将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:蘇軾

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   ここで「中国四大美人のことで」の最初に書きました「西施のことで」の最後にあげた七言絶句ですが、ここに書いていきます。いえ、前に書いているかと思っていたのでしたが、探してみると書いていなかっったのでした。
   私が府中刑務所で最初の頃1970年の4月に「林語堂『蘇東坡』」(合山究訳講談社学術文庫、全2冊)を読んでいました。

  飲湖上初晴後雨 蘇軾
       湖上に飲み、初め晴れるも後に雨ふる
水光レンエン晴方好 水光レンエンとして 晴れ方(まさ)に好く
山色空蒙雨亦奇 山色空蒙として 雨も亦た奇なり
欲把西湖比西子  西湖を把(も)って 西子と比せんと欲せば
淡粧濃抹総相宜 淡粧濃抹 総べて相ひ宜し

   西湖上で酒盛りしていたら、初めは晴れていたが雨が降ってきた
   湖の水面が輝きさざ波がしきりに動くのは、晴れの時がいい、
   山の色が霧が降って薄暗いさまは、雨もまた独特の趣がある。
   西湖を西施と比較しようとすると、
   薄化粧も濃い化粧もそれぞれがすべてぴったりしている。
  (空蒙の2字目はさんずいがありますが、私が出せないのです) 1606070916060711
  この詩も実に親しんできた七言絶句ですね。この蘇東坡という詩人は当時の宋の政治的争いで海南島まで流されます。私が東大闘争で最初入れられた東調布署で留置場にいた人が第2次大戦で海南島へ進駐したと言っていました(その相手の名前もすべて思い出せます)。そのときに、「ああ、蘇東坡が流されたところか」と思ったものでした。このときの島で愛する関係になった若い女性のことは忘れられません。ただ、彼女は若くして亡くなるのです。
   こうして昔を思い出したものです。続きを読む

13022803 ここの写真を見て私は「あ、蘇東坡の蘇州夜曲だ」と声に出してしまいました。そして次の歌詞も出てきます。

  君がみ胸に抱かれてきくは 夢の船歌恋の唄
13022804  水の蘇州の花散る春を 惜しむか柳がすすり泣く

 もちろん、私は最後の「鐘が鳴ります寒山寺」まで自然に歌えます。
 これは李香蘭(山口淑子)の歌ですね。私は渡辺はま子もよく唄ってくれた歌(作詞西条八十、作曲服部良一)だなあと思い出します。
 そして私は蘇東坡の詩を思い浮かべるのです。私は蘇軾というよりも蘇東坡(これはこう蘇軾が称したのです)と言ったほうが親しく思える詩人です。
 私は以下のように、いくつかこの詩人の詩を紹介しています。

  蘇軾『六月二十七日、望湖樓酔書』
  蘇軾『贈劉景文』
  蘇軾『澄邁駅通潮閣』

 しかし私がよく思い出し、口から出てくるのも、この下の詩なのです。

  飲湖上初晴後雨  蘇軾
 水光瀲灧晴方好 水光瀲灧として、晴れ方(まさ)に好(よ)く、
 山色空濛雨亦奇 山色(さんしょく)空濛(くうもう)として、雨もまた奇なり。
 欲把西湖比西子 西湖を把(と)って、西子に比せば、
 淡粧濃抹總相宜 淡粧濃抹、総て相(あい)宜(よろ)し

 おそらく私には、この詩人が中国の詩人では一番好きでしょう。私は王朝雲という女性とのロマンスが好きです。
13022805 蘇軾の生涯は、1037年1月8日から1101年8月24日でした。また私は彼の詩を幾度も読んでいくでしょう。そして西施のことも松尾芭蕉(「象潟や雨に西施がねぶの花」の俳句)のことも思い浮かべているでしょう。

