僕らが持った彼女の明るい印象と豊かな感受性は、森とは合わなかったと推察できるからである。その意味では彼女がアラブに行ったことはよかったのだと思う。そうでなければ彼女は連合赤軍に参加し、真っ先に粛清の対象になったと思えるからだ。彼女のことを思うと、ここはいつも思い出すところであった。

 思えば、私はこの69年は大変な年でした。1月19日に東大安田講堂で逮捕され、8月20日に保釈で府中刑務所を出所し、でも9月18日の芝浦工大事件で、私はこの年の12月10日に浦和地裁の前で逮捕されました。
 でも思えば、ブンドも大変な時期だったのですね。でも味岡さんが、「彼女がアラブに行ったことはよかったのだと思う」と言われるのは、充分納得できるのですが、でもでも悲しいことですね。なんだか、もう左翼というのは嫌なことばかり抱えてきたなとしか思えません。

評者◆杉本真維子 「ふと」の彼方へ

 彼女は「ふと」という言葉のことを書いています。ふと思い出したりすることが私にもあるわけですが、このふとしたことを、どこからか、誰かからの届いた石のように思う心は私にもあるのです。

この誰かからの石を、拾った、という感触をもった私自身が、「思い」が届く、ということへの、まぎれもない証人なのだと、信じられないことに、信じられるのだ。

 またきょうも、いくつものことをして、いくつものことを思い出して行くことでしょう。

09022506 SHIROのポメラ日記このUPがありました。

 いつも私は斎藤さんのブログのUPについて、何か書いてきました。いや、私も「教育」ということには拘わりたいと思ってきたものなのですね。
 大学は埼玉大学の教育学部で、専攻は中学課程の社会科でした。専門は東洋史でした。でも私が入学したのは1967(昭和47)年で、激しい学生運動の時でした。だから当然私は活動に身を投じました。ただし、私はマルクス主義はまったく認める気持はありませんでしたから、その私の主張をしつこく述べていました。
 でもとにかく、東大闘争の69年1月の安田講堂で逮捕起訴され、8月21日に保釈なりましたが、すぐに9月19日の芝浦工大殺人事件ということで、12月10日再び逮捕起訴されました(ただし、この事件の真相は殺人でもなんでもありません)。
 だから、そのせいで、私は卒業後(6年かかって卒業しました)、どこかへ就職するのにも、この経歴が影響しました。
 でも、ちゃんと警察等の情報を調べない企業は、私をやとって、また強烈な労働組合を作られ大変だったようです。
 でも、もうずっとどこにも就職もできない形をずっと続けてきました。でも別に、だから面白くない、とか不満だということはありません。いろいろな職に就きましたからね。
 ただ、教育には関わってみたいという思いは、ずっとありました。
 思えば、その私の思いが二人の娘が教師になることにつながったのかな、と思っています。私はいつも二人の娘の勤めた学校へは行っています(いや、他の姪の子どもたちのところも行っていますが)。
 この斎藤さんが書かれている内容は実によく読んで、そしてたくさんのことを感じています。

 私がいる情報センターでは、子ども向けのイベントでパソコンを使った工作物を良くやります。
 例えば、電車の型紙にパソコン上で色を塗って、プリンターで紙に印刷し、はさみで切ってのりで貼ると、自分のオリジナルの電車ができ上がり。無料でやることもあって、家族連れに人気があります。
 ところが、子どもがパソコンの前に座って喜んで色を塗り始めると、隣に座っているお母さんが突っ込みます。

 「なんで窓に赤塗るの? おかしいじゃないの」
 「なんで髪の毛が青いの? 違う色にしなさいよ」

 しぶしぶ子どもは、お母さんの言うとおりに色を塗ります。私がそれを印刷して「はい」と手渡しても、その子はもうやる気を失っています。結局「やだ、お母さんやって」と工作の途中で放り投げてしまい、「自分でやりなさいよ」とお母さんが文句を言ってケンカになったりします。
 私はそんな様子を見ていて、「何で親の価値観を子どもに押しつけるのかな」と思います。

 私も、「窓を赤く塗る」のも好きだし、「髪の髪を青く」描いてしまう子も好きになれます。そういうことを、「君はそういう風に見えるんだね」てか、「そういう色をつけたいのね」と言えないのでしょうか。私も長女が小学校の図工の先生ですから、私は最初に授業参観に行ったときに、とっても面白い授業が展開されていました。私はそのときは、妹のブルータスと一緒に行ったのでしたが、私は決して自分の身分を子どもたちには明かしません。でもブルータスが妹だと判って、子どもたちはみな大騒動になったものでした。
 思えば、そういうことが懐かしいです。妹も最初は文京区の小学校で、臨時採用で、ある子のことをみていたのですが、私はいつも運動会や音楽会に出かけるのが大変でした。いや下手をすると、私は見ているときに、私の目に涙が溢れてしまうのです。それはまずいでしょう。
 私はいつも自宅でも会社でも、電車の仲でもパソコンを使ってきました。もう50台くらい使ってきたのかなあ。これがいいことだったと思いますよ。

