将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:藤田東湖

398be11d.jpg  もうすぐ鎌取です。 今「藤田東湖」を単語登録しました。これがすぐに出てこないことに、面白くないし、「ああ、俺が悪いんだ」とすぐに気がついたものです。
  思えば、文天祥の子孫の方がいるように、他の方もいるわけですね。 今は鎌取駅前のバス亭です。もう時間が過ぎていますが、バスが来ません。
  イエスキリストの子孫もいるはずですが、どうなのでしょうね。いえ、マグダラのマリアとの子孫です。
  今バスが出発しました。じゅにともうすぐに会えますよ。じいじとお喋りしようね。
  でもUPしたはずなのですが、できていませんでした(今は食堂です)。それで今UPします。

11101807 今日はこれだけ涼しくなったのだから、じゅにも涼しく感じられるかなあ。
 じゅには一昨日あたりは暑く感じたようです。今日はじゅににはどうなのかなあ。 今日もじいじに話かけてくれるかなあ。そのことをいつも期待します。

  私のこのブログでコメントくれた方にレスをしなくてはいけないのですが、なかなかやっていられません。 とくに文天祥の子孫の方が私が書いた「文天祥『正気歌』」にコメントをくれているのですが、私はそのレスに、藤田東湖や広瀬武夫の『正気歌』も載せたい(広瀬武夫『正気歌』はもう載せてありますが)ために、まだやっていません。けっこう大変なのですね。

2017042408 私が詠う詩吟の中で二番目に好きな詩です。どこでもけっこう吟ってきました。ただ七言律詩ですから、絶句の2倍ありますからどこでも詠えるわけではありません。詠うのに3分半くらいかかりますから。
私には、絶句よりも律詩の方が詩としては完成された形のような気がします。そして律詩で一番いいなと思うのはやはり杜甫の詩でしょうね。律詩は御存知のように三連と四連、五連と六連が対句になっています。この詩も見事です。11070706

歴史書に「十八史略」という本があります。三皇五帝から南宋までのことを記した書です。中国では「史記」「漢書」「通鑑」等々をはじめたくさんの書がありすぎるため、それをもっと簡単に紹介したいということなのでしょう。読んでみると確かに「略」であり、私たちにとっては、少々物足りないところが多々でてくるわけです。したがって中国でもそれほど評価されない書物なのですが、わが日本に於ては特に江戸時代以降によく読まれた書物です。
ところでそのなかで、最後の南宋が亡びる時に文天祥という素晴らしい英雄詩人が現れるわけなのですが、実にこの「十八史略」の存在価値は文天祥を描いたことにあるといえると思います。そしてわたしはこの文天祥が好きなのです。多くの幕末の志士たちもこの文天祥の志が好きなようでたくさんの詩に詠っています。
その文天祥の詩です。

     過零丁洋          文 天祥
零丁洋を過ぐ 文(ぶん)天祥(てんしょう)

  辛苦遭逢起一経 辛苦遭逢(註1)一経(註2)より起こる
  干戈落落四周星  干戈(註3)落落たり四周星
  山河破砕風漂絮  山河破砕風絮を漂わし(註4)
  身世飄揺雨打萍  身世飄揺雨飄を打つ
  皇恐灘邊説皇恐 皇恐灘辺皇恐を説き(註5)
  零丁洋裏嘆零丁  零丁洋裏に零丁を嘆く(註6)
  人生自古誰無死  人生古より誰か死無からん
  留取丹心照汗青  丹心を留取して汗青(註7)を照さん

(註1)遭逢(そうほう)  思いがけなく逢う。
(註2)一経(いっけい) 事の起因する意、経書を治めて仕官せしをいう。
(註3)干戈(かんか) たてとほこ、戦争のこと。
(註4)漂絮(じょをただよわし) 古綿をちぎってただよわす。
(註5)皇恐灘 灘の名。 皇恐(こうきょう) おそるるの意。
(註6)零丁洋 広東珠江の口にある洋。零丁(れいてい)おちぶれる意。
(註7)汗青(かんせい) 歴史の意、昔書籍をいう。紙のない昔竹をや
       ぶりて汗を出させ油を抜いてそれを紙にかえて字を記した。