11040510 この西施のことを書くのに、愛した男を、私は越王句践、その軍師だった范蠡(はんれい)とも考えたのですが、この越の敵である呉王夫差がこの西施を一番愛したのではないかと私は考えました。呉が滅んでから、范蠡と一緒に斉の国へ行き(という小説もあります)、やがて范蠡は巨万の富を作るのですが(『史記』に「貨殖列伝」があり描かれています)、西施がどうなったのかは分かりません。
 呉の闔閭王を殺した越王勾践を呉王夫差は、苦労の末破ります。このときに勾践から差し出されたのが美女の西施でした。彼女は范蠡から知恵を授かっており、この夫差を骨抜きにします。だがとにかく、春秋時代の最後の頃、この夫差も五覇の一人に数えられるくらい天下を支配します。
 だが、そのときに、越王勾践が立って、呉国を攻撃します。そしてやがて夫差は敗れ自害します。そのときに、この役割を終えた西施がどうなったのかは、何も書かれていません。一説には、范蠡とともに北へ行ったとされているだけです。
 この西施と並んで東施という女性もいたという小説もあります。でもそれは日本の小説です(海音寺潮五郎の小説)。そもそも「西施」という名前も、日本人がいうだけです。中国では西子と言われるようです。
 日本では、芭蕉が『奥の細道』で、「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠い、また蘇軾も「欲把西湖比西子 淡粧濃抹總相宜」と詠んで、この西施の美しさを讃えています。(2011.04.07)

2018080607 蘇軾は、東坡居士と号したので、蘇東坡とも呼ばれています。どうしても私にはこれのほうが呼びやすいので、ここではこれで書きます。
1036年(景祐)1月8日〜1101年(建中靖国元)8月24日の生涯でした。私は「林語堂『蘇東坡』(合山究訳、講談社学術文庫)」を1993年頃読んでいます。私は中国の近代人では、魯迅の次にこの林語堂が好きであり、実に興味深く読んだものです。
この本については、以下に書いています。

http://shomon.livedoor.biz/archives/51889184.html 林語堂『蘇東波』11040403

  ここでも私は書いていますが、王朝雲という女性とのロマンスが好きです。それに私はさらに

http://shomon.livedoor.biz/archives/51727951.html
周の漢詩入門「蘇軾『澄邁駅通潮閣』」

でも書いていますが、「この海南島のあと、蘇東坡が会いました朝雲という女性とのロマンスが好きです」なんて書いているわけなのですが、これは私の認識不足でしかありませんでした。
彼女とは、1071年、蘇東坡が官位を下げられ、杭州におもむいた時が初対面だったのですね。ある宴会で軽やかに踊る彼女に出会ます。このときには、王朝雲は12歳のときです。蘇東坡の「飲湖上初晴後雨」の詩は、このときの詩なのですね。

水光瀲エン晴方好
山色空濛雨亦奇
欲把西湖比西子
淡粧濃抹總相宜

私はこの詩を読むときに、いつも4歳のときに秋田で会った女の子を思い出していました。その子が秋田の象潟に住んでいるということと、そこに昔赴いた芭蕉が詠った「象潟や雨に西施がねむの花」を思い出したものだったのです。
この蘇東坡の絶句が彼女のことも頭にあり詠ったのではと気がついたのは、つい近頃の私になってからことでした。
実際には、蘇東坡よりはるかに若かった彼女は病に倒れてしまいます。そして亡くなります。でも私は永遠に彼女と彼女を詠った蘇東坡の詩を忘れることはないでしょう。(2011.04.05)

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10122307書名    蘇東波
著者    林語堂
訳者    合山究(ごうやまきわむ)
発行所  講談社学術文庫
(上)1986年12月10日第1刷発行
(下)1987年1月10日第1刷発行

  林語堂の著作は、短いエッセイなどは随分大昔に読んだことがありますが、これほどの長編を読んだのははじめてのことです。私はいわば魯迅と並んでもいいほどの文学者である林語堂の著作を読みたかったことと、ここでえがかれている蘇軾(蘇東波)の生涯を知りたかったことが、この本を手にとった動機でした。
  いったい蘇東坡といえば、宋時代の詩人、政治家であり「壬戊之秋七月既望」で始まる「赤壁の賦」の作者であるということくらいしか知りませんでした。
もちろん私は詩吟をやる関係で、いくつかの詩は思い浮びますが、それにしても唐時代の詩人たちほどの親しみではありません。私はなんとかこの蘇東坡の人となりを知りたく、この本に出会ったものです。

