将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:藤原定家

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 六 春は先ず若菜つまむと標(し)めおきし野辺とも見えず雪の降れれば

    故郷立春
七 朝霞(かすみ)立てるを見ればみづえの吉野の宮に春は来にけり

    海辺立春
八 しお釜の浦の松風霞(かすむ)なり八十島(やそしま)かけて春や立(たつ)らむ

    子いう
九 いかにして野中の松の古(ふ)りぬらむ昔の人の引(ひ)かずやありけむ

     霞
一〇 大かたに春の来(き)ぬれば春霞四方(よも)の山辺に立(たち)みち

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こうして実朝の歌を書いていけるということは、私には幸運なことです。藤原定家と吉本隆明に感謝ばかりです。
 いつも鎌倉であの鶴岡八幡宮の銀杏のそばで私はどのくらいこの二人に感謝していることでしょうか。

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 もうこうしてリビングで炬燵に入ってポメラを打ちます。

2014/01/12 04:58こうしてリビングで書いています。昨日15時42分に長谷川慶太郎さんの本が来ました。すぐに読み始め、まだ全部は読んでいないですがやっぱりいいですね。今日全部読み終わるでしょう。
 昨日書いたのですが、実朝様の古今集にあげられている歌ですが、

   世の中はつねにもがもな渚こぐあまの小舟の網手かなしも

 この歌がどうしてか私の脳裏に浮かんできます。古今集を編纂した藤原定家が

  どうしてか、この実朝という人はいい歌を詠むのだなあ。

とつぶやいているのが私には見えるような気持になります。
 実は古今集を編纂した藤原定家は、「小倉百人一首」も編纂しているのです。「小倉」というのは定家の別荘のあった地名なのですね。
 ところでこの「小倉百人一首」は読んでみますと、けっしていい歌ばかりではありません。それには訳があるのですが、そのこともあとで書いてみましょう。今はただこのポメラを書いていくだけです。
 あ、あとでおはぎの家に行こうかなあ。昨日会っていないのですね。14011005

2014/01/12 05:26今私の胸のポケットにあるシチズンのTWTC501で私の胸ポケットにあるSuicaに当ててみました。これはSuicaの現在時点の残額が分かるのですね。nanacoの現在の残額も分かります。これに対応するカードがもっと増えてほしいな。


 私は漢詩は好きなのですが、短歌は苦手でした(俳句はもっと苦手)。

12031802 こうして日曜日はいつもテレビで面白いです。

2012/03/18 07:03今は「早く起きた朝は」見たあと、7時からの番組も見ています。いつもそうなのですね。
2012/03/18 07:37今は7時30分からのTBSテレビを見ています。
 でも今私は、パソコンで、実朝のこと、そして万葉調、古今調のことを書いて、そこで初めて新古今集のことが分かったような思いです。藤原定家が初めて少しはわかり、源実朝のことが初めて少し分かった気がしました。
 やっぱり、この番組は面白いな。今は飛行機のことをやっていますが、実に参考になります。

 もっと私はいくつものことを学ぶべきですね。

c013acfd.jpg 昨日の朝は霙を見て、『霙の降る風景』という小説を思い出したものです。それで「読書さとう」に私は書きました。その同じ作家の『死了魁戮箸い作品で、実朝の暗殺事件が書かれているのですが、実朝の歌をいくつも思い出します。
 私は百人一首の実朝の歌も思い出します。先日来てくれた私の次女ブルータスが別れるときに、私が実朝の歌を聞いたところ、すぐに口から出てきたものでした。実朝は私は実に好きです。彼の歌を読んで行くと、口から声を出していくと、ただただ淋しく感じてきます。
 正岡子規が実朝の歌を万葉調の雄大な歌などとほめたたえるのが、私は嫌でたまりません。どの歌も実朝の淋しい気持ちしか感じられないではないですか。思えば、このことを高校時代に古典の先生にいいましたが、少しも折りあわなかったものでした。藤原定家があの歌を選んだときの「この将軍の歌はいい、だけど何故か寂しいな」と感じたことがよく判ります。
 写真は3月8日の朝9時14分の江古田です。 (03/11)

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 私の孫のポコ汰が昨日ここに来てくれていました。そのときに私は電子辞書で、音声を聞かせました。その中で、百人一首の源実朝の歌を聞かせました。

 世の中は常にもがもな渚こぐ
  あまの小舟(をぶね)の綱手(つなで)かなしも

 ポコ汰は、まだ2歳になったばかりです。当然、この歌のことなんか判りません。でも静に聴いていてくれました。それは、こんな小さなマシンで声が聞こえるのが不思儀だったのかもしれません。

 私の詩歌の館

  http://shomon.net/kansi/siika4.htm#sanetomo
                        源実朝「短歌」

で、私はこの実朝の短歌について、次のように書きました。

 母にも叔父義時にも何も逆らわない実朝でしたが、二つ(本当は三つと言えるのです。三つめは妻とりのことです)のことだけは言い張りました。一つは宋人である陳和卿に命じて船を作らせ、その船で宋に渡ろうとしたことです。母も義時も止めますが、実朝は船を由比が浜で作らせます。でもその船は何故か海に浮ばないのです。

  世の中はつねにもがもな渚こぐ
   あまの小舟の網手かなしも

 小舟をこぐ漁師たちの手の動きに、自分の寂しい存在を見たに違いありません。私はこの船が鎌倉の海に浮んで欲しかった。実際に宋に行けなくとも、その船に乗った実朝の姿を想像してみたいのです。

 間違いなく実朝は、自分の死を予想していました。

 実朝はあの時代に、時代の流れのまま生きて死んでいきました。日本の輝ける貴族源氏の最後の棟梁としての右大臣実朝と、日本の初めての武家政権の源氏の棟梁征夷大将軍実朝としての役割を彼は雪の中を血に染めて終りました。

 また鎌倉を歩きます。鎌倉を歩いて、また実朝のことを思います。ああ、そういえば、実朝の奥さんは、檀ノ浦で滅んだ平家の子孫だったのでしたね。

 この実朝の歌を百人一首に選んだ藤原定家の思いをいつも私も思い浮かべています。

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