 そもそも、芸術は自由なものです。絵を描く時も、そこに無い色を塗ったっていいし、そこに無いものを描いたっていいのです。例えば名画と言われる風景画でも、実際の景色と見比べると全く違っていたりします。現実そのままでいいのなら絵など描かずに記録写真を撮ればいいのであって、自分の描きたいもの、表現したいものを織り込むからこそ「その人の絵」なのです。
 子どもが「この色を塗りたい」と思うなら、怒ったりしないでその通り塗らせてあげればいいじゃないですか。

 たった今、私の長女おはぎのmixiを読みました。ポコ汰が描いた線画がそこにあげてあります。「え」という題名のUPです。おはぎは、次のように言っています。

「魚」らしい。まだ目を描いたり口を描いたりはしないけど、やっぱり子どもの描く線はいいな。どんどん「何か」を描けるようになってほしいけど、「何か」を描けるようになったら「何か」しか描けなくなるんだな・・・、と思うと淋しい。今の彼の内から出る形や色を大切に見ていきたいな。

 そこに大学時代の友人のくぼっちが次のようなコメントを書いてくれています。

本当に大人には勝てない。
あの自由な線。
思いがけない形。
いいよね。ほんとに。。

 このくぼっちも、とってもいい娘です。なんだか、思えば、もう何年も会っていませんね。

 私のポコ汰は、もういっぱいお喋りします。でも実は、私は彼が何を喋っているかよく判りません。言語がポコ汰語なんですね。
 私の長女は、小学校の図工の教員です。だからいっぱり子どもたちの作品をみています。私なんか、長女の小学校へ行って、作品展を見ると、ただただ感激していますよ。

 そこで親が自分の価値観を押しつけて変えさせてしまったら、結果として「いい作品」ができたとしても、それはもう子どもの作品ではありません。親の作品です。
 情報センターでなぜ工作イベントをやるかと言えば、「子ども達に、パソコンを使えばこんなことができるのだと知って欲しい」「自分の手で作品を作ることを楽しんで欲しい」といった願いがあるからです。できた作品の善し悪しは結果に過ぎません。
 どうも、その「結果」ばかりを追い求める親が多いように思います。学校の夏休みの工作などで採点・評価されることに慣れてしまって、「無条件の肯定」の目を持てなくなっているのでしょうか。
 工作した「物」ではなく、工作をする「体験」が子どもにとっては大事なのです。親の方が結果ばかりを追い求めて、大切なものを失っている気がしてなりません。

 まったくその通りです。大切なものは、子どもたちが自分の中からわき上がってくるもので、それを表現することなんです。

 もう一つ、時々ある家族の風景ですが、泣いてしまった子どもに対して、

 「そんなに泣いていて恥ずかしいでしょ。みんな見てるよ」

と怒るお母さんがいます。
 そんな姿を見て、私はつい突っ込みたくなってしまいます。
 「いやいや、『恥ずかしい』と思っているのはお母さんですから。子どもじゃないですから」
 どうも見ていると、「自分が感じることは、子どもも同じように感じるはずだ」と思いこんでいるお母さんがいるようですね。
 親と子どもは全く別の人間です。自分の気持ちは自分のものであって、子どものものでは無いのです。そこはちゃんと区別しないといけません。
 そして、「みんなが見ているから」と子どもを叱っていると、子どもは「じゃあ、見られていなければ/自分だとバレなければ何をしてもいいんだ」と学習してしまいます。学校裏サイトなどの掲示板で、匿名の書き込みでネットいじめをしてしまう原因の一つがここにあります。
 見られていても、いなくても、正しい事は正しいし、いけないことはいけないのです。それを子どもにちゃんと伝えないといけません。

 私もよく泣きます。テレビをみていてもよく泣いていますね。これは私はもう大学生のころから同じです。私は子どものときには泣かなかったものでしたね。

 子どもに怒る前に、一歩立ち止まって、「本当に怒るべき事か?」と考えてみてください。
 「本当に怒らなければいけないこと」と「自分の価値観に過ぎないこと」とを区別しましょう。
 例えば、人を傷つけたり、人の物を盗んだりするのは、本当にいけない事ですからちゃんと怒らないといけません。
 しかし、「どんな色を塗るか」や「服装」「物の使い方」などは、人の好みや価値観、文化などによっていくらでも変わるものです。絶対的な善悪ではないのです。
 親が自分の中でちゃんと区別していけば、不必要に怒る回数は減っていくでしょう。

 このことを、私も誰にも大きく言っていきたいです。

 今度ポコ汰と会ったら、また私にもいっぱいに何かを描いてもらいます。じいじに会うと、やはりポコ汰は嬉しいようです。それを知って、まずます嬉しくなっている私です。

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07092701

 私は9月28日に、さる8月10日急逝しました小阪修平さんの奥さまへ手紙を書きました。前日9月27日の「小阪修平を偲ぶ会」では、奥さまにもその他のご家族にも何の挨拶もできす、こうして手紙を書くことしかできなかったものでした。
 この手紙を、ここに掲げることにより、私の「周の追悼私記」での私からの小阪修平さんへの追悼としたいと考えます。
 小阪さん、ありがとう。

