将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:藤田典

12092802 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、以下のUPがありました。

学校行事も 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月28日(金)06時43分28秒
  その在りようは、すべての地域で同じ傾向にあるとは限らないのですね。周さんは、子供さん、そしてお孫さんたちと一緒に、運動会を皆で楽しむことが出来るようで何よりです。当日、晴れると良いですね。

 まことに失礼なのですが、実際に子どもたちの運動会を見ておられるのでしょうか。藤田さんとまったく同じ言い方を20年ほど前にもパソコン通信の場でも聞いたことがあります。そこでも、「自分の子どものときと違って今は子どもたちと一緒にご飯を食べる場がない」なんていう見てもいないことを平気で言っていました。
12092803 私は近年でも私の娘、姪たち、娘が教員になって勤めた各学校、弟がいた横浜の中学。地域をいいますと、千葉県我孫子市の二つの保育園、二つの幼稚園、二つの小学校、二つの中学、私の妻の今の会社(千葉県柏市)の隣の小学校、東京文京区の二つの小学校、荒川区の小学校、埼玉県浦和市の二つの小学校、一つの中学校、埼玉県川口市のいくつかの小学校、中学とみんなお弁当を食べることが楽しみです。
 そうですね。大きく違ったのは、鹿児島では小学校でも中学校でも、それ以前にいた愛知県名古屋の三つの小学校、札幌の一つの小学校、一つの幼稚園でも私の家族がおにぎりを食べるのに、お寿司を食べることでした。これは大きな違和感がありました。おそらく、母親が握ったおにぎりでは格好よくなかったという意識なのかな。
12092804 昔三里塚闘争(1968年春)へ行ったときに、農家の方が大きなおにぎりを用意してくれましたが、あれは私の母親と同じ気持でしょう。
 あ、私の孫たちの運動会は、孫じゅにが10月7日(日)で、孫の三匹が10月13日(土)です。前に書いた私の情報は著しく誤っていました。二つとも私と妻も行きます。

12092706 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、以下のUPがありました。

近くの小学校や 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月27日(木)18時43分9秒
  保育所などでも、大勢の子供たちが運動会の練習をしています。小さな子供たちを一つにまとめて、何かをやらせるのは、とても難しい事のように思えます。昔、小学校の運動会と言えば、地区住民の楽しみの一つでもあったように記憶しています。今はもう、運動場で家族と一緒に昼ごはんを食べたりすることも無いのでしょうね。

 私の孫のじゅにの保育園の運動会が10月7日で、三匹の運動会が13日(土)でした。その他にも、私の長女おはぎ、そのミツ君パパの運動会もあります。私は前に間違って書いていました。あとで訂正します。

  家族と一緒に昼ごはんを食べたりすることも無いのでしょうね

 まったく、これは認識が間違っています。むしろ私たちの時代より、盛んになってきていると思いますよ。
12092709 私は姪のみーねえの運動会にも一貫として行きました。私は前日の土曜日はゴールデン街で飲んでいますから、そこから朝3時半から4時頃帰ります。そうすると、我孫子第四小の校門の前に行きますと、必ず義姉がいまして、「あ、やっぱり来てくれた」と私と交代します。義姉はそれから、お弁当を作るのです。それで私は二日酔いで延々文庫本を読みながら待ちます。
 そして門が開いたら(たしか8時頃開く。だから私は確実二時間は待っていたんだな)、私も必死に走って場所を確保してそこで横になって寝ていると、30分もたつ頃、義姉が母と来て、そのうち私の家族(妻二人の娘)、弟家族(みんなで四人)が来ます。
 私の父は必ず6時半頃、ちゃんと見に来ます。でも私と替って並んでくれることなんか皆無です。
 昼前に、兄が来ます(もう自分の娘だよ。少し腹たつ)。そして昼食をみんなで食べたあとその兄は勝手に帰ります。私は延々いるのでした。
 私の娘のときも同じでした。私はいつもゴールデン街からあわてて帰ってきたものです。そして夕方運動会が終わると、私は兄の家でビールを飲みます。二日酔いのビールは旨いのです。
 そのうち、私の娘の運動会では、「あ、周さん、ビール」と差し入れてくれる人がいるようになって、「え、ビールなんか、いけないけれど、差入だからな」なん12092710て、私はほざきながら、飲んでいたものでした。二日酔いのビールは実に旨いのです。
 こんなことをずっと続けていた私なのです。
 今度は私の孫の運動会です。また私は同じにやります。今はもうビールは飲まないで、いいじいじになります。

201804090412092504 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPもありました。

居酒屋が出来る前 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月25日(火)06時31分21秒
  洋酒喫茶などという名前の付いた飲み屋がありました。勿論、日本のお酒も置いていたのでしょうが、何とは無くハイカラな感じで、若い客層に人気があったようです。とにかく、若い時分は、何にでも興味がありますから、アルコールと名の付くものは、色々と「試して」みたものです。知人の一人は、仲間で飲み会をやる時は、必ず、ウォッカかジンの瓶を抱えてきました。知ったばかりの文章に出てくる「アプサン」とは一体どんな酒なのか、外国人の歌う「テキーラ」とは何ぞや。そんな事を飲みながら、話し合った記憶があります。

忘れていたウィスキーの名前を思い出しました、リザーブでした。

私は異常に日本酒が好きなので(大昔35年くらい前に「越の寒梅」を30本注文したことがあります)、洋酒というのは買ったことがないですね。ゴールデン街でボトルを入れるのに、困ってウォトカの「ストロヴァイアン」にしたものです。何しろ、50度ですから、これをストレートで飲むと、とにかく感動しました。いつも記憶がなくなっていました。
アブサンもテキーラも飲みましたが、私にはウォトカが良かったものです。ジンの「ドライマティニ」はいつもバーでは、「もっとドライに」に言い続けて、「ジンストでいいんだよ」とは決して、口には出さないで、飲んでいたものです。
リザーブは私には決して私には「新しい中級品」とは思えませんでした。思い出してもオールドですら買ったり、ボトルで入れたことはありません。ただ貰い物をどうしてか、いっぱい手に入れて飲んだものでしたね。
12092505 ただやっぱり日本酒を手に入れて飲んだものでした。四斗樽というのは40升あるのですね。いくつくらい手に入れたことでしょうか。注文もとにかく早くやっていたものです。いくつかの東京の酒屋さんを思い出します。
いや浦和の酒屋さんも、我孫子の春日やさんも思い出します。いや日暮里の前田和洋酒店も思い出すな。

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12092503 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPがありました。

携帯電話のカメラ機能を 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月25日(火)06時08分2秒
建物や風景などを撮る時、その場所(モノ)に近づけない場合もあります、そんな時に、ズームや望遠などの交換レンズがあると、とても便利なのです。

 私はアナログカメラの時には、ズームレンズを持っていました。思い出せば、ものすごい大きなものでしたね。それにフラッシュをつけると、とても大掛かりなものでした。今思い出しても恥ずかしいです(私の場合は)。だから常時は持っていられませんでした。
 でも今のデジカメは簡単です。もう望遠でしか撮れないようなものはあきらめています。それにケータイのデジカメは私もあまり使わないですが、IS01のデジカメはけっこう使いますね。これはテレビも見られるから、孫たちと遊ぶと楽しいのです。

12092415 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、こう書きました。

 カメラにはいくつもの思いがあります。でも今はこうしてデジカメになっていいですね。いつもどこでもどういうものでも(道端の石ころでも)撮っています。

 これは昔私が長女おはぎにこういわれたからです。

  なんで、いつもあんな道端の石っころみたいなものばかり撮っているの?

 私はその時はどう答えたのかは分かりません。でもたしかこう答えたのじゃないかなあ。

  道端の石っころでも、パパには「いい存在だ」と思えるものを撮っているんだよ。

 ただ、今は自分が撮った画像だけでは足りないので、インターネット上のフォトライブラリーを使かわさせてもらっています。昔のフォトライブラリーと比べて、思うこと、言いたいことがいっぱいあります。

12092410 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPがありました。

カメラは、二十歳前から 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月24日(月)08時30分35秒
  もう四十年以上も使ってきました。デジタルに変えたのが、十年ほど前です。以前のフィルム式のことを思えば、随分と便利になったものです。プリンタがあれば、好きな画像を自分で印刷も出来ますから、いちいち昔の様に写真屋さんに頼む必要もありません。ただ、複雑な部品が多く入っている正に「機械」そのものですから、一度故障してしまうと、専門家でないと治せませんね。修理の持ち込みができる店舗も、ごく限られているようです。

 私がカメラに親しんだのは、赤坂の会社で「ゼネラルプロジューサー」という名刺(もちろん欧文で)の時だったと思います。だから30歳の時かな。ちょうど結婚をしたときでしたね。キャノンの一眼レフでした。とても高額でしたね。そして数年後にも同じアナログのキャノンのカメラでした。
 でもその後、たしか1992年頃、デジカメを持ちました。まず、これは大きくないので、いつも持つようにしました。それでどこでも撮るようにしました。もうパソコンシオップの値段から撮りました。私は私が手でメモするよりも、デジカメでやっていたのです。もちろん、私は手でもメモしていましたよ。ゴールデン街の飲み屋でママさんから、「萩原さんって、メモ魔なのね」と言われたことがあります。今も、「何で俺は手で字を書いてメモしているのかなあ」とつくづく思います。字を手で書くのは嫌いなはずなのです。
 でもデジカメにしたら、もうこれは手放せないものになりました。どこでもこれで12092411メモしています。私は常時IS01を持っていますから、飲み屋等々でも、これでブログをUPすることが多々あります。もうデジカメはほぼ意識することはありませんね。どこか飲み屋でも歩いていても、すぐに画像を映しているだけです。
 もう手でメモすることとデジカメでメモすることは、私にはもう必然のことになりました。

