将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:芥川龍之介

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どうしても私はこの小説の最初「どうか Kappa と発音して下さい。」が思い出されます。
 この作品では、「僕はこの先を話す前にちよつと河童と云ふものを説明して置かなければなりません。河童は未だに実在するかどうかも疑問になつてゐる動物です。が、それは………」とあるのです。
 私は読んだ最初のときに、私の甲東中学の2年のときに国語の先生が試験のときの監督で来られたときにこの作品の岩波文庫を読まれていたのを思い出します。
 懐かしい懐かしいことです。

12122704 今日で1Fのゴミ置き場の扉が閉じられます。急いでいっぱいのことをやらなくちゃあな。

2012/12/28 06:07今日も寒いですね。「黒書院の六兵衛」ももっと早く終わるのかと思っていましたが、そうはならないようで、今から145年前の出来事なのです。でもすっかり日本も変わりましたね。江戸時代が終わって、そのあと日本は戦争を幾度も繰り返し、先の敗戦で今の時代を迎えます。
2012/12/28 06:30今1Fに資源とごみを出してきました。明日の午前10時でこの置き場の場所が閉じられますので、今日が最後の片づけの日です。今日はいっぱいやらないとなりません。
2012/12/28 07:38今芥川龍之介の年賀状をNHKで見ました。ちょうど100年前のものです。もうそんな時代なのですね。そうねえ、この龍之介のこともあとで書きます。いっぱいの思いがあるのですね。
 いえ、このポメラだと固有名詞を書くのが実に大変なのです。
 今日おはぎの家族5人が帰ってきます。夕方に行っていいかなあ。もう三匹に会いたいです。会って、じゅにのことをお喋りします。私もじゅにに会ってものすごく嬉しかったので、そのことを三匹、ポコ汰、ポニョ、ポポにも話します。
 よくテレビを見ていると、よくいろんなことを思います。
121227052012/12/28 08:35ああ、今NHKテレビを見てしまいました。

 そうだ、今日も三匹に会いに行くのです。いっぱいにお喋りします。

12090905  2012年9月9日のポメラで、私は次のように書きました。

 漱石が鎌倉の禅寺を訪ねるのも、修善寺の禅寺を訪ねるのも好きにはなれなかったのですが、今ではものすごく分かる気になりました。曹洞宗もそんなに嫌いではなくなりました。

 鎌倉は今でも歩いています。修善寺は、大昔温泉新聞の記者をやったときの集金旅行と、10数年前に家族4人で行きました。
 それで、前には漱石が禅宗を好きになっている感じが分からなかったのですが、今はそれがとても理解できる好きになりました。
 それに比べて今ではかなり好きになった芥川龍之介ですが、私にはまだ「西方の人」などは理解できない作品です(漱石は禅宗に至ったのに、どうして龍之介はイエス・キリストなのだ?)。
 それから昔から大好きな太宰治ですが、そして私は全作品を読んでいますが、私には大好きな作家です。
 私は夏目漱石と芥川龍之介と太宰治ですが、私にはこの三人が日本では一番優れた作家だと思っています。いやこれは紫式部や清少納言それによしもとばななを含んでもいえるのではないかと思っているのですよ。

11081713 このIS01で書いていくことをちゃんとしていこうと考えていますが、どうしようかなあ。 いや今パソコンで、今日書いた「芥川龍之介のことで(周が酔って話す馬鹿話)」(これは昔に書いたもの)をさらに、その2を書いていたのです。
 明日UPするのですが、龍之介のことではなく、吉川幸次郎のことを書いていて、自分の馬鹿さ加減に呆れて嫌になるばかりでした。
  もう少しちゃんと学んでいきましょう。 私が吉川幸次郎先生の教育テレビで「李白『子夜呉歌』」の秋の詩を読んだのは、高校2年の時でした。それから、約40年が経過して、真実を知り、でもそれから5年が過ぎて、またちゃんと書くことができるわけです。