07092702小阪さんの奥さまの住所氏名

          2007年9月28日
       私のURL・メールアドレス・
       スカイプ名・現在の住所氏名電話

 前略
 昨日の「偲ぶ会」で、突然詩吟を詠ったものです。小阪さんの御自宅とは、年賀状を交わすだけでした(年賀状での自宅は、私は千葉県我孫子市です)。
 でも実は、私は長年御茶ノ水駿河台に事務所を構えていまして(現在は、義母の介護で、この王子にいます)、よく事務所の前の路を歩いている小阪さんとお会いしました。
 ときどきは、私の事務所に来てもらいまして、私のパソコンで私のホームページを見たりしてもらって、インターネットに関する話をしていたものでした。もちろん、吉本(吉本隆明)さんに関する話もしたものでしたね。

 私は生まれたのは、昭和23年で、大学は埼玉大学へ1967年に入学しました。それで、当然学生運動に邁進するわけですが、東大闘争で1969年1月19日に安田講堂で逮捕され、やがて起訴され、府中刑務所に収監されました。
 その年の8月21日に保釈となり、私は娑婆の世界に戻ってきまして、すぐに埼玉大学に戻りました。当時埼玉大学は、学園闘争の中での、埼玉県警の取り締まりで、多くの仲間が逮捕起訴され、また多くの仲間が逃亡していまして、大学のバリケードは、何故か高校生が多くたむろしている(埼大に多くの高校生活動家が集まっていました)という感じでした。
 私は大学での活動の中で、どうしても中核派には異和があり、かつその中核派から出たとかいう反戦連合(あとで小野田派とも言われたことがあるようです)も、まったく好きになれませんでした。もちろん、日共や革マルと対したとしたら、中核派とも反戦連合とかともスクラムを組むわけでしたが、そもそも私はマルクス主義なんか、大嫌いの人間でした。
 そのときに、何故か9月18日に起きたのが、不審な黒ヘル集団による、埼大バリケードへの襲撃事件でした。当初は、その黒ヘルが何故か早稲田の革マル派を装っていたところがあり、革マルなんて、誰も嫌いですから、「ふざけるな」という思いでしたが、ちょうど東大闘争の被告団会議をやっていた私は、破壊されたバリケードに入るなり、「ウッ、これは革マルなんかじゃない、えっこれは怖いなあ」と思ったものでした。
 だが、その中核派に、Tが拉致されていたことを知って、私たちは、なんとしても彼の身の奪還を考えました。
 そしてその結果が、翌日9月19日の芝浦工大事件になります。私たちは、Tを奪還に芝浦工大大宮校舎に朝早く行ったわけでしたが、そこで起きたのが、中核派であり埼大生であった滝沢紀昭さんの2階からの転落死でした。私は中核派は好きではありませんでしたが、滝沢さんは、私が府中から出て埼大バリケードに戻ったときも、挨拶してくれて、わりと好感を持っていた先輩でしたから、こんなことになったことに、非常な驚きと困惑の気持でした。
 だが、世間では、「右翼体育会のしわざ」なんていう論調から、次第に変わってゆき、最後は「新左翼内の内々ゲバ」とまで言われるようになりました。いわゆる新左翼全般も、このマスコミの論調とまったく同じでした。
 もう私たちは、世界が真っ黒なものにしか思えませんでした。そんなときに私たちの先輩である小野田襄治さんは、実に私たちのことを大事にしてくれました。この芝浦工大事件は、小野田襄治さんには、何の責任もありません。でも、彼は、この事件に関係してしまった私たちのことを、実に大事にしてくれました。私の父と母も、兄弟も、小野田さんのことは実に感謝しています。
 そして、このときに、この小野田襄治さんが、ある部屋を確保し、そこに電話を置いて、そこに私たちが毎日電話するようにしてくれました。その電話番の役目をしてくれていたのが、小阪修平さんです。いつも彼は丁寧に、その日及び前日くらいの埼玉県警の動きを電話で教えてくれたものです。
 ただただ、権力・マスコミ及び新左翼による「殺人」という脅しに、不安でたまらない私たちに、彼の電話での声はどんなにありがたかったことだったでしょうか。
 彼がどうして、この役割を引き受けてくれたのかは、私には判りません。でもこの世界の非情さに、打ちひしがれていた私たちには、実にありがたかったものです。

 やがて、私はその69年の12月10日に逮捕され、起訴されました。そして長期勾留を覚悟していたわけですが、何故か翌年3月(の何日だったか、まったく覚えていません)に保釈になりました。
 私はすぐにアルバイト生活に入り、かつまた大学に戻って、今度は多くの2年3年下の後輩たちと、70年闘争に入ったものでした。
 この70年のたしか12月くらいに小阪さんとはお会いしました。そのときには、1年以上前の電話に関するお礼を言ったものでした。