12092405 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPがありました。

ウィスキーは 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月24日(月)06時56分23秒
  十代の後半になって、サントリーが「レッド」、ニッカが「黒ラベル」を発売して、そのコマーシャルがテレビで流れて、知ったものでした。若者たちは、皆、お金がありませんから、集まると、レッドの大瓶を一本買って、それをコーラで割って飲んでいたように思います。社会人になってからは、水割りで飲む事が多かったかなぁ。その頃は、サントリーの新しい中級品?(名前を忘れました)が発売され、人気もあったような記憶があります。瓶の形に特徴があったと思うのですが…。

 私は一貫として日本酒が好きでした。だからアパートではいつも一升瓶がありました。私はそもそも部屋で洋酒を飲むことはないものでした。ゴールデン街で飲むようになってから、ウィスキーも知るようになりました。あれは1970年台後半かなあ。
 私はゴールデン街の『吐夢』と『ひしょう』で飲むようになりました(他にも親しい飲み屋はありましたが、今は存在しません)。ただし、私は『吐夢』にボトルで入れていたのは、50度の『ストロヴァイアン』(ウォトカ)です。実によく飲みましたね。
 この『吐夢』では、みな角瓶のボトルを入れていました。他の店は白(シロと言っていた)が多かったかな。私はここの街へ来る流しの人とも親しくなったものです。私が軍歌を詳しく歌えるので、最初は不思儀だったようですが、それが当たり前になりました。
 それに私が必ず詩吟をやるので、それにアコーディオンで演奏をつけてくれた方(この方は先年亡くなりました。息子さんが私にメールをくれたものです)がいます。横浜の野毛でも演奏している方で、私も横浜でも会いたかったものです。
12092409 いえ流しの方では他にも親しい方がいまして、必ず私の軍歌には伴奏をつけてくれ、そして必ず詩吟もやったものです(私は詩吟はいつも同じ一吟だけにしていました。いやもっとできるのですが、みんなあきちゃうでしょう)。
 懐かしく、いくつものことを思い出します。

12092312 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPがありました。

デジタル・カメラが 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月23日(日)13時33分21秒
  故障しました。全く、シャッターが作動しません。これまでは、ズームレンズを付けた時だけ、動作がおかしかったのですが、もう、全面的にダメです。最も近い修理場が大阪ということなので、月曜日に行ってこようと思います。

 私はデジカメを使って、もう5台を越えているでしょう。でも今のは長く使っているほうかな。もうインターネットで注文するようにしています。とにかく、価格の安いものです。
 昔アナログの一眼レフを買うのに、実に高価だったものです。最後はその高価な一眼レフと同じメーカーのを買ったものでした。でもデジカメになると、価格は安いし、その上に、私が常時身に付けていて、どこででも何でも撮っています。
 ただ、前に私の次女ブルータスの生徒たちの顔を撮ったことがあって、ブルータスに怒られて(これはまったくブルータスが正しい、私が阿呆でした)、今ではどうしても人にはデジカメも向けないクセがつきました。
 でもこれは正しくないのです。人を撮るには(その人と分かるときで、このブログにUPするときは)了解を取るべきなのです。了解がない場合はやるべきではありません。
 今は私は必ずそうしています。だから、人の顔が判明するものはデジカメを向けません。でもなんだか、これで人は極力撮らないようになりました。
12092401 思い出せば、昔のアナログのカメラは、人を撮ることが目的でした。でも今は路を歩いていて、それこそ何でも撮っていますね。そしてよく撮れていないと判断できるときは、何度でも撮りなおします。そして、そのうちに、私のブログにUPすると、画像はデジカメからも削除しています。

12092215 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPがありました。ななさんが書き込んでくれたものです。

(無題) 投稿者:なな  投稿日:2012年 9月19日(水)14時43分10秒
  龍馬とさなこは、ひととき、思いを通じ合わせてたんでしょう。道が別れたのでしょうね。添い遂げることが全てではないのでしょう。大きな視点から見れば、さなこは龍馬とずっと心を添わせてたのかもしれません。さなこは確か別の人と結婚し、離婚したのではなかったでしょうか。晩年はお灸を生業にしたとか、聞いたことがあります。

 その通りですね。元鳥取藩士・山口菊次郎と明治7年に結婚して、数年で離縁したそうです。ただ、このことはついこのごろ(2010年ということです)判明したことのようです。亡くなって谷中に葬られたそうです(ただしお墓は甲府市にあります)。

 そうですね。私は日本テレビで1996年にやった『竜馬におまかせ!』の緒川たまきさんも良かったのですが、2010年のNHK大河ドラマの『龍馬伝』での貫地谷しほりさんのさな子も忘れられません。

12091808 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPがありました。まだ書き足りませんでした。

己という存在が 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月18日(火)08時57分54秒
  確かに生きてきた一つの証を残す意味も含めて、自分が自らと正面切って向き合いながら、あれやこれやと考えてきた事柄について記録し、それを一人でも多くの人に読んでもらいたいと言う思いで始めたホームページ、早いもので、もう十年以上の歳月が流れました。何時まで続けられるだろうか?続けられなくなるまで、書けば良い。そう考えています。

 私は最初はNIFTY-Serveに書き込んだものです。1992年だったかな。それで同時くらいに、近所の柏市民ネットというパソコン通信の会員になったものです。その頃は、みな電話回線でつないでいたものです。だから、私はとにかく、自分のパソコンで書いてUPするときだけ電話をつなぐというやり方を徹底しました。だから私は書いている量に比しては、電話代はかからなかったものでした。
 その後1997年からインターネット接続になり、同じ地域内は(私はその当時は千葉県我孫子市でした)通信料は無料でした。ここで私は自分のホームページを立ち上げたものです。御茶ノ水に事務所もありましたから、自宅と両方でやっていました。
 そのあと、今の時代になりました。だから私ももう10年以上やっているのですね。なんとなく、今では年月がちゃんと数えられなくなった気がしています。

12091802 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPがありました。

己という存在が 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月18日(火)08時57分54秒
  坂本龍馬は、不確かな記憶によれば、小学校の5年生になった頃、学校の図書室にあった「日本の偉人」というシリーズ物の一冊で知りました。子供心に「何となく、恰好ええなぁ」と感じたものです。剣道の達人、北辰一刀流の使い手、そんな言い回しが文章の中にあったのでしょう。大人になってから、司馬遼太郎の作品を知り、龍馬を巡る人間模様も知りました。歴史に「若しも」は禁物ですが、龍馬とさな女が添い遂げて子孫を残したら、どんな家族になっただろう、と想像してみるのも歴史好きの楽しみの一つかも知れません。

 私も、「司馬遼太郎『竜馬がゆく』」を読みましたのは、高校生のときでした。
 その後『燃えよ剣』『功名が辻』『国盗り物語』『北斗の人』『殉死』『坂の上の雲』『城塞』『花神』『播磨灘物語』『翔ぶが如く』『空海の風景』『胡蝶の夢』『項羽と劉邦』『韃靼疾風録』等長編は読みました。
12091803 短編でも『酔って候』『人斬り以蔵』等は読みました。多分もっと読んでいます。ほぼ兄の本で読んできました。
 あともっと短編は読んでほぼすべて読んだかと思っています。ただし、『街道をゆく』は全部を読んではいません。
 そうですね。その中では、『竜馬がゆく』は好きな作品です。ただ『翔ぶが如く』『項羽と劉邦』などは好きになれません。『殉死』は私の嫌いな作品といえるかと思います。 また一つひとつの作品にもいつか述べることがあるだろうと思っています。

 この『竜馬がゆく』は私も、「これが坂本龍馬なのだろう」と思い込んでしまった作品です。乙女姉さんも、こんな人なのでしょうね。私は乙女さんが結婚して結局別れてしまったことを思います。相手はお医者様で、子どももいたのですね。
 ただ土佐というとこころは、ものすごく離婚が多かったようです。今よりも多かったようです。しかも女性から離縁することも多いのです(ただし、乙女姉さんは違いますが)。
 その彼が千葉さな子と一緒になっていたらどうなのでしょうか。さな子は亡くなるまで龍馬と婚約したと言い続けたそうです。そして彼女は独身を貫くのですが、つい近頃は、違うことも分かってきたようです。つまり彼女にはほかにも好きな男性がいたようです。
 千葉道場の辺りをまた歩いて、そんなことも想像したいです(前に私が歩いたときには、この新しい男性の存在は知られていませんでした)。
12091804 思い出せば、私は吉川英治のあとに、大量に読みました時代作家です。私はけっこう司馬遼太郎は読んでいる人が多いので、話すと、「私が遼太郎が好きではないのだ」と思われるかたがいるようですが、そんなことはないのです。
 ともあれ、また読んで行くことはないでしょう。とくに、毎朝日経新聞で「浅田次郎『黒書院の六兵衛』」を読んでいますと、「もう司馬遼は読まないだろうな」なんて思いになります。

12091708 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、ななさんの次のUPがありました。

(無題) 投稿者:なな  投稿日:2012年 9月16日(日)14時00分36秒
こないだ千葉で迷い、たまたま千葉神社の鳥居の前に出ました。これまた、たまたま祭神が「天御中主命」なのですが、仏教的に妙見菩薩の名前で奉られていました。

だださん、だだちゃんさんへ 投稿者:なな  投稿日:2012年 9月16日(日)21時26分38秒
千葉道場の娘、千葉さなこは私の憧れです。当初ハンドルネームを「なな」と「さな」で迷ったくらいです。