 もっと学んで、もっと李白『子夜呉歌』」、インターネット上にUPしていきましょう。

  いや、もっと書くつもりだったのですが、こうして今になってしまいました。

11051801 いや、このことは私が考え込んでいるうちに、書きずらくなってきていて、とうとう最後のほうで書くことになってしまいました。
 芥川龍之介は、1892(明治25)年3月1日〜1927(昭和2)年7月24日の生涯でした。私は数年前にあるポーランド人(彼女は実際に日本の大学に来て芥川の研究をしていました)に、彼女が「芥川龍之介のお母さんは3人だ」というのに、「いや4人だ」と言って、実際にその母を4名あげて、納得されたものでしたが、今は私が3名しかあげられない段階です。それで何度も思い出しても、インターネットで調べても、3人しか判らないのです。なんかもう自分が信用できない段階になってしまいました。
 芥川龍之介は、新原敏三、フクの子として生まれましたが、生後7カ月後頃に母が精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町にある母の実家の芥川家に預けられまして、、伯母フキに養育されます。11歳の時に母フクが亡くなり、翌年に伯父芥川道章(フクの実兄)の養子となり芥川姓を名乗ることになりました。これで3人の母がいるわけです。
 いやもう一度ちゃんと調べ把握してまいります。
 中学生のときに、彼の作品はほとんど読んでいました。高校生になって、「まだよんでいないものがあるかな」と探して読んでいたものでした。
 でもその頃はそれほど好きではなかったのでしたが、今は実に何度も読み返して、彼の作品が好きになってきました。私は太宰治と夏目漱石が好きな作家でしたが、今ではこの芥川龍之介も実に好きな作家です。

201801080111011205この作家は1891年(明治24年)11月23日〜1952年(昭和27年)3月1日の生涯でした。
私は中2の時に『学生時代』を読んでいるだけです。『破船』という小説の題名は知ってはいましたが、どこの文庫本にもないので、読むことができませんでした。これは今に至るも同じです。
この『破船』というものを読むことができないので、インターネットで検索しました。あるサイトで以下のようにありました。

    世に「破船」事件と呼ばれた有名な話がある。漱石の長女である夏目筆子を、久米正雄と松岡讓が争った事件で、年配の日本人なら誰でも知っている話だ。

これでなんだかすべてが氷解しました。前に私は次のように書いています。

大正4年にこの久米正雄と芥川龍之介、菊池寛が一緒に漱石の家を訪ねます。そこには、新聞社の文芸の記者もいて、その前で漱石は久米正雄と龍之介を褒めます。たしか、次のようなことでした。

この芥川君と久米君は素晴らしいものを持っています。とくに、この芥川君は云々……。

これを読んで、龍之介の隣にいる久米正雄が面白いわけがないよね。でもでも、一番面白くないのは、この二人の後にいた菊池寛だと思うのですね。

でもでも、菊池寛はその思いもないかもしれないなあ、と気がつきました。いや前回書いた「菊池寛『忠直卿行状記』」のことで、それだけくらいの人かなあと思いました。それに久米正雄も駄目ですね。私はこの『学生時代』の中のいくつの話を思い出しました。思えば、非常につまらない内容です。『破船』はもっとつまらないんだなあ。
できたら、漱石先生は、このときに久米正雄をわきに読んで、小声で「君ね、悪いことを言わないから、小説なんか書くのをやめな」といえばよかったんだよな。あ、菊池寛は伝えても判りません。(2010.04.16)

『破船』は読んでいないので、分からないのですが、この『学生時代』は思い出せます。だがもう読み直そうという気持もおきませんね。(2011.01.12)

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11011204 この作家の作品には、私は少しも感心したものはないです。だから、何を取り上げようかと悩みました。いえそのうちに、芥川龍之介をあげるので、この作家も扱わなくちゃという思いなのです。実はこの菊池寛をあげようと考え、それで書き出したのですが、どうしても書けなかったのでした。
   でもどうやら以下のように書きました。

 この人は1888年(明治21)12月26日~1948年(昭和23年)3月6日の生涯でした。
 私は中学2年のときに、『父帰る』『屋上の狂人』『無名作家の日記』『恩讐の彼方に』(戯曲が多かったな)等を読んでおり、中3のときに、この小説を読んだものでした。 松平忠直は、父親が結城秀康で、この父親は家康の次男でした。この秀康はかなり有能であったといわれている人でしたが、父親家康とはいい関係になれたとはいえず(実は彼は秀吉の養子にもなっており、弟の秀頼が大事だと思っていました。だから家康は彼を関東に止めおいたまま、関ヶ原には参加させません)に、越前藩北の庄藩(福井藩)を領有します。そのときに、姓を松平に戻したといわれますが、秀康自身は「結城」という姓で最後まで過ごしています。