 その後は、とくにおつき合いはなかったのですが、今度はさまざまな彼の著作で彼のことを知るようになりました。
 とくに私は、吉本(吉本隆明)さんに次第にひかれていきまして、その面で彼のことが、実に気になる存在になったものでした。
 彼とは、もうずっと年賀状は交換する仲は続けてきたものでした。そんなときに年賀状の文面にちょっと書いてあることに、いつも嬉しく思ってきたものでした。

 今になってみれば、なんでもっと親しくおつき合いしなかったのか、親しく話さなかったのかということが悔やまれてなりません。
07092706 その悔やみの中で、この文を書きました。本日は朝から忙しく動き回っていたもので、夜になって、この手紙を書き出したものです。今は王子の妻の実家ですので、「小阪さんの住所が判るのかなあ」という思いなのですが、こうして、一気に書いてしまいました。

  それから、27日に私の詠った漢詩ですが、以下の通りです。

   弔亡友月照    西郷南洲
  相約投淵無後先 相約して渕に投ず後先無し
  豈圖波上再生縁 豈図らん波上再生の縁
  回頭十有餘年夢 頭を回せば十有余年の夢
  空隔幽明哭墓前 空しく幽明を隔てて墓前に哭す

 この詩については、以下にて私が解説をしております。

  http://shomon.net/kansi/kansi3.htm#saigou 西郷南洲「弔亡友月照」

 なお、この手紙がそちらのついたろうと思われる頃、この文面を私のブログでUPいたします。そのことをお許しください。
                             早々

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 今週の27日に、「小阪修平君を偲ぶ会」が開催されます。私は私の出席の返事に、以下のように付け加えました。

 小阪修平さんとは、ときどき私の事務所のあった御茶ノ水の路でよく逢ったものでした。そこから私の事務所にも来て話したものでした。その他たくさんのことを思い出しています。東大闘争で、保釈になったすぐあと、1969年9月19日の芝浦工大事件では、私も当事者になりまして、そのとき彼には大変に世話になりました。その時からいつも感謝していました。
 彼のことをいつまでも忘れないでしょう。「ありがとう」と言いたいと思います。

 彼は60歳だったのです。だから私の59歳とは、わずかな差です。私の事務所に来て、いつもパソコンの画面を見つめていた彼のことを思い出します。

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 ナミちゃんが、この絵本を私が読んだことを書いてくれました

心優しい周さんの事ですから涙でいっぱいになってしまうかもしれないと
おもいましたが・・・。
お母さんのことを想いながら読んでくれました。

 そうねえ、この絵本を読みながら、ずっと母を想いました。厳しくて強い母でしたが、実に優しい母でもありました。
 私の埼玉大学の学生課の職員の方も、私の母は実に印象深かったようです。私はちょうど19歳の頃、大学の管理棟本部で、バス代値上阻止闘争のときに、私はハンガーストライキをやったのです。あのときは、日本共産党民青はまったくの敵対者であり、そして表面上は私たちの側である顔をしていた中核派も、実は私たちの敵でした。彼等は、もっと大きな闘いがあるのだということで、こんなちっぽけな闘争を認めませんでした。唯一たくさんの一般学生とでもいうべき広範な学生が味方であるはずなのですが、彼等は24時間大学にいるわけじゃないからね。
 でも大学は、私の親たちに連絡するといういわば卑怯と思えた(その頃はそう思ったのです)手段を取りました。それで、母が我孫子から、浦和下大久保の大学の管理棟まで来たのです。このとき、私の母と会った大学の職員は、今でも「あなたのお母さんが一番印象的だった」と懐かしくその思い出を語ってくれます。
 私が芝浦工大事件で、逮捕されたときにも、我孫子から朝霞警察まで来てくれて(もちろん接見禁止中ですから、会うことはできません)、差し入れてくれたものです。でも埼玉は、食べ物の差入れは(差入屋の弁当ならいい)できませんが、でも私の取調のデカは、それを母からあずっかって、私の取り調べのときに食べさせてくれました(もちろん、こういう温情はありましたが、取り調べは激しいよ)。この刑事もその後30年ぶりくらいに、偶然会うことがあったのですが、私の母が一番印象的だったと言っていました。

 その前には私が東大闘争で、府中刑務所にいたときにも、遠いところを来てくれていたのよ。そういえば、1969年の8月には、母は、自分の姉(私の伯母)も一緒に府中まで連れてきてくれましたね。接見室で驚いたものでした。私の母は、いわば色が黒い女ですが、伯母は驚くくらいに色白で綺麗な女性なのよ。その時伯母は私の顔を見て、元気そうだと喜んでくれていました。今あの伯母も、自分の妹の死にどんなに驚いていることでしょうか。

周さんのお母さんはどんな時も来てくださったそうです。
そして大きな愛を示してくれました。

 その他にもいっぱいさまざまなことがありました。私の母は、もう日本中で秋田犬を飼って歩いたわけですが、その街にいる野良犬ともすぐに仲良くなるんです。そして、その野良犬の一人ひとりと、またごく親しくなっていたのが、この私なのです。