 私はこのUPを見て、千葉市の地図を見ていました。千葉市はけっこう働いていたことがある(ただし、日曜日だけ「千葉ニューならや」の8階別室で働いていました。今はこのデパートは三越になったのかな)ので、懐かしいのです。
 この千葉神社とは関係ないのですが、以下も興味深いです。
 このさなこさんが(佐那さんということですが、佐奈ともあったようです。幼名は乙女と言ったそうで、龍馬も、姉と同じだから親しく感じたのかな)、龍馬とは婚約したといい続けたそうです。
 でもさなこさんは剣道も強かったのですが、実に美しかったそうですね。ただ龍馬亡きあとも「婚約した」と言い続けたために、おりょうさんが憎んだのでしょうね。
 私は実際に、この千葉道場を見に行ったものでした。懐かしいです。まだ私の親友の堀雅裕さんが存命しているときでした。交通の激しい車の多いところでした。
 龍馬の詩も短歌も好きです。

  周の漢詩入門「坂本龍馬『愛酒詩』」

 龍馬の「人は何とも言わば言え 我がなすことは我のみぞ知る」という歌も私は忘れたことがありません。これは1971年の埼玉大学のむつめ祭の統一テーマのサブテーマになりました。
 このときの統一テーマは以下の通りです。12091709

   呼狂呼賊任他評
    我がなすことは我のみぞ知る

 上は黒澤忠三郎『絶命詩』です。
 思えば、龍馬はたくさんの短歌を書いているのですね。

12091703 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、以下のUPがありました。

周さんのHP、ブログを 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月17日(月)18時56分28秒
  初めの頃は、ただ読むだけでした。早いもので、もう、十年以上になりますね。

毎日を普通に暮らしているだけで、愚痴りたくなる場面にであう事、しばしばです。テレビを見ても、新聞の記事を読んでも、それは同じです。こうすれば良かった、あぁしておけば良かった、と思いつつ、皆生きているのだと思います。

 私が「将門Web」をホームページとして開設したのは、もう遠い昔でいつだったか正確に忘れてしまいました。たしか1998年の10月1日だったと思います(廃止したのは4年くらい前かなあ)。
 このブログは、2005年1月21日から始めました。だから、HPとブログが長い間一緒にあったのですね。それでHPを廃止したあと、このブログの名称を将門Webにしました。それまではブログ将門と言っていました。それでもうこのlivedoorに、私は何か「世話になっている」というような気持があり、もう将門Webにもlivedoorを入れているものです。
 私はとにかく、書いているだけです。
 ただ、このホームページもブログ(今はこれをHPとしたのですが)も私はいつも吉本(吉本隆明)さんにすべてを置いている気持です。
12091704 それで私は長年本を年間300冊読破してきましたが、昨年から100冊になりました。もう前ほど、読むことにはこだわらないようになりました。それよりも、こうしてブログを書くこと、友人に手紙を書くことを気にするようになってきたものです。
 ただ、私は同じことをぐずぐずと言い続けていることがあり(これはもはや年齢のせいかな)、それは私のすぐそばにいる妻に申し訳ないことです。

12091604 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」では、以下のUPでした。

早とちりでしたね 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月15日(土)07時12分49秒
  確かに、掲示板では書けないことは沢山あります。現実の「生活」に関わることは、
その内容によっては、直ぐに場所や関係者が特定される恐れもありますから、先ず、書くことは控えるでしょうね。
それでも尚、周さんが「愚痴る」のだとしたら、やはり事情の分かっている家族の皆さんが一番無難だと思います。

 私は愚痴を言うことはまずありません。ただ一番そばにいる妻には、いつも同じようなことばかり言い続けているでしょう。いつも申し訳ないことです。
 だから、藤田さんにも同じ気持になったのでしたが、いざとなると、「住所も知らないから、手紙が出せない」ということで、今回知りたいなと思い、こんなことになったのでした。
 だから、今後はまた親しい友人にいろいろと手紙で述べていくことでしょう。私が手紙を書く友人は何人かいますので、また書いていきます。
 そうねえ、私は男性の友人には書けないのですね。またいつもの何人かの女性の友人に書いていくでしょう。
12091605 それに孫と会ってお喋りしていると、とっても気持が休まります。でも孫ともいっぱいのことをお喋りしています。
 昨日もじいじばあばが帰るときに、1Fの玄関まで3人で送りに来てくれて、とてもうれしかったものです。
 早くケータイを持つようにならないかなあ。あと四年くらいかなあ(姪の息子たちだとそうなのです。3年生から持ったのです)。

12091212 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、以下のUPがありました。

若い頃には 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月13日(木)06時39分30秒
  良く手紙を書いたものです。今の様に通信手段が発達していませんでしたから、自分の言葉を相手に伝えようとする時、手紙は便利なものでした。
最期に手紙を出したのは、何時だったのか?もう、随分と昔の事のように思います。

 私は今も手紙を書いて出しています。私は「ダダさんの掲示板で」で、次のように書きました。

実はね、私の本心は、ダダさん、藤田さんに手紙を出したいなという思いだったのです。

 私は私の愚痴を藤田さんに聞いてほしいつもりだったのです。どうしてもブログでは書けないことがありますね。
 私はある女性とケータイで話しまして(私と同じauだと無料で話せるのです)、それで本来なら直接会うべきなのでしょうが、そして彼女は魅力的な方です。でも私は避けてしまうのです(彼女は私より10歳下で綺麗な方ですよ)。
 私には二人の娘がいます。二人とも結婚してもう私には孫もいます。この彼女には男の子が三人です。この男の子はまだ結婚していません。それで会えば、間違いなくその男の子たちの結婚の話です。でもこれはいくら言われても難しい話なのです。
 私は娘たちの友だちでも幾人も独身の女の子を知っています。実はそのお父さん・お母さんにお会いしたこともあります。でも「結婚!」となると難しいのですね。
 そんなことの愚痴を話したかったのです。いえ、もちろん手紙ではもっと具体的なことを書きますが。
 今は「結婚」って、けっこう難しいのだなあと思います。どうみても素敵な綺麗な娘でも、素敵でかっこいいと思える男の子でも独身が多い(と私には思えます)のです。
12091301 私の同じ年代のお父さんやお母さん(その多くは大学時代の活動家仲間ですが)と触れ合っても、そのことを如実に感じています。

 そうねえ、私はこれからも手紙を書いて行きますよ。パソコンでA4で素敵な用紙に書いて(もちろん相手の宛名は手書きします)、ポストへ入れて行きます。

12091205 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、以下のUPがありました。

ホームページと「私」について 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月12日(水)17時44分53秒
  周さんが、

 家族のことについて、発言がありませんね

という意味の書き込みをしてくれましたが、これは、当方がこのホームページを始めた時からの不文律のようなもので、「私」に関わる事柄は極力書かない様にしております。ご了承ください。子供たちの世界だけでなく、大人の世界でも自己主張は大事なことですが、余りに度が過ぎると、今度は「自己中心的」だとして疎まれます。要はバランスの問題なのかも知れませんが、難しい所です。その点、インターネット・ホームページでは、自己の考えや感じた事柄をそのまま描き表わすことも可能ですから、何らかの主張を持つ人たちにとってネット社会は便利なものだと捉えられているのでしょうね

 了解いたしました。ごめんなさいね。
 実はね、私の本心は、ダダさん、藤田さんに手紙を出したいなという思いだったのです。私はこうしてインターネット上でブログを展開し、私の「周の掲示板」と「ダダさんの掲示板」には、いつも毎回何かの画像もUPしています。そして「ダダさんの掲示板」については、私のブログでも私自身の思いを書くようにしています。私のその思いも一緒に書いてしまったのなら、あまり長くてしょうがないだろうと思うからなのです。
12091206 でも私は昔から手紙もよく出しているのです。とくに、今は手書きでなく、パソコンで書けるのは実にいいのです。昔は、私の書いた汚い字では嫌になったものです。「字なんか汚くてもいい、心からそのまま自分の思いを書けばいい」なんていうのは、まったくの嘘です。
 私の妻は実に綺麗な字を書きますので、それはうらやましくてなりません。そして今関西の方からの葉書を読んでくれました(いや、あまりにも達筆で私が読めないのでした)。
 私は今年のパソコンで作成した年賀状にもいくつか、手で書き入れました。でも途中で本心から嫌になりました。あんな汚い字では相手の迷惑ばかりでなく、書いている私が本当に嫌になります。
 私は2008年には全部で600通を越える手紙を書きました。その後は毎年100通ばかりです。
 でも今は、どうしても手紙より、このブログで書くことのほうが多くなっています。
 だから手紙もちゃんと出したいのです。私はいつも和紙の手紙用紙をいくつも(幾種類も持っています)使い、綺麗なシールで封をして、記念切手で出すように(このところ普通切手が続いています。だっていっぱいあるのだもの)しています。
12091207 思えば私は昔から手紙は書いているのですね。もちろんメールは手紙以上に多く出していいるわけですが、今後はどうしてもメールのほうが多くなるのかなあ。いや今ケータイメールも出していますね。
 ただメールもケータイメールも、何故か私を憎悪している人がいるのか、ひどいメールが入ってきますので(もうケータイメールアドレスを変えて無くなりましたが、あメールは防衛システムがしっかりやってくれます。そして今後も公開しません)、今後はものすごく注意してまいります。

12091108 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、昨日11日のUPが以下なのです。

個性と能力 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月11日(火)07時01分48秒
  人は皆、それぞれに異なる個性と能力を持ち合わせています。また、その個性も幼い時から発揮される場合もあれば、随分と大きくなってから、花咲く事もあります。滑り台で遊ぶ幼い子供たちを見ていると、階段から登ろうとするもの、滑るほうの坂から上ってみようとするもの、滑ったり登ったりする子供たちを、ただ眺めているものなど、実に様々です。例え小さな階段であっても、皆に、その階段を上る能力が備わっていても、その子供が滑り台に興味を持ち、階段に注目し、そして登ってみようと思わなければ、そこに「滑り台」という玩具は存在しないも同然です。何に興味を持つのか、持たないのか!それも個性の内なのでしょうね。

