将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:荒國誠

   Monday, May 21, 2001 10:55 PM
初めてホームページを開き、「ワルシャワ労働歌」が流れてきて感激しました

 初めてホームページを開き、「ワルシャワ労働歌」が流れてきて感激しました。この歌ともっとも遠いと思われる「詩吟」で検索したのですからびっくり。私は58歳の高校教師です。ソ連崩壊後も科学的社会主義こそもっとも正しいと信じています。私の世界観、人生観は60年安保で築かれたと思っています。ホームページを開いた段階ですので中味はこれからみます。それではまた。

   Wednesday, May 23, 2001 2:28 AM
Re: 初めてホームページを開き、「ワルシャワ労働歌」が流れてきて感激しました。

11070403 メールありがとうございました。
 中身をごらんになりまして、がっかりされたかもしれません。私はいわゆる三派全学連と全共闘の時代の活動家ではありまして、激しく活動は致しましたが、その当時もマルクス主義には、少しの魅力も感じていなかったものでした。ただ、思えば、その頃からずっと詩吟はやっていたものです。それから「ワルシャワ労働歌」は私の最も好きな歌の一つです。以下にこの歌のことを書いております。

  ワルシャワ労働歌(これもそのうちUPします)

 私は教員にはなりませんでしたが、もともとは教員になりたいと考えていたものです。私の時代の動きの中で、その道には進みませんでした。今思えば、このことも良かったのかなとは思っております。萩原周二

   Thursday, May 24, 2001 9:28 PM
「私の前のメールアドレス 様」

 メール拝読しました。私はもともと詩吟が好きで趣味として15年ぐらいになります。神風流という流派の総元代範をやっています。詩吟とともにあなたのホームページに出ている革命歌はほとんど好きです。なかでも「ワルシャワ労働歌」がもっとも好きです。詩吟とワルシャワ労働歌の取り合わせは、私にとっても奇異な感じがしています。思想的にはあなたと違うとは思いますが、趣味的には同じと感心しています。私もホームページを開設したい意欲はあるのですが、いま仕事が忙しくいろいろな人のホームぺージをみるのが楽しみです。5月24日

   Wednesday, May 30, 2001 9:45 PM
「Re: 私のメールアドレス 様」

 私が詩吟を正式にやりはじめたのは21歳のときです。21歳の8月に東大闘争で勾留されていた府中刑務所から保釈で出てきまして、10月に「日本國誠流吟道会」の宗家荒國誠先生のところに正式に入門しました。思えば、この詩吟の道もずいぶん長くやってきたものだと思います。
 神風流といいますと、岩淵神風先生がもともと宗家だった流派でしょうか。なんどか、レコードは聞いたことがあります。
 私にとって、革命運動と詩吟は少しも矛盾するものではありませんでした。私は、幕末の尊皇攘夷運動(しかも私のは、水戸天狗党がこそ好きなのです)の流れが、自分の参加している学生運動であると思い込んでいたものです。
「周の革命歌」にはもっと革命の歌をUPしてまいります。もっとたくさん、テキストにはしてあるのですが、なかなか校閲整理している時間がありません。
 ぜひ、ホームページを作ってください。私はけっこう若い方々(例えば娘の友だちなんか)とつき合っていますが、彼らは簡単にホームページを作ってしまいます。私はそのやり方を随分学んできたものです。軽い感じで、とにかく作ってしまったほうが早道みたいですよ。萩原周二
(第47号 2001.07.09)