 さて、でもまたあの世へ行って、父と会うと、また勝手な父にまた負けずに言い返しているでしょうね。

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 asahi.comで、このニュースを見つけて大変に驚いているところです。え、最後に会ったのはいつのことだったでしょう。

 小阪 修平さん(こさか・しゅうへい=評論家)が10日、心室細動で死去、60歳。葬儀は親族のみで行い、後日、お別れの会を開く。喪主は妻文子(ふみこ)さん。

 「思想としての全共闘世代」「非在の海――三島由紀夫と戦後社会のニヒリズム」などの著作や評論活動のほか、「イラスト西洋哲学史」など哲学、現代思想の入門書で知られた。 (評論家の小阪修平さん死去 2007年08月11日06時10分)

 彼は、私の御茶ノ水の事務所のあったそぐそばの駿台予備校で、論文を教えていました。ときどき道で出会うことがあって、挨拶していました。
 何年か前に、私の事務所に誘ってそこでお話しました。パソコンで、いくつかインターネット上の部屋を開いて話したものでした。彼は、パソコンで文章を書いていくのは(もちろん、彼もそうしているわけですが)、「どんどん言葉が開いてしまうから、困ることがある」というようなことを言われていたものでした。

 彼と始めて会ったのはいつのことだったかなあ。たしか1970年じゃなかったかなあ。1969年9月19日の芝浦工大事件のあと、私はこの事件の当事者でしたから、彼がある事務所にいてくれて、電話の番をしていてくれまして、私たちはいつもそこに電話して、彼の伝えてくれるニュースを聞いていました。それで、きょうの埼玉県警の動き等を聞いていたものです。
 でも同じ69年12月10日に逮捕され、翌年早々に起訴され、でも長期勾留を覚悟していましたら、70年3月に保釈になりました。
 たしかこの70年の秋ごろ彼と会ったんじゃないかなあ。大森で会ったような気がしますね。

 彼の出版された本は、ほとんど読んできたかと思っています。

 そううちに彼と会って、ゆっくり話すことができるだろうと思っていましたが、それも叶わないこととなりました。なんで、こんなに急ぐんだろうかなあ、という思いがしました。そうか私は現在59歳ですから、一つ違いだったんだなあ。

 合掌します。ゆっくりと休んでください。さようなら。

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 私とAとは、同じ埼玉大学の学生活動家でした。でも歳は同じ昭和23年生まれですが、入学は彼は私より1年後の1968年です。あの時代は年齢よりも入学した年が違うと、まるで経験するあらゆることが違います。だから私は、顔は知っていましたが、ほぼ彼とは話をしたこともないままでした。というか、私は彼のことが少しも好きではありませんでした。
 それはそれ以前の埼玉大学での学生運動でのさまざまなことがあったからですが、でもそれはここで述べても意味のないことでしょう。

 でも私は1969年の1月10日の夜から、東大闘争の安田講堂に入っていたのですが、彼は10日には駒場の闘いに加わり、また私が埼大に戻って、再び安田講堂に戻るときに、同じ安田講堂の5階屋上を守備する同じ部隊になることになりました。
 それで、ずっと同じところにいるわけで、いろいろなことを語ります。彼は映画が好きなことを話してくれて、さらに私は男ばかりの三人兄弟なことを言うと、彼も3人だが、あとは妹が二人いて、その妹のことを、小さいときにいじめて、そのときのことを悔やんでいました。
 それで当然好きな女の子の話になりますが、もちろん私の好きな女の子のことも彼は知っていましたが、彼の好きな彼女が、実は私よりも1年先輩なのだということが判り、それは実は我が大学でも私が憧れる圧倒的な美人の活動家でした。「あの娘は今は俺の彼女だよ」というので、私が憧れていることをいうと、彼は、「じゃ、明日連れてくるよ」といいます。そしてその晩は彼は埼大に帰りました。たしか1月16日でした。
 そして次の17日、屋上でぼんやり起き出して、「あ、腹が減ったな」なんて思っていたら、「おい、ハギワラ、Rを連れてきたよ」といいます。
 私が驚くと、実にたしかに彼のあとからRさんが、ついて来ました。そして彼女は圧倒的に美人の方なのですが、あの安田講堂の屋上は実に高いので、怖いらしく震えていました。
 私は彼女も美人なこともありましたが、実に気の強い女性であると思っていましたから(これは私は活動の場で、強い彼女を何度も見ています)、こんな屋上くらいで、震えるような女らしい彼女に出会えるとは思っていませんでした。
 その後、彼女はしばらくこの5階にいましたが、彼が送って帰りました。もう私は彼が一緒に行って帰ってこなくてもいいと思っていました。なにしろ、安田講堂では、ここでパクられると、「最低6カ月勾留される」と聞いていましたから、そのまま籠もるべきことでもないのです。
 それでも、その晩彼はまたこの5階の守備する場に戻ってきました。彼としては、私を棄てて帰るわけにも行かなかったのでしょう。
 そして翌日は、朝から激しい闘いです。もう身体がくたくたになるまで闘いました。
 そしてさらに翌日1月19日、夕方に私たちは全員逮捕されました。