 これはものすごく感じています。娘二人では、私は次女のブルータスがわがままな娘かと思っていました。でもそうでないところもいっぱい感じてきまして、ちゃんと見ていないとだめだなあ、と感じてきたものです。
12091109 娘二人はけっこう一緒に旅行をしているのですが、いつも次女ブルータスがきめ細かく計画を立て、長女おはぎはそれにその通りについていくだけです。私たち家族の旅行もいつもそうでした。でも長女おはぎも大切な役割を果たしていてくれたのです。ブルータスはいつも姉を信じています。いや私たち夫婦もそうなのですね。
 私の孫四人ですが、これもいっぱいに感じることができます。少しわがままなところがあるかなあ、「今度はちゃんと注意しよう」なんて思っているポポですが、昨日はとってもいい子でした。少し感心していたじいじです。
 そうねえ、私の二人の娘でもたくさん個性を感じていたものですが、孫四人でもいっぱい感じています。
 孫といろんな公園へ行っても、いつも慎重なポコ汰を感じますし、少し驚いてしまうポニョの大胆さにびっくりしています。ポポは、どうなのかなあ。すぐに相手に自分の主張を届けようとする強いポポを感じます。
 そうねえ、ブルータスの娘じゅには、けっこうおとなしい娘に思えますが、でもブルータスに対してはけっこうわがままで、でもそれが実に嬉しいじいじなのです。
 もう少し経ったら、鎌倉の大仏を見に行きたいななんて思っています。いやこれは、昔、みんなで行きました思い出をいつも振り返るからです。でもあのときはブルータスは一緒ではなかったな、なんて思い出すのです。孫たちといけたらいいなあ。私は実朝様にいくつものことを報告します。
12091203 この鎌倉へ行った思い出は以下です。上のリンク先も同じ日のことを書いているのです。

   母と鎌倉へ行った(1996.04.07)

 ダダさんの「個性と能力」ということで、いくつものことを思い出しました。

12091002 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、9日の日曜日朝のUPが以下なのです。

十人十色と 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 9日(日)09時00分1秒
  昔から言います。一人として、同じ考え方をする者はいません。人は、生まれ落ちた、その時から、ひたすら「自己」という人格を形作るために生き続けるものなのかも知れません。「大人になる」という言葉もあります、人は、完成した形では生まれてきませんから、未完成な部分を一つずつ完成に近づける過程が大切な様にも思えます。

「一人として、同じ考え方をする者はいません」というのは大切な考え方ですね。共産主義・スターリン主義というのは、人間をみな同じ考えを持つ存在、いやそういう人間にしたかったのでしょう。それのほうが、あまりな不平等よりもいいと考えたのでしょうね。 でも「不平等を是正する」という考えより、「みんなでより豊かになっていく」という考えのほうがずっといいです。
 私は孫の保育園でも、みな大きく違っている、いやすこしづつでも違っている幾人もの保育児を見ています。これが人間だと思うのですね。だから、みんながそれぞれ大好きで、でも嫌いなところもあります。
 それと私は昨日10日にはUPできませんでした。もっと何事も懸命にやっていきます。

120908041209080512090806 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、昨日のUPが以下の通りなのです。

従姉妹には 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 8日(土)15時46分16秒
  三人の子供がいたのですが、一番上の子は年も離れていたので、いつも「お姉ちゃん」らしく、下の二人の面倒を見ていたものです。二番目が男の子で、すぐ下に、次女がいました。食事時、男の子は、母親などに話しかけながら、ゆっくりと食べるのですが、一番下の次女は、いつも素早く食事を進め、自分の「オカズ」が無くなると、横でおしゃべりに夢中の、お兄ちゃんの分まで、さっさと頂いてしまいます。後で気づいた男の子は泣いて母親に訴えるのですが、肝心のオカズは、もう、妹のお腹の中ですから、母親も苦笑するしかありません。

そんな兄弟姉妹たちも、もう、皆、子供を育てています。同じ親から生まれた子供たちも、それぞれに個性があるものですね。

 これを読んでものすごく私も思い出しました。二人の娘をものすごく思い出すのと、孫たち四人を思い浮かべます。
 二人の娘では、妹のブルータスのほうが大変に聞かない娘でした。でも今では、それを口に出さないようにしました。反省しているブルータスがものすごく可哀想なのです。
 昨日も長女の家に行きました。まだ二歳のポポが実に聞かない子です。姉のポニョがとっても優しいです。でもいつも、「今日こそ、ちゃんとポポを注意しよう」と決意しているのですが、そばに行くと、駄目なじいじになります。ポポが可愛くて仕方なくなるのですね。これは困った事態です。
 またちゃんとしようという決意ばかりしています。

 写真は昨日長女おはぎの家で、途中で私が買ってきたものです。でももうポコ汰がプールから帰ってきたときに、もうそんなに喜ばないのですね。もう赤ちゃんではなく、子どもなんだなあ、と思ったものです。少しさびしいじいじなのですが。

12090614 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、昨日のUPは以下でした。

周さんが 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 6日(木)06時58分20秒
  四人のお孫さんたちに会って話をすることで、子供さんたちにも沢山の思い出が残ることでしょう。そして、周さんが親しい人たちに抱いている「感謝」の念も、言葉だけではなく、子供さんたちに接する姿勢からも、無言のうちに伝わることでしょう。沢山の思い出が、人々の心を豊かで穏やかにするものであって欲しいですね。

 もうなかなか毎日会いにはいけないのですね。長女には、それでは嫌がられてしまいます。でも会いに行くと、少しポポには困ってしまうじいじなのです。「じいじ、そんなにいつもお菓子を持ってこなくていいんだよ」なんて、ポコ汰やポニョに言われています。でもでも今度行くときは、どんなことを言ってくれるかなあ、なんていつもそればかり考えています。
 また会いに行きたくなりました。

12090601 私は、藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、以下のように書きました。

「あれは昭和28年のことです」を書きました 投稿者:周  投稿日:2012年 9月 5日(水)05時04分21秒
 そうですね。私の長女の三人の孫たちの保育園への行きかえりであるく細い路は、私にはいつも子どものときの秋田での保育園・幼稚園(あのときはこれが併用されていたのです)への行き帰りの路が甦ってくるのです。

 私の書くことで、「この男は、保育園と幼稚園の違いを知らないのじゃないか」と思われるかたがいると思います。それで書きます。
 幼稚園は、文部省の管轄でいわば小学校の前段階の教育機関が幼稚園なのです。保育園は厚生省(今は違う名称かな)の管轄です。だから、幼稚園は先生で、保育園は保母さんです(もちろん、子どもたちは「センセイ」と呼んでいるいるでしょうが。かつ今は保父さんもいます)。
 私は、「魯迅『狂人日記』」の最後の「子どもを救え」という言葉で、自分の進む路を決めたことがあります。私は大学を出ても、ずっと公民権停止が続き(あるとき選挙権がないことで気がつきました)、その当時保母の養成をやろうとしまして、「保育総合学園」というところへ入社して、保母養成に関するコピーライターになりました。
 このときに、この保母養成講座の通学コースに通って実際に資格試験に合格したのが私の現在の妻です。
12090602 この頃は、私は実際の講義を私も受けたものです。日曜日に若い女性たちに混じって私も粘土細工等をやったものでした。
 妻は、我孫子市で実際に保母で仕事に就いたものでした。
 思えば、いろいろと懐かしいことがありますね。

12090512 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、昨日のUPは以下でした。

自分にとっては 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 5日(水)09時05分22秒
  思い出深い出来事や風景なども、自分以外の者にとっては、別段、珍しい事でなければ記憶されないこともあるようです。小学校に通い始めた頃、風邪を引き、熱を出して臥せっていた時、母親が、町の食堂に出向き「うどん」を買ってきてくれました。その味は、大人になっても忘れられないものでしたが、ある日、その事を話すと、母親は、まったく覚えていませんでした。個々人の思い出には、そのような一面もあるのですね。

 私は1歳のときに、東京の巣鴨で疫痢で死にかけたことがあるそうです。そのときの私の吐いた言葉は母に言われても、少しも思い出せません。でももう私は忘れません。母には大変に苦労をかけたのでしょう。20歳、21歳のときに、いつも府中刑務所の独房の接見室に来てくれていた母を思い出します。だから今は私は孫のことも実に大切に会いに行くのです。いつも母には心の中で報告しています。
 こうしたことが続くのです。私の孫たちもまた続けてくれることでしょう。私はそれが嬉しいのです。

12090501 このところ将門Webや藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、いくつか書いていました。
 それで私は自分が読んだ文学作品で、ぜひとも書きたいのに、書けない作品があるのです。それは魯迅の『狂人日記』です。私は以下のように魯迅の作品については書いてきています。

  
  阿Q正伝
  ノラは家出してからどうなったか
  野草ー犬の反駁ー

 でも

  狂人日記

については、書こう書こうと思うばかりで、少しも書けていないのですね。
 私が最初に魯迅の作品を読んだのは、中学2年のときに、岩波文庫の『野草』でした。そのあとすぐに竹内好訳の「阿Q正伝・狂人日記」でした。
 そして中でも一番強くひき付けられたのが『薬』という短い小説でした。そしてこの文庫本を何度も読み返し、高校時代に一度、大学へ入って一度読み、大学4年の秋にもう一度読みました。そして、『薬』にも『阿Q正伝』にも、強くひきつけられました。
 だが私には『狂人日記』はどうしても分からない、というか、怖くてたまらない作品にしか思えませんでした。人が人を食うという、そしてそれは自分もやってきたんものではないかと思う、この狂人です。
12090502 なんとか、今度こそ読みまして、その読んだ読後感をここに書いてみます。もう竹内好の訳では何度も読んできました。今度は高橋和巳訳で読んでみます(もちろん、もう何度も読んでいますが)。そしてなんとか私が書けないのでは、私自身がどうしようもない存在だということだけです。