10111218 親友の堀雅裕さんがなくなりまして、もう1カ月以上がすぎてしまいました。なんだか、私はこのごろいらいらしていました。彼と私はよく会って飲んでいたといいましても、互いに遠慮というようなものがありまして、長く連絡を取らないことも多々ありました。彼と会うと、どうしても二人で莫大に飲みますし、そして延々と飲んでいますので、それは彼の身体によくありません。それでは、奥さんの燕尼に心配をかけてしまいます。ただ、このごろは、彼と二人で飲むことよりもMさんという女性と3人で飲むことが多くて、それは実に愉しい瞬間でした。若くて綺麗な女性が間にいると、なんだか二人ともに、けっこう真面目になってよかったなという思いでした。
 でも彼とはしばらく連絡をとらないといっても、さすがに1カ月もすると、電話をしてきたものでした。私の事務所へでも、携帯へでも、自宅へでも電話してきます。留守でも、折り返しすぐに私は電話しますから、結果としてどこかで飲むことになります。1軒で終わろうという固い決意も、飲んでいるうちにもう1軒ということになってしまっていました。
 そんなことをもうずっと繰り返していたわけですが、今回だけは、もう1カ月が過ぎようと、彼から電話がかかってくることはありません。なんだか、仕事をしていても、道を歩いていても、彼からの電話が「なんでないんだろう」なんてぼんやり思っていて、そして気がつくことがあります。「彼はもういないんだな」。
 そしてとくに近ごろは、自宅に帰っても、なんだかすぐ寝てしまっていました。なんだかとにかく寂しい思いで、もう眠ってしまいたいのです。眠れば、この思いが晴れるのではというような感じをもつのですが、実際はそういきません。でも普段は平均4時間の睡眠ですんでしまうのが、ただただ眠ってしまっていました。10時にベッドに入れば、普段ならば、午前2時頃には起き出してパソコンに向かっているはずなのに、眠りから覚めることができないでいました。そんな日が続きました。
 13日に、また11時半頃寝室に向いました。妻が「パパ、歯磨いた?」なんて声を後にして、まず次女の部屋を覗くと、「パパはママの子どもみたいだね」なんて言われました。「でもなんだか元気ないね」という言葉に、

 うん、堀ちゃんがなくなってサ、こんだけ時間がたっても、あいつ電話してこないからね、ほんとに死んじゃったんだと思うとね、もう元気でないよ。

 それで、私としては午前4時には起きられる予定なのですが、なぜかそのまま眠ってしまっていました。
 そしてその朝(14日)私は夢を見ていました。その夢は、私が最初に詩吟で師事しました國誠流吟道会の宗家荒國誠先生なのです。もう先生とはお別れしてから20年になるでしょうか。
 荒先生には、さまざまに励まされてきたものでした。そして何といいましても、先生の詩吟が私は一番好きでした。荒先生の人間そのものが、私は尊敬していましたし、大好きでしたが、先生の詠う吟そもものも大好きでした。
 夢の中で、先生は何曲も詩吟を詠い続けてくれました。言葉は何も喋りません。昔聞いていたときには、先生は宗家ですから、最後に模範の吟を一つやるだけです。そして宴会になると、もともとオペラ歌手でした先生は、カンツオーネをやってくれたものです。
 その先生が、いくつもいくつも詩を吟じてくれます。一体何曲詠ってくれたのでしょうか。私はその吟が終わったときに、思わず大きく拍手します。先生は、私を見て、にっこり笑ってくれました。その笑顔を見て、私の拍手の大きさの中で、私は目が覚めました。
 きっと元気のない私のことを励ましに来てくれたのだなと私は確信しています。私は夢の中の先生の声と笑顔を忘れません。思えば堀ちゃんも、ジャズが好きだったわけですが、詩吟も何故か好きでいてくれたものでした。
 どんなことがあっても、やり続けなければならないのです。元気に生きていかなければならないのですね。
 荒先生、ありがとうございます。また元気にやっていきます。(2000.12.15)

2016112807

 私がけっこうあちこちでいつも詠う雲井龍雄の詩があります。私は、この詩と「黒澤忠三郎『絶命詩』」を吟ってきたものです。

   題客舍壁  客舎(註1)の壁に題す
              雲井龍雄
 慾成斯志豈思躬 斯の志を成さんと欲して 豈に躬(み)を思わんや
 埋骨青山碧海中 骨を埋む青山 碧海の中
 醉撫寶刀還冷笑 酔うて宝刀を撫し 還(また)冷笑す
 決然躍馬向關東 決然馬を踊らせて 関東に向こう

 (註1)客舎(かくしゃ) 旅館

10111211 この私の志を成し遂げるためには、どうして自分の一身の安全を考えていられようか
 どこで死を迎えようと構わない。草深い山だろうと、碧海の底で死のうと覚悟はできている
 壮途を祝って酒を飲み、腰の刀を探れば、敵を挫いた気持になり微笑してしまう
 さあ、これから馬を躍らせて関東に行き、薩長の野望を粉砕するぞ

