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 夢の中の日常「ひさしぶりのコピーライターの田口さんに会った夢」の田口賛吉さんのことで思い出したことを、さらに書きます。
 9月14日家族8人が集合しました に書いたのですが、この日は長女の上中里の家に私の家族8人が集まりまして、そして夕方、根津『海上海』へ食事に行きました。
 そのときに、ナオキ君の車で、上中里から、根津までいくのに、田端の駅の北口を通りました。このときに、私は、この田口賛吉さんのことを思い出していたのです。田口さんから27年くらいに前に聞いたお話です。だから、私が32、3歳のときかなあ。
 田口さんがまだ4歳くらいのときです。賛吉さんは、お母さんと弟さん(2歳か3歳でした)と、田端駅から出て、上中里のほうへ歩く長い坂道を歩いていました。田端駅に向かっていました。たぶん、昭和22、3年の頃のことでしょう。その頃、賛吉さんのお母さんは担ぎ屋をやっていました。いつも常磐線で、茨城のほうへ米や野菜を仕入れに行くのです。
 その坂を昇っているときに、後からお巡りさんが来ました。少年の賛吉さんは気が気ではありません。担ぎ屋をやっている人には、お巡りは敵でしかありません。
 後から迫ってくる警官のことが心配で心配で、賛吉さんは、「かあちゃん、後から来ているよ」といいました。もちろん、お母さんも覚悟を決めたのでしょう。逃げようとしてもあの長いだんだら坂です。
 でもそのほんらい怖いはずの警官が、親子を追い抜くときの、弟のことをいきなり抱きかかえてくれて、「高い高い」をしてくれて、「こんなに小さいのに偉いな」と言ってくれたそうです。もう、早鐘のように鳴っていた賛吉少年の心臓は、ホッとしたことでしょう。
 この話を聞いていたのは、私ともう一人のデザイナーでした。もうその話を聞いていて、そのデザイナーも私も涙でいっぱいになったものです。
 今もまた私の目には涙が溢れています。おそらく、その警官にも、お母さんの商売はそこでも摘発すべきものだったと推測します。でも、その警官は小さな子どもを連れている母を尋問する気持にもなれなかったのでしょう。あの時期は誰もがそんな苦しい時代だったのです。

 そのときのことを、私は家族8人で走っている車の中で思い出していました。そしてそこでもなんとか涙を流さないように必死になっていたものでした。

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