私のこの苦しい闘いは経書をひもとくところから始まった。
モンゴル軍と戦い続けて四年たち、
モンゴル軍のために故郷の山河は破壊され、糸くずが風に漂っているようだ。
私もあちこちさすらい、蓬が雨に打たれているようにたよりない。
いま皇恐を目の前にして国を敬うことを説きながら、
落ちぶれた我身を嘆いて、零丁洋を過ぎた。
だが、この人生誰にでも死は訪れてくる。
私の誠心を披露して、歴史のうえで明らかにしよう。

元の世祖フビライはたいへんこの文天祥の人物を惜しみ、何度も何度も自分の臣になるように説きました。文天祥は北京の獄中で2年間に渡ってこれを拒み続けます。そのときの文天祥の意思を表したのが「正気歌」という長大な詩です。
ときにまだ南宋で元に対して戦い続けている張世傑という軍人がいました。フビライ汗はこの人物も惜しみ、文天祥に張世傑を招く文章を書くようにと部下張弘範を通じて命じます。二人とも命を助け、召し抱えようというのです。そのとき文天祥が提出したのが、この詩でした。
この詩は、以前文天祥が戦いのなか、今の香港島の先の海上の零丁洋というところををさまよったとき作ったものです。フビライ汗は最後の二句を読んで、遂に首を切ることを命じたといいます。

幕末の志士たちはことのほか、この文天祥が好きでとくに「正気の歌」はよく読まれたようです。ただこの詩はあまりにも長大です。ちょっと詩吟で披露するのは無理でしょう。我が水戸の藤田東湖も「天地正大の地……」で始まる長大な「正気の歌」を作っています。また旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫も「正気の歌」を作っています。この広瀬武夫の詩については何度も披露したことがあります。

フビライ汗にとって、文天祥は不思儀な人物だったでしょう。なぜあそこまでかたくななのだ、という思いがしたことだと思います。宋なんて国がなんでそんなにまでつくす価値があるのだろうか。また文天祥も死の直前に初めて会ったフビライ汗には驚く思いだったのではないでしょうか。「むしろこの人物のほうが南宋のどんな連中より優れた容貌をしている」と思えたのではないかな、と推測します。だが何であろうと、文天祥は死を決しているのです。
フビライの生涯において、なんだか理解しがたい生き方をする二つの存在といったら、この文天祥と、なぜか元を実力ではねつけた我が日本ではないでしょうか。どちらもフビライには理解しがたい存在だったはずです。
ともあれ、私はこの詩を吟うときに、いつも文天祥の顔を思い浮かべています。いつも私は文天祥が好きです。(1998.11.01)

続きを読む

2017061511
  日露戦争のときに、旅順口閉塞作戦という戦いがありました。旅順にいるロシア太平洋艦隊の活動を封じ込めるために、旅順港の出入り口に船を沈めて、ロシア艦隊の出入りができなくするようにしようという作戦です。
  この作戦に従事したのが広瀬武夫でした。なんどか、広瀬は旅順へ出かけていき、船を沈めました。第二次閉塞作戦のときに、戻る船に部下の杉野上等兵曹長がいません。広瀬は沈めるべき福井丸の中を、杉野を探しまわりました。しかし、みつかりません、部下をみな帰りの船に帰したあとも、広瀬は一人杉野を探します。そして福井丸が沈み始めた頃、帰る船に乗り移りますが、そのときにどうしてか、広瀬を砲弾が襲いました。(註1)
2017061310

(註1)この杉野兵曹長は生きており、実に第二次大戦後満州にて
生存が確認されました。軍神にまでなった広瀬武夫の存在が
故に、彼が名乗り出るのには、これだけの時間が必要だった
わけです。彼もまた悲劇の人だったと思います。