 雲井龍雄は1844(天保15)年〜1870(明治3)年の生涯で米沢藩士でした。江戸に出て、安井息軒の三計塾に通います。この塾の同門に、土佐藩の谷干城(のちに西南戦争のおり、熊本城を最後まで守り通した官軍の将になる)がいます。
 幕末の江戸や京都に赴き、広く各藩の志士と付合いました。とくに土佐の後藤象二郎とは親しくつき合いました。
 そして明治新政府にも参画しています。だが、この新政府が薩長のみで、当初の理想から離れて行く様を見て、龍雄は義憤を禁じ得ませんでした。鳥羽伏見の闘いが薩長の計略によって成されたのを見て、龍雄は新政府に3度意見書を出しています。
 そして薩長の意図を挫くため、「討薩の檄文」を草します。関東で兵を募りますが、この策は敗れます。
 明治新政府は米沢藩に託して、龍雄を幽閉します。そして明治3年8月東京に護送され、同年12月28日小塚原で斬首されました。
 この詩は1868(慶応4年)5月3日の作です。この詩は、京都にて土佐・佐賀の同憂の士と別れの宴をはったときに、龍雄が賦したものです。
 なんだかいつも、まっすぐな龍雄を思います。その龍雄の無念さをいつも思いだします。
 私が昔詩吟で荒國誠に習いました詩です。荒先生はいつも、この雲井龍雄の話をしてくれました。明治生まれの荒先生にとっては、この雲井龍雄は私なんかが思うよりも、ずっと近しい、尊敬できる人だったのでしょうね。(2004.12.13)

 いつも雲井龍雄の詩は吟っていきます。これからもいつも忘れることはないでしょう。私の大好きな志士です。(2010.11.14)

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 李白には、

 http://shomon.livedoor.biz/archives/51033578.html 李白『越中懐古』

の詩があります。私が次のように書いていますように、

この詩も遥かなる昔、私が24歳くらいのときに、荒國誠先生から習ったものでした。

私が実に若いときに習っていたものでした。
 もちろん、呉王夫差のことも、越王勾践のこともよく知っていましたことでしたから、その故事はいくらでも思い出していたものです。
 その故事に関した同じく李白の詩です。

   蘇臺覽古   李白
  舊苑荒臺楊柳新 旧苑荒台 楊柳新たに、
  菱歌清唱不勝春 菱歌の清唱 春に勝(た)へず。
  只今惟有江西月 只(た)だ今惟(た)だ有り 江西の月、
  曾照呉王宮裏人 曾(かつ)て照らす呉王 宮裏の人。

  古くて荒れた宮殿のあとには、柳が新しい目をふく、
  ひしの実をつむ歌声は清らかで、春のなやましさにやりきれない。
  今はただ大川の西に出た月があるだけ、
  かっては呉王の宮殿の美人を照らしたあの月が。

 思えば、こうして李白は、遥かな昔にあったという故事を思い出しながら、この詩も作ったものなのですね。
 蘇台覽古(そだいらんこ)、この詩を読みながら、李白は約1,200年前の歴史をどう思い出していたのかなあ、と思います。

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09030303 先ほどリビングで、義母と妻の会話にときどき合の手を入れて、かつテレビを見ていまして、かつ新聞も読んでいました。もちろん、ポメラを打っていました。
 それで、今日の日経新聞の夕刊の12面が広告だけの面なのですが、ここの「懐かしいレコードをデジタル録音!」という広告が目にとまりました。日本直販の「USB/SDスロットレコードプレイヤー」です。

 これをインターネット検索しましたら、以下で見つけました。14,800円ということです。

   http://store.shopping.yahoo.co.jp/itsmo/ee1165.html

 いえ、私は詩吟のアナログレコードをデジタルにして、USBメモリかSDで聞きたいのですね。これはできそうだなあ。
 何年か前(多分もう5年前くらいかな)に、アナログレコードをデジタル化する機器を千葉市のヨドバシカメラで購入したのですが、私にはその機器の使い方がよく判りませんでした。
 でも今度はできそうですね。そうなると、いつでも私のもともとの宗家の荒國誠の詩吟をいつでも聞くことができます。

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 ナミちゃんのブログに、このUPがありました。

私の至福の時<うっとり〜(^^♪>
夕方六時半開演十時終了。。とたっぷり三時間半の夢の時間です。

 インターネットで検索すると、次のサイトでした。

   http://www.opera.co.jp/ トナカイWelcome

 住所等々は以下の通りでした。

101-0032
東京都千代田区岩本町2-12-5
神田平成通り(神田駅から一方通行)
水天宮通り(一方通行)交差点
地下鉄都営新宿線岩本町A5より100m
TEL:03-3851-0810/FAX:03-5820-7100

