将門Web

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Tag:英語教育大論争

 安政の大獄でわずか26歳で処刑された橋本左内が、15歳(満14)にて執筆した「啓発録」を読んでみました。この本には「啓発録」のほかに、左内の書簡や意見書、そして漢詩等が載せられています。

書 名 啓発録
著 者 橋本左内
発行所 講談社学術文庫
1982年7月10日第1刷発行

11041804 まだ少年であった左内が書いた「啓発録」には驚いてしまいますが、私にはいくつもの書簡や意見書を興味深く読むことができました。歴史上での彼の存在を見ることができるからです。やはり幕末の日本には稀有な才能の持ち主であり、処刑されてしまったことは、非常に残念なことであると思います。
 またいくつかの漢詩ですが、詩吟の世界では身近な詩人ですから、実に親しんで読んでいくことができます。「この語句はきっと菅原道真の詩から引用したものだろうな」なんて、推測しながら読んでいけるのです。
 ただ、この本を読んで一番よかったのは、最後にある平泉渉氏の「偉大なる先哲景岳先生」と題した昭和56年10月に行われた講演記録です。平泉氏といえば、昭和49年4月自民党参議院議員のときに、「外国語教育の現状と改革の方向」と題する試案を自民党政務調査会に提出して、上智大学教授の渡部昇一氏がそれへの反論をして、それから二人の間で「英語教育大論争」と呼ばれる論争をしたことで、私には印象深い先生であります。

 この論争では、どうみても私は渡部昇一の方に身を入れてしまい、平泉氏のほうは「なんだか分かってないな」という思いだったのですが、この講演記録を読んで、改めて平泉氏のいい資質も知り得た気がします。平泉氏にとっては、同じ故郷の橋本左内は、大事な敬愛してやまない先輩のようです。
 平泉氏によって知ったことは、橋本左内と僅かの期間しか触れ合うことができなかった西郷南洲隆盛が、実に明治10年城山で最後を遂げるまで、約20年間左内の手紙を肌身離さず持っていたという事実です。西郷という人はなんというすごい人なのかと思うのですね。すごいというか、なんだかとてつもなく不思儀な魅力をおぼえてしまう存在なのです。きっと左内にこそ大いなる友情を感じていたのでしょうね。そして本当なら二人で生きて、あの維新を完成させたかったのでしょう。彼が生きていれば、あんな中途半端な維新で終わらせなかったという、そんな西郷の思いがいままた伝わってきます。そして西郷にそうした思いをさせた橋本左内という人も大きな人物だったのだろうなと感じることしきりです。(1997.09.23)

2017062629 もう随分前に読んだ本ですが、かなり内容に感激して、何度か振り返る本があります。

書  名 英語教育大論争11011306
著  者 平泉 渉
渡部昇一
発行所 文春文庫
1995年8月10日第1刷

日本人は、英語が少しも上手くならないと言われてきました。アジアの国々と比べても、日本人は英語が話せないということを、なんだかどこでもしつこく言われてきました。
そこで、昔から「日本の英語教育は間違っている。会話中心の教育にすべきだ」なんてことがさんざん言われてきました。私の姪や娘の時代には(今もでしょうが)、公立中学に必ず米国人なりがいまして、みな英会話ができるようになれるはずだとされてきました。そして、学校のみならず各企業でも、「英語くらいは話せるように」といろいろといわれ、英会話を習いにいくサラリーマンがあとをたちません。
でもでも、日本人は全然英語が得意になりません。いや却って、私たちのときよりも現在の中学生高校生は英語が苦手になっているといいます。
このことは何なのでしょうか。これについて、一番その訳が判るのではないかと思えるのが、この本なのです。

この論争は、平泉渉氏(当時自民党参議院議員)が、1974年4月18日に出した試案「外国語教育の現状と改革の方向」という提案を出された内容に関して渡部昇一氏が「亡国の『英語教育改革試案』」という批判をされて、それで平泉氏の再反論、それに対してのまた再々反論ということでの大論争になったものでした。
平泉氏は、日本人がこれだけ大量の時間を英語教育にあてているのに、どうして他のアジア人に比べても英語が話せないのかということで、それは今までの英語教育に問題がある、「英米人を各高校に」入れることにより、会話中心の教育にして、日本人ももっと自由に外人とコミニューケーションができるようにしようと提案されたものです。そして何ら意味のない英語教育は必要ないから、むしろ英語教育の時間を減らせ、できたら大学入試科目から英語なんかはずしてしまえという主張でした。
平泉氏の父親は戦前の有名な国粋主義者であり、この渉氏もその影響があるのでしょうが、この日本がかくも英語教育(まさか戦前みたいに英語を敵性言語とは言わないが)ばかりに時間をとられるのが気にいらなかったのでしょう。「英語なんて、ただ喋られればいいんだよ」ということなのだと思います。事実平泉氏は、英会話は自在にできる方でした(いや実は語学に堪能になったのはフランス語のほうが先だったといいます)。
ただ、これで驚いたのは日本で各公立中学や高校やその他たくさんの学校で英語を教えている教師たちでした。彼らのほとんどは、英語は教えていますが、私たちと同じで、英米人と自在に会話できる自信なんかまったくなかったのです。このままでは失職してしまいます。
この全国の不安になった英語教師たちのいわば救世主として渡部昇一が登場してきました。彼がいうのは、簡単にいいますと、「過去やってきた日本の英語教育は間違っていない」ということなのです。
渡部氏がいうのは、簡単にいいますと、アジア人、例えばインド人が何かを学ぼうとするのに、シェークスピアを読もうとしても英米の映画を見ようとしてもその言葉や会話はヒンドゥー語やベンガル語には訳されていません。いや実は家で雇ったメイドさんとも、また別なインドの部族語の子だから会話できないという問題があります。そうなると英語を使うしかないのです。だが、この日本ではシェークスピアでもゲーテでも、どの映画でも自然科学の本でもほとんどが翻訳されて読むことができるのです。そしてこの日本人というのはその海外の文化をあくまで正確に読みこなそうと努力してきたのだということなのです。それが英語教育でも同じなのだというのですね。