  このために広瀬は軍神とされ、ひろく日本人に知られました。

  この広瀬武夫が宋の文天祥「正気歌」に倣って作ったのが、この詩です。文天祥は元の宋征服の際、最後までフビライ汗に対して闘った人で、元に捕らわれた北京の獄中で自分の思いを、「正気の歌」という長大な詩に表しました。この詩を倣って、同じく「正気の歌」を作ったのが、藤田東湖、吉田松陰、国分東崖と、この広瀬武夫がいるのです。

   正氣歌              廣瀬武夫
  死生有命不足論      死生命あり論ずるに足らず
  鞠躬唯應酬至尊    鞠躬(註2)唯応に至尊(註3)に酬ゆべし
  奮躍赴難不辭死      奮躍難に赴きて死を辞せず
  慷慨就義日本魂      慷慨(註4)義に就く日本魂
  一世義烈赤穂里      一世の義烈赤穂の里
  三代忠勇楠氏門      三代の忠勇楠氏の門(註5)
  憂憤投身薩摩海      憂憤身を投ず薩摩の海(註6)
  從容就刑小塚原      従容刑に就く小塚原(註7)
  或爲芳野廟前壁      或は芳野廟前の壁と為り
  遺烈千年見鏃痕      遺烈千年鏃痕を見る(註8)
  或爲菅家筑紫月      或は菅家筑紫の月と為り
  詞存忠愛不知冤      詞忠愛を存して冤を知らず
  可見正氣滿乾坤      見る可し正気の乾坤(註9)に満つるを
  一氣存磅薄萬古      一気磅薄(註10)万古に存す
  嗚呼正氣畢竟在誠字  嗚呼正気畢竟誠の字に在り
  呶呶何必要多言      呶呶(註11)何ぞ必ずしも多言を要せん
  誠哉誠哉斃不已      誠なる哉誠なる哉斃れるて已まず
  七生人間報國恩      七度人間に生まれて国恩に報いん(註12)

(註2)鞠躬(きっきう)  身をかがめ敬う意味。
(註3)至尊(しそん)  天皇のこと。
(註4)慷慨(こうがい) 意気振るいて嘆き悲しむこと。
(註5)三代忠勇 楠正成、正行、正成の弟正季。 
(註6)憂憤投身薩摩海  安政五年僧月照と西郷隆盛が共に錦江
湾に身を投じたこと。
(註7)從容就刑小塚原 江戸千住にあり、幕末に橋本左内、吉
田松陰他、明治になり雲井龍雄が此処で処刑された。
(註8)或爲芳野廟前壁
  遺烈千年見鏃痕 楠正行が後醍醐天皇の陵に拝辞し、如意輪堂の壁に鏃で一四三名の名を書き連ね、「かへらじとかねて思えば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」の歌を題した。
(註9)乾坤(けんこん) 天と地。
(註10)磅薄(ほうはく) 充ちふさがる貌。薄は本当は石に薄の字。
(註11)呶呶(どど) くどくど駄弁をいうこと。
(註12)七生人間報國恩 湊川の戦いのとき、楠正季は討死のとき「願はくば七度人間に生まれて以て国賊を殺サント」と言ったという。

人の生死は天命なければ論ずる必要はない
天皇を尊び酬いるべきである
勇んで難に向って死をかえりみず
正義の為に死するのが日本魂である
赤穂義士の義
正成、正季、正行の忠勇
西郷と月照は海に身を投じ
吉田松蔭、雲井龍雄は小塚原で刑死した
楠正行は芳野の廟前で鏃を筆に変え書き残し戦死したが
その心は今も残っている
菅原道真は流されても
その言葉は忠愛に満ちており天を怨むことなかった
こうした正気が天地に満ちて
万古に存している
正気とはつまるところ「誠」の字である
なにもくどくどいう必要はない
私はこの「誠」を守って倒れても倒れても
楠氏の七生報国を念願するものである。