 あ、私も行ってみたいなと思いました。でも3時間半というのは、けっこう大変ですね。妻と二人でいけばいいのかなあ。義母のお泊まりのときなら可能ですね。
 私のもともとの詩吟の宗家が戦前に米国のニューヨークでオペラ歌手でした。カーネギーホールに出演したこともあります。だが、そのあとの不幸な日米戦争で、もはやそんな路は閉ざされたものでした。あの先生(詩吟では荒國誠、戦後の歌手としては荒貞男)の高く美しい歌声も思い出します。荒先生は、ハイテナー歌手でした。
 なんとか、日程を考えて行ってみます。いい情報を教えていただいてありがとう。

 でも私は、このお店の立地を地図でみて、「あ、このすぐそばにはいい飲み屋があったなあ」と思い出しました。開店すると、すぐに大きなお店が満席になる店です。最初は、私の親友の堀ちゃんが連れて行ってくれたのでした。ただし、妻と行く店ではありませんね。ただただひたすら飲む店なのです。

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 絵本「おじいさんの旅」のことで思い出しましたナミちゃんが、以下のコメントをこれました。

1. Posted by なみんと    2007年10月27日 21:09
周さん!こんばんは。日本語訳の「おじいさんの旅」を私も読んでみたいです。下手な訳で恥ずかしいです。細かい所のニュアンスを確かめたいです。荒國先生のお話。。この本と少し似ているところがありますね。収容所にいたことがあるのですか。オペラ歌手の勉強をずっとされていたとの事ですから・・さぞ高くて力強く美しいお声なのでしょうね。周さんの声も高く力強いですね。

 ありがとう。昨日は、すごい雨でした。午前中10時台の王子図書館に行きましたが、この本の予約では、まだ本が用意されていませんでした。今インターネットを見ると、もう用意されています。9時すぎたら行ってきます。
 荒先生のことをはるかにたくさんのことを思い出していました。思えば、私が一番好きな詩吟である、黒澤忠三郎「絶命詩」も、この國誠先生が1970年に國誠流の日米加の合同の大会があった(この荒先生の國誠流は、米国だけでなくカナダも会員が多いのです)ときに、私の詠う詩として、私が指名されたものです。おそらく、先生は、私に一番合っている詩として、この詩を選んでくれたものだと思われます。
 この詩は、私は1970年の安保闘争でも、埼大の集会の中で、これを詠いました。いつもこころの中でも吟っている詩です。

 周の雑読備忘録「アレン・セイ『おじいさんの旅』」 へ

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私がいつも読んでいますナミちゃんのブログこれから都内」にでま〜す♪ というUPの中に次のようにありました。

次男のやんが「ねぇーマリア・カラスって何人?」と聞いてきます。
私・・教養がなくてお恥ですが「知らなあ〜いい。フランスかなぁ」
ソプラノ歌手ですよね?クラッシクの女王だったかな?
いい加減な知識ですいません・

それでマリア・カラスのことなら704e6b18.jpg、もちろん私の好きな歌手といっていいですから、余計なことですが、以下のようなコメントを書きました。

ギリシア系のイタリアンオペラ歌手と言っていいんじゃないかな。私のもともとの詩吟の宗家である荒國誠先生は、オペラ歌手だったもので(戦前にニュヨークのカーネギーホールで歌ったことがあります)、イタリアの歌手は私もよく親しく聞いていたものです。國誠先生は、実に見事なテナー歌手でした。イタリアのテナー歌手のデル・モナコ、ジョゼッペ・ステファーノのカンツーオーネもよく聞いたものです。國誠先生も「オーソレミオ」、「帰れソレントへ」もよく歌ってくれたものでした。

今、荒國誠先生のカンツーオーネの声を思い出しました。また先生の葬儀のあった青山葬儀場で、会場に流れていた、広瀬武夫「正気歌」の吟を思い出しました。デル・モナコ、ジョゼッペ・ディ・ステファーノの歌も思い出せば、よくレコードで聞いていたものです。
思えば、私もずうずうしくよく唄ったものでしたね。いえね、七言絶句を吟うと、二つ詠うとすると、いくらなんでも次はまったく違う歌にしないと、聞いているほうは飽きちゃうでしょう。だから、私はよくオーソレミオ」を唄うのでした。
ナミちゃんが、私のコメントに次のようなレスをくれています。