  科挙試験に合格するときの蘇東坡の答案が最初に印象に残りました。これこそ蘇東坡のひととなりをそのまま表しているエピソードのように思えます。

    彼が歴史を幾分自由に解釈し、それを対話法の新形式にして答案「刑
 賞忠厚之至論」を書いたのは、才気煥発な青年ならではのことであった。
 恩賞を与える場合には、むしろ寛大すぎるようにし、刑罰を科する場合
 には、罪のないものが殺されないように、罪人に対して、疑わしきは罰
 せずの態度でのぞむべきであるという論理を、展開させていた。彼は次
 のように書いている。堯帝の時代にある男がまさに死刑を宣告されよう
 としていた。「三たび獄官が『彼を殺せ』と言うと、三たび堯帝が『彼
 を許せ』と言った」と。この対話は大変うまくできていたので、聖王が
 喜んで悪人を登用し、その才能を発揮する機会を与えたという話を、典
 拠のあることだと思わしめるもののようであった。試験官たちは蘇の答
 案を読んだが、あえて質問はしなかった。なぜなら、そんな質問をすれ
 ば、埋もれた古代の文献のどこかにあるはずのその話を読んだことがな
 いことを、みずから認めることになるからである。そういうわけで、蘇
 東坡は合格した。試験が終ったある日、試験官の一人であった梅堯臣が、彼に言った。
  「ところで、堯帝と獄官についてのあの物語は、どこに載っていますか
 ね。私はどこで読んだかはっきりとは思い出せないのです」。
  「私が創作したものです」と、若い学者は白状した。
  「あなたが創作したんだって!」と老試験官は言った。
  「だって、それは聖王がやりそうなことではありませんか」と、蘇東坡
 は答えた。                        (第1巻第4章「科挙試験」)

  これに象徴されるところが、蘇東坡が生きそして変えることのなかった姿勢のように思います。そしてそれがいまでも人気のあるところなのでしょう。それにしても、ここで驚いてしまう梅堯臣といえば、これまた詩人であり、私にはたいへんにきまじめな人と思えている方なのですが、このときの蘇東坡のこの答えには、それこそ驚いたことだろうな、とほほえましく思ってしまいます。

  ただ、この本はたいへんに驚いてしまう記述がしばしば出てきます。この蘇東坡の生きた時代が、国家資本主義の実験の時であったと言われています。

    蘇兄弟は、神宗皇帝統治下の煕寧二年、一〇六九年に京師(みやこ)
 に到着した。その年から中国は、北宋の滅亡に至るまで激動のおさまら
 なかった政治的あらしの吹き荒れるなかで、新しい社会的実験の波にほ
 うりこまれることになった。これは中国における国家資本主義の最後の
 実験であって、決して最初でなかった。四千年にわたる中国の歴史のな
 かで、全体主義・国家資本主義・社会主義、および徹底的社会改革によ
 る、四つの大きな政治的実験が試みられたが、それらはことごとく惨め
 な失敗に終った。そのうちで最も成功したのは、思想家商鞅のファシス
 ト的全体主義であった。彼の実験は、万里の長城の建設者である秦の始
 皇帝によって、効果的に実践された。…… 
              (第2巻第7章「国家資本主義の実験」)

  いったい林語堂という人は、こうした全体主義とか資本主義とか社会主義ということが判っているのだろうかと思われるかもしれません。しかしそうではないのです。どうもこうした概念を西洋からのみの輸入の思想でしか考えないことのほうが、どうかしているのであり、しかも林語堂はそうした西洋の思想など百も承知していっているのです。どうにも中国の書物を読むと、こうした記述によく出会います。西洋の歴史観で見るのではなく、中国は中国でまわっているということなのでしょうか。
  この実験をやっていたのが、王安石です。これは苛酷な実験でした。反対派である司馬光などは政治の世界から去っていきます(もっともだから、彼は「資治通鑑」という不朽の歴史書の著作に没頭することができました)。しかし、蘇東坡はそういきません。神宗に九千字におよぶ書簡を提出します。さらに2度、3度と。おそらく彼には、王安石の改革による民衆の苦しみを見るのが耐えられなかったのでしょう。しかし、やはり蘇東坡が予想していたように、彼は罷免され、左遷されます。これから蘇東坡は中国全土を転々とすることになります。そしてその間も皇帝には、書簡を送り続け、そのために王安石派には憎まれ、なおさら全土を転々と移ることになります。ただそのおかげで今私たちの前に提示されるたくさんの美しい詩文が書かれたともいえるのかもしれません。彼は、各地で深く自然と交わることができたのです。