  私はよくいろいろなところで詩吟をやりますが、この詩は吟うのに約八分かかるため、いつでもどこでも詠うというわけにはいきません。でも機会があれば、必ず広瀬武夫の心意気を知っていただきたいもので、吟うようにしています。
  私は真面目に生きた広瀬武夫が好きです。彼は相当なロシア通でした。ロシアを深く愛していたと思います。彼は軍人には珍しく、プーシキン、ツルゲーネフ、ゴーゴリなどを原書で読破するほどでした。彼のやった閉塞作戦では、福井丸の船橋にはロシア語による熱い投降の呼びかけが掲げられていました。おそらく広瀬は心の底ではロシアとの平和を願っていたものだと思われます。
  彼はロシア滞在のときに、ペテルスブルグでかなりロシアの貴婦人の注目のまとだったようです。実らなかった恋の話もきいています(註13)。その彼がロシアとの戦いで戦死するとは、なんだか悲しいことです。しかも、彼の旅順口閉塞作戦は失敗でした。2017062324

(註13)ロシア海軍少将の娘でピアノが得意な瞳の美しい、清楚で気品のある女性だったといわれています。名前はアリアーズナ・コバレフスカヤ。彼女の父を介して2人は知り合い、やがて結婚まで意識するようになりますが、それを知った軍の上層部は広瀬に帰国命令を下します。

私はこの広瀬武夫が好きです。軍神になった広瀬ではなく、ただまっすぐに生きている広瀬が好きです。不器用に生きた広瀬が好きです。(1998.10.01)

続きを読む

54cdf074.jpg

 藤田東湖は、私が随分昔から好きだった私の郷土の偉人です。弘化元年(1844)、東湖が39歳のとき、藩主水戸斉昭が失脚し、この東湖も向島の水戸下屋敷小梅に蟄居を命じられます。その小梅に向かう路すがら、吾妻橋を過ぎるときの感慨を述べたものです。

   將渉小梅過吾妻橋畔有感  藤田東湖
          将に小梅に渉(うつ)らんとし、吾妻(あずま)橋畔(きょうはん)を過(す)ぎ、感(かん)ずる有り
  青年此地嘗遨遊 青年此(こ)の地 嘗(かつ) て遨遊(ごうゆう) す
  花下銀鞍月下舟 花下(はか)の銀鞍(ぎんあん) 月下の舟
  白首弧囚何所見 白首(はくしゅ)の弧囚(こしゅう) 何の見る所ぞ
  滿川風雨伴き愁 満川(まんせん)の風雨 き愁に伴う

  青年の頃は此の地で遊んだものだ
  美しい鞍をうたせて花を賞し、ある時は月下に舟を浮かべたものである
  今は囚人の身となって此の地を過ぎる自分を慰めてくれるものは何もなく、
  隅田川一ぱいに降る雨と吹き渡る風の淋しい光景が一層の悲しくなるばかりである。

 藤田東湖は、水戸斉昭のもとおおいに藩政改革をしていましたが、門閥派のために斉昭が失脚し、このとき、この小梅に蟄居させられます。
 だがペリーが来航するに及んで、斉昭が再び起用されて幕政に参与すると、東湖もまた復します。
 ただ、東湖は安政2年(1855)10月2日江戸大地震で、水戸屋敷で母をかばって圧死してしまいます。

続きを読む

96e38166.jpg この後楽園に来たときに、私は「ああ、ここは藤田東湖先生が亡くなられてところなんだなあ」と思ったものです。
 藤田東湖は、安政の大地震のときに、この水戸藩のここの屋敷にいたわけですが、そこで自分の母親を庇って、圧死しました。でもそのために、すぐあとの安政の大獄を知らなかったわけです。
 安政の大獄で、いわば自分の多くの弟子たちが殺されていくのを見るのは大変な思いだったろうと思われます。07092520
 私はけっこう藤田東湖の詩を詠うことはいくつもあります。

ee49b8b9.jpg けっこうこのごろ日本橋を自転車で走っています。きょうもそうなるでしょう。そういえば、25日には少し時間が空いたので、その時間後楽園に行きました。藤田東湖の亡くなったことに関する碑を見ることができました。東湖は大地震のときに、お母さんをかばって亡くなられたのです。ここはやはりいい公園ですね。(9/27)
続きを読む

↑このページのトップヘ