周さんの声ってすご〜くピンピン張っていて綺麗ですよね。高音がとても綺麗だったなと思い出しています。詩吟の宗家の先生がテナー歌手だったとは詩吟と声楽の発声は共通するものがあるのでしょうか。

思えば、私は学生のときから詩吟はやっていましたが、他大学の学生活動家だと、詩吟だと右翼だと思い込んじゃう人がいるんですね。つい昔、唐牛眞喜子さんを中心として昔の活動家が集まる忘年会で、私が詩吟をやったら、早稲田の元活動家の高橋伴明さんが、「右翼はなぐらなくちゃ」とそばに来るし、私の関西のシンパ層も身構えたりして(眞喜子さんの説明で判ったようです。そしてそれ以来私は伴明さんの映画は必ず見ています)、さらに日学同の新右翼の人は、私を仲間だと勘違い(これが見沢知廉さんでした)いたりしたものでした。

あのそれで、詩吟とテナー歌手だったことは関係はありません。ただ、もともと荒國誠先生が始められた「國誠流」という詩吟は、そもそも「強吟」を強く主張しています。もともと幕末に多く詠われていた吟じ方と聞いています。荒國誠先生は、本来は米国でオペラ歌手になるために勉強をしていた方です。そして自分では琵琶を教えていました。また、メキシコとの国境近くで開拓の仕事もやっていたと聞いています。
ところが、そこで不幸にした始まったのが、日米戦争です。それで米国では、日系人を収容所に入れるという、やってはいけないことをしました(これは今米国はこのことを真剣に謝っています)。それで荒先生が入った収容所がカルフォルニアのマハトバの収容所でした。この中で荒先生は、昔福島県(先生は、この県出身です)で習ったことのある詩吟をみんなの前で始めました。これが「國誠流」の始まりです。だから、「國誠流」というのは、日本よりも、米国やカナダのほうが組織が大きいのです。

その先生に教わっていた私が、70年当時、日本の新左翼活動家だと知ったときは、荒先生はどんなに驚かれたことでしょうか。でも先生は、逮捕勾留されている私のことも、懸命に大事にしてくれていました。
もう荒先生に会うことはできませんが、あの先生の詩吟を忘れることはありません。そしてお酒を飲まれて(お酒の好きな先生でした)、いつもカンツーオーネを歌われる先生は、また素晴らしかったものでした。
この先生の吟を今もやっているのが、私の兄である萩原荘雲のやっております 栖山流吟道会 です。

まあ、いつか私が死ぬときには、必ずこの荒先生に会うことができるだろうと私は信じています。

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201704240907011001 良寛で始めて知りましたのは、次の歌なのです。

この里に手まりつきつつ子どもらと
遊ぶ春日は暮れずともよし

この歌については、私の父も母もよく教えてくれました。父にも母にも良寛は実に親しく感じます存在のようでした。
そして私が、荒國誠先生に詩吟を習い始めたときに、最初に習いました短歌もこの歌でした。荒先生も良寛さんのことが大好きなようでした。先生のくちぶりからそのことは強く感じられました。
この短歌と対応した七言絶句がこの詩です。

毬子(きゅうし)   良寛

袖裏繍毬直千金 袖裏(しゅうり)の繍毬(しゅうきゅう) 直千金
謂言好手無等匹 謂(おも)えらく好手(こうしゅ) 等匹(註1)無しと
箇中意旨若相問 箇中(註2)の意旨(いし) 若し相(あ)い問わば
一二三四五六七 一二三四五六七

(註1)等匹(とうしつ) 匹敵する
(註2)箇中(こちゅう) その中に。ここでは手まりをつく中に

袖の中の綺麗な刺繍をした手まりは千金の値がする
思うのには、手まりの名人で私に匹敵するものはいないだろう
手まりをつく意味を私に問われるならば
私はただ「一二三四五六七」と答えよう

いや実に良寛さんらしいですね。村の子どもたちと、無心無邪気に一日中手まりついていたという姿が見えるような思いになります。
ただ、こうした良寛さんの至った心境に私が到着できるのはまだまだ先のことだろうと思っています。

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 あ、きょうは重陽の節句だと思いました。

 それで菅原道真の「九月十日」を思い出しました。これは明日の9月10日に道真が太宰府で作りました詩です。

   九月十日(重陽後一日)  菅原道眞
  去年今夜待清涼 去年の今夜 清涼に待す
  秋思詩編獨斷腸 秋思の詩編 独り断腸
  恩賜御衣今在此 恩賜の御衣 今此に在り
  捧持毎日拜餘香 捧持して毎日 余香を拝す