 彼と私は前後して逮捕されるつもりでしたが、大混乱の中、そういうわけにもいかず、私は東調布署に勾留され、やがて起訴されて、私は府中刑務所に移管されました。彼は東京拘置所でした。
 私たちは、東大裁判でも、同じグループでしたが、統一公判を主張しているので、裁判への出廷を拒否していましたから、裁判所で会うこともできずに、月日が過ぎました。
 だが、彼はその年の7月20日ごろ保釈になり、私は8月21日に保釈になりました。

 ああ、そういえば、彼の彼女だったRさんは、私の府中にも面会に来てくれたのが、7月のことでした。7月の暑い日、接見室に入った私は、あまりに綺麗な彼女に驚きました。だが接見室からの帰り、私は同行する看守に、「こういうムショに入っている男の前に、あんな肌を露出した姿で来てはいけないですよね」なんて言っていたものでした。彼女は、看守も大きくうなずくくらい圧倒的に綺麗な方でした。

 でもとにかく、保釈にはなったのですが、よく月69年9月19日は、芝浦工大事件(これは当初は内ゲバ殺人事件と報道されました)になりまして、またその年の12月に逮捕されることになりました。
 そして、この事件の勾留中にも、東大裁判があります。私はこの裁判に出て、他の仲間と連絡が取りたい気持でいっぱいでした。それでこの裁判のときに、芝浦工大殺人事件の被告で、東大裁判の被告が4人いたのですが、みな埼玉県のいくつものところからパトカーで、東京地裁までいくのですが、これがまた実に愉しい旅行でした。
 裁判の場では、一応私たちは、統一公判を訴えますが、とにかく仲間といくつも打ち合せをしまして、いわば芝浦工大事件では敵とされた中核派の活動家とも話をします。全然真相をつかめないブンドの活動家とも話をします。
 そして、傍聴席には、私の弟が来ていて、父の再就職のことを伝えてくれて、私の彼女(まだ「私の彼女」になっていたわけではありませんが)がいて、そして私の高校時代の後輩の女の子も来てくれていて、いろいろな連絡がありました。

 それで、また70年3月に私は再保釈になり、また後輩たちと、70年闘争の隊列の中にいました。だが彼は、このときは、けっこう長く浦和刑務所の拘置所に入っていたかと思っています。

 その後もさまざまなことがありました。彼と一緒に、北浦和で偶然知り合った日の丸土建の仲間と土方の仕事をするようになったのも大きなことでした。私はそもそも日の丸が好きですし、この日の丸土建の仲間も、実に法政大学・明治大学・早稲田大学等の学生活動家集団でした。

 この続きの「その2」へ

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 ここで書きました 離婚成立に当たり−ある審判官の思いやり溢れた言葉に感激将門のnewsing に書きましたところ げげげのげげげ さんから、次のようなコメントをいただきました。

   こういう裁判官が当然ではなく、美談となるのは悲しいですね。

 これで私も「はッ!」と気がつきました。たしかにそうですね。

 ただねえ、私のもつ裁判官の印象というと、実に彼らにあまり人間的にいい印象を持たないのですね。だから、このニュースを読んで不覚にも涙を流してしまった私だったのです。
 でも浦和の裁判官には、ものすごく印象深い方がいました。

 私が二度目の芝浦工大事件で起訴され裁判になったときの浦和地裁の主任裁判官は、その後こんなことがありました。私があの裁判が終わって3年後の頃のことです。私は私の友人の下宿に行こうと自転車に乗っていました。そうしたら、このときの裁判官とすれちがったのです。彼も自転車で急いでいましたが、通りすぎて彼から大声で声をかけてきました。

  彼「俺はさ、今度東京地裁に行くことになったよ」
  私「あ、そうですか。あっちへ行ったら、学生さんを易くやってあげてくださいよ」

 彼は、「うん」といいながら、笑顔でさよならしたと思います。

 ただし、この裁判官は浦和地裁では、けっこう赤軍派の諸君等々にもきびしい判決を出していましたよ。

 ただ、思えば面白かったことがいくつもありました。
 私たちの裁判での弁護士と我々被告の打ち合せの場に、彼がやって来ます。当時の埼玉大学の活動家はほぼ全員彼女がいます。だからいつも傍聴席にはにぎやかです。我々は自分たちの彼女を、みな「俺の女房」と言っていました。
 それで、私たちの弁護士のうちS弁護士は、私たちがみな彼女がいることに、非常に不思儀なことかつ不満なようです。彼女も何人もいる席(だって彼女たちの何人かは情状証人になるのだ)で、そのうちあまりの我々の仲良さに、彼はプリプリ怒って出ていきます(もちろん、弁護士としての役割としては、彼は出て行ったわけではありませんが、そのことはちゃんとやる方でした)。
 それで、その判事が、「おい、あのSは彼女いないのかよ」なんて、聞きますので、私たちは「そうなんですよ。それでね、ちょっと大変なんですよ」なんていうと、その判事は、「おい、誰か紹介してやれよ」なんて言っていたものでした。