12090401 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、昨日は以下のようにありました。

何か、子供たちの 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 4日(火)07時08分16秒
  秘密基地のようなカマクラですね。そして、やはり子供たちだけのルールに従って作られ、運営されるものなのですね。
それだけ大きなカマクラは、想像できません。やはり、頭の中にあるのは、作られたカマクラ像のようです。

 そうですね。子どもたちだけのルール、お兄ちゃんたちだけの決まりで動いていました。あれは昭和28年の3月に作られたと思いましたね。雪国に限らずどこでもこうして子どもたちは動いていました。そんなことをいくつも思い出します。
 次に住んだ街の札幌もいくつも思い出すことがあります。私たち子どもには、実に大きな街でした。いくつものことが甦ります。
 こうした思い出をいくつも思い出して行きたいですね。

12090304 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、昨日は以下のUPでした。

雪のカマクラですか 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 3日(月)07時30分18秒
  とても風情がありますね。きっと、子供たち同士で集まり、中でお八つを食べたりするのでしょうか?
やはり、子供の頃の記憶は、何かしら、遊びにまつわるものが多いようです。

 うーん、昨日もこれを見てすぐに書こうと思いましたが、今日まで必死に待ちました(私は自分でこれは翌日に書くと決めているのです)。
 ええと、私の思い出にあるかまくらはまったく違います。「子供たち同士で集まり、中でお八つを食べたりする」なんていうのは、何故か誰かが作り上げたかまくらです。
 私がこのとき目にしたのは、実に大きなものでした。兄は中学1年だと思いました。その友だち2人と三人で作っていました。
 このかまくらはまず、入り口が分かりません。子どもたちが雪に姿を沈めて身をていしてもぐって入らねばなりません。だから大人は入れません。私は幼稚園生でしたが、かろうじて入ることを許されました。私の弟は幼稚園生でも小さいから、入るのを認めれませんでした。
 中は明るくて(だからどっかから、外の明るさを入れていたのでしょう)広くて、驚くほどでした。そしてここは、大人、女の子、あまりに小さい子は入るのを許されないのでした。
12090305 だから、私の父や母は入れないのです。私と兄とは、7年の差がありました(兄は昭和17年2月、私は昭和23年5月生まれで、私の父は22年秋に帰国しました。その間は大東亜戦争があったのです)。
 今思い出しても大きな立派なものでした。のちに札幌でも私は作ろうと思ったのですが、札幌では寒すぎ、冷たすぎて、雪がうまく固まってくれないのです。もう私の記憶の中だけにある大きなかまくらです。

12090208 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、昨日以下のUPをくれています。

動物たちにも 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 2日(日)08時55分8秒
  そして何より、人間にとっても住みやすい環境を、これからも大切にして行きたいものです。一度、汚れた環境を元に戻すのは大変なエネルギーが必要になります。それを、私たちは高度成長の時代に経験してきました。

周さんは、雪について、何か楽しい思い出があるのですか?

 そうですね。私は雪国といいますと、秋田市と札幌市に住みました。秋田では兄とその友人たちがものすごく大きなカマクラを作ったのをよく覚えています。秋田で二番目に住んだ家ででした。札幌では、小学校1年と2年のときに、もうたくさんの雪の中でいっぱい遊んでいました。のちに名古屋や鹿児島の人が雪が嫌いなのを知り、ものすごくショックだったものです。雪の思い出は楽しいことばかりです。私が30歳を過ぎてからウィンドサーフィンが好きになったのも、この札幌でのスキーの経験があったからです。

12083009 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」での、昨日以下のUPがありました(全部引用して申し訳ないです)。

まだまだ暑いです 投稿者:なな  投稿日:2012年 8月30日(木)23時28分54秒
  周さんが投稿されるフリー画像を見ていると、疲れが癒されます。
昨日は休みで、地元だというのに今まで一度も訪れたことのなかった証成寺へ。(しょ、しょ、しょじょじ…のあの寺)
小さな庭の木々に住職さんが書いたと思われるたくさんの短歌の短冊がほほえましかったです。素朴で素敵でした。うっかり写真撮るの忘れました。近いのでまた足を運ぶでしょう。素敵な小さな庭なのです。
今日は、職場の方々に歓迎会をしていただきました。入社1週間、少し気を張り過ぎだった感もあります。先輩の足を引っ張らないよう、業務的な動きを覚えこむのでいっぱいいっぱいで、自然な笑顔ではなかったかもしれません。
歓迎会の席でさえ、なんとなく気後れしてうまく喋れないときがありました。
なにより、何事も「楽しむ」ことを忘れてはいけないと思いました。

疲れが癒されます」とまで書いていただきまして、私は嬉しいばかりです。この証成寺は、木更津市にあるのですね。12083101

   http://www.shojoji.net/ 
    狸ばやしのお寺「護念山 證誠寺」

 実は私の次女ブルータスが、ここ木更津市の教員なのです(住んでいるのはお隣の君津市です)。そして、その子どもじゅには、今はブルータスと一緒にいつも元気にいます。
 実は先日の私の妻と、じいじばあばで二人で行ってきたのです。ブルータスもじゅにも、パパのナオキ君も、あちらのじいじばあばにも会ってきました。
 じゅにはとってもいい子なのですが、でもママのブルータスにはわがままにもなるらしく、でもでもそれがじいじばあばには、とっても嬉しかったのです。「わがままになってもいいよ、じいじとばあばにももっとわがままになって」という気持です。ただし、もちろんそのまがままは注意しますよ。
 この「しょうじょうじの狸ばやし」が以下の通りです。

『証城寺の狸囃子』(作詞・野口雨情/作曲・中山晋平)
1.証 証 証城寺 証城寺の庭は
ツ ツ 月夜だ 皆出て 来い来い来い
己等(おいら)の友達ァ ぽんぽこぽんのぽん
2.負けるな 負けるな 和尚さんに 負けるな
来い、来い、来い 来い 来い 来い
皆出て 来い来い来い
3.証 証 証城寺 証城寺の萩(はぎ)は
ツ ツ 月夜に 花盛り
己等は浮かれて ぽんぽこぽんのぽん12083010

 いい歌、素敵な唄ですね。私も大昔から好きな歌です。以下に英語版のこの歌があります。

      http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=FycWm8KUK90
    Sho-Jo-Ji by Eartha Kitt 証城寺の狸囃子

 こうして、この歌を聴いて、私はまた自分の孫じゅにを思い浮かべています。

12083006 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」での、昨日のUPが以下なのです。

この神社は 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月30日(木)09時10分28秒
  水際に建てられていますから、きっと航海や漁業の神様が祀られているのでしょう。

関西地方では、子供たちの成長を見守ってくれる、お地蔵様の祭りが、夏を締めくくる行事として各地区で行われます。それを、一般的に「地蔵盆」と呼んでいます。

「ふーん、そうなんだ」と感心して読みました。そんなお祭りはいいですね。ものすごく私は好きになれます。この写真は長野県の「宇賀神社の一の鳥居」ということなのです。 ここに掲げる写真も同じく長野県で撮られたものです。

 私はこのボードセーリング(ウィンドサーフィン)は実際にやったことがあります。ただし、海でしたね。ただ今はそんなに盛んじゃないような感じで残念です。サーフィンと比較すると、お金がかかりすぎるのかなあ。ただし、サーフィンは実際にはかなり体力がいりますが、ウィンドサーフィンはそれほど激しいスポーツではありません。その頃鎌倉で知り合ったウィンドサーファーが、小学・中学と体育は通知表が評価はずっと「2」だったが、それで体育運動はダメだと思ってきたが、このウィンドサーフィンをやってものすごく海が、水が好きになったといいいます。
12083007 サーフィンを実際にやる女性は少ないのですが(競技人口は驚くほど少ない。でもファッションは別です)、ウィンドサーフィンはものすごく多いです。ただし、お金はかかります。そもそも車がないと、海へいけません。ただし、海辺でウィンドサーフィンボードを預かる商売もあります。

12082912 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」での、昨日のUPです。

子供たちは 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月29日(水)09時02分58秒
  遊びの天才です。ほんの少しの場所があれば、自分だけの世界を拵えることが出来ます。その小宇宙の主人公は自分自身であり、お話しの世界は無限に広がります。
子供たちは、遊びを通して、実に多くの事柄を、知らず知らず学びます。より小さな子供は、少し大きな子供たちの遊び(動作、言葉使い)を黙って見ながら、その次の日には、新しい言葉を覚え、新しい遊びを身に付けたりするものです。それを大きな子供が「認める」と、昨日まで小さな子供だった子は、皆の仲間として迎えられることになります。 

 私は孫たちが懸命に遊びを大きく向かい入れていることが嬉しいです。そこでじいじの私も一緒になってお喋りし、少しの工夫を考えています。
 思うのですが、自分の子どもたちや孫たちって、大きな存在なのですね。じいじとそばに座ってお喋りしてくれる孫にとっても感謝しています。
 今日ここの家の日本間の畳み替えと襖を替えます。またそれが出来たときに、来てくれる孫たちを思います。
 私はいっぱいお喋りしますね。そのお喋りのときが今から予想して嬉しいです。私もいっぱいお喋りして遊びます。

12082703 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」では、昨日は以下をUPしてくれていました。

周さんは 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月27日(月)07時30分38秒
  自分の見てきた夢についても、細かく書き留めて来たのですから、いつかは、お孫さんたちと、楽しい夢の具体的な中身についても、あれやこれやと、お話しできる日々が必ずやってくるのではないでしょうか!子供たちが、将来について、夢を持って語れる世の中であって欲しいと思います。

