将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:蜻蛉日記

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 清少納言と紫式部きなりずむ のきなりさんが以下のコメントを書いてくれました。

1. Posted by きなり    2007年12月16日 10:35
リンク、そしてトラックバックをありがとうございました!私は源氏物語は円地文子から入り、その後与謝野晶子、谷崎潤一郎と続きましたが、与謝野晶子がやはり読みやすかったです。しかしなんといっても、楽しいのは田辺聖子さんの源氏です!それから、これは私の中学(高校?)時代からの愛読書で、「むかし・あけぼの」がとても良いです。この本で私は清少納言のファンになりました。「田辺聖子と読む蜻蛉日記」も読んだはずなのですが、周さんがおっしゃった「自然に対する清少納言の考え方、紫式部の考え方、そしてもちろん蜻蛉日記の作者の自然のとらえ方」について、あまり考えずに漫然と読んでしまっています。また読み直してみたいと思いました!教えてくださってありがとうございます。

 ありがとう。そしてもう私はとってもこうしてきなりさんと会話できることが嬉しいです。 円地文子さんの源氏は読んでいません。でも読まなくちゃいけないなあ、今真剣に思いました。
 私が谷崎潤一郎の「新々訳源氏物語」を読んだのは、ちょうど東大闘争で府中刑務所に勾留されているときの1969年の7・8月でした。ちょうど岩波文庫の「ファーブル『昆虫記』」と一緒に読んでいたものでした。でも読んでも読んでも私には谷崎の描く源氏物語は難しかったのです。

 私はついこの間、妻に話したことなんですが、こんなことを言っていました。

 日本の女流作家というと、まず樋口一葉が浮かんでくるが、でもその他というと、例えば、坪井栄とか宮本百合子じゃ、しょうがないしなあ、私は宮部みゆきは好きだけど、やっぱり、この田辺聖子が、とてつもなくいいねえ、ほかにはね、いないなあ………なんて考えていたら、何を言っているんだ、紫式部と清少納言がいるじゃないか。おれは駄目だなあ………。

 ただ、紫式部は、清少納言のことをかなり嫌っていますね。仕方ないのかなあ。

 私が 周の雑読備忘録「『田辺聖子珠玉短編集6』」 の4 の中で、田辺聖子のあとがきの中の言葉を次のように抜き出しました。

あとがき
 田辺聖子は、「蜻蛉日記」のことを次のように言っています。

 これは哀切でやるせない私小説であるけれども、見方をかえると、ものすごいユーモア小説である。それが私のパロディ欲をそそった。 <荘厳と滑稽は紙一重の差だ> とナポレオンもいっている。『蜻蛉日記』はどんなにでも深刻に現代語訳できる古典で、事実、そんなのを好む人も多い。

 また、兼家について、このように言っています。

 兼家という男にピントを会わせればユーモア小説になり、蜻蛉という女にピントを合わすと深刻な悲劇の、 <女の一生> ものになる。私はユーモアのほうが好きだから、男にピントを合わせた。

 うん、だから面白いのですね。

 私は田辺聖子が書いてくれるのなら「蜻蛉日記」も読んでいけますが、やはり、本物は苦手ですね。
 源氏物語も、谷崎潤一郎が書いているのは、私にはどうしても難しすぎます。谷崎さんて、なんて真面目すぎるんでしょうか。

 でもこうして、きなりさんのように、ちゃんと古典の世界も知っている方のことを知り、そのお話も少しでも知ると、またちゃんと読んでいこうと思います。

 今ちょっと前に同じマンションのポコちゃんの家に行ってきました。ポコちゃん家族の年賀状の写真を撮るためです。もう3人は、綺麗に撮れましたよ。もう可愛くて可愛くて仕方ありません。私を見てにっこり笑ってくれるのです。

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07031101田辺聖子と読む蜻蛉日記

 この本を読み終わるまで時間がかかってしまいました。いえ、どうしても図書館の単行本だから、購入した文庫本と違って鞄に入れるのに大きいのですね。もう私は鞄にたくさんのものを入れすぎなのです。

書 名 田辺聖子と読む蜻蛉日記
著 者 田辺聖子
発行所 創元社
定 価 2,000円+税
発行日 昭和63年6月1日第一版第一刷発行
読了日 2007年3月11日

 前々から私は田辺聖子が好きだったのですが、やはりこれを読みながらも感じていました。読んでいて、どんどん内容に引きつけられていきます。
 例えば、次なのですが、

 自然描写の美しさという点では、『枕草子』もあるんですけれど、『枕草子』は、そうですね。清少納言の大変ユニークな、天才的なひらめきのある感覚でとらえられた自然ですね。たとえば、車に乗って秋の野原を行く、そうすると車の簾の間からふっと薄の穂先などが入ってきて、つかもうとするとそのまま車が行き過ぎてしまうとか、蓬の葉を車が踏んでいく、蓬の香がぱっと匂い立って何とも言えずすがすがしいとか、そういうふうなことを書きとめたりする。