 私たちは、あの時代実に戦闘的な過激派でしたが、同時にこんなに牧歌的で、面白かったのです。私たち学生活動家だけでなく、浦和の裁判官も面白かったのですよ。

 あ、だんだん、いろいろなことを思い出しました。また別に書いていきましょう。

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 最初の「はじめに」の最後に次のようにあります。

 もういい加減に書ける範囲のものを書いておかないと、結局は何も伝わらないままで終わることになる。この本では、自分の個人的な経験を出発点としながら、なるべく自分の枠を超えて世代に共有できるもんだいを取り出し、若い世代に全共闘とは何だったのか、そして今意味があるとすればとういうことなのかを伝えたいと思った。書く人が違えばまた違ったものになるだろうが、ぼくの書けるものを書くしかない。

 この思いは私も同じです。やっぱり書いておかなくちゃなあ、と思いながら、ずるずると今に至ってしまった感じがしています。
 まずはこの点で、私はこの新書を読み終わって、「よくちゃんと書いてくれているなあ」という思いがしました。彼は私よりも1歳年上であり、大学入学が1966年でちょうど学年も私よりも1学年上です。
 ただし、彼は東京大学であり、私は二期校の埼玉大学でした。同級生には、東大を落ちたので埼大に来たというのが、何人かいました。けっこう、「うちは国立しか駄目だと親に言われた」というような学友もいたものでした。

 私は大学2年の秋1968年に東大闘争に参加しだしました。11月22日の、東大闘争・日大闘争勝利集会に、日大全共闘の部隊の中に入って参加していたものでした。
 よく年の1月10日夜に私は友人と二人で、東大の安田講堂に入ろうとしました(実は前日にも私は東大構内に来ていました)。当時は、文京区本郷の東大構内は、日本共産党=民青が支配しており(全共闘の部隊は、駒場の東大で日共民青を攻撃していて、安田講堂には実にわずかの守備隊しかいませんでした)、その中でやっと安田講堂にたどりつきましたが、見張りの東大全共闘が、私たちが個人であると、その身分がなんだか判らないので、入れてくれません。
 そこで困っていたら、そこへ中央大学の中大全中闘が50名くらいの部隊でスクラムを組んできました。彼らもノンヘル姿で、全共闘と認められないようにしてばらばらで歩いてきて、東大構内に入ると、スクラムを組んで講堂前まで来ました。
 私と友人は、「あ、そうだ」とばかり、このスクラムに加わりました。中大全中闘なら、中に入れてくれます。それを見ていた先ほどの東大全共闘の見張りの学生も、私たちを見て、「あ、良かったね」という顔で笑っています。
 私たちが安田講堂に入って、その晩夜中に、日共の軍事部隊が安田講堂を襲ってきました。

 私はその日から、ずっと安田講堂に籠もりました。ただし、一度だけ12日か13日に埼大に戻りました。それで下着等を着替えて、今度は王子から都電に乗って東大に来たものでした。そしてそのまま18日の機動隊導入の日を迎えることになったものでした。

 今井(今井澄のこと)は、一日でも機動隊から安田講堂を防衛できたのは予想外であったと先の文章で述懐している。そこで今井は「われわれの闘いは勝利である」と放送したのだと言う。(100ページ「第五章 全共闘運動の展開」)

 私たちも、夜になって18日が終わる頃、「あれっ、この安田講堂って、きょうで落ちてないじゃないか」と気がついて驚いたものでした。

 そして翌19日私は午後4時ごろ逮捕され、東調布署に送られ勾留されました。勾留期限の切れる23日目に、起訴されました。そしてその1週間後に、私は府中刑務所に移管になりました。起訴されたら、巣鴨の東京拘置所に移されると思ってばかりいまして、「北一輝も入っていた巣鴨って、どんなところだろう」と期待していたのですが、府中刑務所と聞いて面くらいました。ただ、同じ留置場にいた、住吉会M一家のヤクザが、「えッ! 初犯で府中行けるなんて格好いいなあ」というのを、聞きまして、「あ、そんなにいいことか」なんて思っていたものでした。

 その後、8月20日に保釈になるまで、ずっとこの府中刑務所での独房暮しが続きました。出所後は、また埼大に戻りましたが、私には頼るべき党派もありませんでしたから、その後も単独で動き回っていました。
 よく月の9月18日東京教育大学と御茶ノ水大学の闘争支援に行きましたが、夜は埼大近くのロビンという喫茶店で、東大闘争の埼大グループの被告団会議がありました。まだ保釈されていない埼大の被告が3名いましたから、この3人への支援をどうするかという会議でした。
 ところが、その喫茶店へ、「早稲田の山本派が埼大のバリケードを襲って来たから、すぐ来てくれ」というKさんの連絡で、私たちは急いで大学へ走りました。