夢の話しだけにとどまらず、じいじは(ばあばも)、子供たちにとって、常に語り部のような存在であることが大切なのだ。そう感じました。

 そうだなあ。私もいっぱい努力します。孫たちが文字が読めるようになったら、ケータイメールが今以上に楽しいですね(もう出していますが)。手紙も楽しいです(もちろん、ずっと出してきましたが)。
 それで今日は、またいっぱい話してきます。昨日この家の和室の改装(というほどのことではないですが)のことをお話します。孫たちも関心を持つことだろうと思うのですね。もちろん、私の話ではなく、実際に変化した部屋を見ると、実に興味を持てるだろうと思うのですね。
12082704「あ、じいじから写真が来ている」と自分のケータイメールを見てくれる(もっと先のことでしょうが)のがとても楽しみです。それに孫たちが興味を持つお話をいくつも、実に楽しく話しますよ。

12082608 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」では、昨日は以下のUPがありました。

居眠りじいじ、ではなく 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月26日(日)08時35分41秒
  お孫さんたちと、いっぱい夢の中身について話すことができる、夢見るじいじ、であれたら良いでしょうね。

確か、今朝方も夢を見ていたはずなのですが、その内容の不合理な余りに?気づいた途端、忘れてしまいました。何か、仕事に関連したものだったと微かに覚えてはいるのですが…。

 孫たちと、いっぱい触れ合って行きたいです。孫たちから、自分の夢のことを聞かれたら、優しく話して行きたいです。「ああ、いいなあ。その夢は多分こういう自分の思いがあるんだよ」なんて話せるじいじで行きたいものです。
 そして自分で夢をみたら、また「夢の中の日常」を書いていきたいです。このことを真剣に思っていますが、こればかりは自分の思うようにはいかないですね。
 島尾敏雄さんの「夢の中での日常」を読むと、島尾さんのそのときの今が分かるような気持になってきます。でもいつも不思儀な夢ばかりですね。夢だから仕方ないのでしょうね。
 いつも記憶に残る夢を見たいとばかり思っています。

12082413 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」では、昨日は以下のようなUPでした。

子供たちには 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月25日(土)08時56分45秒
  いつも、楽しい夢を沢山見ていて欲しいものです。そして、極々たまには、思いっきり、怖い夢を見て、泣いてしまうことがあっても良いと思います。いつか夢にまで見たことが、現実の世界でも実現することが出来れば、なお一層、楽しいかも知れません。

周さんの夢は、本当に具体的で生き生きとしていますね。反対側の立場になって、自分の居た位置を確認する、という意識は重要だと思います。

 いや今はただ眠ってしまうだけです。前のようにどうしたら夢を見られるのか思い、今は少々悲しいばかりです。単なる「居眠りじいじ」で長女や妻には飽きられるばかりです。そのうち孫にも飽きられちゃうかなあ。
 だから夢を見て、ちゃんとその記録を書いて行きたいです。

12082405 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、昨日は以下のようにありました。

周さんの言う 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月24日(金)07時28分3秒
「私にとって、常に夢をみていたいものなのです。そしてその夢の記録を書き続けたいものなのです。」の感覚は、少し分かる気がします。
常に夢を見ていたいと思いつつ、人は、現実の世を生き続けて行かねばなりません。
そして、現実社会は、往々にして個々人の夢をかなえてはくれないものです。

 昨日は夕方おはぎの家へ行きました。おはぎがお熱を出して三階で寝ていて大変でした。玄関のドアはポコ汰が開けてくれました。私が持っていったお菓子を食べているポニョとポポはもう可愛いばかりです。
 あの子たちはどんな夢を見ているのでしょうか。いつか、そんなお話も出来ていけるようになるのかなあ。
 またきっと私も夢を見られるはずです。そしてその夢を内容をここに書いてまいります。

12082213 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、昨日は以下のように書いてくれています。

夢というものは 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月23日(木)07時41分18秒
「浅い睡眠」の時にみるもので、疲れたりして「ぐっすりと深い睡眠」をしている時には、見ないものだそうです。
そうすると、周さんは、最近は「深い睡眠」の中で、ぐっすり寝ているのかも知れませんね。
楽しい夢は、いつでも見たいものです。
夢の続きが見られる、何か、良い方策が無いものか、そんな事を考えたこともあります。

 いや私は夢を『「浅い睡眠」の時にみるもの』というふうには思っていないのですね。だから私は「夢の中の日常」を書いていたのでした。
 そうそう私が昔この夢のことを言ったら、ある人が「それは島尾敏雄が書いているのではないか」と言いましたので、私はすかさず「島尾さんが書いていたのは、『夢の中での日常』です。私は『夢の中の日常』です」と言ったものです。いえ、今もそんなことを言ってくる人がいますからね。
12082303 私にとって、常に夢をみていたいものなのです。そしてその夢の記録を書き続けたいものなのです。
 私は島尾敏雄は全作品を読んでいる数少ない作家です。大部分の作品を読んでいる作家は、何人もいますが、日記や書簡まで読んでいる作家は、私にはこの島尾敏雄のほかは、吉本(吉本隆明)さんと太宰治とチェーホフなのです。

12082202 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、昨日は以下のようにありました。

夢をみなくなったと感じます 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月22日(水)11時28分49秒
  と言うか、夢は見ているのに、
その具体的な内容が何だったのか、覚えている事が少なくなっています。
昨夜も、一昨夜も何か夢をみているのですが、
寝覚めてみると、それが一体何の夢だったのか、全く取りとめがありません。
若い頃に見ていた夢は、もっと具体性があったように感じますが、どうなのでしょう?

周さんが貼り付けてくれる画像について、いつも思うのですが、
何か、特別な処理が施されているのか、
実際の風景より「色」の彩度も濃度も強くなっているように見えます。
特にグリーン系の色に、それを取り分け感じています。

 高校2年のときに、「フロイト『精神分析入門』」を読んだときから、毎晩見る夢を気にするようになりました。その後府中刑務所の拘留の中、実にたくさんの夢を見て、それを覚えているようになりました。
 でも私が「夢の中の日常」で書いているように、こうして書いておけば、もっとたくさんの記録が残っていたことだと思います。
 だから、今後も自分の見た夢のことはちゃんと書いていくようにしたいです。
 ただ今も、私は横になると、すぐに眠ってしまうので、これは孫たちの前で気をつけないといけないですね。

 それから、私のUPしています画像なのですが、私は一切何もしていません。多分、「フリー写真素材」のフォトライブラリーのほうも、何もしていないと思いますよ。何かしたら、それだけで経費がかかるじゃないですか。これから、もっとこうした画像の存在はは増えていくと思うのですね。
12082203 こういう画像、多くのプロカメラマンの撮る写真の存在の仕方がどんどん変化していくものだと思っています。
 思えば、このことについても私は強烈に言いたいことがあるのですが、それはまたいつか展開しましょう。

12081202 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」に、この書き込みがありました。

機械の類が嫌いな人も 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月11日(土)07時44分26秒
  世の中には、沢山いるのかも知れませんが…。
・・・・・・。
外国の映画などで、自動車から電話をかけている場面を見て、こんな事が普通に出来るのは何時ごろになるだろうと思っていたのに、携帯電話は急速に普及しました。

 私なんか、いわゆる「機械の類が嫌いな人」とずっとみなされていたでしょうね。なにしろ、パソコンを自作し始めたときに、驚かれたものでした。
 最初秋葉原で自作の店で各パーツの買物をして(あのときに店員さんが「こんな年寄りで、何も知らない親父がなあ」という顔をしていました)、でもそれが自作できて、勘違いした私は全部で13台自作したものです。
 もう秋葉原のあちこちの店で、路上でパーツを買い、そして重いパーツを抱えて、飲み屋で飲んで最初は我孫子まで(のちには、クライアントや誰かの会社や自宅まで届けて、自作して、そこでまた飲んでいました)持っていったものです。
 明け方の電車でよく日曜日、パーツを運んでいたものでした。自作しだして、そこで記憶が戻るということが幾度もありました。
 携帯電話はもう何台目でしょうか。「松戸自主夜間中学」でパソコンで教えているときに、インターネットに接続(最初はインターネットでなくパソコン通信)する必要があったために、PHSで接続していたものです。だからいつも、携帯とPHSと二つを持っていました。
12081203 でも今はケータイがやはりいいですね。「話し言葉」がどんなに大切なものか分からせてくれたし、ブログ他は、「書き言葉」がどんなにいいものなのか、実によく分からせてくれたと思っています。みんなケータイでやっているのです。
 私はもう随分前から、ケータイでよく話し、よく書き言葉でチャット(あるいはメール交換)していますよ。これで、始めて人と友人や家族とお喋りしたり、メール交換することが、実に楽しくいいものだということが分かったはずです。

12081003 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」に、この書き込みがありました。

都市部の学校は 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月10日(金)08時22分13秒
  どこでも子供人口の爆発対応に苦慮したのだと思います。
確かに、中学校に上がると一学年のクラスが十幾つ、三学年で五十クラス近くもあり、単純に「50人学級」だとして在校生が2,000人を超えます。
最初の中学では、合同朝礼が出来なかったように記憶しています。

  私は小学校は5つ変わりました(札幌一つ、名古屋三つ、鹿児島一つ)が、中学は鹿児島で甲東中学一つでした。これは私の兄が秋田市、札幌、名古屋の三つで、弟が鹿児島、横浜と二つだったのに比べて幸運だったのかもしれません。(私が秋田だけ「市」とつけたのは、秋田県秋田市だからです)。
 それにしてもどこもものすごい人数、生徒数でした。