 この詩は、私が始めて荒國誠先生のところで習いました詩吟でした。ところが、この詩は詠うのが実に難しい詩です。私はいつも「なんで、そんなに喧嘩ばかりしているような詠い方なのだ」と先生に怒られていたものでした。
 でも私は、「このときの道真の気持なんか判るわけがないよなあ」という気持だったものです。
 この詩は、周の漢詩入門菅原道真「九月十日」「秋思詩」 で紹介しています。
 私が東大闘争での府中刑務所から保釈で出所してからやく1カ月くらいたちましたときに習った詩でした。もうあれから36年がたっているんだなあ。

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 音楽販売ネットが主役 タワーレコード破たん CDよりダウンロードmoo00 さん から、トラックバックがありました。

確かに最近のCDの売上は、90年代に比べると激減しているようです。
私の友人知人でも、i-Podを使っている人が急速に増えていて、勢いは止まりません。

しかし番組で、CDの良い所をいくつか紹介しており、これもうなずける内容でした。

「ジャケット写真がある」「アルバム全体のコンセプトで物語性を表現出来る」というもの。

ジャケット写真などは、レコードの時代から重要なものと思われて来ましたね。
私などはレコードジャケットで格好いいものがあればポスター代わりに壁に貼ってインテリアにしていたこともありましたし、アーティスト側も表現の一つとして重要視して来たと思います。

 そうなんですよね。CDというのは、実に安価に出来てしまうのですが、あの中でCDではなくて、歌詞カードのある印刷物が一番原価がかかるものなのです。だからそれが大変なことなのですよ。
 そしてそれから大変なのは、CDの在庫管理なんです。日本全国に販売していますと、それがいくつものところで売られているわけですが、それを決算ではどこに何枚のCDがあるのかというのを調べないとならないのですね。それが出荷したとおりにあるとは限らないのです。これが実に大変な作業なんですよ。
 CDを購入する側の私たちも、欲しいCDが見つからないということがあるでしょう。まだ私たちはこの首都圏にいるからいいのですが、地方ですと、欲しいCDを手に入れるのは大変なことなのです。

 でもね、私から言わせていただければ、まだCDのある曲はいいのですよ。私の好きな詩吟なんか、CDにもなっていないのが多いのですよ。私の宗家の詩吟はCDにもなっていますが、私の尊敬するもともとの私の宗家である荒國誠先生のは、今もたくさんの古いアナログレコードでしかありません。そして、みな詩吟をやる方は協力して、それをみなで貸し借りしています。あれをCDにも何にも大手レコード会社はしようとはしません。

 もう大変な事態なんだと思います。私はアナログレコードからデジタル化する機器を手に入れ、またソフトも手に入れていますが、実は私はそもそもアナログレコードって、どう使うのかもよく判らないのですよ。今いるところにはありませんし、我孫子の自宅へ帰っても、私一人ではどうにもならないのですよ。

 こんな事態のときに、もうiPodを始めとするデジタル音楽機器で、たくさんの楽曲を聞いていく姿勢というのは大事ななと思っています。もうそうしていかないと、いい楽曲が滅びてしまいますよ。
 デジタルになれば、たとえ聞く人が当分いなくても、その楽曲は永遠に残ります。このことが大事だなと私は思っていますよ。

 音楽業界の保守性には、私は実に嫌になる気持がありますが、これもまたちゃんとやりきる方々がいることを信じています。

続きを読む

 どうしても、きょう詩を詠おうと思ったのですが、何をやるかが問題です。私はとにかく、革命の詩しか知らないんだよなあ。おめでたい詩というのは思い浮かばないことばかりです。
 それで、突如この詩が頭に浮かんできました。

   有感      久坂玄瑞
  國事如麻轉紛糺 国事麻の如く 転(うたた)紛糾
  綱常掃地又何云 綱常地を掃ふ 又何をか云わんや
  躊躇囘首西山上 躊躇首を回らして 西山に上れば
  無限天風落暮雲 無限の天風 暮雲を落とす

 これは私が1970年に、荒國誠先生に習いました詩です。でも、この詩はどこにも記されていません。今インターネットで調べても出てこないのですよね。たぶん、高山彦九郎の墓に詣でたときに作ったのではないかな、と思いますが、とにかく今の私でははっきり判りません。
 とにかく、この詩を詠っちゃおう。

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