  蘇東坡はあまりに、複雑で多くのものをもっています。どこから紹介したらいいのかととまどってしまうところがあります。林語堂もそう思ったから、蘇東坡自身の生涯をこうして描いてみようと思ったのでしょう。そして蘇東坡のもっているたくさんのもの、自然を豊かに詩うこともあれば、ユーモアに満ちた文を書くこともあり、酒を親しむのも絵画を記すことも、激しい文を書くことも、また彼の妻には料理の名人であったことが嬉しかったことなど、すべてが林語堂には魅力だったのでしょう。同じ激動の時代を生きた林語堂にとって、蘇東坡の姿は理想だったのでしょう。
  蘇東坡は実に南海の海南島にまで流されます。しかしそこでもたくさんの現地の無名の人たちと付き合います。彼はどこでもそうでした。しかし年老いた彼(60歳)には苛酷な気候のところでした。しかもそこにもさまざまな弾圧がやってきます。ここでほとんど健康をそこねたというるでしょう。やがて赦免されますが、64歳で亡くなります。彼はこうした流謫の生涯だったわけですが、一番和やかになれるのは、恵州における、朝雲という26歳年下の女性とのロマンスでしょうか。ただ彼女はすぐに亡くなってしまうのですが。

  最後に蘇東坡の酒の賛歌をいう文を一部紹介して、私の書評を終ります。

        強い酒をたたえる歌
    人間においては、温和な気性のほうがよいとされるが、酒においては、
  度の強いものを避ける必要はない。というのは、そのような酒によって、
  人は悲しみを昨夜の夢のように忘れ去り、宇宙の真理を理解するからで
 ある。……というのは、酒は人間にとって、第二の人生のようなものだ
 からである。人が自分の本心を見出すのは、しばしば酒を飲んだあとの
 無上の快適さと限りなき安らぎの状態においてである。…………座敷いっ
 ぱいの客のあるとき、唯一の心配事といえば、酒樽が空っぽになるので
 はないかということぐらいである。死後の名声などには、一切無関心、
 重要なことは、ただあの貴重な酒杯だけのようである。……宇宙万物の
 なかで、ただこのものだけが、人を物質界から超越させることができる。
 まことにこれは、一日たりともなしではすますことのできないものであ
 る。人を酔わせながらも、人の心を澄明にし、人をすっかりくつろがせ
 ながらも、人生の究極的真理を知覚させる、この魅惑的な一杯は、一体
 何だろう。                        (第4巻第25章「謫居生活」)

  いいないいな、蘇東坡はいいなと思いました。やっぱり私は蘇東坡の人となりにまったく圧倒的に魅せられてしまいました。これから、もっと彼の詩を読んでいきたく思っています。(1998.10.01)

  私はたしかこの文庫本を45歳の頃読みました。
 魯迅と並ぶほどの文学者であるこの著者の長編の本を読んだのは、私には始めてのことでした。
 ただなんと言っても、蘇東坡(蘇軾)について知りたいという思いが第一の私の思いでした。彼が科挙試験のときの試験官の一人に梅堯臣がいるのですが、彼のことをただ律儀な詩人としか思えない私には、彼と蘇東坡に関するエピソードには、実に嬉しくなったものです。
 ただ、この蘇東坡が宋の時代に王安石、司馬光などと触れ合い、かついわば反対派になるのですが、そこの内容には私はもう完全には理解できていない思いなのです。だが、このことにより、彼は海南島に流されることになります。もう60歳を過ぎていた彼にはこれは過酷なことでした。でもこの海南島から許されて帰るときに、朝雲という女性とのロマンスがあります。そしてその当時書かれた詩も私は好きなのです。
 思えば、私にはこの詩人は、この女性とのロマンスと実に酒が好きだったことが強く印象に残っています。
 そして「壬戊之秋七月既望」で始まる「赤壁の賦」は忘れることはないでしょう。そして芭蕉が象潟で読んだ句で、「象潟や雨に西施がねぶの花」も忘れることのできないものでしょう(もともとは、蘇東坡の「西湖をもって西子と比せば淡粧濃抹すべて相いよろし」の詩なのです)。(2010.08.27)

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 蘇軾は晩年の政争で左遷され、海南島に流されていたことがありました。もう60歳を越えていた蘇軾は、ここで死ぬ覚悟だったと思うのです。
 でも運命は、徽宗が即位して、蘇軾は都に帰るように召喚状が届きます。

   澄邁驛通潮閣 澄邁駅(註1)の通潮閣(つうちょうかく)
            蘇軾
  餘生欲老海南村 余生老いんと欲す 海南の村
  帝遣巫陽招我魂 帝(てい)巫陽(註2)をして 我が魂を招(まね)か遣(し)む。
  杳杳天低鶻沒處 杳杳(註3)として天低(た)れ 鶻(はやぶさ)沒するの処、
  青山一髮是中原 青山一髮 是れ中原。