 ただ、私の二人の娘も多かったですね。娘の中学でパソコンの置いてある教室があり、生徒一人に一台の日電の製品(だから36台だったかなあ。あ、機種名も覚えているよ)と、プリンターが生徒2人に一台で置いてあり、でもその教室は鍵がかかっており、私なんか激怒したものです。私がパソコンに関する情報をA4で5枚程度(一ページ35字詰45行で)娘に届けてもらったら、その相手の私よりも20歳くらい年下の先生(彼がパソコンの専門家ということらしい)が、「お父さんは、これをわざわざ打ってくれたのか?」というので、私はあきれ果てたものです。私はパソコン通信(その頃はインターネットなんてなかったと思いました)の情報を簡単にプリントしただけなのです。
 パソコンなんかは、生徒が自在にいじって壊してしまうくらいがいいことなのです。
 でも娘二人も人数が多かったです。そして長女の子ども、私の孫も保育園にはたくさんの子どもがいます。
 私は孫にも、私はかかわって行きます。ただ、じいじはどこでも詩吟を詠うし、下着は赤ふんだから、面白いよね。
12081004 でも詩吟をやる人たちも、みんなインターネットもちゃんとできないし、私はいつも不満ばかりです。杜甫に、乃木希典に申し訳ないと思わないのかなあ。
 私はこの中学のときの数多くの友人たちにも、大学時代のたくさんの学生運動仲間にも、後輩のむつめ祭(埼大の学園祭)仲間にも、不満だらけです。いや知り合ったアメリカ人にも中国人にも欧州人にも不満です。少しやればインターネットで連絡できるのに、やろうとしないのですから。もうすぐ人生は終わるのですよ。その前に、いっぱい同じ人間として連絡とりましょうよ。

12080906 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」に、この書き込みがありました。

昭和二十年代の前半 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月 9日(木)19時21分48秒
周さんが一年生の時、クラスに「70人」いたと書かれていますが、当方が通っていた小学校では、余りにも子供の数が多くなったため、教室の数が足りなくなり、低学年の1〜2年生は、午前と午後に分かれて授業が行われ「二部授業」と呼ばれました。
勿論、講堂も間仕切りをして教室の代用に使われたのですが、新校舎が出来たのは、卒業を目前に控えた六年生の三学期のことでした。

 私は「二部授業」というのは、札幌での昭和29年のことだったと記憶しています。いやこの藤田さんの言われることで、甦ったのです。
 それで70名の人数から57名くらいに(実は50人教室にしたかったのでしょう)なりました。分校を作ったそのあとで、こんな人数でした。
 でもでも、私の兄(昭和17年2月生まれ)なんかは、東京の巣鴨にいたときは実に「三部授業」だったといいます。どこも大変な事態でした。だから米軍の豚のえさだったスキムミルクが給食に出されたのでしたね。
 このスキムミルクの思い出は、どこでも話しましたね。あれは成長期の子どもには何もならないものなのです。

12080907 私の名古屋南区の桜小学校でも、3年の最初に分校が出来て、クラス編成(ようするにクラス換え)がありました。3年の4月のことでしたから、最初のクラスは25日くらいの期間だけでした。
 でもでも、私の場合は、中学(鹿児島市の甲東中学)でも最初の14組(全部で14クラスで、一組57名くらいでした)は、みな分けられて他のクラスに配属され、同じクラスになったのは2学期からでした。でもクラスはみないろんな部屋を間借りしていて、私なんか理科室で、実験用の机に座っていたものです。
 でもでも、私の場合はこれが昭和36年くらいの話ですが、私の姪(弟の娘)も中学は実に大変でした。プレハブ校舎が急遽建てられました。
 でもでもさらに私の姪(兄の娘)の二人の息子は、あまりの子どもの多さに、通う学校も学区を我孫子市が大きく変えたものでした。私の娘が通ったのと同じ小学校になる予定が一つ隣の学校になりました。前に建てられて、壊されたプレハブ校舎がまた建てられたのです。これは平成20年代の今つまり平成23年の話ですよ。
 そういえば、私の孫もたくさんいる保育園で、私は心の中は実に嬉しいものなのです。

12080812 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」に、この書き込みがありました。

小学生の頃は 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月 7日(火)19時04分48秒
  大袈裟に言うと、毎日が新発見の連続のようなものです。
同じ通学路なのに、日によって目にするものも異なります。
目線が違えば、見えてくるモノも変わってくるのです。
音楽(レコード)との関わりも、小学校の音楽室が最初でした。
小さな針の先から伝わる「音」の多様さに驚いたものでした。

 うーん、私はよく思い出せないな。小学校1年はクラスが70人で、すぐに分校が出来てたもので、当然クラス編成がありました。そのときは、札幌の幌西(こうさい)小学校でした。
 小学2年の三学期と3年は名古屋市南区桜小学校でした。4月にクラス編成がありました。4年は千種区の内山小学校で、1年いました。5年と6年の6月まで名古屋市北区の六郷小学校にいました。6年の7月からは鹿児島の山下小学校にいました。
 そうねえ、音楽室に入ったのも中学生からでしたね。
12080903 私の姪(兄の娘)のみーねえの二人の息子、ユウヤとレイ君の我孫子の保育園には、私も行きました。以下に書いています。

   れいちゃんの運動会(2004.10.04)

 もうレイ君もユウヤ君も大きくなるはずです。ここの写真を見ると、二人のことを実によく思い出します。レイ君も、もう中学生なのです。
 来週の13日にみんなで私の父母のお墓参りに行きます。二人はうちの孫を可愛がってくれるかなあ。

 いつも私は拝見しているのですが、

  中原中也とダダイズム、京都時代 日本史探訪・オノコロ共和国
   http://www.ten-f.com/

12080111の「ダダさんの掲示板」に私の撮りました画像をUPしました。いえ、実は昨日はできなかったのです。けっこう必死にやったのですが、駄目でした。
 でも今日は簡単にできたのですね。
 ここのサイトの管理人さんは、私と同じ年代(私は昭和23年生まれです。この管理人さんは24年かなあ)だと思います。
 京都はたしか大学6年のときに一週間くらい行ったものでした。毎日飲んでいたのでしたが、とにかく懐かしい思いです。
 ここの管理人の藤田典さんも当時京都にいたのじゃないかな。あの当時は、京都というと、黒ヘルと赤ヘルを思い出します。
 今は毎日孫のことばかりを思っています。

12061802 ありがとうございます。周の掲示板へ、藤田典さんが書き込みをしてくれました。もちろん、彼の掲示板にも私は書き込みしました。

お孫さんたちとの「奮闘ぶり」が目に見えるようです。

 ええ、もう頑張っていますよ。二歳になったポポと三歳のポニョの戦いは大変です。もう私じいじは困っています。ポニョは決してポポをたたいたりしないですが、でもこのお姉ちゃんの持っているものがものすごく気になるのです。
 昨日は、パパもママも買物に行きまして、ポポとじいじはしばらく1階の出入り口の前で座って待っていました。しばらくして、「ポポ! もう上でみんなと待っていようか」というと、素直にうなづいてくれたものです。
 ポコ汰は、「ポポも悪いけれど、ポニョも○○のところがいけない」と教えてくれます。私じいじはただおろおろしてしまうだけなのです。

8817a520.jpg

 以下の通り、藤田典さんが、私の掲示板に書き込んでくれました。

本年も 投稿者:藤田 典  投稿日:2012年 1月 1日(日)09時34分51秒

   どうぞ宜しくお願いします。

お孫さんが、一日でも早く退院できるように祈っています。

  ありがとうございます。思えば、藤田さんも私と同じ昭和23年のお生まれですね。私はこのごろ自分の年齢を考えることが多いです。よくパソコンでやっていると、いくつものことがわからなくなっているのですね。
 たしか前には分かっていたはずなのに。

 孫のじゅにのところへは今日は行きませんでした。行くとじゅにに会えるのはいいのですが、そしてブルータスに会えたり、お義母さんにもナオキ君にも会えていいのですが、その変わり、もういくつものことができなくなります。
 何しろやっぱり遠いですね。じゅには、私の顔見て、いい子になってくれるのですが、ブルータスママにはやっぱり甘えています。
 明日は行けると思っています。

11122827 私の12月9日の「htmlをちゃんと思い出せない」に、お二人の方に、次の二つのコメントをいただきました。

1. Posted by 藤田 典   2011年12月09日 13:43
size=""
ではありませんか?うろ覚えですが。

2. Posted by 目森一喜   2011年12月09日 21:56
タグについてわからなくなったら、これらのサイトを見てください。
http://www.htmq.com/
http://heo.jp/tag/
http://html.eweb-design.com/

書き方は
<font size="値"></font>
<span style="font-size:値;"></span>
などありますが、出来るだけ後者をお使いください。値のところに、例えば2倍なら2と入れるか、200%と入れるかしてください。
タグなんて忘れますし、使えなくなるタグも出ます。その都度確認した方がいいです。

 ありがとうございます。「タグを忘れるなんて、俺はダメだなあ。あ、もともと俺はパソコンなんかまともに使える人間じゃないんだ」なんて落ち込んでいたものでした。

タグなんて忘れますし、使えなくなるタグも出ます。その都度確認した方がいいです

って、この通りです。
 今後その都度確認するようにします。

11092801 電車に乗ることで考えましたに、藤田典さんからのコメントがありました。

1. Posted by 藤田 典   2011年09月25日 18:37
周さん、気があせるのは良く分かりますが、駅の階段などは決して駆け上ったりしてはいけません。
一つでも踏み外せば大怪我をします。そうすると、お孫さんたちの顔も見に行くことが出来なくなります。
急いでいても、走らないようにして下さい。

 藤田さん、ありがとうございます。おっしゃられる通りです。「駅の階段をかけ上がるのも、かけ降りるのも大変なのです」なんて書いて、そして実際にやっている私は馬鹿で阿呆です。言われるとおりです。
 私がIS01ブログの「バスは時間が前後しますから」で、次のように書いたのは、この藤田さんの書いてくれたことで、深く考えたからです。