 私は「なるほどな、清少納言はそういう感じだなあ」と思ったものなのです。次に紫式部の自然に対する考えも書いていてくれます。

『源氏物語』の紫式部の自然に対する考えというのは、これはある種の舞台づくりをするために道具立てとして自然を持ってくる。蛍の美しさとか、水鶏が鳴く、ほととぎす、野分の風の音、そういうふうなものは、ある人生のドラマがあって、その舞台背景にぴったりしたような自然がほしい。人間のために自然を持ってくるという書き方ですわね。

 もうこれもまた、よく紫式部の感じが私にも手にとるように判った気がしてしまいました。そして以下のようにあります。

 それに対して、『蜻蛉日記』を読むと、彼女は自然の中に身を置いて、自分の人生をそのままに重ね合わせて考えたりしている。自然というものは、蜻蛉にとっては、何か非常に大いなるものの脈搏とでもいいますか、おんなじように自分のリスムが合う。だから、蜻蛉の自然を読むと、大変に奥深い感じに描かれています。

 こうして書かれますと、私にも少しは蜻蛉日記の作者の気持が少しは判ったような気になります。
 次は百人一首にもある蜻蛉日記の作者の歌です。

   嘆きつつ独り寝る夜のあくる間は
         いかにひさしきものとかは知る

 私はこの歌を覚えてはいませんでした。蜻蛉(作者の名前は判っていないのですが、もう蜻蛉と呼んでしまいます)は、こうして「嘆いて」いることが多かったのでしょうね。

 やはり私は田辺聖子が好きです。ちょうど昨年10月に鎌倉を歩いたときに、吉屋信子邸に寄るつもりでいたのですが、なぜか歩いているうちに、それを忘れ果てまして、それに気がついたときに、「俺は吉屋信子はそれほど好きじゃないんだよな。これが田辺聖子なら忘れるはずがないんだけど」なんて、自分に言い訳していたのを思い出します。
 やはり、田辺聖子はずっと好きでしたが、今後も彼女の本をたくさん読んでまいります。

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 さきほど、この本を読んでいました。まだ全体の5分の4を読んだだけで、読み終わってはいません。だから読み終わりましたときに、この本については述べてみます。
 私は、この本の「初瀬詣」のところで、不思儀にみるみるうちに思い出したことがあるのです。そのことを、少しだけ書いてみます。

書 名 田辺聖子と読む
    蜻蛉日記
著 者 田辺聖子
発行所 創元社
定 価 1,400円
発行日 昭和63年6月1日第一版第一刷発行

 蜻蛉もこの長谷寺にお詣りにまいりました。山深いところ、初瀬川の水音も高く、木々は天を突くばかり、木の葉は紅葉して夕日がさしています。蜻蛉はわけもなく感動して涙が出てきます。車の簾を巻きあげると、夕日に映えて着物の色も美しくみえる。

 私はこの少し前に、「長谷観音」と出てきたところで、昨年10月に行きました鎌倉の長谷観音を思いだし、そしてすぐに、「いやいや、これは奈良の南の長谷観音だな」と気がつきました。それで私も行ったことがあるのですが、「あれはいつの季節だったろう?」と考えていましたが、上の文を引用していて、「あ、あれは私もたしか11月に行ったのだから、『木の葉は紅葉して夕日がさして』だったなあ」と思い出してきたのです。
 あのときは、長谷寺は実にいい天気で、長い階段、長い回廊をよく歩きました。そして思い出したことは次のようなことなのです。

 この長谷寺のあるところで、私はとても綺麗な女性とすれ違いました。彼女もアベック姿でした。私は「あッ」と声をあげ、相手の彼女も少し私と目が遭いましたが、何も思い出せないままそのまま行きすぎました。私が連れていた女性も、「どうしたの?」と言いましたが、私はまだ完全に事態がつかめないまま、また歩いて行きました。
 あれは私の中学のときに好きだった女性だったと思いました。もうそのときから10年以上が経っていたのです。10年以上たって、私は相手が明確に認識できないまま、さらにその後35年以上が過ぎた今になってしまいました。
 そのときのことを、今パソコンを打ちながら、この蜻蛉日記に関する田辺聖子の本を読みながら、突如思い出したものでした。そして秋の日だったことを思い出しました。

 こうして突如、今から35年前の日のことが甦えるなんて、実に不思儀です。もうあの日は還りませんが、またあの長谷寺を歩いてみたいな。今度は、娘たちと孫と歩きたいです。

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