  (註1)澄邁駅(ちょうまいえき) 本土に帰る際の海南島北部にある駅。
  (註2)巫陽(ふよう) 『楚辭』の「招魂」に出てくるみこの名前。
  (註3)杳杳(ようよう) 遥かなさま。

  残りの人生をこの海南島の村で過ごそうと思っていたが、
  天帝が巫陽に命じて、私の魂を呼び寄せてくださった。
  遥かな天空が低くたれ込め、鶻の姿が見えなくなるところ、
  青い山影が一筋の線になって見えるが、そこが私の帰る祖国なのだ。

393f7a59.jpg 私が東大闘争で逮捕され、留置された東調布署で、同じ房に佐竹さんという大正生まれの茨城県出身の方がいました。その人が戦時中は、この海南島に居たということでした。その彼に、この海南島にいたゲリラの女賊の話なんか聴いたものでした。そのときにも、「あ、海南島といえば、蘇東坡が流されていたところじゃないか」なんて思ったものでした。
 蘇東坡が、帰れという徽宗の召喚状を受け、海南島北部の澄邁駅の通潮閣に登ってこの詩を作ります。対岸の中国本土の山並みをみて、どんな思いになっていたことでしょうか。
 ただ私は、林語堂「蘇東波」を読んでいまして、この海南島のあと、蘇東坡が会いました朝雲という女性とのロマンスが好きです。いい生涯だったなあと思わざるをえません。
 でも、私ももう蘇東坡が亡くなりました歳に近づいているのですね。

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 蘇軾は実にたくさんの詩があります。これも私が好きになれる詩です。

    贈劉景文    蘇軾
  荷盡已無憶蓋 荷(か)は尽きて 已に雨を押蔽陦院砲阿襪粒検覆さ)無く
  菊残猶有傲霜枝 菊は残(そこな)われて 猶(な)お霜に傲る(註2)の枝有り
  一年好景君須記 一年の好景 君須く記すべし
  最是橙黄橘緑時 最も是橙(とう)は黄に 橘(きつ)は緑なる時

08081103  (註1)押覆気機法々發さしあげる。
  (註2)傲霜(霜におごる) 霜にうたれても負けない。

  はすの葉は散り尽くし、傘のように雨を受けていた葉も無い、
  菊は無残な有様で、霜に打たれているけれど、なお毅然とした枝がある。
  一年中で一番よい情景を、君、ぜひ心にとめてほしい、
  ゆずが黄色に熟れ、みかんが緑色のこの季節なのだ。

 はすは、以下のような呼び名があるといいます。

  荷(か)は、はすの葉。
  蓮(れん)は、はすの実。
  藕(ぐう)は、はすの根。
  芙蓉(ふよう)は、はすの花。
  かんたん(かんたん)は、はすの莟(つぼみ)。

 ええとこれで、かんたんという字は表示できません。別府湾のことを昔はかんたん湾と言って、これで調べると、この「かんたん」という字を知ることができます。ただし、インターネット上では表示できません。

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蘇軾35歳の任地杭州での作品です。杭州の西湖を目の前にした情景を七言絶句にしています。

六月二十七日、望湖樓酔書 蘇軾
六月二十七日、望湖楼に酔うて書す
遽惜殍鰐ぜ彁 黒雲墨を翻して 未だ山を遮ら
白雨跳珠亂入船 白雨珠を跳(おど)らせ 乱れて船に入る
卷地風來忽吹散 地を巻き風来って 忽ち吹き散じ
望湖樓下水如天 望湖楼下 水天の如し

黒い雲が墨をぶちまけたように広がったが、まだ山を遮るまでは行っていない。
白い大粒の雨が、真珠をまき散らしたように乱れて船の中に飛びこんできた。
地をまきあげる勢いの強い風が急に吹いてきてにわか雨をまき散らす。
望湖楼の下の水面は大空のように広くて静かだ。

西湖といえば、同じく蘇軾『西湖』の詩をすぐに思い浮かべ、私が4歳の頃会った女の子のことを思い出します。
漢詩は、詩吟を長年やってきた私には、まずは日本のいくつもの漢詩が浮かんでくるわけですが、その他はやはり唐の何人もの詩人たちの詩が頭の中に浮かんできます。そしてそれ以外の時代の中国の詩人というと、この蘇軾の詩が一番多く思い浮かんでくるのです。
そしてまた私は、林語堂「蘇東波」のいくつものシーンが浮かんできます。蘇軾はいいなあ、蘇東坡はいいなあ、と繰り返して思ってしまうのです。

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