 埼大の校門を入ってすぐバリケードへ入ると、私は「ハッ」と気がつきました。そのバリケードの破壊の凄まじさから、私は怖ろしいことに気がついたのです。「学生運動って、こんな恐怖の世界なのか」。私はすぐに、この埼大のバリケードを襲ってきた部隊が、早稲田の革マルなんかではなく、中核派であるという恐怖です。中核派は、私は好きではありませんが(そもそも私はマルクス主義・共産主義が大嫌いだった)、一応革マルとは違って、スクラムを組める相手のはずです。
 しかし、もうその事実ははっきりしてきます。Tという仲間が拉致されたといいます。なんとしても彼を救い出さなければなりません。

 そしてどうやらいろいろな調査の結果、どうもTは、当時同じ埼玉県でバリケード闘争が続けられている芝浦工大にいるらしいということが判りました。
 それで、Tを救い出すのには、どうしても芝浦工大大宮校舎にいかなければなりません。
 翌朝、私たちはK救出のため、23名で芝浦校舎大宮校舎へ行くことになりました。

 芝浦工大大宮校舎には、埼大中核派の滝沢紀昭さんがいました。そこで起きてしまったのが、私たちが校舎に入ったときに、滝沢さんが2階から飛び降りてしまうという事故でした。そして私たちは、すぐにこの事件で、権力警察からも、新左翼からも犯人として追われることになりました。
 当初は、右翼の犯行なんて報道していたマスコミも、そのうちに「内ゲバ」「内々ゲバ」とこの事件を呼ぶようになりました。

 そして私はこの事件で、12月10日に、浦和裁判所前で逮捕されることになるのですが、そのときまでに、この芝浦工大事件で、関係した私たちが毎日私たちの側の情報を教えてくれるのが、ある電話でした。毎日そこへ電話すると、「きょう埼玉県警はこういう動きをしてきた」というように教えてくれます。
 このときに、その役割をやってくれていたのが、この小阪修平さんでした。私たちは、まだ顔も何も知らない彼の電話の声にどんなに励まされたことでしょうか。
 私たちは警察もマスコミも、そして新左翼もみな敵のような振舞いばかりでしたが、その中で、この電話での小阪さんの声はどんなにありがたかったことだったでしょうか。

 そして彼は、このことを特別党派的は思いや思想的な思いでやってくれたものではありません。ただただ、私たちが感謝すべきことでした。

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 一つ前のUPの ヤフーがスイカと“強力提携”を書いているときに、引き続き書いていたのが、このUPです。ただ、書いているうちに、少しかけ離れていることでもあるなと思い、こうして別にUPします。
 以下にように書いたことです。

 ただし、いったん、何か事故が起きますと、大変なことになるなあ、と思っています。その事故とは、SUICA等の事故ではなく、私たち個人の側の事故でも、いったん、不良な個人ということになりますと、もう一般の社会では生活していくのが、実に困難にならざるをえないことになってしまうかと思います。
 そのことが大変に怖いことだな、と思っています。

 このことで、私は引き続き、次のように書いていました。

 私は学生時代は、いわゆる反体制の側で必死に闘っていた活動家でした。東大安田講堂で逮捕起訴され、そのことでは、ずっとあらゆるところで体制側に見張られてきた思いがしていたものでした。でも私の場合は、さらに芝浦工大事件というので、さらに、いわば同じ反体制派である側からも敵として見放されてきた思いがあります。
 そしてそれが、そのときからもう30年がすぎ、もうすぐ40年になろうとするときに、まだまだ変わらないことを感じています。
 でもでも、そんなことは別に構わない、そもそもその覚悟は決めて生きてきたつもりです。ただ、それでも、そうしたことに関するデータベースが変わらないことを思いますと、少々たまらないなあという思いになります。

 ずいぶん、昔飲み屋でのトラブルのとき(それは結果として警官が出てくるようなとき)などに、最終的に大きな交番や警察署に行ったりすると、私の名前と生年月日をいいますと、端末で調べると、必ず私のことが判ります。ときどき判らないことがあると、そのときには私は素面になって、「ちゃんと入力していないんじゃないの?」ということで、入力データをちゃんと言いますと、「あ、出てきた」というので、私のことを確認して驚きの声をあげます。私の学生運動での逮捕起訴歴が画面に出てくるからです。
 でもこれは別に構わないのですが、それが何年にも渡って、私の同じ履歴を繰り返していることには呆れ果てます。我孫子では、もう来る警官には、実に私は呆れ果て、怒っていました。いえ、私が弾圧されているからとかそういうことに怒っているのではなく、ただただ、新たなデータに更新できていないから、私は嫌になっているのです。

 いろいろなデータは、間違いなく最新のデータに更新していかないとどうしようもありません。そうしたことをちゃんとやってほしいよなあ、と私はいつも思っています。

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