私のブログで、前回の私の駅の階段での走りを心配してくれた方がいます。

 本当に藤田さんの言われる通りです。別に電車を次の電車になったからといいましても、別にどういうこともないのです。でも怪我をすることのほうが大変です。
 私はまだ生まれて10ケ月すぎたばかりのじゅにの笑顔(と少し泣いているときもありますが)と、この藤田さんの言われることに、大きく反省しました。
 今後強く反省していきます。

無力な私」に、藤田典さんから、次のコメントがありました。

1. Posted by 藤田 典   2011年08月30日 21:00
周さん、誰しも無力なのです。
だからこそ愛する家族を「思い」「祈る」のです。
己の真心が、真が、きっと天に通じることを信じて。

11090106 ありがとうございます。誰しも無力といわれても、そして言われるのはよく分かるし、そうなのだなと思っても、でも不安になってしまいのです。
 このごろいくつものことを思います。何でも平穏でうまくいく人生ではないけれど、こうして、家族がいて、孫がいて、友人がいることは、とっても仕合せなのだ。でも私も懸命に生きて、そしてたくさんの人を思う心が大切なのだということです。
 ことは簡単なことではないのです。でも懸命にそのことを思います。藤田さんが言われるように、そのことが「天に通じる」ことを私も信じています。
 でもどうしてもときどき愚痴を言っていますのです。

 2011年7月25日IS01ブログに 藤田典さんから、再び次のコメントをいただきました。

周さんの自己貫徹精神は、大いに見習うべきだと感じているものですが、世の中の変わりようは実に素早く、特にIT機器の変容には着いていけないものがあります。
周さんには、二人の優秀な娘さんがおられるのですから、適時アドバイスを頂かれるのが良いと思います。

11072601 実は、これは前にコメントをいただいて、私がそのレスを書きましたら、すぐにまたもらっていたものでした。私もまたすぐにレスしようと思っていたのですが、今頃になってしまいました。いや、すぐに読んではいたのでしたが、そのあと食事になり、またいくつかのことをしているうちに、さらに翌日になったものでした。
 あのですね。私の二人の娘より、私のほうがITには詳しいですよ。「適時アドバイスを頂かれる」なんてことは、少しも考えていません。でも、というのは、私の思いだけで、二人は全然考えていないかもしれません。
 何しろ、私は古い歌、軍歌と詩吟が好きなだけで、二人の話なんかまったく聞かないからね。
 昨日ポコ汰と電話で話して、そのあと妻と変わったら、そのうち、「はい、じいじの好きなポニョちゃんですよ」というので、また話しました。私はもう二人とお話するのが大好きなのです。ただポニョはまだ2歳(もうすぐ3歳になります)で、ポコ汰のほうがお喋りはできるようですね。ポコ汰はもう4歳と6カ月を過ぎていますから。
 思えば、私はパソコン自作をやり、インターネットに触れるのも早かったのですが、本来は向いていないのかもしれません。まあ、仕方ないよね。できるだけ、こうしてブログをやり、インターネットの世界に、大きく触れていくことがいいのかもしれないですね。 私の同級生で、「インターネットって、何もないのね」という感想を言っているご夫婦がいるのですが、私はもうあきれ果てるばかりです。
 司馬遷が、あの時代にちゃんと歴史を書いていったことが、少しも分からないのですね。司馬遷は、たくさんある歴史のうち、実にまともだと思えるものだけを残して行ったのです。そのことの大きな意味が分かるのでしょうか。
 いや、中国の歴史だけではなく、今この日本も世界も大事な歴史を思うものです。

11072505 2011年7月25日IS01ブログに、藤田 典さんから以下のコメントをいただきました。

1. Posted by 藤田 典   2011年07月25日 17:02
暑中お見舞い申し上げます。

周さんは、いつも100%の力を出し切らないと満足出来ないのかも知れませんが、人は四六時中緊張感を維持して、物事を処理することは難しいと思います。
人は、歳とともに老いて行きます。それは当たり前のことです。
周さんも、少し肩の力を抜いて、そろそろ進まれては如何でしょう。

 ありがとうございます。私が書いてから、すぐにコメントをいただいて、実に嬉しいです。これは、IS01でリビングでテレビや新聞を見ているときに、書きますので、すぐにコメントいただいて驚きました。
 IS01で書いたあと、パソコンで訂正したり、追加したりしますので(まだIS01だけでは完全にはできないのですね)、まだまだやっている途中でした。

 周さんも、少し肩の力を抜いて、そろそろ進まれては って言われるのは、よく分かるし、ありがたいのですが、どうも私はそういうことができないのですね。だから、それほどお酒も強いほうではないのに、若いときから、ただただ腹いっぱい飲むようにしてきました。だから、「あんなに日々強烈に飲み続けたら、アル中になる」という親切なアドバイスにも、「俺はアル中にこそなりたいんだ」なんていい、でも心の中では、毎日飲み続けても、アルコール中毒には絶対ならないなんて思いがありました。
 思えば、マルクス主義者には負けたくないから、学生運動も必死にやっていたものでした。だから東大闘争のときの警視庁(まったくの黙秘だから、全然わからないだろうけれど)も、芝浦工大事件のときの埼玉県警もさっぱり分からなかったでしょうね。
 そのあと何社目かの会社(ここはコピーライターという嘘で入社したものです)では、労働組合も結成し、無期限ストライキを貫徹し、そのうえ、組合だけでなく、周囲の無関係な人たちも大勢中伊豆の温泉に連れていきました。
 でも私は皇国社会主義者といいまして、北一輝を尊敬崇拝していたものです。
 今も、もはやノートパソコンは持たないで、IS01やガラパゴスで入力し、ブログを更新しています(ただし、あとでパソコンで整理しています)。
 そういえば、私も自作パソコンを13台作って、最後の頃(今から7年前)は5万円で、パソコン製作とディスプレイとプリンタと、最後の打ち上げの飲み代まで出したものですが、今はもう新品のメーカーもので、2万円台で買えるよね。
 でもだんだん馬鹿になってきて、実は藤田典さんのホームページも、サイドバーにある「周の好きなサイト」に加えたいのですが、私が「200×40」のバナーをまともに作れなくなっているのです。でももうすぐできるだろうし、・・・やりますが。
 とにかくやりぬきます。

10123105 2010年12月29日のポメラ藤田典さんより、以下のコメントがありました。

1. Posted by 藤田 典   2010年12月30日 19:35
周さん御一家の賑やかなお正月風景が目に浮かぶようです。
一年経つのは早いものです。小学校の卒業式で総代の生徒が答辞の中で「光陰矢の如し」と言っていたのを思い出します。
来年も、どうぞ宜しくお願いします。

 たしかに速いですね。でも小学校のときの答辞なんて覚えていないですね。私はそのときは鹿児島の小学校でした。鹿児島は比較的長く住んでいたところなのです。3年半いたのかなあ。ただし、鹿児島も私は少しも好きではなかったです。
 私は主に住んだ、札幌も名古屋も鹿児島も横浜もみんな嫌いです。秋田と沖縄が好きかな。あ、浦和も嫌いだなあ。あ、船橋にも住んだけれど、嫌いです。
 なんとなく、私の住んだ街はみな好きになれないな。あと、早稲田と我孫子とに住みました。今は東京の王子です。

10121502 鉄人28号と鉄腕アトム へのコメント へさらに藤田典さんから、以下のコメントがありました。

1. Posted by 藤田 典   2010年12月15日 21:37
周さんの記事を読んだ後、突然浮かんだ感想なのですが、幼い頃見た鉄人28号に、沖縄特攻で撃沈された戦艦大和をだぶらせていたのではないかと思うようになりました。
何故、そのような発想が生まれたのか、未だ解明していませんが、見たこともない大和に対する憧憬は確かに存在していたと記憶しています。

  うーん、確かにそうかもしれないですね。思えば、戦艦大和というのはすごいですね。今映画でもやっている『宇宙戦艦ヤマト』というのも、実はあの戦艦大和が海の中から曳き上げられて、宇宙を飛んでいくものですね。
『宇宙戦艦ヤマト』が、アニメで公開された頃、映画館ですすり泣く男の子どもたちのことが言われました。吉本隆明さんは、実にこの映画のことを述べています。私は、吉本隆明さんが言われることで、宇宙戦艦ヤマトと実際の戦艦大和のことを考えたものでした。「宇宙の大義のために」と「御国のために」と、我が身を捧げる若者たちのことを思ったものです。その映像に涙する幼い小学生。
 私はこのことを随分言ったものでしたが、少しも理解されなかったなあ。でももうあのときは、1980年代の後半でしたかね。

c9431c60.jpg

 私の周の掲示板に、藤田典さんから、以下の書込がありました。

文芸に限らず 投稿者:藤田 典  投稿日:2010年 4月 1日(木)11時39分45秒
何かを表現しようとする者は、
大衆に迎合することなく、
権威権力には阿ることなく、
矜持を以って行うべきだと思います。

わざわざ、弊サイトをリンクして頂き、有難うございます。   

 ええと、私なんか、それほどのものがないのですよ。だから恥ずかしい思いで、いまになってのレスです。私なんか、いつでもあちこちに迎合しているばかりです。
 なんとなく、もうそうした私の人生でした。他人(ひと)にも、時代にも合わせようという姿勢がないと、駄目なのですね。だから、私なんか、実にいつもひどいものでした。昔革命運動で、刑事や検事、そして判事に合わせられないのは、仕方なかったですが、そのままずっと来てしまいました。いや思えば、私は左翼の諸君にも合わせられなかったものでしたね。
 そういう人生を歩んできましたから、こうして普通に応えてくれるパソコン等が私には一番の友だったのですね。

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