 その息子が、この作品の主人公の忠直です。越前75万石を継いで、さらに大坂の陣で、真田幸村を討ち取るという戦功をあげます。だが戦後の論功行賞が不満で、その思いで二代将軍秀忠には評価されないことになり、隠居を命じられます。
 この忠直がその不満から乱行を繰り返すようになり、その状態をこの作品では描いています。あまり面白いとは言えない作品です。
 思えば、菊池寛という作家は、書いた作品より、芥川賞直木賞というものを作ったことが一番のことなのかなあ、と思ってしまうものです。(2010.04.14)

11011203 私はここで、菊池寛『形』の一節を引用したので、前にそれとは別に、、菊池寛『忠直卿行状記』と久米正雄『学生時代』について、書いたものを見たのですが、実に何も書いていないに等しく恥ずかしいので、ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』を書いたものです。
 でもやっぱり書いておきましょう。(2011.01.12)

 私は前に「久米正雄『学生時代』」と「菊池寛『形』」を扱ったときに、はっきりと久米正雄にはおさらばしたと思っていました。でも菊池寛に関しては、「でも、何かいい作品があったはずだ」と思い、青空文庫で探してみました。でも菊池寛は戯曲のいくつかが読める作品とはいえ、いわゆる小説は一つもいいと思えるものがないのです。「こんなはずはない。何かあったはずだ」という思いで、青空文庫でいくつも読みましたが、少しも感激しません。
 もう芥川龍之介とは比較にも何もなりません。私は龍之介がすべていい作品ばかりなので、それをどうしても認めることが嫌なのかもしれません。でも私がいくら嫌でもなんでも、やっぱり龍之介の作品はいいです。菊池寛の作品はまったくどうでもいいです。
 私がこんなに菊池寛を誉めたいのに、評価したいのに、何も応えてくれる気がしません。私は新潮文庫以外でも、けっこう読んできたのです。でもその私の記憶は、どの作品もいいものではありません。
 なんとなく、仕方ないので、この『形』という作品を思い出しました。実に短い小説です。青空文庫で数分で読める小説です。少しもいい作品だとは思いません。でも少なくとも『真珠夫人』なんかよりはましなんじゃないかな。
 もうこの作家のことは考えたくありません。(2010.08.08)

10102501 米国では、今Facebookが盛んになってきているといいます。私も昨日私のブログのサイドバーに置いたのですが、また削除しました。まだよく判らないというところです。昨日電車の中でやったのですが、フェイスブックはケータイでは今が一番大事な検討のときのようです。このことを今朝の「ニュースさとう」で書きました。
「歴史さとう」では、芥川龍之介のお母さんのことを書きます。一般的には、彼にはお母さんが3人いたと言われるのですが、私は4人だと思っていて、そのことをポーランド人の研究家に納得させたこともあったのですが、今は3人までしか確認できないのです。でも近頃では彼の小説が実に好きになりました。太宰治や夏目漱石に負けない作品ばかりだと思いますね。
 写真は、10月25日の午後6時28分の長女の家でテレビの画像をポコ汰が撮りました。こうしてピントが合わせられるようになりました。(10/27)

10101213 だんだん、自分のUPしたことを読んでも、この中宮崇という人物の言うことに腹が立ってきました。

明確な障壁や葛藤が時代ごとに存在した欧米と違って、日本の純文学ってのは、主に個人的な心の葛藤ばかりを扱っており

 これは例えば、欧米の文学ではどれを指しているのかなあ。日本の純文学って、誰等の文学をいうのでしょうか。

漱石なんてクズニートだの甘やかされたどら息子とかの話ばかりだし、太宰なんていうまでも無いでしょ。例外は、悔しいことに、支那文学を下敷きにした芥川や中島敦などのごく一部だけでしょう

 ここでいうこの漱石の作品を具体的にあげてくれないだろうか。「話ばかりだし」なんて、私は漱石の作品に「クズニートだの甘やかされたどら息子」の話って、なんの作品なのだろうか。全然思い当たりません。ちょっと中宮崇という人物はひどすぎます、馬鹿すぎるのじゃないのかな。
 芥川龍之介の支那文学を下敷きにした話って、何をいうのかなあ。「杜子春」って、中国のモデルになった話は、女にさせられてしまう話で、芥川のとはまったく違います。
 それに中島敦の支那文学を下敷きにした話って、何ですか?例えば、『李陵』なんか、下敷きの話は中国にはないですよ。司馬遷、李陵、蘇武の物語を描いていますが、あの物語は中国にはありません。中島敦が『悟浄歎異』・『悟浄出世』を描いてくれたおかげで、沙悟浄は、どうやら、どういう怪物かが判ってきて、でもこの日本では河童と言われるだけです。中国には河童なんかいません。
 もうただ呆れはてたばかりです。

