将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:茨城県佐貫

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私は生まれた時から、ここのサイドバーの「私の住んだ街」に書いていますように、1948(昭和23)年に茨城県佐貫(現在は取手市)の生まれ、今東京都北区豊島に住んでいますように、いくつもの街地方に住みました。
 その中で好きなところは(みんな好きで嫌いなのですが)、秋田と沖縄なのです。
 その秋田で好きな歌が「秋田音頭」なのです。そしてこの内容です。

コラ、秋田の女ご 何じょしてきれいだと聞くだけ野暮だんす 小野小町の生まれ在所 お前(め)はん知らねのげ

 いつも私にはこのうたが聴こえているのです。

11080903  まだ東京駅です。まだ出発しません。 たぶん15時23分出発です。
  思えば、遠いけれど、私の母が昭和25年4月に私の弟を秋田市黒塀土町で産むときには、私の祖母が茨城県佐貫から来てくれていたのでした。たいへんだったでしょうね。

   私はじゅににいっぱい話すんだ。「じいじも一生懸命やったんだよ」。あとじゅにとお風呂も入りたいな。でもポニョともポポともはいっていない。ポコ汰とは入ったけれど覚えていないだろうなあ。
  そういえばブルータスとは、たしか小学校5年のときに、「もうパパとお風呂には入らない」と言われたのです。ものすごいショックだったなあ。
  そのあとは、温泉に行っても、私はいつも一人です。

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 私のこのUP永田光男さんから、以下のコメントをいただきました。

2. Posted by 永田光男    2007年09月20日 09:42
ボクの誕生日は1948年5月30日です。
なんか、縁を感じて投稿しました。
上記URLでボクのブログへもお出で下さい。
お待ちしてます。

 ありがとうございます。私のこのUPは、2006年のことですから、今年の今は、もう59歳というわけです。もう60代もすぐそこに迫っているのですね。
 でも私と同じ日の生まれの方とは始めてのことです。私が生まれたのは、茨城県佐貫です。今は藤代市になっています。生まれてすぐに、東京の巣鴨に引越て、3歳のときには、秋田市に引越ました。その後、札幌、名古屋、鹿児島、横浜と引越て歩きました。小学校が5つ、中学校が1つ、高校が2つと転校してばかりいました。弟は小学校が4つですが、中学が二つです。兄は小学校が3つですが、中学校も3つ転校しています。ただ高校が二つというのは私だけです。

 永田光男さんのブログを拝見しました。とても綺麗な写真ですね。羨ましいです。私何か、ただただ画像を載せているだけという感じですね。
 今後もまたブログを拝見させてください。

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 まっくまっく の彼女が、私のことを次のように言ってくれています。

一日何時間でもパソコンに向かっていても、目は疲れないわ、肩は凝らないわ、腰は痛くならないわの周さんらしいのです。

いつもパソコンやら入っている重いリュック(7,8キロはあるのかしら?)持ち歩いているのに、足やら腰やら平気だと言うし・・・。

なんでそんなに平気なのか聞いてみた。

「5月生まれだからよ。寒い時期に母親のお腹にいたからだと思うよ」

と言っていましたが、あれ、あたしも5月生まれなんだけど、腰は弱いわ、肩は凝るわ、目は直ぐショボショボしちゃうし、全く正反対なんですが、どうしてかなぁ〜〜。

どうも思う事によると、あたしはお酒は好きですけど、直ぐ顔が赤くなってしまうので、そんなに飲まないのですね。

ま、ここらへんが違うのではと思ったしだいで・・・。

 ええとですね。私が生まれたのは、昭和23年(1948)5月30日です。生まれたのは、茨城県佐貫(今は藤代市内にあります)でした。それでこの年は、もう戦後でも食料事情等々は極めて悪かったようです。
 それで母は食べるものは、いわばひどいものばかり食べていたようです、今でいうと「粗食」というよなものですね。いわば、例えば大根だとすると、柔らかい大根の部分は食べられずに、シッポのほうばかりしか口に入れられなかったようです。もう本当にあらゆる食料でも悲惨な部分ばかり食したようです。
 でもこれが良かったのです。私が母の胎内にいたのは、昭和22年の8月から23年の5月で、いわば寒い時期にいたわけで、母は、ひどい時代でも、少なくとも身体を暖めるようなものを食べました。それが実は私には良かったのです。
 私の兄は昭和17年2月生まれです。日米開戦の前に母の胎内にいたわけで、まだ日本はそんなにひどい食料事情ではありませんでした。だから、却って兄はとても身体が丈夫ではないです。
 私の弟は昭和25年4月生まれですが、生まれたのは秋田市で、24年の夏ごろからは、そんなに秋田は食料事情は悪くなかった。だから、粗食ではなかったから、これまたそんなに身体が頑健ではありません。
 私は、いわば母が粗食で、生きている中で胎内にいたわけで、しかも寒い季節に母が胎内を暖めるようなものを食していたわけです。ですから、私は丈夫です(実は丈夫でないところもあるのですが、まあそれは頭かなあ)。
 こうして丈夫に産んでくれたことは、私にはとてもいいことでした。

 粗食ばかりを身体に入れてきたから、母が作ってくれるものは、なんでも美味しかったです。だから、学生運動で、留置場での食事も実に美味しかったです。府中刑務所の食事はもう私には驚くほど美味しかったのです。もう麦シャリが良かった。感動でした。
 私の母の食事は、決してちゃんとした料理ではありません。母は、料理なんて習ったことがないし、ただただ毎日口に入れられるものを作ってきてくれただけです。
 私の家には、ずっと秋田犬がいましたから(常時2頭以上、多いときは10頭くらいになる)、それの食事の用意も大変だったでしょうが、あの犬たちも私も懸命に必死に食べていました。
 私の妻も決して料理はうまくありませんが、ただただ私は美味しく食べています。
 というか、そもそも私は1日2食なので、いつも腹が減っているので、とにかくまずお酒が美味しいのです。
 ア、そうだ、お酒で思い出した。先日怖ろしいことがありました。私の長女のしうちです。でも私がおかしいのだという意見もあるかもしれません。また書きます。

 この「丈夫なわけ」続き

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