このことを、渡部氏は聖徳太子の仏教学の学び方から江戸時代に至る漢学の学び方の説明からしていきます。私などは、実に「なるほどなあ」と感心してしまう内容なのです。
以下彼のあげた有名なエピソードを引用してみます。明治時代の熊本五高での話です。

その当時の五高の英語の先生たちは佐久間信恭氏をのぞいてみなア
  メリカの大学出ということで、マスターやバチュラーの肩書がついて
  いたが、教室での解釈は学生たちの目から見るとすこぶるあいまいで、
  しばしば先生と学生との間に論議が起った。先生はこれに対して明快
  な判断で学生たちを納得させることができず、結局、「アメリカの大
学でやった人は駄目だ」という評判が学生たちの間に生じた。そうし
た先生が居づらくなって中学校などに去られるなどして、幾人か代っ
たが、学生たちにとっては一向に代りばえがしなかった。それで、中
には「先生の解釈では駄目だから、リーディングをやって下さい」と
言う失礼な注文を持ち出し、外国帰りの発音などを聞いて、一時間の
授業を無駄にしてしまったこともあり、一向に学力もすすまない。先
生もやりづらかったろうが生徒も迷惑してどうにもならなかった。
こうしたところに日本の大学を出た若い教師がやってきた。もちろ
んこの人は外国に行ったことがない。ところがこの人の授業がはじまっ
て見ると、今までとは大違いである。学生を指名して訳させ、誤訳が
あると辛辣な質問で突っこんでくる。その答え方がまずいと、「君は
一体、どこから来たんだ」と聞かれると「〇〇中学です」と答えると、
フンと鼻の先で嘲られ、「君の中学ではそんな訳をするのか」と言わ
れる。更にひどくなると「フン、中学からやり直すんだな」と冷然と
して言われる。この辛辣さに学生は憤慨し、今度の先生は意地が悪い
からひとつとっちめてやろうという相談がまとまり、クラス総がかり
で熱心に下調べをして、授業の際には質問攻めをもって喰ってかかる
ことをやったが、結局は学生の総負けである。「こんどの先生には歯
が立たん」と言うことで敬服の心が起ってみんな勉強するようになっ
た。教室での説明も前のアメリカ帰りの先生方と違い、明快至極で、
よく学生たちを納得させたのである。それで学生たちは、課外での英
語の教授をもお願いすることになり、総代が頼みに行って、イギリス
の名作を読むことにしてシェイクスピアなど何点かを読みあげたと言
う。

この辛辣なことを言う若い教師というのが、夏目金之助のちの漱石です。まだ彼は洋行していません。
私にはこの漱石と生徒たちの学ぶ姿が、おそらくは聖徳太子の時代に中国の漢籍を学ぶ師弟の姿でもあり、「解体新書」を訳している前野良沢や杉田玄白の姿でもあったと思います。またおそらくは、駿台予備校や河合塾でも同じように学んでいる師弟の姿が見えるような気になってきます。
これが日本人が過去やってきた学問としての語学を学ぶ姿勢であったかと思います。日本人は外国の文化を真剣に自らのものにしたいから必死に正確に学ぼうとして来たのです。単に、外人と会話できればいいやと考えてきたわけではありません。

かくいう私も英語は苦手です。英米人と話すのも苦手です。ただ、よく飲み屋で知り合いになった米国人なんかと、どうしても話したいとなると不思儀に言葉が出てきます。それは、例えば相手が日本の12月8日のパールハーバーのことを「日本は宣戦布告以前に攻撃したから卑怯だ」なんていいますと(実は私が巧妙に、こういう話に持っていく)、私は「何を言っているんだ、米国はベトナム戦争のときも、パナマ進駐のときも、そうだ米西戦争のときにも、宣戦布告なんかしないで先に攻撃しだしたじゃないか」なんて喋り出します。私はその相手と真剣に話したい、その相手をちゃんと論破したい、私の意思を正確に伝えたいと思うと、何故か言葉が出てくるのです。
思えば、これは中国の人とも、「蘆溝橋事件なんて、そちらから仕掛けたんじゃないか」なんて言い出しまして、そうなるともう大激論になりますが、私は私の中国古典の知識を総動員をして筆談含めて元気に話しています。私はこの相手とこそ意思を伝え合いたいのです。
私は「まず会話がしたい」ではなく、相手と真剣に正確に話したい、相手の文化を真剣に理解したいと思うことこそが一番大切なことだと思っています。

そうした私の思いの中で、この大論争は実に学ぶべきことをたくさん含んでいるのです。(2002.12.16)

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