10100805 昨日は長女家族が来まして、もう「龍馬伝」が見られませんでした。でも龍馬よりも孫のほうがいいのです。でもポポは私の顔を見て、笑顔になるのに、でもその後に泣くのです。どうしてかなあ。
 でも上のポコ汰とポニョは、もう私のひざの上に乗って、パソコンをいじって楽しそうです。
「ニュースさとう」では、今のネット時代の古書店のことを書きました。
「歴史さとう」を、芥川龍之介の4人のお母さんのことを書こうとして、実に3人まで思い出したのですが、あと一人が出てこないで、困りました。別のことを書きます。芥川龍之介のことは私は中学生の頃よりも、ものすごく好きになったのですね。ただ、彼が亡くなる年に書いた作品は、どれも好きになれません。あ、『河童』だけは好きかなあ。
 一昨日書いたことで、エリス(本当の名前は違いますが)は、実に東京まで会いに来たのではなく、鴎外の出雲まで行っているのですね。でも鴎外は会わないのです。このときのことで、私は鴎外に関する感情が、このごろ大きく変化しました。私は何故か鴎外が好きになってきたのです。
 写真は、10月8日の午後6時39分に撮りました。私の長女の家にある長女の作ったものです。(10/11)

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 この日はどうしてもこのポメラを開くことが少なかったです。二人の孫が来ても、もう他の事で夢中で(もうこの家には二人が夢中になるものがいっぱいあるのです)、私のベルトの両脇なんか目もくれません。

2010/04/18 08:35どうやら、「蜘蛛業」に「ニュースさとう」と「読書さとう」はメールを送りました。
2010/04/18 08:57「読書さとう」で芥川龍之介のことを書きましたが(実際は『藪の中』ですが)、でも龍之助はいいです。実にいい作品ばかりです。
2010/04/18 10:59いやこうして朝は新聞を読んだり、台所の水回りをあちこち洗い物したりしています。あ、ゴミを捨てに行かなくちゃあ。

 さて、また朝ですから、いろんなことをやらなくちゃという思いです。あ、きょうこそ決意していることをやり遂げます。

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 周の漢詩入門「夏目漱石『尋仙未向碧山行』」に次のように書いたことですが、私はこのことで、漱石との会っているところを思い浮かべていました。

『明暗』について、漱石は芥川龍之介、久米正雄への書簡で、「新聞一回分千八百字くらいで、百回で十八万字、十八万では字数が多くなって平仄に差支えるから三万字で御免蒙った」ということを述べているそうです。これが転句に書かれている内容です。

 たしか大正4年にこの久米正雄と芥川龍之介、菊池寛が一緒に漱石の家を訪ねます。そこには、新聞社の文芸の記者もいて、その前で漱石は久米正雄と龍之介を褒めます。たしか、次のようなことでした。

 この芥川君と久米君は素晴らしいものを持っています。とくに、この芥川君は云々・・・・。

 これを読んで、龍之介の隣にいる久米正雄が面白いわけがないよね。でもでも、一番面白くないのは、この二人の後にいた菊池寛だと思うのですね。
 でもでも、漱石は私の好きな作家ですが、私は芥川龍之介はそれほど好きではありません。
 そうねえ、私は太宰治のほうがずっと好きです。いくつもの作品も私は漱石と太宰治が好きです。

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09031003 思い出せば、この作品を読んだのも中学2年のときでした。それからもう45年以上経っていたのでした。
 とても短い小説です。黒澤明「羅生門」に取り入れられた作品です。あの映画は、風景背景はこの『羅生門』から出来ており、物語の筋が『薮の中』から出来ています。

 暫(しばらく)、死んだやうに倒れてゐた老婆が、屍骸の中(なか)から、その裸(はだか)の體を起したのは、それから間(ま)もなくの事である。老婆は、つぶやくやうな、うめくやうな聲を立てながら、まだ燃(も)えてゐる火の光をたよりに、梯子(はしご)の口まで、這つて行つた。さうして、そこから、短い白髮(しらが)を倒にして、門の下を覗(のぞ)きこんだ。外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。
 下人は、既に、雨(あめ)を冐(をか)して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。

 思い出してみれば、芥川龍之介は、中学生のときに読んだきりですね。思えば、もっと作品があるのですから、全作品を読んでみましょう。
 随分前に、ポーランド人の女性で、埼玉大学で、芥川龍之介を研究しているという方とお喋りしましたね。その方との会話もよく憶えています。

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